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日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 05月 09日 ( 3 )


2016年 05月 09日

Gosho 報恩抄 The Duty of Repaying Good Will


 妙法蓮華経の五字は即一部八巻、(また)(また)一切経の肝心、一切の諸仏・菩薩・二乗・天人・修羅(しゅら)竜神(りゅうじん)等の頂上の正法なり。

The five characters Myoho-renge-kyo comprise the true heart of the eight volumes of the work. