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日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 05月 11日 ( 4 )


2016年 05月 11日

法華経の行者は如説修行せば必ず一生の中に一人も残らず成仏す可し、と説いた【一念三千法門】

【一念三千法門】
■出筆時期:正嘉二年(1258) 三十七歳御作
■出筆場所:駿河国・岩本実相寺にてと思われます。
■出筆の経緯:大聖人は正嘉二年二月、駿河国・岩本実相寺に入り大蔵経(釈尊の一切経)を読まれ二年後に立正安国論として結実し北条時頼(最明寺入道)に献じ国家諌暁を果たします。また合わせて法華経の法門を初心の弟子・信徒の教化のため数多く述作されておられます。本書もその一つで、法華経方便品第二でとかれた「一念三千」を末法の法華経の行者の立場でわかりやすく講説されておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

【一念三千法門 本文】
法華経の余経に勝れたる事何事ぞ此の経に一心三観・一念三千と云う事あり、薬王菩薩・漢土に出世して天台大師と云われ此の法門を覚り給いしかども、先ず玄義十巻・文句十巻・覚意三昧・小止観・浄名疏・四念処・次第禅門等の多くの法門を説きしかども、此の一念三千の法門をば談じ給はず百界千如の法門計りなり。

 御年五十七の夏四月の比・刑州玉泉寺と申す処にて御弟子章安大師に教え給ふ止観と申す文十巻あり、上四帖に猶秘し給いて但六即・四種三昧等計りなり、五の巻に至つて十境・十乗・一念三千の法門を立て、夫れ一心に具す等と云云。是より二百年後に妙楽大師釈して云く「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称(かなう)て一身一念法界に遍(あまね)し」と云云。
 
 此の一念三千一心三観の法門は法華経の一の巻の十如是より起れり、文の心は百界千如三千世間云云、さて一心三観と申すは余宗は如是とあそばす、是れ僻事(ひがごと)にて二義かけたり天台南岳の御義を知らざる故なり。

 されば当宗には天台の所釈の如く三遍読に功徳まさる、第一に是相如と相性体力以下の十を如と云ふ、如と云うは空の義なるが故に十法界・皆空諦なり、是を読み観ずる時は我が身即・報身如来なり、八万四千又は般若とも申す、第二に如是相・是れ我が身の色形顕れたる相なり、是れ皆仮なり、相性体力以下の十なれば十法界・皆仮諦と申して仮の義なり、是を読み観ずる時は我が身即・応身如来なり、又は解脱とも申す、第三に相如是と云うは中道と申して、仏の法身の形なり。
 是を読み観ずる時は我が身即法身如来なり、又は中道とも法性とも涅槃とも寂滅とも申す。
 
 此の三を法報応の三身とも、空仮中の三諦とも法身・般若・解脱の三徳とも申す、此の三身如来全く外になし、我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり。是をしるを如来とも聖人とも悟とも云う、知らざるを凡夫とも衆生とも迷とも申す。

十界の衆生・各互(かくぐ)に十界を具足す合すれば百界なり、百界に各各十如を具すれば千如なり、此の千如是に衆生世間・国土世間・五陰世間を具すれば三千なり、百界と顕れたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦の一なり、千如は総て空の義なれば空諦の一なり、三千世間は総じて法身の義なれば中道の一なり。
 法門多しと雖も但三諦なり此の三諦を三身如来とも三徳究竟(くきょう)とも申すなり、始の三如是は本覚の如来なり、終の七如是と一体にして無二無別なれば本末究竟等とは申すなり。

 本と申すは仏性・末と申すは未顕の仏・九界の名なり、究竟等と申すは妙覚究竟の如来と理即の凡夫なる我等と差別無きを究竟等とも平等大慧の法華経とも申すなり。
 始の三如是は本覚の如来なり、本覚の如来を悟り出し給へる妙覚の仏なれば我等は妙覚の父母なり、仏は我等が所生の子なり。

