人気ブログランキング |

日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ

2016年 05月 26日 ( 3 )


2016年 05月 26日

Gosho 観心本尊抄 The True Object of Worship

迹化(しゃっけ)の大衆は釈尊初発心(しょほっしん)の弟子等に非ざる故なり、

The bodhisattvas taught by the Buddha in his transient status were also unqualified because they had not been the disciples of Shakyamuni Buddha since the time he had first set his mind on and attained enlightenment in the remote past.

Furthermore, the bodhisattvas taught by the Buddha of the theoretical teaching are not Shakyamuni’s disciples form the time of his original enlightenment [in the inconceivably remote past].

天台大師云く「是れ我が弟子なり(まさ)に我が法を弘むべし」

The Great Teacher T’ien-t’ai states,“[The Buddha said of the Bodhisattvas of the Earth,] ‘These are my disciples, destined to propagate my Law.’”

The Great Teacher Tiantai stated, “[Shakyamuni addressed the bodhisattvas taught by the Buddha of the essential teaching,] ‘You are my disciples. You must spread my Law.”

妙楽云く「子、父の法を弘む世界の(やく)有り」、

Miao-lo says, “The children propagate the Law of the father, and this benefits the world.”

The great Teacher Miaole stated,When a child propagates his father’s Law, all living beings will universally receive benefit and rejoice.”

()(しょう)()に云く「法是れ()(じょう)の法なるを以ての故に久成の人に付す」等云云

The Supplement to “The Words and Phrases of the Lotus Sutra” states, “The Law embodied therein [in the Lotus Sutra] is the Law that was realized countless kalpas in the past, and therefore it was entrusted to persons who had been the Buddha’s disciples from countless kalpas in the past.”

Supplement to the Words and Phrases of the Lotus Sutra states,Since this is the Law to which the Buddha awakened in the inconceivably remote past, it shall be transmitted to the person who has been carrying out practices since the time of the inconceivably remote past.”


   つづく Next

本文 Original Text  目次 Index



by johsei1129 | 2016-05-26 22:35 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 26日

 法華取要抄私記 一  三大秘法抄に云く「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて侯は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり、秘す可し秘す可し」



  法華取要抄私記
   日寛之を記す

 


一 此の抄は大いに(わか)つに二あり。初めに題目に二。初めに所抄の題目、二に能抄の人なり。次に本文に三。初めに非を捨てて要を取るの意を明かす。二に「今(すえ)の論師・本の人師の邪義を捨て置いて」の下は()(ぜん)と法華との勝劣を弁ず。三に「問うて云く法華経」の下は、別して末法の初めには法華の要法を流布(るふ)せしむるの由来を明かす云云。  

  啓蒙二十・二に云く「此の抄、大いに分ちて三。初めに教法の権実、教主の()(えん)()(えん)を述す。ニに『間うて云く法華』の下は、此の経の所被(しょひ)は滅後末()を以て正とすることを明かす。三に『問うて()く如来』の下は、正像未弘(みぐ)()法流布の時に当ることを弁ず」云云。  

  私に難じて云く「問うて云く法華」より上には、問答(これ)無し。然れば十七番の問答は此の料簡(りょうけん)なり。故に(もっと)も一段と取るべき事顕然(けんねん)なり。何ぞ(かみ)に対して大段の科目とするや。其の上、初めの「()(おもんみ)れば」より下の「智人なり」に至るまでは、分明(ふんみょう)に法華の要を取るべき意を示したもうと見えたり。何ぞ上を大段の科とせざるや。(なお)()(もう)(さら)に一科を示するのみ。後()之を(あじわ)え。今、其の旨を弁明するなり。  

  問うて云く、汝が取る所の第一の科文は、取捨(しゅしゃ)の意を述ぶと見えたり。何ぞ大段の科と()んや。  

答えて云く、文の面は(ただ)権実を述するの(こころ)を示す様に見えたり。されども其の意は広く下に(かん)するなり。非を捨てて理を教うると見るなり。是れ則ち初めに取捨の意を示し、次に(まさ)しく権実の取捨の後に問答料簡(りょうけん)して、迹門の非を捨て本門下種の要法を取る。是れ則ち此の()中終(ちゅうじゅう)なり。  

  問う、啓蒙第二の料簡は如何(いかん)

  答えて云く、大いに誤れり。されば法華経一部とは、総じて申さば末法に本門の題目を修行すべき(ところ)を説きたまう。故に法華経一部は末法の為なれども、全く広の文を行ぜよと()うには非ざるなり。

 四信五品抄に云く「合せて十六(ぽん)半・此の中に末法に入って法華を修行すべき相貌(そうみょう)分明なり是に(なお)(こと)()かずんば()(げん)経・()(はん)経等を引き(きた)りて之れを糾明(きゅうめい)せんに其の(かく)れ無きか」已上。全く一致と云うには非ざるなり。(ただ)今の抄の意は迹門の正宗(しょうしゅう)・本門の正宗は末法の為と判じ給えり。是れ機に随い時に()る故なり。

されば本尊抄には迹門八品を聞いて下種と為し、(なお)末法に至る機を判じ給えり。(よっ)て在世下種とは、(いま)末法に得脱する者の為ぞと云うことを判じたもう時、末法の為と云えり。されば末法なればとて一向に下種の機(ばか)りには非ず。(しか)れども大判の時は一向に下種の機とするなり。て一返には判じ難し。(しか)るを一判とするは非なり。

さて本門の正宗は一向に末法下種の者の為なり。(よっ)て「一向に滅後の為」と判じたもうは是れなり。さればとて、一(ぽん)二半を修行して下種とせよと云う事には非ず。されば此の一品二半には、別して三大秘法を含めたる経なるに()って「一向に滅後の為」と判じたもう。文底(もんてい)の大事とは是れなり。されば総じて申さば、法華経一部は三大秘法を含蔵(がんぞう)したる経なり。(しゃく)を払って寿量の一品を取る、(ただ)此の一品に限り候。迹門()(みょう)無実の法門とは是れなり。

其の上、寿量一品の中にも文上と文底等(これ)有り云云。三大秘法抄に云く「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて侯は此の三大秘法を含めたる経にて(わた)らせ給えばなり、秘す可し秘す可し」已上。


                     つづく
本書目次                          日寛上人 文段目次 



by johsei1129 | 2016-05-26 22:15 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 26日

