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日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 05月 19日 ( 3 )


2016年 05月 19日

四十余年の文、二乗作仏を許さずんば菩薩の成仏も又之無きなり、と説かれた【爾前二乗菩薩不作仏事】

【爾前二乗菩薩不作仏事】
■出筆時期:正元元年(1259年) 三十八歳御作
■出筆場所:駿河国・岩本実相寺と思われます。
■出筆の経緯:緯:本抄は実相寺で一切経を読了された過程でしたためられた立宗初期の法門の一つで、弟子・信徒教化のためにしたためられたと思われます。内容は法華経以前の爾前経では二乗(声聞・縁覚)及び菩薩の成仏は叶わないと講説されておられます。
■ご真筆:身延久遠寺に存在していたが明治八年の大火で焼失。

【爾前二乗菩薩不作仏事 本文】
問うて云く二乗永不成仏の教に菩薩の作仏を許す可きや、答えて云く楞伽経第二に云く「大慧何者か無性乗なる、謂く一闡提なり・大慧・一闡提とは涅槃の性無し何を以ての故に解脱の中に於て信心を生ぜず涅槃に入らず、大慧・一闡提とは二種あり何等をか二と為す一には一切の善根を梵焼す二には一切衆生を憐愍して一切衆生界を尽さんとの願を作す大慧・云何が一切の善根を梵焼する謂く菩薩蔵を謗じて是くの如きの言を作す、彼の修多羅・毘尼・解脱の説に随順するに非ず諸の善根を捨つと是の故に涅槃を得ず、大慧・衆生を憐愍して衆生界を尽さんとの願を作す者是を菩薩と為す、大慧・菩薩は方便して願を作す若し諸の衆生の涅槃に入らざる者あらば我も亦涅槃に入らずと是の故に菩薩摩訶薩涅槃に入らず、大慧・是を二種の一闡提無涅槃性と名く是の義を以ての故に決定して一闡提の行を取る、

大慧菩薩・仏に白して言く世尊・此の二種の一闡提何等の一闡提か常に涅槃に入らざる、仏・大慧に告げたまわく菩薩摩訶薩の一闡提は常に涅槃に入らず何を以ての故に能善く一切諸法・本来涅槃なりと知るを以て是の故に涅槃に入らず一切の善根を捨つる闡提には非ず、何を以ての故に大慧彼れ一切の善根を捨つる闡提は若し諸仏・善知識等に値いたてまつれば菩提心を発し諸の善根を生じて便ち涅槃を証す」等と云云、此の経文に「若し諸の衆生涅槃に入らざれば我も亦涅槃に入らじ」等云云。

前四味の諸経に二乗作仏を許さず之を以て之を思うに四味諸経の四教の菩薩も作仏有り難きか、華厳経に云く「衆生界尽きざれば我が願も亦尽きず」等と云云、一切の菩薩必ず四弘誓願を発す可し其の中の衆生無辺誓願度の願之を満せざれば無上菩提誓願証の願又成じ難し、之を以て之を案ずるに四十余年の文二乗に限らば菩薩の願又成じ難きか。

問うて云く二乗成仏之無ければ菩薩の成仏も之無き正き証文如何、答えて云く涅槃経三十六に云く「仏性は是れ衆生に有りと信ずと雖も必ず一切に皆悉く之有らず是の故に名けて信不具足と為す」と三十六本三十二、此の文の如くんば先四味の諸菩薩は皆一闡提の人なり二乗作仏を許さず二乗の作仏を成ぜざるのみに非ず、将又菩薩の作仏も之を許さざる者なり、之を以て之を思うに四十余年の文二乗作仏を許さずんば菩薩の成仏も又之無きなり、一乗要決の中に云く「涅槃経三十六に云く仏性は是れ衆生に有りと信ずと雖も必ず一切皆悉く之有らず是の故に名けて信不具足と為すと三十六本三十二、第三十一に説く一切衆生及び一闡提に悉く仏性有りと信ずるを菩薩の十法の中の第一の信心具足と名くと、三十六本第三十、一切衆生悉有仏性を明すは是れ少分に非ず、若し猶堅く少分の一切なりと執せば唯経に違するのみに非ず亦信不具なり何に因つてか楽つて一闡提と作るや此れに由つて全分の有性を許すべし理亦一切の成仏を許すべし○」

慈恩の心経玄賛に云く「大悲の辺に約すれば常に闡提と為る大智の辺に約すれば亦当に作仏すべし、宝公の云く大悲闡提は是れ前経の所説なり前説を以て後説を難ず可からざるなり諸師の釈意大途之に同じ」文、金ぺいの註に云く「境は謂く四諦なり百界三千の生死は即ち苦なり此の生死即ち是れ涅槃なりと達するを衆生無辺誓願度と名く・百界三千に三惑を具足す此の煩悩即ち是れ菩提なりと達するを煩悩無辺誓願断と名く・生死即涅槃と円の仏性を証するは即ち仏道無上誓願成なり、惑即菩提にして般若に非ざること無ければ即ち法門無尽誓願知なり、惑智無二なれば生仏体同じ苦集唯心なれば四弘融摂す一即一切なりとは斯の言徴有り」文、慈覚大師の速証仏位集に云く「第一に唯今経の力用仏の下化衆生の願を満す故に世に出でて之を説く所謂諸仏の因位・四弘の願・利生断惑・知法作仏なり然るに因円果満なれば後の三の願は満ず、利生の一願甚だ満じ難しと為す彼の華厳の力十界皆仏道を成ずること能わず阿含・方等・般若も亦爾なり後番の五味・皆成仏道の本懐なる事能わず、今此の妙経は十界皆成仏道なること分明なり彼の達多無間に堕するに天王仏の記を授け竜女成仏し十羅刹女も仏道を悟り阿修羅も成仏の総記を受け人・天・二乗・三教の菩薩・円妙の仏道に入る、経に云く我が昔の所願の如きは今者已に満足しぬ一切衆生を化して皆仏道に入らしむと云云、衆生界尽きざるが故に未だ仏道に入らざる衆生有りと雖も然れども十界皆成仏すること唯今経の力に在り故に利生の本懐なり」と云云。