止の一に云く「止は則仏の母・観は即仏の父なり」と云云、譬えば人十人あらんずるが面面に蔵蔵に宝をつみ我が蔵に宝のある事を知らずかつへ死しこごへ死す、或は一人此の中にかしこき人ありて悟り出すが如し九人は終に知らず、然るに或は教えられて食し或はくくめられて食するが如し、弘の一の止観の二字は正しく聞体を示す聞かざる者は本末究竟等も徒(いたず)らか、子なれども親にまさる事多し重華(ちょうか)はかたくなはしき父を敬いて賢人の名を得たり、沛公は帝王と成つて後も其の父を拝す其の敬われし父をば全く王といはず敬いし子をば王と仰ぐが如し、其れ仏は子なれども賢くましまして悟り出し給へり、凡夫は親なれども愚癡にして未だ悟らず委しき義を知らざる人毘盧(びる)の頂上をふむなんど悪口す大なる僻事なり。

一心三観に付いて次第の三観・不次第の三観と云う事あり委く申すに及ばず候、此の三観を心得すまし成就したる処を華厳経に三界唯一心と云云、天台は諸水入海とのぶ、仏と我等と総て一切衆生・理性一にて・へだてなきを平等大慧と云うなり、平等と書いては・おしなべて・と読む、此の一心三観・一念三千の法門・諸経にたえて之無し法華経に遇わざれば争か成仏す可きや、余経には六界八界より十界を明せどもさらに具を明かさず、法華経は念念に一心三観・一念三千の謂を観ずれば我が身本覚の如来なること悟り出され無明の雲晴れて法性の月明かに妄想の夢醒て本覚の月輪いさぎよく父母所生の肉身・煩悩具縛(ぐばく)の身・即本有常住の如来となるべし、此を即身成仏とも煩悩即菩提とも生死即涅槃とも申す、此の時法界を照し見れば悉く中道の一理にて仏も衆生も一なり、されば天台の所釈に「一色一香中道に非ざること無し」と釈し給へり、此の時は十方世界皆寂光浄土にて何れの処をか弥陀薬師等の浄土とは云わん、是を以て法華経に「是の法は法位に住して世間の相常住なり」と説き給ふさては経をよまずとも心地の観念計りにて成仏す可きかと思いたれば一念三千の観念も一心三観の観法も妙法蓮華経の五字に納れり、妙法蓮華経の五字は又我等が一心に納りて候けり、天台の所釈に「此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵・三世の如来の証得したもう所なり」と釈したり、さて此の妙法蓮華経を唱うる時心中の本覚の仏顕る、我等が身と心をば蔵に譬へ妙の一字を印に譬へたり、天台の御釈に「秘密の奥蔵(おうぞう)を発(ひら)く之を称して妙と為す・権実の正軌を示す故に号して法と為す、久遠の本果を指す之を喩うるに蓮を以てす、不二の円道に会す之を譬うるに華を以てす、声仏事を為す之を称して経と為す」と釈し給う、又「妙とは不可思議の法を褒美するなり又妙とは十界・十如・権実の法なり」と云云、経の題目を唱うると観念と一なる事心得がたしと愚癡の人は思い給ふべし、されども天台止の二に而於説黙と云へり、説とは経・黙とは観念なり、又四教義の一に云く「但功の唐捐(とうえん)ならざるのみに非ず亦能く理に契(あ)うの要なるをや」と云云、天台大師と申すは薬王菩薩なり此の大師の説而観而と釈し給ふ、元より天台の所釈に因縁・約教・本迹・観心の四種の御釈あり四種の重を知らずして一しなを見たる人一向本迹をむねとし一向観心を面とす、法華経に法(ほ)・譬(ぴ)・因縁と云う事あり法説の段に至つて諸仏出世の本懐・一切衆生・成仏の直道と定む、我のみならず一切衆生・直至道場の因縁なりと定め給いしは題目なり、されば天台玄の一に「衆善の小行を会して広大の一乗に帰す」と広大と申すは残らず引導し給うを申すなり、仮使(たとい)釈尊一人・本懐と宣べ給うとも等覚以下は仰いで此の経を信ず可し況や諸仏出世の本懐なり、禅宗は観心を本懐と仰ぐとあれども其は四種の一面なり、一念三千・一心三観等の観心計りが法華経の肝心なるべくば題目に十如是を置くべき処に題目に妙法蓮華経と置かれたる上は子細に及ばず、又当世の禅宗は教外別伝と云い給うかと思へば又捨られたる円覚経等の文を引かるる上は実経の文に於て御綺(おいろえ)に及ぶべからず候、智者は読誦に観念をも並ぶべし愚者は題目計りを唱ふとも此の理に会う可し、此の妙法蓮華経とは我等が心性・総じては一切衆生の心性・八葉の白蓮華の名なり是を教え給ふ仏の御詞なり。