日蓮大聖人が晩年六老僧に法華経を講説しそれを日向が書き記した【御講聞書(おんこうききがき)】その三

【御講聞書 本文】その三

一枯槁衆生の事
 仰に云く、法華経を持ち奉る者は、枯槁の衆生に非ざるなり、既に法華経の種子を受持し奉るが故なり、謗法不信の人は下種無き故に枯槁の衆生なり、されば、妙楽大師の云く、余教を以て種と為さず文。

一等雨法雨の事
 仰に云く等とは平等の事なり、善人・悪人、二乗・闡提、正見・邪見等の者にも、妙法の雨を惜まず平等にふらすと云う事なり、されば法の雨を雨すと云う時は、大覚世尊ふらしてに成り給えり、さて、法の雨ふりてとよむ時は、本より実相平等の法雨は、常住本有の雨なれば、今始めてふるべきに非ず、されば、諸法実相を、譬喩品の時は風月に譬えたり、妙楽大師は何ぞ隠れ何ぞ顕れんと釈せり、実相の法雨は三世常恒にして、隠顕更に無きなり、所詮、等の字はひとしくとよむ時は、釈迦如来の平等の慈悲なり、さて、ひとしきとよむ時は、平等大慧の妙法蓮華経なり、ひとしく法の雨をふらすとは、能弘(のうぐ)につけたり、ひとしき法の雨ふりたりと読む時は、所弘(しょぐ)の法なり、所詮法と云うは、十界の諸法なり、雨とは十界の言語・音声の振舞なり、ふるとは自在にして地獄は洞燃猛火(どうねんもうか)、乃至仏界の上の所作音声を、等雨法雨とは説けり、此の等雨法雨は法体(ほったい)の南無妙法蓮華経なり、今末法に入つて、日蓮等の類いの弘通する題目は、等雨法雨の法体なり、此の法雨・地獄の衆生・餓鬼・畜生等に至るまで同時にふりたる法雨なり、日本国の一切衆生の為に付属し給う法雨は題目の五字なり、所謂日蓮建立の御本尊・南無妙法蓮華経是なり云云、方便品には本末究竟等と云えり、譬喩品には等一大車と云えり、此の等の字を重ねて説かれたり、或は如我等無異と云えり、此の等の字は宝塔品の如是如是と同じなり、所詮等とは南無妙法蓮華経なり、法雨をふらすとは今身より仏身に至るまで持つや否やと云う受持の言語なり云云。

一等雨法雨の事
 仰に云く此の時は妙法実相の法雨は十界三千・下は地獄・上は非想非非想まで横に十方・竪に三世に亘つて妙法の功徳をふるを等とは云うなり、さてふるとは一切衆生の色心・妙法蓮華経と三世常住ふるなり云云、一義に云く、此の妙法の雨は九識本法の法体なり、然るに一仏現前して説き出す所の妙法なれば、法の雨をふらすと云うなり、其の故は、ふらすと云うは・上より下へふるを云うなり、仍つて従果向因の義なり、仏に約すれば、第十の仏果より九界へふらす、法体にては・ふる処も・ふらす処も、真如の一理なり識分にては八識へふり下りたるなり、然らば今日蓮等の類い南無妙法蓮華経を日本国の一切衆生の頂上にふらすを法の雨をふらすと云うなり云云。

一如従飢国来忽遇(こつぐう)大王膳の事
 仰に云く此の文は中根の四大声聞・法華に来れる事、譬えばうえたる国より来りて大王のそなえに値うが如くの歓喜なりと云えり、然らば此の文の如くならば法華已前の人は餓鬼界の衆生なり、既に飢国来と説けり、大王膳とは醍醐味なり、中根の声聞・法華に来つて一乗醍醐の法味を得て忽に法王の位に備りたり、忽(こつ)の字は爾前の迂廻道(うえどう)の機に対して忽と云うなり、速疾頓成の義を忽と云うなり、仮令外用(たとえげゆう)の八相を唱うる事は所化をして仏道に進めんが為なり、所詮末法に入つては謗法の人人は餓鬼界の衆生なり、此の経に値い奉り・南無妙法蓮華経に値い奉る事は併(しかしなが)ら大王膳たり、忽遇の遇の字肝要たり、釈に云く、成仏の難きには非ず、此の経に値うをかたしとすと云えり、不軽品に云く復遇(ぶぐう)常不軽と云云、厳王品に云く生値(しょうち)仏法云云、大王の膳に値いたり、最も以て南無妙法蓮華経を信受し奉る可きなり、此の経文の如くならば法華より外の一切衆生はいかに高貴の人なりとも餓鬼道の衆生なり、十羅刹女は餓鬼界の羅刹なれども法華経を受持し奉る故に餓鬼に即する一念三千なり、法華へ来らずんば何れも餓鬼飢饉の苦みなるべし、所詮必ず中根の声聞領解の言に我身を餓鬼に類する事は餓鬼は法界に食ありと云えども食する事を得ざるなり、諸法実相の一味の醍醐の妙法あれども終に開覚に能(あた)はざる間・四十余年食にうえたり云云、一義に云く序品方便より諸法実相の甘露顕れて南無妙法蓮華経あれども広略二重の譬説段まで悟らざるは餓鬼の満満とある食事をくらわざるが如し、所詮日本国の一切衆生は餓鬼界の衆生なり、大王膳とは所謂南無妙法蓮華経是なり、遇の字には人法を納めたり、仍つて末に如飢須教食と云えり、うえたるとも大王のをしえを待ちて醍醐を食するが如しと云えり、今南無妙法蓮華経有れども・今身より仏身に至るまでの受持をうけずんば成仏は之れ有るべからず、教とは爾前無得道・法華成仏の事なり、此の教をうけずんば法華経を読誦すとも大王の位に登る事・之れ有る可からず醍醐は題目の五字なり云云。

一大通智勝仏十劫坐道場仏法不現前不得成仏道の事
 仰に云く此経文は一切衆生の本法流転を説かれたり、されば釈にも出世以前と判ぜり、此は大通仏出世し給えども十小劫の間・一経も説給わずと云う経文なり、仍て仏法も現前せざる故に不得成仏と云えり、されども釈を見るに出世以前と云う時は、此の経文は何なる事ぞ、此は本法の重を説かれたり、一仏出世すれば流転門となる、一仏も出世無き時は、本法不思議の体なり、迷悟もなく、生仏もなく、成仏もなく、不成仏もなきなり、仍つて不得成仏道と云えり、抑(そもそ)も本法と申すは水があつくなり、火がつめたくならば流転門なるべし、水はいつもつめたく、火はいつもあつく、地獄は何も火焔・餓鬼はいつも飢渇・其の外・万法己己の当位・当位の儘(まま)なるを本法の体と云うなり、此の重を説き顕したる経文なり、此の本法の重は法華経なり、権教は流転なり、此の流転の衆生を本法の重に引入せられんとての仏の出世なり、其の本法と云うは此の経なり、所詮此の経文・本法とは大通智勝仏と云うは我等衆生の色心なり、十劫と云うは十界なり、坐道場と云うは十界の住所其の儘道場なり、道場なれば寂光土なり、法界寂光土にして、十界の衆生悉く諸法実相の仏なれば一仏現ずべきに非ず、迷の衆生無ければ説く可き法も無し、仍つて仏法不現前と云えり、不得成仏道とは始覚本覚の成仏と云う事も無し、本法不思議の体にして万法本有なり、之れに依つて釈には出世以前と判ぜり、然らば、其の本法の体とは、所詮南無妙法蓮華経なり、此の本法の内証に引入せんが為に、仏は四十余年誘引し、終に第五時の本法を説き給えり、今末法に入つて上行所伝の本法の南無妙法蓮華経を弘め奉る、日蓮・世間に出世すと云えども、三十二歳までは、此の題目を唱え出さざるは、仏法不現前なり、此の妙法蓮華経を弘めて、終には本法の内証に引入するなり日蓮・豈大通智勝仏に非ずや、日本国の一切衆生こそ十劫坐道場とて十界其の儘・本法の南無妙法蓮華経へ引入するなり、所詮信心を出だして南無妙法蓮華経と唱え奉る可き者なり云云。

一貧人見此珠其心大歓喜の事
 仰に云く此珠とは一乗無価の宝珠なり、貧人とは下根の声聞なり、惣じて一切衆生なり、所詮末法に入つて此珠とは南無妙法蓮華経なり、貧人とは日本国の一切衆生なり、此の題目を唱え奉る者は心大歓喜せり、されば見宝塔と云う見と此珠とは同じ事なり所詮此珠とは我等衆生の一心なり、一念三千なり此の経に値い奉る時、一念三千と開くを珠を見るとは云うなり、此の珠は広く一切衆生の心法なり此の珠は体中にある財用なり、一心に三千具足の財(たから)を具足せり、此の珠を方便品にして諸法実相と説き、譬喩品にては大白牛車・三草二木・五百由旬の宝塔、共に皆一珠の妙法蓮華経の宝珠なり、此の経文・色心の実相歓喜を説けり・見此珠の見は色法なり、其心大と云うは心法なり、色心共に歓喜なれば大歓喜と云うなり、所詮此珠と云うは我等衆生の心法なり、仍つて一念三千の宝珠なり、所謂妙法蓮華経なり、今末代に入つて此の珠を顕す事は日蓮等の類いなり所謂未曾有の大曼荼羅こそ正しく一念三千の宝珠なれ、見の字は日本国の一切衆生、広くは一閻浮提の衆生なり、然りと雖も其心大歓喜と云う時は、日蓮が弟子檀那等の信者をさすなり、所詮煩悩即菩提・生死即涅槃と体達する、其心大歓喜なり、されば、我等衆生・五百塵点の下種の珠を失いて、五道・六道に輪廻し、貧人となる、近くは三千塵点の下種を捨てて備輪諸道せり、之れに依つて貧人と成る、今此の珠を釈尊に値い奉りて見付け得て本の如く取り得たり、此の故に心大歓喜せり、末法当今に於いて妙法蓮華経の宝珠を受持し奉りて、己心を見るに、十界互具・百界千如・一念三千の宝珠を分明に具足せり、是れ併ら末法の要法たる題目なり云云。

一如甘露見潅(にょかんろけんかん)の事
 仰に云く甘露とは天上の甘露なり、されば妙楽大師云く実相常住は甘露の如し是れ不死の薬云云、此の釈の心は諸法実相の法体をば甘露に譬えたり、甘露は不死の薬と云えり、所詮妙とは不死の薬なり、此の心は不死とは法界を指すなり、其の故は森羅三千の万法を不思議と歎じたり、生住異滅の当位当位・三世常恒なるを不死と云う、本法の徳として・水はくだりつめたく火はのぼりあつし、此れを妙と云う、此れ即ち不思議なり、此の重を不死とは云うなり、甘露と妙とは同じ事なり、然らば法界の儘(まま)に閣(さしお)いて妙法なりと説くを本法とも甘露とも云えり、火は水にきゆる本法にして不死なり、十界己己の当位・当位の振舞・常住本有なるを甘露とも妙法とも不思議とも本法とも止観とも云えり、所詮末法に入つて甘露とは南無妙法蓮華経なり、見潅とは受持の一行なり云云。

一若有悪人以不善心等の事
 仰に云く悪人とは在世にては提婆・瞿伽利等なり、不善心とは悪心を以て仏を罵詈(めり)し奉る事を説くなり、滅後には悪人とは弘法・慈覚・智証・善導・法然等是なり、不善心とは謗言なり此の謗言を書写したる十住心等・選択集等の謗法の書どもなり、さて末法に入て善人とは日蓮等の類いなり善心とは法華弘通の信心なり所謂南無妙法蓮華経是なり云云。

一如是如是の事
 仰に云く釈に云く法相の是に如し根性の是に如するなり文、法相の是に如すとは諸法実相を重ねて如是と説かれたり、根性の是に如すとは、九法界を説かれたり、然れば機法共に釈迦如来の所説の如く真実なりと証明し給えり、始の如是は教一開会なり次の如是は人一開会なり、権教の意は諸法を妄法ときらいし隔別不融(きゃくべつふゆう)の教なり、根性に於ては性欲不同なれば種種に説法し給えり、仍つて人も成仏せず、今の経の心は諸法実相の御経なれば十界平等に授くる所の妙法なり、根性は不同なれども同じく如是性の一性なり、所詮今末法に入つての如法相是は塔中相承の本尊なり如根性是也と云うは十界宛然(おんねん)の尊像なり法相(ほっそう)は南無妙法蓮華経なり、根性は日本国の一切衆生広くは一閻浮提の衆生なり云云。

一是真仏子住淳善地の事
 仰に云く末法当今に於て釈迦如来の真実の御子と云うは法華経の行者なり、其の故は上の文に能於来世読持此経と説けり来世とは末法なり、読むと云うは法華経の如説修行の行者なり、弘法・慈覚・智証・善導・法然等読みて云く第三の劣・戯論(けろん)の法・捨閉閣抛(しゃへいかくほう)・理同事勝等と読むは謗法にして三仏の御舌を切るに非ずや何に況や持たんをや、伝教大師云く法華経を讚むると雖も還つて法華の心を死(ころ)すとは是なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る人は、読持此経の人なり、豈是真仏子に非ずや淳善地は寂光土に非ずや、是真仏子の子の字は十界の衆生なり、所詮此の子の字は法華経の行者に限る、悉是吾子の子は孝不孝を分別せざる子なり、我等皆似仏子の子は中根の声聞・仏子に似たりと説かれたり、為治狂子故の子は、久遠の下種を忘れたれば物にくるう子なり、仍つて釈尊の御子にも物にくるう子もあり、不孝の子もあり、孝養の子もあり、所謂法華経の行者・真実の釈尊の御子なりと、釈迦・多宝・分身・三千三百万億那由佗の世界に充満せる諸仏の御前にして孝・不孝の子を定めをき給えり、父の業をつぐを以て子とせり、三世の諸仏の業とは南無妙法蓮華経是なり、法師品に行如来事と説けり云云、法華経は母なり釈尊は父なり我等衆生は子なり、無量義経に云く諸仏の国王と是の経の夫人と和合して共に是の菩薩の子を生み給う文、菩薩とは法華経の行者なり、法師品に云く在家出家行菩薩道云云。

一非口所宣非心所測の事
 仰に云く非口所宣は色法・非心所測は心法なり、色心の二法を以て大海にして教化したる衆生を宣測するに非ずと云えり、末に至つては広導諸群生と説かれたり云云。

一不染世間法如蓮華在水従地而涌出の事
 仰に云く、世間法とは全く貪欲等に染せられず、譬えば蓮華の水の中より生ずれども淤泥(おでい)にそまざるが如し、此の蓮華と云うは地涌の菩薩に譬えたり、地とは法性の大地なり所詮法華経の行者は蓮華の泥水に染まざるが如し、但だ唯一大事の南無妙法蓮華経を弘通するを本とせり、世間の法とは国王大臣より所領を給わり官位を給うとも夫には染せられず、謗法の供養を受けざるを以て不染世間法とは云うなり、所詮蓮華は水をはなれて生長せず水とは南無妙法蓮華経是なり、本化の菩薩は蓮華の如く過去久遠より已来・本法所持の菩薩なり蓮華在水とは是なり、所詮此の水とは我等行者の信心なり、蓮華は本因本果の妙法なり信心の水に妙法蓮華は生長せり、地とは我等衆生の心地なり涌出とは広宣流布の時一閻浮提の一切衆生・法華経の行者となるべきを涌出とは云うなり云云。

一願仏為未来演説令開解の事
 仰に云く此の文は弥勒菩薩等末法当今の為に我従久遠来教化是等衆の言を演説令開解せしめ給えと請じ奉る経文なり、此の請文に於て寿量品は顕れたり五百塵点の久遠の法門是なり、開解とは教主釈尊の御内証に此の分ををさえ給うを願くは開かしめ給え同じく一会の大衆の疑をも解かしめ給えと請するなり、此の開解の語を寿量品にして汝等当信解と誡め給えり、若し開解し給わずんば大衆皆法華経に於て疑惑を生ず可しと見給えり、疑を生ぜば三悪道に堕つべしと既に弥勒菩薩申されたり、此の時寿量品顕れずんば即当堕悪道すべきなり寿量品の法門大切なるは是なり、さて此の開解の開に於て二あり、迹門の意は諸法を実相の一理と会したり、さては諸法を実相と開きて見れば十界悉く妙法実相の一理なりと開くを開仏智見と説けり、さて本門の意は十界本有と開いて始覚のきづなを解きたり、此の重を開解と申されたり仍つて演説の二字は釈尊・開解の両字は大衆なり、此の演説とは寿量品の久遠の事なり、終に釈尊・寿量品を説かせ給いて一切大衆の疑惑を破り給えり云云。

一譬如良医智慧聰達の事
 仰に云く良医とは教主釈尊・智慧とは八万法蔵・十二部経なり聡達とは三世了達なり薬とは妙法の良薬なり、さて寿量品の意は十界本有と談ぜり、されば此の薬師とは一切衆生の事なり、智慧とは万法己己の自受用報身の振舞なり聡達とは自在自在に振舞うを聡達とは云うなり、所詮末法・当今の為の寿量品なれば法華経の行者の上の事なり、此の智慧とは南無妙法蓮華経なり、聡達とは本有無作三身なりと云う事なり、元品の無明の大良薬は南無妙法蓮華経なり、智とは一切衆生の力なり、慧とは一切衆生の言語音声なり、故に偈頌(げじゅ)に云く我智力如是慧光照無量と云えり云云。

一一念信解の事
 仰に云く此の経文は一念三千の宝珠を納めたる函(はこ)なり此れは現在の四信の初の一念信解なり、さて滅後の五品の初の十心具足初随喜品も一念三千の宝を積みたる函なり、法華経の骨髄・末法に於て法華経の行者の修行の相貌分明(そうみょうふんみょう)なり、所詮信と随喜とは心同じなり随喜するは信心なり信心するは随喜なり一念三千の法門は信心随喜の函に納りたり、又此の函とは所謂南無妙法蓮華経是なり又此の函は我等が一心なり此の一心は万法の総体なり総体は題目の五字なり、一念三千と云うが如く一心三千もあり釈に云く介爾(けに)も心有れば即ち三千を具すと、又宝函(ほうかん)とは我等が色心の二法なり。本迹両門・生死の二法・止観の二法なり所詮信心の函に入れたる南無妙法蓮華経の函なり云云。

一見仏聞法信受教誨(きょうかい)の事
 仰に云く此の経文は一念随喜の人は五十の功徳を備うべし、然る間見仏聞法の功徳を具足せり、此の五十展転の五十人の功徳を随喜功徳品には説かれたり、仍つて世世・生生の間見仏聞法の功徳を備えたり、所詮末法に入つては仏を見るとは寿量品の釈尊・法を聞くとは南無妙法蓮華経なり、教誨とは日蓮等の類い教化する所の諸宗無得道の教誡なり、信受するは法華経の行者なり、所詮・寿量開顕の眼の顕れては、此の見仏は無作の三身なり、聞法は万法己己の音声なり、信受教誨は本有(ほんぬ)随縁真如の振舞なり、是れ即ち色心の二法なり、見聞とは色法なり、信受は信心領納なれば心法なり、所謂色心の二法に備えたる南無妙法蓮華経是なり云云。

一若復有人以七宝満是人所得其福最多の事
 仰に云く此の経文は七宝を以て三千大千世界に満てて四聖を供養せんよりは法華経の一偈を受持し奉らんにはをとれりと説かれたり、天台大師は生養成栄の四の義を以て、法華経の功徳を釈し給えり、所詮末法に入つては題目の五字即ち是なり、此の妙法蓮華経の五字は万法能生の父母なり、生養成栄も亦復是くの如きなり、仍て釈には法を以つて本と為すと釈せり、三世十方の諸仏は、妙法蓮華経を以て父母とし給えり、此の故に四聖を供養するよりも法華経を持つは勝れたり、七宝は世間の財宝なり、四聖は滅に帰する仏菩薩羅漢なり、さて妙法の功徳は一得永不失なれば朽失(くしつ)せざる功徳なり、此の故に勝れたり云云。

一妙音菩薩の事
 仰に云く妙音菩薩とは、十界の語言音声なり、此の音声悉く慈悲なり、菩薩とは是れなり。

一爾時無尽意菩薩の事
 仰に云く此の菩薩は空仮中の三諦なり、意の一字には一切の法門を摂得するなり意と云うは中道の事なり無は空諦なり尽とは仮諦なり、所謂意と云うは南無妙法蓮華経なり、一切諸経の意三世の諸仏の題目の五字なり所詮法華の行者は信心を以て意とせり云云。

一観音妙智力の事
 仰に云く妙とは不思議なり、智とは随縁真如の智力なり、森羅三千の自受用智なり、観音は円観なり、円観とは一念三千なり、観音とは法華の異名なり、観音と法華とは眼目の異名と釈する間法華経の異名なり、観とは円観・音は仏機なり、仍つて観音の二字は人法一体なり、所謂一心三観・一念三千是なり云云。

一自在之業の事
 仰に云く此の自在之業とは自受用報身の智力なり、森羅三千の諸法作業をさして云うなり、其の所作のまま法華経の意は不思議の自在之業なりと説けり、此の自在之業の本は南無妙法蓮華経是なり云云。

一妙法蓮華経陀羅尼(だらに)の事
 仰に云く妙法蓮華経陀羅尼とは正直捨方便・但説無上道なり、五字は体なり陀羅尼は用なり妙法の五字は我等が色心なり、陀羅尼は色心の作用なり、所詮陀羅尼とは呪(じゅ)なり、妙法蓮華経を以て煩悩即菩提・生死即涅槃と呪(まじな)いたるなり、日蓮等の類い南無妙法蓮華経を受持するを以て呪とは云うなり、若有能持即持仏身とまじないたるなり、釈に云く陀羅尼とは諸仏の密号と判ぜり、所詮法華折伏破権門理の義遮悪持善(しゃあくじぜん)の義なり云云。

一六万八千人の事
 仰に云く六とは六根なり、万とは六根に具わる処の煩悩なり八とは八苦の煩悩なり千とは八苦に具足する煩悩なり、是れ即ち法華経に値い奉りて六万八千の功徳の法門と顕るるなり、所詮日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る外に六万八千の功徳の法門之れ無きなり云云。

一妙荘厳王の事
 仰に云く邪見即正の手本なり、所詮森羅三千の万法・妙を以て荘厳したる王なり妙とは称歎の語なり荘厳とは色法なり王とは心法なり諸法の色心を不思議とほめたり、然れば、妙荘厳王の言・三千の諸法・三諦法性の当位なり、所詮日蓮等の類南無妙法蓮華経を以て色心を荘厳したり、此の荘厳とは別してかざり立てたるには非ず当位即妙の荘厳なり、煩悩即菩提・生死即涅槃是なり云云。

一華厳大日観経等の凡夫の得道の事
 仰に云く彼等の衆皆各各其の経経の得道に似たれども真実には法華の得道なり、所謂三五下種の輩なり経に云く「始めて我が身を見、我は所説を聞く」文、妙楽大師云く脱は現に在りと雖も具(つぶさ)に本種を騰(あ)ぐと云えり本種と云うは南無妙法蓮華経是なり云云。

一題目の五字を以て下種の証文と為すべき事
 仰に云く経に云く教無量菩薩畢竟(ひっきょう)住一乗文、妙楽大師の云く余教を以て種と為さず文、無量の菩薩とは日本国の一切衆生を菩薩と開会して題目を教えたり、畢竟とは題目の五字に畢竟するなり住一乗とは乗此宝乗直至道場是なり文、下種とはたねを下すなり種子とは成仏の種の事なり、上の経文に教無量菩薩の教の一字は下種の証文なり教とは題目を授くる時の事なり、権教無得道・法華得道と教うるを下種とは云うなり、末法に入つて此の経文を出ださん人は有る可からざるなり慥(たしか)に塔中相承(たっちゅうそうじょう)の秘文なり下種の証文秘す可し云云。

一題目の五字末法に限つて持つ可きの事
 仰に云く経に云く、悪世末法時・能持是経者文、此の経とは題目の五字なり、能の一字に心を留めて之れを案ずべし云云、末代悪世・日本国の一切衆生に持てと云う経文なり云云。

一天台云く是我弟子応弘我法の事
 仰に云く我が弟子とは上行菩薩なり我が法とは南無妙法蓮華経なり、権教・乃至始覚等は・随他意なれば他の法なり、さて此の題目の五字は五百塵点より已来、証得し給える法体(ほったい)なり故に我が法と釈せり、天台云く此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵なり、三世の如来の証得し給える所とは是れなり。

一色心を心法と云う事
 仰に云く玄の十に云く請を受けて説く時只だ是れ教の意を説く教意は是れ仏意なり仏意は即ち是れ仏智なり仏智至つて深し是の故に三止四請す此くの如きの艱難・余経に比するに余経は則ち易し云云、此の釈の意分明なり教意と仏意と仏智とは何れも同じ事なり、教は二十八品なり意は題目の五字なり惣じて仏意とは法華経の異名なり、法華経を以て一切経の心法とせり又題目の五字を以て一代説教・本迹二門の神(たましい)とせり、経に云く妙法蓮華経如来寿量品是なり、此の題目の五字を以て三世の諸仏の命根とせり、さて諸経の神法華経なりと云う証文は妙法蓮華経方便品と題したる是なり云云。

一無作の応身我等凡夫也と云う事
 仰に云く釈に云く凡夫も亦三身の本を得たりと云云、此の本の字は応身の事なりされば本地無作本覚の体は無作の応身を以て本とせり仍つて我等凡夫なり、応身は物に応(かな)う身なり其の上寿量品の題目を唱え出し奉るは真実に応身如来の慈悲なり云云。

一諸河無鹹(むかん)の事
 仰に云く此無鹹の事をば諸教無得道に譬えたり大海のしをはゆきをば法華経の成仏得道に譬えたり、又諸経に一念三千の法門無きは、諸河にうしをの味無きが如く死人の如し、法華経に一念三千の法門有るは・うしをの大海にあるが如く生きたる人の如し、法華経を浅く信ずるは・あわのうしをの如し、深く信ずるは、海水の如し、あわはきえやすし、海水は消えざるなり、如説修行最も以て大切なり、然りと雖も、諸経の大河の極深なるも、大海のあわのしをの味をば具足せず、権教の仏は法華経の理即の凡夫には百千万倍劣るなり云云。

一妙楽大師の釈に末法之初冥利不無の釈の事
 仰に云く此の釈の心は末法に於て冥の利益・迹化の衆あるべしと云う事なり、此の釈は薬王品の此経即為閻浮提人病之良薬若人有病得聞是経病即消滅不老不死云云、此の経文の意を底に含めて釈せり、妙楽云く然るに後五百は、且らく一往に従う、末法の初冥利無きにあらず、且く大教の流行す可き時に拠る、故に五百と云う文、仍つて本化の菩薩は顕の利益・迹化は冥の利益なるべし云云。

一爾前経瓦礫国の事
 仰に云く法華経の第三に云く、如従飢国来忽遇大王饍と云云、六の巻に云く我此土安穏天人常充満我浄土不毀云云、此の両品の文の意は権教は悉く瓦礫の旅の国なり、あやまりて本国と思いて都と思わん事迷の故なり、一往四十二年住したる国なれば衆生皆本国と思えり、本国は此の法華経なり、信解品に云く遇向本国と、三五の下種の所を指して本国とも浄土とも大王饍とも云うなり、下種の心地即ち受持信解の国なり云云。

一無明悪酒の事
 仰に云く無明の悪酒に酔うと云う事は弘法・慈覚・智証・法然等の人人なり、無明の悪酒と云う証文は勧持品に云く、悪鬼入其身是なり、悪鬼と悪酒とは同じ事なり悪鬼の鬼は第六天の魔王の事なり悪酒とは無明なり無明即魔王魔王即無明なり、其身の身とは日本国の謗法の一切衆生なり、入ると呑むとは同じ事なり、此の悪鬼入る人は阿鼻に入る、さて法華経の行者は入仏知見道故と見えて仏道に入る、得入無上道とも説けり、相構え相構えて無明の悪酒を恐るべきなり云云。

一日蓮己証の事
 仰に云く寿量品の南無妙法蓮華経是れなり、地涌千界の出現・末代の当世の別付属の妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に取次ぎ給うべき仏勅使の上行菩薩なり云云、取次とは取るとは釈尊より上行菩薩の手へ取り給うさて上行菩薩又末法当今の衆生に取次ぎ給えり是を取次ぐとは云うなり、広くは末法万年までの取次なり、是を無令断絶とは説かれたり、又結要の五字とも申すなり云云、上行菩薩取次の秘法は所謂南無妙法蓮華経なり云云。

一釈尊の持言秘法の事
 仰に云く持言の秘法の経文とは寿量品に云く、毎自作是念の文是なり、毎の字は三世常住なり、是念の念とは、わすれ給わずして内証に具足し給えり故に持言なり、秘法とは南無妙法蓮華経是なり秘す可し秘す可し云云。

一日蓮門家の大事の事
 仰に云く此の門家の大事は涌出品の前三後三の釈なり、此の釈無くんば本化迹化の不同・像法付属・末法付属・迹門・本門等の起尽之れ有る可からず、既に止(やみね)善男子の止の一字は日蓮門家の大事なり秘す可し秘す可し、総じて止の一字は正しく日蓮門家の明鏡の中の明鏡なり口外も詮無し、上行菩薩等を除いては総じて余の菩薩をば悉く止の一字を以て成敗(せいばい)せり云云。

一日蓮が弟子臆病にては叶う可からざる事
 仰に云く此の意は問答対論の時は爾前迹門の釈尊をも用う可からざるなり、此れは臆病にては釈尊を用いまじきかなんど思うべき故なり、釈尊をさえ用う可からず何に況や其の以下の等覚の菩薩をやまして謗法の人人に於ておや、所謂南無妙法蓮華経の大音声を出だして諸経諸宗を対治すべし、巧於難問答其心無所畏とは是なり云云。

一妙法蓮華経の五字を眼と云う事
 仰に云く法華第四に云く、仏滅度後能解其義是諸天人世間之眼と云云、此の経文の意は、法華経は人天・二乗・菩薩・仏の眼目なり、此の眼目を弘むるは日蓮一人なり、此の眼には五眼あり、所謂肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼なり、此の眼をくじりて別に眼を入れたる人あり、所謂弘法大師是なり、法華経の一念三千・即身成仏・諸仏の開眼を止めて、真言経にありと云えり、是れ豈法華経の眼を抽(くじ)れる人に非ずや、又此の眼をとじふさぐ人あり所謂法然上人是れなり、捨閉の閉の文字は、閉眼の義に非ずや、所詮能弘の人に約しては、日蓮等の類い世間之眼なり、所弘の法に随えば、此の大乗経典は、是れ諸仏の眼なり、所詮眼の一字は一念三千の法門なり、六万九千三百八十四字を此の眼の一字に納めたり、此の眼の字顕われて見れば煩悩即菩提・生死即涅槃なり、今末法に入つて、眼とは所謂未曾有(みぞうう)の大曼荼羅なり、此の御本尊より外には眼目無きなり云云。

一法華経の行者に水火の行者の事
 仰に云く総じて此の経を信じ奉る人に水火の不同あり、其の故は火の如きの行者は多く水の如き行者はまれなり、火の如しとは此の経のいわれをききて火炎のもえ立つが如く貴く殊勝に思いて信ずれども・やがて消失す、此れは当座は大信心と見えたれども・其の信心の灯・きゆる事やすし・さて水の如きの行者と申すは水は昼夜不退に流るるなり少しもやむ事なし、其の如く法華経を信ずるを水の行者とは云うなり云云。

一女人と妙と釈尊と一体の事
 仰に云く女人は子を出生す、此の出生の子・又子を出生す此くの如く展転して無数の子を出生せり、此の出生の子に善子もあり・悪子もあり端厳美麗の子もあり・醜陋(しゅうる)の子もあり・長(たけ)のひくき子もあり・大なる子もあり・男子もあり・女子もあり云云、所詮・妙の一字より万法は出生せり地獄もあり・餓鬼もあり・乃至仏界もあり・権教もあり・実教もあり・善もあり・悪もあり・諸法を出生せり云云、又釈迦一仏の御身より一切の仏・菩薩等悉く出生せり、阿弥陀・薬師・大日等は悉く釈尊の一月より万水に浮ぶ所の万影なり、然らば女人と妙と釈尊との三全く不同無きなり、妙楽大師の云く妙即三千・三千即法云云、提婆品に云く有一宝珠価直(けじき)三千大千世界是なり云云。

一置不呵責(ちふかしゃく)の文の事
 仰に云く此の経文に於ては日蓮等の類のおそるべき文字一字之れ有り、若し此の文字を恐れざれば縦い当座は事なしとも未来無間の業たるべし、然らば無間地獄へ引き入る獄卒なるべし夫れは置の一字是なり云云、此の置の一字は獄卒なるべし謗法不信の失を見ながら聞きながら云わずして置かんは必ず無間地獄へ堕在す可し、仍つて置の一字・獄卒・阿防羅刹(あぼうらせつ)なるべし尤も以て恐る可きは置の一字なり云云、所詮此の経文の内に獄卒の一字を恐るべきなり云云、此の獄卒の一字を深く之を思う可し、日蓮は此の字を恐る故に建長五年より今弘安年中まで在在所所にて申しはりしなり只偏に此の獄卒を脱れんが為なり、法華経には若人不信とも生疑不信者とも説き給えり、法華経の文文句句をひらき涅槃経の文文句句をひらきたりとも置いていわずんば叶う可からざるは此の置の一字より外に獄卒は無きなり云云。

一異念無く霊山浄土へ参る可き事
 仰に云く異念とは不信の事なり、若し我が心なりとも不信の意出来せば忽に信心に住すべし、所詮不信の心をば師となすべからず信心の心を師匠とすべし浄心信敬に法華経を修行し奉るべきなり、されば能持是経能説此経と説きて能の字を説かせ給えり霊山ここにあり四土一念皆常寂光とは是なり云云。

一不可失本心の事
 仰に云く此の本心と云うは法華経の信心の事なり、失と申すは謗法の人にすかされて法華経を捨つる心の出来するを云うなり、されば天台大師云く若し悪友に値えば則ち本心を失うと云云、此の釈に悪友とは謗法の人の事なり、本心とは法華経なり、法華経を本心と云う意は諸法実相の御経なれば十界の衆生の心法を法華経とは申すなり、而るに此の本心を引きかえて迷妄の法に着するが故に本心を失うなり、此の本心に於ては三五の下種の法門なり、若し善友に値う時んば失う所の本心を忽に見得するなり、所謂迦葉・舎利弗等是なり、善友とは釈迦如来・悪友とは第六天の魔王・外道・婆羅門是なり、所詮末法に入つて本心とは日蓮弘通の南無妙法蓮華経是なり、悪友とは法然・弘法・慈覚・智証等是なり、若し此の題目の本心を失せんに於ては又三五塵点を経べきなり、但、如是展転至無数劫なるべし、失とは無明の酒に酔いたる事なり仍て本心を失うと云うなり、此の酔をさますとは権教を捨てしむるを云うなり云云。

一天台大師を魔王障礙せし事
 仰に云く此の事は随分の秘蔵なり、其の故は天台大師・一心三観・一念三千の観法を説き顕さんとし給いしかば父母・左右の膝に住して悩まし奉り障礙し給いしなり、是れ即ち第六天の魔王が父母の形を現じて障礙せしなり、終に魔王に障礙せられ給わずして摩訶止観の法門起れり、何に况や今日蓮が弘むる南無妙法蓮華経は三世の諸仏の成道の師・十方薩埵(さった)の得道の師匠たり、其の上・正像二千年の仏法は爾前迹門なれば、魔王自身・障礙をなさずともなるべし、今末法の時は、所弘の法は、法華経・本門の事の一念三千の南無妙法蓮華経なり、能弘の導師は本化地涌の大菩薩にてましますべし、然る間魔王自身下りて障礙せずんば叶う可からざるなり、仍つて自身下りたる事分明なり、所謂道隆・良観・最明寺等是なり、然りと雖も諸天善神等は日蓮に力を合せ給う故に竜口(たつのくち)までもかちぬ、其の外の大難をも脱れたり、今は魔王もこりてや候うらん、日蓮死去の後は残党ども軍を起すべきか、故に夫れも落居(らっこ)は叶う可からざるなり、其の故は第六天の魔王の眷属日本国に四十九億九万四千八百二十八人なりしが・今は日蓮に降参したる事多分なり、経に云く悪鬼入其身とは是なり、此の合戦の起りも、所詮南無妙法蓮華経是なり、魔王に於て体の魔王・用(ゆう)の魔王あり、体の魔王とは法性同共(ほっしょうどうぐ)の魔王なり妙法の法是なり、用の魔王とは此れより出生する第六天の魔王なり、用の魔王は障礙をなす、然れども体用同共の諸法実相の一理なり、唯有一門の智慧の門に入り、無明法性一体なるべきなり云云、所謂摩訶止観の大事の法門是なり、法華経の一代説教に勝れたるは此の故なり、一念三千とは是なり、法華経第三に云く魔及魔民皆護仏法云云。

一法華経極理の事
 仰に云く迹門には二乗作仏・本門には久遠実成此をさして極理と云うなり、但し是も未だ極理にたらず、迹門にして極理の文は諸仏智慧甚深無量の文是れなり、其の故は此の文を受けて文句の三に云く竪に如理の底に徹し横に法界の辺を窮むと釈せり、さて本門の極理と云うは如来秘密神通之力の文是なり、所詮日蓮が意に云く法華経の極理とは南無妙法蓮華経是なり、一切の功徳法門・釈尊の因行果徳の二法・三世十方の諸仏の修因感果・法華経の文文句句の功徳を取り聚めて此の南無妙法蓮華経と成し給えり、爰を以て釈に云く惣じて一経を結するに唯だ四のみ、其の枢柄(すうへい)を撮(と)つて之を授与す云云、上行菩薩に授与し給う題目の外に法華経の極理は無きなり云云。

一妙法蓮華経五字の蔵の事
 仰に云く此の意は妙法の五字の中には一念三千の宝珠あり五字を蔵と定む、天台大師玄義の一に判ぜり、所謂此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵なり云云、法華経の第四に云く是れ法華経蔵と云云、妙華厳阿含方等般若涅槃、又云く妙涅槃法般若蓮方等華阿含経華厳、已上妙法蓮華経の五字には十界三千の宝珠あり、三世の諸仏は此の五字の蔵の中より或は華厳の宝を取り出だし或は阿含方等般若の宝を取り出だし種種説法し給えり、加之(しかのみならず)・論師・人師等の疏釈も悉く此の五字の中より取り出だして一切衆生に与え給えり、此等は皆五字の中より取り出だし給えども妙法蓮華経の袋をば持ち給わず、所詮五字は上行菩薩の付属にして更に迹化の菩薩・諸論師いろはざる題目なり、仍つて上行所伝の南無妙法蓮華経は蔵なり、金剛不壊の袋なり此の袋をそのまま日本国の一切衆生には与え給えり、信心を以て此の財宝を受取るべきなり、今末法に入つては日蓮等の類い受取る所の如意宝珠なり云云。

一我等衆生の成仏は打かためたる成仏と云う証文の事
 仰に云く経に云く無上宝聚不求自得の文是なり、我等凡夫即極とはたと打かためたる成仏なり所謂不求自得する所の南無妙法蓮華経なればなり云云。

一爾前法華の能くらべの事
 仰に云く爾前の経にして十悪・五逆等の成仏の能なし、今法華経に十界皆成・分明なり、爾前の経の無能と云う証文とは方便品に云く但以仮名字引導於衆生の文是なり、さて法華経は能と云う証文は諸法実相の文是なり、今末法に入つて第一の能たる南無妙法蓮華経是なり云云。

一授職の法体の事
 仰に云く此の文は唯仏与仏の秘文なり輙(たやす)く云う可からざる法門なり、十界三千の諸法を一言を以て授職する所の秘文なり、其の文とは神力品に云く皆於此経宣示顕説の文是なり、此の五字即十界同時に授職する所の秘文なり十界己己の当体・本有妙法蓮華経なりと授職したる秘文なり云云。

一末代譲状の事
 仰に云く末代とは末法五百年なり、譲状とは手継の証文たる南無妙法蓮華経是なり此れを譲るに二義之れ有り、一には跡をゆずり二には宝をゆずるなり、一に跡を譲ると云うは釈迦如来の跡を法華経の行者にゆずり給えり、其の証文に云く如我等無異の文是なり、次に財宝をゆずると云うは釈尊の智慧戒徳を法華経の行者にゆずり給えり、其の証文に云く無上宝聚不求自得の文是なりと云云、さて此の題目の五字は譲状なり云云。

一本有止観と云う事
 仰に云く本有の止観と云うは大通を以て習うなり、久遠実成道の仏と大通智勝仏と釈尊との三仏を次の如く仏法僧の三宝と習うなり、此の故に大通は本有の止観なれば即ち三世の諸仏の師範と定めたり、仍つて大通仏を法と習う、此の法は妙法蓮華経是なり、仍つて証文に云く大通智勝仏十劫坐道場の文是なり十劫は即ち十界なり云云。

一入末法四弘誓願の事
 仰に云く四弘誓願をば一文に口伝せり、其の一文とは所謂神力品に云く於我滅度後応受持斯経是人於仏道決定無有疑と云云、此の経文は法華経の序品より始て四弘誓願の法門を説き終りてさて上行菩薩に妙法蓮華経を付属し給う時・妙法の五字に四弘誓願を結びて結句に説かせ給えり滅後とは末法の始の五百年なり、衆生無辺誓願度と云うは是人の人の字なり、誓願は地涌の本化の上行菩薩の誓願に入らんと此れ即ち仏道の二字度脱なり、煩悩無辺なれども煩悩即菩提・生死即涅槃と体達す、仏道に入つては煩悩更になし受持斯経の所には法門無尽誓願知分明なり無上菩提誓願証と云うは是人於仏道決定無有疑と定めたる四弘誓願分明なり、教主釈尊・末法に入つて四弘誓願も此の文なり、上行菩薩の四弘誓願も此の文なり深く之を思案す可し云云。

一四弘誓願応報如理と云う事
 仰に云く衆生無辺誓願度は応身なり、煩悩無辺誓願断は報身なり、法門無尽誓願知は智法身なり、無上菩提誓願証は理法身なり、所詮誓願と云うは題目弘通の誓願なり、釈に云く彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なりと是なり云云。

一本来の四弘の事
 仰に云く諸法の当体本来四弘なり、其の故は衆生と云うは法界なり、所詮法界に理智慈悲の三を具足せり、応報法の三身・諸法の自体なり、無作の応身を以て衆生無辺誓願度と云うなり、無作の報身には智徳断徳の二徳を備えたり、煩悩無辺誓願断を以て本有の断徳とは定めたり、法門無尽誓願知を以て本有の智徳とす、無上菩提誓願証を以て無作の法身と云うなり、所詮四弘誓願の中には衆生無辺誓願度を以て肝要とするなり、今日蓮等の類いは南無妙法蓮華経を以て衆生を度する此より外は所詮なきなり、速成就仏身是なり云云、所詮四弘誓願は一念三千なり、さて四弘の弘とは何物ぞ、所謂上行所伝の南無妙法蓮華経なり、釈に云く四弘能所泯すと云云、此の釈は止観に前三教を釈せり、能と云うは如来なり所とは衆生なり能所各別するは権教の故なり、法華経の心は能所一体なり泯すと云うは権教の心は機法共に一同なれば能所泯すと云うなりあえて能所一同して成仏する所を泯すと云うには非ざるなり、今末法に入つて法華経の行者は四弘能所感応の即身成仏の四弘なり云云。

高祖日蓮大聖人御講聞書上三帖内

自弘安元年三月十九日連連御講至同三年五月二十八日也仍記之畢  日向記之
御講聞書




by johsei1129 | 2016-05-26 20:34 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)