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日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 05月 13日 ( 3 )


2016年 05月 13日

Gosho 聖愚問答抄 Question and Answers between a Sage and a Foolish Man


(いま)法華経は十界()()・一念三千・三諦(さんたい)(そく)()・四土不二(ふに)と談ず

“Now the Lotus Sutra expounds the doctrines of the mutual possession of the Ten Worlds, a single moment of life comprising the three thousand realms, the unification of the three truths, and the inseparability of the four kinds of lands.

The Lotus Sutra expounds the doctrines of the mutual possession of the ten worlds; ichinen sanzen (three thousand realms in a single life-moment; the threefold truth; and the oneness of the four kinds of lands.

其の上に一代聖教の骨髄(こつずい)たる二乗作仏(さぶつ)久遠(くおん)(じつ)(じょう)(こん)(きょう)に限れり

Moreover, the very essence of all the sacred teachings expounded by Shakyamuni Buddha in his lifetime—the doctrines that persons of the two vehicles can achieve Buddhahood, and that the Buddha attained enlightenment in the inconceivably remote past—is found only in this one sutra, the Lotus.

Furthermore, the core of all the sacred teachings expounded by Shakyamuni Buddha throughout his lifetime----the doctrines that persons of the two vehicles can achieve Buddhahood, and that the Buddha attained enlightenment in the inconceivably remote past----is revealed only in the lotus Sutra.


                       つづく Continued
本文 Original Text  目次 index



by johsei1129 | 2016-05-13 22:44 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 13日

 如説修行抄筆記 十四 末法当今は此の経を受持する一行計(ばか)りにして成仏す可し


一 末法の今の学者等

此の下は修行を明かすに二。初めに他宗の(びゃく)(あん)を挙げ、次に「此等のを()て」の下は今師の修行なり。
 初めの文に二。初めに僻見(びゃっけん)を挙げ、二に「是くの如き」の下は経を引いて謗法堕獄を決定(けつじょう)せり。

今の一致門流の学者、本迹(とも)に法華経なるが故に(みな)得道あるべしと思いて本迹一致と修行するは「()(ぼう)()(きょう)の人なり。「雖讃(すいさん)法華経、(げん)()法華心」の故に(にゅう)阿鼻(あび)(ごく)(うたがい)無き者なり。

次上の二十四に云く「日蓮云く此の経は是れ十界の仏種に通ず、若し此の経を謗せば義()れ十界の仏種を断ずるに当る、是の人()(けん)に於て決定(けつじょう)して()(ざい)、何ぞ出ずる()を得んや」文。此の文言、本門の題目を以て此の経とせる御書の(こころ)なり。前後の御文体、()いて見よ。 

一 難じて云く左様(さよう)

此の下は別して如説修行の相を明かす。即ち本迹相対の意なり。所謂(いわゆる)天台()()摂受(しょうじゅ)の行を破して、末法折伏の修行を明かしたもう。是れ像末相対の本迹なり。
 御書に云く叡山(えいざん)天台宗の過時の迹を破し候なり」「今我等が読む所の迹門にては候はず」文。

問う、当流に於て五種の(みょう)(ぎょう)有りや。

答う、題号の下の如し。(なお)中古の(おきて)に云く「日蓮上人は方便寿量の両品を助行に用いたもうなり。文を見て両品を読むは(どく)、さてそらに自我偈を(じゅ)し、(こん)()三界(さんがい)の文を講じ、塔婆(とうば)などに題目を書写するは受持等の五種の妙行と(こころ)()べきなり」文。「受持無行余行徒然」の故に受持の行肝心(かんじん)なり。

末法今時の受持とは、本門の本尊たる題目の五字を信ずる義なり。釈に云く「信力(しんりき)の故に受け、念力の故に(たも)つ」文。

御義口伝下四十二に云く「五種の修行の中には四種を略して(ただ)受持の一行にして成仏す可しと経文に(まのあた)(これ)れ有り」文。

同三十一に云く「末法当今は此の経を受持する一行(ばか)りにして成仏す可しと定むるなり」文。

故に末法は(ただ)受持の一行なり。此の受持の一行の中に余の四を()す。読誦(どくじゅ)とは南無妙法蓮華経と唱うる事なり。
 故に御義口伝上四十七に「読持此経の事。御義口伝に云く五種の修行の読誦と受持との二行なり、今日蓮等の(たぐ)い南無妙法蓮華経と唱え奉るは読なり、此の経を(たも)つは持なり、此経とは題目の五字なり」云云文。

()(せつ)云わば、御義口伝下十四に云く「末法に入つて説法とは南無妙法蓮華経なり今日蓮等の(たぐ)いの説法是なり」云云文。
 亦上四十八に云く「説とは南無妙法蓮華経なり、今日蓮等の類いは能須(のうしゅ)()(せつ)の行者なり」云云文。

(これ)()の御文言に依るに、末法当今は受持の一行の中に五種の行有るなり。熟益(じゅくやく)の五種の行を破して、種の(いえ)の五種の妙行を立つるなり。題号の下の経文等云云。


              つづく


本書目次 
                   日寛上人 文段目次



by johsei1129 | 2016-05-13 22:36 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 13日

大聖人が亡き父を弔う意味を込めて記されたと拝される書【一代聖教大意】

【一代聖教大意】
■出筆時期:正嘉二年(1258) 二月十四日 三十七歳御作。
■出筆場所:駿河国・岩本実相寺にてと思われます。
■出筆の経緯:大聖人は正嘉二年二月、駿河国・岩本実相寺に入り大蔵経(釈尊の一切経)を読まれ二年後に立正安国論として結実し北条時頼(最明寺入道)に献じ国家諌暁を果たします。また合わせて法華経の法門を初心の弟子・信徒の教化のため数多く述作されておられます。本書もその一つですが、この頃著された御書の大半は述作年月日が示されておりませんが、本御書のみ正嘉二年二月十四日と記されておられます。
この正嘉二年(1258) 二月十四日は、大聖人の父(妙日)が故郷安房の地で逝去された日であります。大聖人はその知らせを聞いても帰郷することなく岩本実相寺にて大蔵経の閲覧と法門の述作を続けられておられました。恐らく大聖人は亡き父を弔う意味を込めて本書に述作年月日を記されたのではと拝したいと思います。
■ご真筆:現存しておりません。古写本:日目上人筆(保田 妙本寺所蔵)
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[富士大石寺第三祖 日目上人筆写本]



【一代聖教大意 本文】
四教は一には三蔵教・二には通教・三には別教・四には円教なり。
始に三蔵とは阿含経の意なり・此の経の意は六道より外を明さず但し六道・地・餓・畜・修・人・天の内の因果の道理を明す、但し正報は十界を明すなり地・餓・畜・修・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏なり依報が六にて有れば六界と申すなり、

此の教の意は六道より外を明さざれば三界より外に浄土と申す生処ありと言わず又三世に仏は次第・次第に出世すとは云へども横に十方に並べて仏有りとも云わず、三蔵とは一には経蔵亦云定蔵二には律蔵亦云戒蔵三には論蔵亦云慧蔵なり但し経律論の定戒慧・戒定慧・慧定戒と云う事あるなり、戒蔵とは五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒なり・定蔵とは味禅定名・浄禅・無漏禅なり・慧蔵とは・苦・空・無常・無我の智慧なり、戒定慧の勝劣と云うは但上の戒計りを持つ者は三界の内の欲界の人天に生を受くる凡夫なり、但し上の定計りを修する人は戒を持たざれども定の力に依つて上の戒を具するなり、此の定の内に味禅・浄禅は三界の内・色無色界へ生ず無漏禅は声聞・縁覚と成つて見思を断じ尽し灰身滅智(けしんめっち)するなり、慧は又苦・空・無常・無我と我が色心を観ずれば上の戒・定を自然に具足して声聞・縁覚とも成るなり、故に戒より定は勝れ定より慧は勝れたり、而れども此の三蔵教の意は戒が本体にてあるなり、されば阿含経を総結する遺教経には戒を説けるなり、此の教の意は依報には六界・正報には十界を明せども而も依報に随つて六界を明す経と名くるなり、又正報に十界を明せども縁覚・菩薩・仏も声聞の悟に過ぎざれば但声聞教とも申す、されば仏も菩薩も縁覚も灰身滅智する教なり、声聞に付いて七賢七聖の位あり、六道は凡夫なり。

        一に五停心(ごじょうしん)
    三賢   二に別想念処 外凡
        三に総想念処
七賢 智と言う事なり
        一に煗法(なんぽう)
    四善根 二に頂法 内凡
        三に忍法
四に世第一法
此の七賢の位は六道の凡夫より賢く生死を厭ひ煩悩を具しながら煩悩を発さざる賢人なり、例せば外典の許由巣父(きょゆ・そうふ)が如し。

     一に数息(しゅそく) 息を数えて散乱を治す
     二に不浄 身の不浄を観じて貪欲を治す
五停心   三に慈悲 慈悲を観じて嫉妬を治す
      四に因縁 十二因縁を観じて愚癡を治す
     五に界方便 地水火風空識の六界を観じて障道を治す又は念仏と云う
     一に身 外道は身を浄と言い仏は不浄と説き給う
別想念処  二に受 外道は三界を楽と言い仏は苦と説き給う
     三に心 外道は心を常と言い仏は無常と説き給う
     四に法 外道は一切衆生に我(が)有りと云い仏は無我と説き給う

外道は常仏は苦・不浄・無常・無我と説く総想念処とは先の苦・不浄・無常・無我を調練して観ずるなり煗(なん)法は智慧の火・煩悩の薪を蒸せば煙の立つなり故に法と云う、頂法は山の頂に登つて四方を見るに雲無きが如し、世間出世間の因果の道理を委く知つて闇き事無きに譬えたるなり、始め五停心より此の頂法に至るまで退位と申して悪縁に値へば悪道に堕つ而れども此の頂法の善根は失せずと習うなり、忍法は此の位に入る人は永く悪道に堕ちず、世第一法は此の位に至る賢人なり但今聖人と成る可きなり。
七聖三 正と言う事なり

一に見道 二 随信行 鈍根
      随法行 利根
      信解 鈍根
二に修道 三 見得 利根
      身証 利鈍に亘る
三に無学道二 阿羅漢
       慧解脱 鈍根
      倶解脱 利根
 