無始より以来我が身中の心性に迷て生死を流転せし身今此の経に値ひ奉つて三身即一の本覚の如来を唱うるに顕れて現世に其内証成仏するを即身成仏と申す、死すれば光を放つ是れ外用の成仏と申す来世得作仏とは是なり、略挙経題(りゃっこきょうだい)・玄収一部とて一遍は一部云云、妙法蓮華経と唱うる時・心性の如来顕る、耳にふれし類は無量阿僧祇劫の罪を滅す一念も随喜する時即身成仏す縦ひ信ぜざれども種と成り熟と成り必ず之に依て成仏す、妙楽大師の云く「若は取若は捨・耳に経て縁と成る、或いは順或いは違、終(つ)いに斯れに因つて脱す」と云云、日蓮云く若取若捨或順或違の文肝に銘ずる詞なり法華経に若有聞法者等と説れたるは是か、既に聞く者と説れたり観念計りにて成仏すべくば若有観法者と説かるべし、只天台の御料簡に十如是と云うは十界なり此の十界は一念より事起り十界の衆生は出来たりけり、此の十如是と云は妙法蓮華経にて有けり此の娑婆世界は耳根得道の国なり以前に申す如く当知身土と云云、一切衆生の身に百界千如・三千世間を納むる謂(いわれ)を明(あかす)が故に是を耳に触るる一切衆生は功徳を得る衆生なり、一切衆生と申すは草木瓦礫も一切衆生の内なるか、有情非情、抑(そもそも)草木は何ぞ、金錍論(こんぺいろん)に云く「一草一木・一礫(りゃく)一塵(じん)・各一仏性・各一因果・具足縁了」等と云云、法師品の始に云く「無量の諸天・竜王・夜叉・乾闥婆(けんだっぱ)・阿修羅・迦楼羅(かるら)・緊那羅(きんなら)・摩睺羅伽(まごらか)・人と非人と及び比丘比丘尼、妙法蓮華経の一偈一句を聞いて乃至一念も随喜せん者は我皆阿耨多羅三藐三菩提の記を与え授く」と云云、非人とは総じて人界の外一切有情界とて心あるものなり況や人界をや。

法華経の行者は如説修行せば必ず一生の中に一人も残らず成仏す可し、譬えば春夏田を作るに早晩(わせおく)あれども一年の中には必ず之を納む、法華の行者も上中下根あれども、必ず一生の中に証得す。
 
 玄の一に云く「上中下根皆記べつ(莂)を与う」と云云、観心計りにて成仏せんと思ふ人は一方かけたる人なり、況や教外別伝の坐禅をや。

 法師品に云く「薬王多く人有て在家出家の菩薩の道を行ぜんに、若し是の法華経を見聞し読誦し書持し供養すること得ること能わずんば、当に知るべし是の人は未だ善く菩薩の道を行ぜず、若し是の経典を聞くこと得ること有らば、乃(すなわ)ち能善(よく)菩薩の道を行ずるなり」と云云。観心計りにて成仏すべくんば、争(いかで)か見聞読誦(けんもんどくじゅ)と云わんや。

 此の経は専ら聞を以て本と為す、凡(そ)此の経は悪人・女人・二乗・闡提(せんだい)を簡(えら)ばず、故に皆成仏道(かいじょうぶつどう)とも云ひ又平等大慧(びょうどうだいえ)とも云う。
 善悪不二・邪正一如と聞く処にやがて内証成仏す、故に即身成仏と申し、一生に証得するが故に一生妙覚と云ふ。
 義を知らざる人なれども唱ふれば、唯仏と仏と悦び給ふ、我即歓喜諸仏亦然(やくねん)云云。百千合せたる薬も口にのまざれば病愈えず、蔵に宝を持ども開く事をしらずしてかつ(飢)へ、懐に薬を持ても飲まん事をしらずして死するが如し。
如意宝珠と云う玉は、五百弟子品の此の経の徳も又此くの如し。観心を並べて読めば申すに及ばず観念せずと雖も始に申しつるごとく、

所謂諸法如是相如云云と読む時は如は空の義なれば我が身の先業にうくる所の相性体力、其の具する所の八十八使の見惑・八十一品の思惑・其の空は報身如来なり、所謂諸法如是相云云とよめば、是れ仮の義なれば我が此の身先業に依つて受けたる相性体力云云其の具したる塵沙(じんじゃ)の惑悉(ことごと)く即身応身如来なり、所謂諸法如是と読む時は是れ中道の義に順じて業に依つて受くる所の相性等云云、其に随いたる無明皆退いて即身法身の如来と心を開く。
此の十如是、三転によまるる
事、三身即一身・一身即三身の義なり、三に分るれども一なり、一に定まれども三なり。






by johsei1129 | 2016-05-11 23:35 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 11日

Gosho 当体義抄 The Entity of the Mystic Law

()()は名無し

Supreme principle [that is the Mystic Law] was originally without a name.

The ultimate truth was originally without a name.

聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果()()・不思議の一法()れ有り之を名けて妙法蓮華と為す

When the sage was observing the principle and assigning names to all things, he perceived that there is this wonderful single Law [myōhō] that simultaneously possesses both cause and effect [renge], and he named it Myoho-renge.

When the sage observed this truth, and was about to give a name to everything, he was awakened to the mystic, single Law that possesses the simultaneity of cause and effect. He named this truth Myoho-Renge.

此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足(ぐそく)して(けつ)(げん)無し

This single Law that is Myoho-renge encompasses within it all the phenomena comprising the Ten Worlds and the three thousand realms, and is lacking in none of them.

This single Law of Myoho-Renge is a complete teaching that encompasses all phenomena within the three thousand realms of the ten worlds.

之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり、

Anyone who practices this Law will obtain both the cause and the effect of Buddhahood simultaneously.

Thus, those who practice the law of Myoho-Renge can obtain both the cause and effect of attaining Buddhahood in the same moment.

聖人此の法を師と為して修行覚道(かくどう)し給えば妙因・妙果・()()に感得し給うが故に妙覚()(まん)の如来と成り給いしなり

The sage practiced with this Law as his teacher and attained enlightenment, and therefore he simultaneously obtained both the mystic cause and the mystic effect of Buddhahood, becoming the Thus Come One of perfect enlightenment and fully realized virtues.

As the sage revered and practiced this Law, he simultaneously received the cause and effect of Myoho-Renge. For this reason, he became the Buddha who is endowed with all the effects and benefits of his practice at the stage of enlightenment.