又云く「第一に妙経の大意を明さば諸仏は唯一大事の因縁を以ての故に世に出現し一切衆生・悉有仏性と説き聞法・観行・皆当に作仏すべし、抑仏何の因縁を以て十界の衆生悉く三因仏性有りと説きたもうや、天親菩薩の仏性論縁起分の第一に云く如来五種の過失を除き五種の功徳を生ずるが為の故に一切衆生悉有仏性と説きたもう已上謂く五種の過失とは一には下劣心・二には高慢心・三には虚妄執・四には真法を謗じ五には我執を起すなり、五種の功徳とは一には正勤・二には恭敬・三には般若・四には闍那・五には大悲なり、生ずること無しと疑うが故に大菩提心を発すこと能わざるを下劣心と名け、我に性有つて能く菩提心を発すと謂えるを高慢と名け、一切の法無我の中に於て有我の執を作すを虚妄執と名け一切諸法の清浄の智慧功徳を違謗するを謗真法と名け意唯己を存して一切衆生を憐むことを欲せざるを起我執と名く此の五に翻対して定めて性有りと知りて菩提心を発す」と。
日 蓮 花押








by johsei1129 | 2016-05-19 23:10 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 19日

Gosho 如説修行抄 On practicing according to the Buddha’s teachings


法華折伏(しゃくぶく)()権門(ごんもん)()の金言なれば(つい)(ごん)(きょう)権門の(やから)を一人もなく・せめをとして法王の()(にん)となし、

“The Lotus Sutra is the teaching of shakubuku, the refutation of the provisional doctrines.” True to the letter of this golden saying, in the end, every last one of the believers of the provisional teachings and schools will be defeated and join the retinue of the Dharma King.

The Lotus Sutra is the teaching of shakubuku, the refutation of the provisional doctrines. Since these are the golden words [of the Buddha], eventually every person who clings to the provisional teachings will surrender [to the true Law] and become a follower of the Buddha.

天下万民・諸乗一仏乗と成つて妙法(ひと)繁昌(はんじょう)せん時、

The time will come when all people will abandon the various kinds of vehicles and take up the single vehicle of Buddhahood, and the Mystic Law alone will flourish throughout the land.

Then, all the people throughout this world will discard the provisional teachings and take faith in the one vehicle of Buddhahood.

万民一同に南無妙法蓮華経と唱え(たてまつ)らば、吹く風(えだ)をならさず、雨(つちくれ)(くだ)かず、

When the people all chant Nam-myoho-renge-kyo, the wind will no longer buffet thebranches, and the rain will no longer break the clods of soil.

When the mystic Law alone prevails in the land and the entire nation chants Nam-Myoho-Renge-Kyo, the wind will blow gently without causing the branches to rustle, and the rain will fall softly without breaking a clod.


                       つづく Next


本文 Original Text  目次 Index



by johsei1129 | 2016-05-19 20:53 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 19日

 妙法曼荼羅供養抄記 三 妙法の五字は三世の諸仏の主師親なり。故に以て本尊と為す。


一 入文の下。  

一 本尊

  主師親を以て本尊と為すなり。(もと)より尊く、(ほん)とし、尊ぶ意なり。 

一 文字は五字七字

  問う、日本国の諸宗、本尊(まちまち)なりと雖も皆仏を以て本尊と為す。蓮師、何ぞ妙法を以て本尊と為したもうや。

  答う(つぶさ)には本尊問答抄の如し。妙法の五字は釈迦・多宝・十方の諸仏の御本尊なるが故なり。故に今文に「三世の諸仏の御師」と云うなり。  

  問う、(まさ)に三世の諸仏の主師親と云うべし。既に三世の諸仏の御本尊なるが故なり。何ぞ(ただ)「御師」と云うや。

  答う、是れ涅槃経の「諸仏の師とする所は所謂(いわゆる)法なり」の文に准ずる故なり。而して其の意は実に三徳を含むなり。故に天台云く「法は()れ聖の師。能生・能養・能成・能栄・法に過ぎたるは()し。故に人は軽く、法は重し」等云云。

文の意は、総じて之を論ずれば(ただ)法は是れ聖の師なり。別して之を論ずれば即ち三徳を含む。謂く、生・養は父母の徳なり。能成は師の徳なり。能栄は主の徳なり。故に(みょう)(らく)(せん)の八に云く「父母に非ざれば以て生ずること無く、師に非ざれば以て成ずること無く、君主に非ざれば以て栄ゆること無し」等云云。此の文に分明(ふんみょう)なり。

  普賢観に云く「此の大乗経典は諸仏の宝蔵、十方三世の諸仏の眼目なり。三世の(もろもろ)の如来を出生(しゅっしょう)する種なり」等云云。「諸仏の宝蔵」とは主の徳なり。「諸仏の眼目」とは師の徳なり。「出生」とは(あに)父母の徳に非ずや。故に妙法の五字は三世の諸仏の主師親なり。故に以て本尊と為す。三徳有りと(いえど)も、総じて之を論ずれば(ただ)是れの師なり。故に「三世の諸仏の御師」等と云うなり。


                     つづく 
日寛上人 文段目次



by johsei1129 | 2016-05-19 08:49 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)