 見・思の煩悩を断ずる者を聖と云う、此の聖人に三道あり、見道とは見・思の内の見惑を断じ尽くす、此の見惑を尽くす人をば初果の聖者と申す、此の人は欲界の人・天には生るれども永く地・餓・畜・修の四悪趣には堕ちず、天台云く「見惑を破るが故に四悪趣を離る」文、此の人は未だ思惑を断ぜず貪・瞋・癡・有り、身に貪欲ある故に妻を帯す、而れども他人の妻を犯さず、瞋恚あれども物を殺さず、鋤(すき)を以て地をすけば虫・自然に四寸去る、愚癡なる故に我が身・初果の聖者と知らず、婆娑論に云く「初果の聖者は妻を八十一度・一夜に犯すと」取意、天台の解釈に云く「初果地を耕すに虫四寸を離るるは道共の力なり」と、第四果の聖者・阿羅漢を無学と云ひ亦は不生と云う、

永く見思を断じ尽して三界六道に此の生の尽きて後生ずべからず見思の煩悩無きが故なり、又此の教の意は三界六道より外に処を明さざれば生処有りと知らず・身に煩悩有りとも知らず又生因なく但灰身滅智と申して身も心もうせ虚空の如く成るべしと習う、法華経にあらずば永く仏になるべからずと云うは二乗是なり、此の教の修行の時節は声聞は三生鈍根六十劫利根又一類の最上利根の声聞一生の内に阿羅漢の位に登る事あり、縁覚は四生鈍根百劫利根菩薩は一向凡夫にて見思を断ぜず而も四弘誓願を発し六度万行を修し三僧祇・百大劫を経て三蔵教の仏と成る、仏と成る時始めて見思を断尽するなり、見惑とは一には身見亦我見と云う二には辺見亦断見常見と云う三には邪見亦撥無見と云う四には見取見亦劣謂勝見と云う五には戒禁取見亦非因計因非道計道見と云うなり見惑は八十八有れども此の五が根本にて有るなり、思惑とは一には貪・二には瞋(じん)・三には癡(ち)・四には慢なり思惑は八十一有れども此の四が根本にて有るなり、此の法門は阿含経四十巻・婆沙論二百巻・正理論・顕宗論・倶舎論に具に明せり、別して倶舎宗と申す宗有り又諸の大乗に此の法門少少明す事あり・謂く方等部の経・涅槃経等なり但し華厳・般若・法華には此の法門無し。

次に通教とは大乗の始なり又戒定慧の三学あり、此の教の意のおきて大旨は六道を出でず少分利根なる菩薩六道より外に推し出すことあり、声聞・縁覚・菩薩・共に一の法門を習い見思を三人共に断じ而も声聞・縁覚・灰身滅智の意に入る者もあり入らざる者もあり、此の教に十地あり。
一 乾慧地 三賢
二 性地 四善根   賢人
三 八人地   見道位聖人見惑を断ず
四 見地  初果の聖人十地
五 薄地
六 離欲地 思惑を断ず
七 已弁地 阿羅漢 見思を断じ尽す
八 辟支仏地 習気を尽す
九 菩薩地 誓つて習を扶けて生ずるなり
十 仏地 見思を断じ尽す

此通教の法門は別して一経に限らず方等経般若経心経観経阿弥陀経雙観(そうかん)経金剛般若等の経に散在せり、此通教の修行の時節は動踰塵劫(どうゆじんこう)を経て仏に成ると習うなり、又一類の疾く成ると云う辺もあり・已上・上の蔵通二教には六道の凡夫・本より仏性ありとも談ぜず始めて修すれば声聞・縁覚・菩薩・仏とおもひおもひに成ると談ずる教なり。
次に別教又戒定慧の三学を談ず此の教は但菩薩計りにて声聞縁覚を雑えず、菩薩戒とは三聚浄戒なり五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒・梵網の五十八の戒・瓔珞の十無尽戒・華厳の十戒・涅槃経の自行の五支戒・護佗の十戒・大論の十戒・是等は皆菩薩の三聚浄戒の内・摂律儀戒なり、摂善法戒とは八万四千の法門を摂す、饒益有情戒(にょうやくうじょうかい)とは四弘誓願なり定とは観練熏修の四種の禅定なり慧とは心生十界の法門なり、五十二位を立つ五十二位とは一に十信・二に十住・三に十行・四に十回向・五に十地等覚一位妙覚二位なり、已上五十二位。

     十信 退位 凡夫菩薩未だ見思を断ぜず
     十住 不退位
五十二位  十行
     十回向 見思塵沙(じんじゃ)を断ぜる菩薩
     十地 無明を断ぜる菩薩
     等覚
     妙覚 無明を断じ尽せる仏なり

此の教は大乗なり戒定慧を明す・戒は前の蔵通二教に似ず尽未来際の戒・金剛宝戒なり、此の教の菩薩は三悪道を恐しとせず二乗道を恐る地・餓・畜等の三悪道は仏の種子を断ぜず二乗の道は仏の種子を断ずればなり、大荘厳論に云く「恒に地獄に処すと雖も大菩提を障えず若し自利の心を起さば是れ大菩提の障なり」と、此の教の習は真の悪道とは三無為の火阬(かきょう)なり真の悪人とは二乗を云うなり、されば悪を造るとも二乗の戒をば持たじと談ず、故に大般若経に云く「若し菩薩設い恒河沙劫に妙なる五欲を受くるとも菩薩戒に於ては猶犯と名けずと・若し一念二乗の心を起さば即ち名けて犯と為す」文、此の文に妙なる五欲とは色・声・香・味・触の五欲なり・色欲とは青黛(しょうたい)・珂雪(かせつ)・白歯(びゃくし)等声欲とは絲竹管絃(しちくかんげん)・香欲とは沈檀芳薫・味欲とは猪鹿等の味・触欲とは輭膚(なんぷ)等なり、此に恒河沙劫に著すれども菩薩戒は破れず一念の二乗の心を起すに菩薩戒は破ると云える文なり、太賢の古迹(こしゃく)に云く「貪に汚さるると雖も大心尽きざるをもつて無余の犯無し起せども無犯と名く」文、二乗戒に趣くを菩薩の破戒とは申すなり華厳・般若・方等総じて爾前の経にはあながちに二乗をきらうなり定慧此れを略す、梵網経に云く「戒をば謂いて大地と為し定をば謂いて室宅と為す智慧は為灯明なり」文、此の菩薩戒は人・畜・黄門・二形の四種を嫌わず但一種の菩薩戒を授く、此の教の意は五十二位を一一の位に多倶低劫を経て衆生界を尽して仏に成るべし一人として一生に仏に成る者無し、又一行を以て仏に成る事無し一切行を積んで仏と成る微塵を積んで須弥山と成すが如し、華厳・方等・般若・梵網・瓔珞等の経に此の旨分明なり、但し二乗界の此の戒を受くる事を嫌ふ、妙楽の釈に云く「徧(あまね)く法華已前の諸経を尋ぬるに実に二乗作仏の文無し」文。

次に円教とは此の円教に二有り一には爾前の円・二には法華・涅槃の円なり、爾前の円に五十二位・又戒定慧あり、爾前の円とは華厳経の法界唯心の法門・文に云く「初発心の時便ち正覚を成ずと」又云く「円満修多羅」文、浄名経に云く「無我無造にして受者無けれども善悪の業敗亡せず」文、般若経に云く「初発心より即ち道場に坐す」文、観経に云く「韋提希(いだいけ)時に応じて即ち無生法忍を得」文、梵網経に云く「衆生仏戒を受くれば位大覚に同じ即ち諸仏の位に入り真に是れ諸仏の子なり」文、此は皆爾前の円の証文なり、此の教の意は又五十二位を明す名は別教の五十二位の如し但し義はかはれり、其の故は五十二位が互に具して浅深も無く勝劣も無し、凡夫も位を経ずとも仏にも成り又往生するなり、煩悩も断ぜざれども仏に成る障り無く一善一戒を以ても仏に成る少少開会の法門を説く処もあり、所謂浄名経には凡夫を会(え)し煩悩悪法も皆会す但し二乗を会せず、般若経の中には二乗の所学の法門をば開会して二乗の人と悪人をば開会せず、観経等の経に凡夫一毫の煩悩をも断ぜず往生すと説くは皆爾前の円教の意なり、法華経の円経は後に至つて書く可し已上四教。

次に五時、五時とは一には華厳経結経梵網経別円二教を説く、二には阿含結経遺教経但三蔵教の小乗の法門を説く、三には方等経・宝積経・観経等の説時を知らざる権大乗経なり結経瓔珞経、但し蔵・通・別・円の四教を皆説く、四には般若経結経仁王経通教・別教・円教の後三教を説く三蔵教を説かず、華厳経は三七日の間の説・阿含経は十二年の説・方等・般若は三十年の説、已上華厳より般若に至る四十二年なり、山門の義には方等は説時定まらず説処定まらず般若経三十年と申す、寺門の義には方等十六年・般若十四年と申す、秘蔵の大事の義には方等般若は説時三十年・但し方等は前・般若は後と申すなり、仏は十九出家・三十成道と定むる事は大論に見えたり、一代聖教五十年と申す事は涅槃経に見えたり、法華経已前・四十二年と申す事は無量義経に見えたり、法華経・八箇年と申す事は涅槃経の五十年の文と無量義経の四十二年の文の間を勘うれば八箇年なり、已上十九出家・三十成道・五十年の転法輪・八十入滅と定む可し、此等の四十二年の説教は皆法華経の汲引(きゅういん)の方便なり、其の故は無量義経に云く「我先に道場菩提樹下に端坐すること六年、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたら・さんみゃくさんぼだい)を成ずることを得たり○方便力を以てす、四十余年には未だ真実を顕さず初に四諦を説き阿含経なり次に方等十二部経摩訶般若華厳海空を説く」文。

私に云く説の次第に順ずれば華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃なり、法門の浅深の次第を列ぬれば阿含・方等・般若・華厳・涅槃・法華と列ぬべし、されば法華経・涅槃経には爾くの如く見えたり、華厳宗と申す宗は智厳法師・法蔵法師・澄観法師等の人師・華厳経に依つて立てたり、倶舎宗・成実宗・律宗は宝法師・光法師・道宣等の人師・阿含経に依つて立てたり、法相宗と申す宗は玄奘三蔵・慈恩法師等・方等部の内に上生経・下生経・成仏経・解深密経・瑜伽(ゆが)論・唯識論等の経論に依つて立てたり、三論宗と申す宗は般若経・百論・中論・十二門論・大論等の経論に依つて吉蔵大師立て給へり、華厳宗と申すは華厳と法華涅槃は同じく円教と立つ余は皆劣と云うなる可し、法相宗には解深密経と華厳・般若・法華・涅槃は同じ程の経と云う、三論宗とは般若経と華厳・法華・涅槃は同じ程の経なり、

但し法相の依経・諸の小乗経は劣なりと立つ、此等は皆法華已前の諸経に依つて立てたる宗なり、爾前の円を極として立てたる宗どもなり、宗宗の人人の諍(あらそい)は有れども経経に依つて勝劣を判ぜん時はいかにも法華経は勝れたるべきなり、人師の釈を以て勝劣を論ずる事無し。
五には法華経と申すは開経には無量義経一巻法華経八巻・結経には普賢経一巻上の四教・四時の経論を書き挙ぐる事は此の法華経を知らん為なり、法華経の習としては前の諸経を習わずしては永く心を得ること莫(な)きなり、爾前の諸経は一経・一経を習うに又余経を沙汰せざれども苦しからず、故に天台の御釈に云く「若し余経を弘むるには教相を明さざれども義に於て傷むこと無し若し法華を弘むるには教相を明さずんば文義闕(か)くること有り」文、法華経に云く「種種の道を示すと雖も其れ実には仏乗の為なり」文、種種の道と申すは爾前一切の諸経なり仏乗の為とは法華経の為に一切の経を説くと申す文なり。

問う諸経の如きは或は菩薩の為或は人天の為或は声聞・縁覚の為機に随つて法門もかわり益もかわる此の経は何なる人の為ぞや、答う此の経は相伝に有らざれば知り難し、所詮悪人・善人・有智・無智・有戒・無戒・男子・女子・四趣・八部総じて十界の衆生の為なり、所謂悪人は提婆達多(だいばだった)・妙荘厳王・阿闍世(あじゃせ)王、善人は韋提希(いだいけ)等の人天の人・有智は舎利弗・無智は須利槃特(しゅりはんどく)・有戒は声聞・菩薩・無戒は竜・畜なり女人は竜女なり、総じて十界の衆生・円の一法を覚るなり、此の事を知らざる学者・法華経は我等凡夫の為には有らずと申す、仏意恐れ有り、此の経に云く「一切の菩薩の阿耨多羅三藐三菩提は皆此の経に属せり」文、此の文の菩薩とは九界の衆生・善人・悪人・女人・男子・三蔵教の声聞・縁覚・菩薩・通教の三乗・別教の菩薩・爾前の円教の菩薩・皆此の経の力に有らざれば仏に成るまじと申す文なり、又此の経に云く「薬王多く人有りて在家出家の菩薩の道を行ぜんに若し是の法華経を見聞し読誦し書持し供養することを得ること能わずんば当に知るべし是の人は未だ善く菩薩の道を行ぜず、若し是の経典を聞くことを得ること有らば乃(すなわ)ち能く菩薩の道を行ずるなりと」文、此の文は顕然(けんねん)に権教の菩薩の三祇(さんぎ)・百劫・動踰塵劫・無量阿僧祇劫の間の六度万行・四弘誓願は此の経に至らざれば菩薩の行には有らず善根を修したるにも有らずと云う文なり、又菩薩の行無ければ仏にも成らざる事も顕然なり。

天台妙楽の末代の凡夫を勧進する文、文句(もんぐ)に云く「好堅・地に処して牙已に百囲せり頻伽かいこ(蠶)に在つて声衆鳥に勝れたり」文、此の文は法華経の五十展転の第五十の功徳を釈する文なり、仏苦に校量を説き給うに権教の多劫の修行・又大聖の功徳よりも此の経の須臾・結縁の愚人の随喜の功徳百千万億勝れたる事経に見えつれば此の意を大師譬を以て顕し給えり、好堅樹と申す木は一日に百囲にて高くをう、頻伽と申す鳥は幼だも諸の大小の鳥の声に勝れたり、権教の修行の久きに諸の草木の遅く生長するを譬へ、法華の行の速に仏に成る事を一日に百囲なるに譬へ、権教の大小の聖人をば諸鳥に譬へ法華の凡夫のはかなきをかいこの声の衆鳥に勝るるに譬う、妙楽大師重ねて釈して云く「恐らくば人謬(あやま)りて解せる者初心の功徳の大なることを測らずして功を上位に推り此の初心を蔑(あなず)る故に今彼の行浅く功深きことを示して以て経力を顕す」文、末代の愚者は法華経は深理にして・いみじけれども我等が下機に叶わずと言つて法を挙げ機を下して退する者を釈する文なり。

又妙楽大師末代に此の法の捨てられん事を歎いて云く「此の円頓を聞きて崇重せざる者は良(まこと)に近代に大乗を習える者の雑濫(ぞうらん)するに由るが故なり、況や像末に情澆(うす)く信心寡薄(かはく)に円頓の教法・蔵に溢れ函(はこ)に盈(みつ)れども暫くも思惟(しい)せず便(すなわ)ち目を瞑(ふざ)ぐに至る・徒(いたずら)に生じ徒に死す一に何ぞ痛ましきや有る人云く聞いて行ぜずんば汝に於て何ぞ預らん此れは未だ深く久遠(くおん)の益を知らず、善住天子経の如き文殊舎利弗に告ぐ法を聞き謗を生じて地獄に堕つるは恒沙の仏を供養する者に勝れたり地獄に堕つと雖も地獄より出でて還つて法を聞くことを得ると、此れは仏を供し法を聞かざる者を以て校量と為(せ)り、聞いて謗を生ずる尚遠種と為す況や聞いて思惟し勤めて修習せんをや」と、又云く「一句も神(たましい)に染ぬれば咸(ことごと)く彼岸を資(たす)く、思惟修習永く舟航に用いたり随喜見聞恒に主伴と為る、若は取・若は捨・耳に経て縁と成り或は順・或は違・終に斯(こ)れに因つて脱すと」文、私に云く若取・若捨・或順・或違の文は肝に銘ずるなり。

法華翻経の後記に云く釈僧肇記「什羅什三蔵なり姚興(ようこう)王に対して曰く予昔天竺国に在りし時徧(あまね)く五竺に遊びて大乗を尋討し大師須梨耶蘇摩(しゅりやそま)に従つて理味を餐受(さんじゅ)するに頂を摩でて此の経を属累して言く、仏日西に隠れ遺光東北を照らす玆(こ)の典東北諸国に有縁(うえん)なり汝慎んで伝弘せよ」と文、私に云く天竺よりは此の日本は東北の州なり、慧心の一乗要決に云く「日本一州・円機純熟・朝野遠近・同じく一乗に帰し緇素貴賤(しそきせん)悉く成仏を期す・唯一師等あつて若し信受せず権とや為(せ)ん実とや為ん権為(な)らば責む可し」浄名に云く「衆の魔事を覚知して其行に随わず善力方便を以て意に随つて度すと、実(まこと)為らば憐む可し」此経に云く「当来世の悪人は仏説の一乗を聞いて迷惑して信受せず法を破して悪道に堕つ」文。

妙法蓮華経・妙は天台玄義に云く「言う所の妙とは妙は不可思議に名くるなり」と、又云く「秘密の奥蔵(おうぞう)を発(ひら)く之を称して妙と為す」と、又云く「妙とは最勝・修多羅・甘露の門なり故に妙と言うなり」と、法は玄義に云く「言う所の法とは十界十如・権実の法なり」、又云く「権実の正軌を示す故に号して法と為す」と、蓮華は玄義に云く「蓮華とは権実の法に譬うるなり」、又云く「久遠の本果を指す之を喩うるに蓮を以てし不二の円道に会す之を譬うるに華を以てす」文、経は又云く「声仏事を為す之を称して経と為す」文、私に云く法華以前の諸経に小乗は心生ずれば六界・心滅すれば四界なり、通教以て是くの如し、爾前の別円の二教は心生の十界なり小乗の意は六道四生の苦楽は衆生の心より生ずと習うなりされば心滅すれば六道の因果は無きなり、大乗の心は心より十界を生ず、華厳経に云く「心は工(たくみ)なる画師(えし)の如く種種の五陰を造る一切世界の中に法として造らざること無し」文、造種種五陰とは十界の五陰なり仏界をも心法をも造ると習う・心が過去・現在・未来の十方の仏と顕ると習うなり、華厳経に云く「若し人三世一切の仏を了知せんと欲せば当に是くの如く観すべし心は諸の如来を造ると」法華已前の経のおきては上品の十悪は地獄の引業・中品の十悪は餓鬼の引業・下品の十悪は畜生の引業・五常は修羅の引業・三帰・五戒は人の引業・三帰・十善は六欲天の引業なり、有漏の坐禅は色界・無色界の引業・五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒・五百戒の上に苦・空・無常・無我の観は声聞・縁覚の引業・五戒・八戒・乃至三聚浄戒の上に六度・四弘の菩提心を発すは菩薩なり仏界の引業なり、蔵通二教には仏性の沙汰なし但菩薩の発心を仏性と云う、別円二教には衆生に仏性を論ず但し別教の意は二乗に仏性を論ぜず、爾前の円教は別教に附して二乗の仏性の沙汰無し此等は皆麤法(そほう)なり、今の妙法とは此等の十界を互に具すと説く時・妙法と申す、十界互具と申す事は十界の内に一界に余の九界を具し十界互に具すれば百法界なり、玄の二に云く「又一法界に九法界を具すれば即ち百法界有り」文、法華経とは別の事無し十界の因果は爾前の経に明す、今は十界の因果互具をおきてたる計りなり、爾前の経意は菩薩をば仏に成るべし声聞は仏に成るまじなんど説けば菩薩は悦び声聞はなげき人天等はおもひもかけずなんとある経もあり、或は二乗は見思を断じて六道を出でんと念い菩薩はわざと煩悩を断ぜず六道に生れて衆生を利益せんと念ふ、或は菩薩の頓悟成仏を見・或は菩薩の多倶低劫(たぐていこう)の修行を見・或は凡夫往生の旨を説けば菩薩声聞の為には有らずと見て人の不成仏は我が不成仏、人の成仏は我が成仏・凡夫の往生は我が往生・聖人の見思断は我等凡夫の見思断とも知らず四十二年をば過ぎしなり。

然るに今経にして十界互具を談ずる時・声聞の自調自度の身に菩薩界を具すれば六度万行も修せず多倶低劫も経ぬ声聞が諸の菩薩のからくして修したりし無量無辺の難行道が声聞に具する間をもはざる外に声聞が菩薩と云われ人をせむる獄卒・慳貪(けんどん)なる凡夫も亦菩薩と云はる、仏も又因位に居して菩薩界に摂せられ妙覚ながら等覚なり、薬草喩品に声聞を説いて云く「汝等が所行は是れ菩薩の道なり」と、又我等六度をも行ぜざるが六度満足の菩薩なる文・経に云く「未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も六波羅蜜自然に在前しなん」と、我等一戒をも受けざるが持戒の者と云わるる文・経に云く「是則ち勇猛なり是則ち精進なり是を戒を持ち頭陀(ずだ)を行ずる者と名く」文。

問うて云く諸経にも悪人が仏に成る、華厳経の調達(ちょうだつ)の授記・普超経の闍(じゃ)王の授記・大集経の婆籔(ばそ)天子の授記・又女人が仏に成る胎経の釈女の成仏・畜生が仏に成る阿含経の鴿雀(こうじゃく)の授記・二乗が仏に成る方等だらに経・首楞厳(しゅりょうごん)経等なり、菩薩の成仏は華厳経等・具縛(ぐばく)の凡夫の往生は観経の下品下生等・女人の女身を転ずるは雙観経の四十八願の中の三十五の願・此等は法華経の二乗・竜女・提婆菩薩の授記に何なるかわりめかある、又設いかわりめはありとも諸経にても成仏はうたがひなし如何、答う予の習い伝うる処の法門・此の答に顕るべし此の答に法華経の諸経に超過し又諸経の成仏を許し許さぬは聞うべし秘蔵の故に顕露(あらわ)に書(しる)さず。

問うて曰く妙法を一念三千と言う事如何、答う天台大師・此の法門を覚り給うて後・玄義十巻・文句十巻・覚意三昧・小止観・浄名疏・四念処・次第禅門等の多くの法門を説き給いしかども此の一念三千をば談義し給はず、但十界・百界・千如の法門ばかりにておはしませしなり、御年五十七の夏四月の比荊州(ころ・けいしゅう)の玉泉寺と申す処にて御弟子・章安大師と申す人に説ききかせ給いし止観十巻あり、上の四帖に猶をしみ給いて但六即・四種三昧等・計(ばかり)の法門にてありしに五の巻より十境・十乗を立てて一念三千の法門を書き給へり、此れを妙楽大師末代の人に勧進(かんじん)して言(のたまわ)く「並に三千を以て指南と為す○請うらくは尋ね読まん者心に異縁無かれ」文、六十巻・三千丁の多くの法門も由無し但此の初の二三行を意得可きなり、止観の五に云く「夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界には即ち三千種の世間を具す此の三千一念の心に在り」文、妙楽承け釈して云く「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称て一身一念法界に徧(あま)ねし」文、日本の伝教大師比叡山建立の時・根本中堂の地を引き給いし時・地中より舌八つある鑰(かぎ)を引き出したり、此の鑰を以て入唐の時に天台大師より第七代・妙楽大師の御弟子・道邃(どうずい)和尚に値い奉りて天台の法門を伝へ給いし時、天機秀発の人たりし間・道邃和尚悦んで天台の造り給へる十五の経蔵を開き見せしめ給いしに十四を開いて一の蔵を開かず、其時伝教大師云く師此の一蔵を開き給えと請い給いしに邃和尚云く「此の一蔵は開く可き鑰無し天台大師自ら出世して開き給う可し」と云云其の時伝教大師日本より随身の鑰を以て開き給いしに此の経蔵開けたりしかば経蔵の内より光・室に満ちたりき、其の光の本を尋ぬれば此の一念三千の文より光を放ちたりしなりありがたき事なり、其の時・邃和尚は返つて伝教大師を礼拝し給いき、天台大師の後身と云云、依つて天台の経蔵の所釈は遺り無く日本に亘りしなり、天台大師の御自筆の観音経・章安大師の自筆の止観・今比叡山の根本中堂に収めたり。

    一 自性 自力 迦毘羅(かぴら)外道
    二 他性 他力 漚楼僧伽(うるそうぎゃ)外道
四性計  三 共性 共力 勒娑婆(ろくしゃば)外道
    四 無因性 無因力 自然(じねん)外道