                         つづく
本文 Original Text  目次 Index



by johsei1129 | 2016-05-11 23:28 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 11日

 如説修行抄筆記 十二  「此の経は相伝に有らざれば知り難し」亦云く「此の法華経は知らずして習い談ずる者は但(ただ)爾前の経の利益なり」云々。


一 問うて云く如説修行等

此の下は如説修行の相を問答するに二あり。初めは総じて権実相対の(こころ)を明かすなり。

是れに二。初めに問、次に答に二。初めに()()を挙げ、次に今師の能判なり云云。総じてとは、今文に「日本国中の諸人」と云い、(また)「総じて一切の諸経」と云うの言、諸宗に(わた)るが故に「総じて明かす」と云うなり。

一 諸乗一仏乗と(かい)()しぬれば(乃至)(せん)(じん)ある事なし

開会の上に(なお)浅深あり。爾前の諸経は所開なり。法華経は能開なり。(すで)に能所不同なり。何ぞ浅深無しと云わんや。

十章抄三十・三十二に云く「法華経は能開・念仏は所開なり乃至(たと)(かい)()をさとれる念仏なりとも(なお)体内の権なり体内の実に及ばず、(いか)(いわん)や当世に開会を心得たる智者も少なくこそをはすらめ」云云。

問う、十六巻四十に云く「法華経は爾前の経を離れず、爾前の経は法華経を離れず、是を妙法と言う、此の(さと)り起りて後は行者・()(ごん)・小乗経を読むとも即ち一切の大乗経を読誦(どくじゅ)し法華経を読む人なり」文。此の文の如くんば開会の後、浅深勝劣無しと見えたり、如何(いかん)

答う、啓蒙二十六・八十三に多義あり。所詮(しょせん)彼の意は開会に於て相待・絶待有り。絶待妙は仏意の内証なり。此の重に入れんが為に相待妙の修行を立てて、()(えら)び妙を取る義なり。今(いわ)く、彼の書は絶待妙を判ず。此の書は相待妙の意なり。絶待妙を以て相待妙を(なん)ずべからず。

問う、若し(しか)らば絶待開会の意に依って爾前経を読むべけんや。

答う、宗祖の御本意、開会の上に於て勝劣を立てたもう事、十章抄等に分明(ふんみょう)なり。一は能開・所開の不同なり。

十八巻・四十三に云く「妙法蓮華経は能開なり南無阿弥陀仏は所開なり」と。

十三巻・二十二に云く「(また)法華経に二事あり一には所開・二には能開」(一代聖教大意)文。

二には権実の不同なり。

三十巻に云く「(たと)い開会をさとれる念仏なりとも(なお)体内の権なり体内の実に及ばず」文。

其の(ほか)体用等の不同あり。既に勝劣有り、何ぞ劣りたる爾前経を読むべきや。

(なお)十六巻の「此の(さと)り起こりて後」と云う「覚」の字の意は、開会を覚悟する義なり。(いわ)く、如何(いか)(よう)に覚るぞならば、十章抄に「開会をさとれる念仏なりとも(なお)体内の権なり」と悟る義なり。故に此れ又勝劣あるの義なり。()し開会の後は権実一体にして一向不同無しと云わば「(おのおの)自ら実と(おも)う」の執情を失わずして、即ち未開会の法にして今師の所破なり。

亦云く「行者・阿含(あごん)・小乗経を読むとも即ち一切の大乗経を読誦(どくじゅ)し法華経を読む人なり」と云う此の読誦し様は、十章抄に「止観一部は法華経の開会の上に建立(こんりゅう)せる文なり、爾前の経経をひき乃至外典を用いて候も爾前・外典の心にはあらず、文をば()れども義をばけづ()()てたるなり乃至諸経を引いて四種を立つれども心は必ず法華経なり」文。此の文に()って之を思え。

法華経の義を成立せんが為に爾前の経文を読む、故に法華の文を読むになるなり。爾前の文義は(とも)に読むに非ず。文は爾前、義意は法華経なり。「爾前は迹門の()()(はん)(もん)と云う(また)「文は爾前に()れども義は法華に在り」(御講聞書)等の意、之を思え。

御書十三・十二に云く「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(一代聖教大意)文。亦云く「此の法華経は知らずして習い談ずる者は(ただ)爾前の経の利益なり」(同)文。

(かい)()の上に於て体内権実の相伝を知らず、開会の後は権実一体の思いをなす者は、爾前経の利益と成るべきなり。是れ権実相対の意なり。之に例するに、開迹(かいしゃく)顕本(けんぽん)の後本迹(ほんじゃく)一体と修行するは、体内本迹の相伝を知らず、開迹顕本の後、本迹一致の思いをなして本門を読むは、爾前・迹門の利益(りやく)なり云云。


              つづく


 本書目次                    日寛上人 文段目次



by johsei1129 | 2016-05-11 22:50 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 11日

日蓮大聖人が禅僧・蓮盛を16の問答で破析した書【蓮盛抄(禅宗問答抄)】

【蓮盛抄】
■出筆時期:建長七年(1255年) 三十四歳御作
■出筆場所:鎌倉 松葉ヶ谷の草庵と思われます。
■出筆の経緯:本抄は立宗二年後に著された書で、当時鎌倉武士に広まっていた禅宗を16の問答形式で破析した書で別名「禅宗問答抄」と称されております。
本抄は「蓮盛」という恐らく禅宗の僧と思われる人物に送られた書で、大聖人は文末で「汝が立義一一大僻見(びゃっけん)なり執情を改めて法華に帰伏す可し、然らずんば豈(あに)無道心に非ずや」と断じられておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

【蓮盛抄 本文】
禅宗云く涅槃の時・世尊座に登り拈華(ねんげ)して衆に示す迦葉・破顔微笑せり、仏の言く吾に正法眼蔵・涅槃の妙心・実相無相・微妙(みみょう)の法門有り文字を立てず教外に別伝し摩訶迦葉(まかかしょう)に付属するのみと、問うて云く何なる経文ぞや、禅宗答えて云く大梵天王問仏決疑経の文なり、問うて云く件(くだん)の経何(いず)れの三蔵の訳ぞや貞元(じょうげん)・開元の録の中に曾つて此の経無し如何、禅宗答えて云く此の経は秘経なり故に文計(ばか)り天竺より之を渡す云云。

問うて云く何れの聖人何れの人師の代に渡りしぞや跡形無きなり此の文は上古の録に載せず中頃より之を載す、此の事禅宗の根源なり尤も古録に載すべし知んぬ偽文なり、

禅宗云く涅槃経の二に云く「我今所有の無上の正法悉く以て摩訶迦葉に付属す」云云 此の文如何、
答えて云く無上の言は大乗に似たりと雖も是れ小乗を指すなり外道の邪法に対すれば小乗をも正法といはん、例せば大法東漸と云えるを妙楽大師解釈の中に「通じて仏教を指す」と云いて大小権実をふさねて大法と云うなり云云、外道に対すれば小乗も大乗と云われ下﨟(げろう)なれども分には殿と云はれ上﨟(じょうろう)と云はるるがごとし、

涅槃経の三に云く「若し法宝を以て阿難及び諸の比丘に付属せば久住を得じ、何を以ての故に一切の声聞及び大迦葉は悉く当に無常なるべし彼の老人の他の寄物を受くるが如し、是の故に応に無上の仏法を以て諸の菩薩に付属すべし諸の菩薩は善能問答するを以て是くの如きの法宝則ち久住することを得・無量千世増益熾盛にして衆生を利安せん彼の壮(さかん)なる人の他の寄物を受くるが如し是の義を以ての故に諸大菩薩乃ち能く問うのみ」云云、大小の付属其れ別なること分明なり、同経の十に云く「汝等文殊当に四衆の為に広く大法を説くべし今此の経法を以て汝に付属す乃至迦葉阿難等も来らば復当に是くの如き正法を付属すべし」云云、故に知んぬ文殊迦葉に大法を付属すべしと云云、仏より付属する処の法は小乗なり悟性論に云く「人心をさとる事あれば菩提の道を得る故に仏と名づく」菩提に五あり何れの菩提ぞや得道又種種なり何れの道ぞや余経に明す所は大菩提にあらず又無上道にあらず経に云く「四十余年未顕真実」云云。