外道に三人あり、一には仏法外の外道九十五種の外道・二に附仏法成の外道小乗・三には学仏法の外道妙法を知らざる大乗の外道なり。今の法華経は自力も定めて自力にあらず十界の一切衆生を具する自なる故に我が身に本より自の仏界・一切衆生の他の仏界・我が身に具せり、されば今仏に成るに新仏にあらず又他力も定めて他力に非ず他仏も我等凡夫の自具なるが故に又他仏が我等が如く自に現同するなり、共と無因は略す。

法華経已前の諸経は十界互具を明さざれば仏に成らんと願うには必ず九界を厭う九界を仏界に具せざるが故なり、されば必ず悪を滅し煩悩を断じて仏には成ると談ず凡夫の身を仏に具すと云わざるが故に、されば人天悪人の身を失いて仏に成ると申す、此れをば妙楽大師は厭離断九(おんりだんく)の仏と名くされば爾前の経の人人は仏の九界の形を現ずるをば但仏の不思議の神変と思ひ仏の身に九界が本よりありて現ずるとは言わず、されば実を以てさぐり給うに法華経已前には但権者の仏のみ有つて実の凡夫が仏に成りたりける事は無きなり、煩悩を断じ九界を厭うて仏に成らんと願うは実には九界を離れたる仏無き故に往生したる実の凡夫も無し、人界を離れたる菩薩界も無き故に但法華経の仏の爾前にして十界の形を現して所化とも能化とも悪人とも善人とも外道とも言われしなり、実の悪人・善人・外道・凡夫は方便の権を行じて真実の教とうち思いなして・すぎし程に法華経に来つて方便にてありけり、実には見思無明も断ぜざりけり往生もせざりけりなんと覚知するなり、一念三千は別に委く書す可し。

此の経には二妙あり釈に云く「此の経は唯二妙を論ず」と一には相待妙・二には絶待妙なり、相待妙の意は前の四時の一代聖教に法華経を対して爾前と之を嫌い、爾前をば当分と言い法華を跨節(かせつ)と申す、絶待妙の意は一代聖教は即ち法華経なりと開会す、又法華経に二事あり一には所開・二には能開なり開示悟入の文・或は皆已成仏道等の文、一部・八巻・二十八品・六万九千三百八十四字・一一の字の下に皆妙の文字あるべしこれ能開の妙なり、此の法華経は知らずして習い談ずる者は但爾前の経の利益なり、阿含経・開会の文は経に云く「我が此の九部の法は衆生に随順して説く大乗に入るに為(これ)本なり」と云云、華厳経・開会の文は一切世間・天人及び阿修羅は皆謂(おも)えり今の釈迦牟尼仏等の文、般若経・開会の文は安楽行品の十八空の文、観経等の往生安楽・開会の文は「此に於て命終して即ち安楽世界に往く」等の文、散善開会の文は「一たび南無仏と称せし皆已に仏道を成じき」の文、一切衆生開会の文は「今此の三界は皆是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」、外典開会の文は「若し俗間経書治世語言資生の業等を説かんも皆正法に順ぜん」文、兜率開会(とそつかいえ)の文・人天所開会の文しげきゆへにいださず。

此の経を意得ざる人は経の文に此の経を読んで人天に生ずと説く文を見・或は兜率・忉利(とうり)なんどにいたる文を見・或は安養に生ずる文を見て穢土(えど)に於て法華経を行ぜば経はいみじけれども行者不退の地に至らざれば穢土にして流転し久しく五十六億七千万歳の晨(あかつき)を期し或は人畜等に生れて隔生(きゃくしょう)する間・自(みずから)の苦しみ限り無しなんと云云或は自力の修行なり難行道なり等云云、此れは恐らくは爾前法華の二途を知らずして自ら癡闇(ちあん)に迷うのみに非ず一切衆生の仏眼を閉ずる人なり、兜率を勧めたる事は小乗経に多し少しは大乗経にも勧めたり西方を勧めたる事は大乗経に多し此等は皆・所開の文なり、法華経の意は兜率に即して十方仏土中・西方に即して十方仏土中・人天に即して十方仏土中と云云、

法華経は悪人に対しては十界の悪を説くは悪人・五眼を具しなんどすれば悪人のきわまりを救い、女人に即して十界を談ずれば十界皆・女人なる事を談ず、何にも法華円実の菩提心を発さん人は迷の九界へ業力に引かるる事無きなり。

此の意を存じ給いけるやらん法然上人も一向念仏の行者ながら選択(せんちゃく)と申す文には雑行(ぞうぎょう)・難行道には法華経・大日経等をば除かれたる処もあり委く見よ又慧心の往生要集にも法華経を除きたり、たとい法然上人・慧心・法華経を雑行・難行道として末代の機に叶わずと書き給うとも日蓮は全くもちゆべからず、一代聖教のおきてに違(たが)い三世十方の仏陀の誠言に違する故に・いわうや・そのぎなし、而るに後の人の消息に法華経を難行道・経はいみじけれども末代の機に叶わず謗(そし)らばこそ罪にてもあらめ、浄土に至つて法華経をば覚るべしと云云、日蓮が心は何にも此の事はひが事と覚ゆるなり、かう申すもひが事にや有らん、能く能く智人に習う可し。

正嘉二年二月十四日 日蓮撰




by johsei1129 | 2016-05-13 21:58 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)