問うて云く法華は貴賤男女何れの菩提の道を得べきや、答えて云く「乃至一偈に於ても皆成仏疑い無し」云云、又云く「正直に方便を捨て但無上道を説く」云云、是に知んぬ無上菩提なり「須臾(しゅゆ)も之を聞いて即ち阿耨菩提を究竟することを得るなり」此の菩提を得ん事須臾も此の法門を聞く功徳なり、問うて云く須臾とは三十須臾を一日一夜と云う「須臾聞之」の須臾は之を指すか如何、答う件の如し天台止観の二に云く「須臾も廃すること無かれ」云云、弘決に云く「暫くも廃することを許さざる故に須臾と云う」故に須臾は刹那なり。

問うて云く本分の田地にもとづくを禅の規模とす、答う本分の田地とは何者ぞや又何れの経に出でたるぞや法華経こそ人天の福田なればむねと人天を教化し給ふ故に仏を天人師と号す此の経を信ずる者は己身の仏を見るのみならず過・現・未の三世の仏を見る事・浄頗梨(じょうはり)に向ふに色像を見るが如し、経に云く「又浄明鏡に悉く諸の色像を見るが如し」云云。
禅宗云く是心即仏・即身是仏と、答えて云く経に云く「心は是れ第一の怨(あだ)なり此の怨最も悪と為す此の怨能く人を縛り送つて閻羅(えんら)の処に到る汝独り地獄に焼かれて悪業の為に養う所の妻子兄弟等・親属も救うこと能わじ」云云、涅槃経に云く「願つて心の師と作つて心を師とせざれ」云云、愚癡無懺(ぐちむざん)の心を以て即心即仏と立つ豈未得謂得・未証謂証の人に非ずや。

問う法華宗の意如何、答う経文に「具三十二相・乃是真実滅」云云、或は「速成就仏身」云云、禅宗は理性の仏を尊んで己れ仏に均しと思ひ増上慢に堕つ定めて是れ阿鼻の罪人なり、故に法華経に云く「増上慢の比丘は将に大坑に墜ちんとす」禅宗云く毘盧の頂上を踏むと、云く毘盧とは何者ぞや若し周遍法界の法身ならば山川・大地も皆是れ毘盧の身土なり是れ理性の毘盧なり、此の身土に於ては狗・野干の類も之を踏む禅宗の規模に非ず・若し実に仏の頂を踏まんか梵天も其の頂を見ずと云えり薄地争でか之を踏む可きや、夫れ仏は一切衆生に於いて主師親の徳有り若し恩徳広き慈父をh蹋(ふ)まんは不孝逆罪の大愚人・悪人なり、孔子の典籍尚以て此の輩を捨つ況んや如来の正法をや豈此の邪類・邪法を讃めて無量の重罪を獲んや云云、在世の迦葉は頭頂礼敬と云う滅後の闇禅は頂上を踏むと云う恐る可し。

禅宗云く教外別伝(きょうげべつでん)不立文字、答えて云く凡そ世に流布(るふ)の教に三種を立つ、一には儒教此れに二十七種あり、二には道教此れに二十五家あり、三には十二分教・天台宗には四教・八教を立つるなり此等を教外と立つるか、医師の法には本道の外を外経師と云う人間の言には姓のつづかざるをば外戚と云う仏教には経論にはなれたるをば外道と云う、涅槃経に云く「若し仏の所説に順(したが)わざる者有らば当に知るべし是の人は是れ魔の眷属なり」云云、

弘決(ぐけつ)九に云く「法華已前は猶是れ外道の弟子なり」云云、禅宗云く仏祖不伝云云、答えて云く然らば何ぞ西天の二十八祖東土の六祖を立つるや、付属摩訶迦葉の立義已に破るるか自語相違は如何、禅宗云く向上の一路は先聖不伝云云、答う爾らば今の禅宗も向上に於ては解了すべからず若し解らずんば禅に非ざるか凡そ向上を歌つて以て憍慢(きょうまん)に住し未だ妄心(もうしん)を治せずして見性に奢(おご)り機と法と相乖(そむ)くこと此の責尤(せめ・もっと)も親(ちか)し、旁(かた)がた化儀を妨ぐ其の失転多し謂く教外と号し剰(あまつ)さえ教外を学び文筆を嗜(たしな)みながら文字を立てず言と心と相応せず豈(あに)天魔の部類・外道の弟子に非ずや、仏は文字に依つて衆生を度し給うなり、問う其の証拠如何、

答えて云く涅槃経の十五に云く「願わくは諸の衆生悉く皆出世の文字を受持せよ」文、像法決疑経に云く「文字に依るが故に衆生を度し菩提を得」云云、若し文字を離れば何を以てか仏事とせん、禅宗は言語を以て人に示さざらんや若し示さずといはば南天竺の達磨は四巻の楞伽経(りょうがきょう)に依つて五巻の疏を作り慧可に伝うる時、我漢地を見るに但此の経のみあつて人を度す可し汝此れに依つて世を度す可し云云、若し爾れば猥(みだり)に教外別伝と号せんや、次に不伝の言に至つては冷煖二途(れいだんにと)・唯自覚了と云つて文字に依るか其れも相伝の後の冷煖自知なり是を以て法華に云く「悪知識を捨て善友に親近せよ」文、止観に云く「師に値わざれば邪慧日に増し生死月に甚し稠林(ちょうりん)に曲木を曵(ひ)くが如く出づる期有こと無けん」云云、凡そ世間の沙汰尚以て他人に談合す況んや出世の深理寧ろ輙(たやす)く自己を本分とせんや、故に経に云く「近きを見る可からざること人の睫(まつげ)の如く遠きを見る可からざること空中の鳥の跡の如し」云云、上根上機の坐禅は且く之を置く当世の禅宗は瓮(もたい)を蒙つて壁に向うが如し、経に云く「盲冥(もうめい)にして見る所無し大勢の仏及び断苦の法を求めず深く諸の邪見に入つて苦を以て苦を捨てんと欲す」云云、弘決に云く「世間の顕語尚識らず況んや中道の遠理をや円常の密教寧ろ当に識る可けんや」云云、当世の禅者皆是れ大邪見の輩なり、

就中(なかんずく)三惑未断の凡夫の語録を用いて四智円明の如来の言教を軽んずる返す返す過(あやま)てる者か、疾(やまい)の前に薬なし・機の前に教なし・等覚の菩薩すら尚教を用いき底下の愚人何ぞ経を信ぜざる云云、是を以て漢土に禅宗興ぜしかば其の国忽ちに亡びき本朝の滅す可き瑞相に闇証の禅師充満す、止観に云く「此れ則ち法滅の妖怪なり亦是れ時代の妖怪なり」云云。
禅宗云く法華宗は不立文字の義を破す何故ぞ仏は一字不説と説き給うや、答う汝楞伽経の文を引くか本法自法の二義を知らざるか学ばずんば習うべし其の上彼の経に於いては未顕真実と破られ畢んぬ何ぞ指南と為ん。

問うて云く像法決疑経に云く「如来の一句の法を説きたもうを見ず」云云如何、答う是は常施(じょうせ)菩薩の言なり、法華経には「菩薩是の法を聞いて疑網皆已に除く千二百の羅漢悉く亦当に作仏すべし」と云つて八万の菩薩も千二百の羅漢も悉く皆列座し聴聞随喜す、常施一人は見えず何れの説に依る可き法華の座に挙ぐる菩薩の上首の中に常施の名之無し見えずと申すも道理なり、何に況や次下に「然るに諸の衆生出没有るを見て法を説いて人を度す」云云、何ぞ不説の一句を留めて可説の妙理を失う可き、汝が立義一一大僻見なり執情を改めて法華に帰伏す可し、然らずんば豈無道心に非ずや。





by johsei1129 | 2016-05-11 00:02 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)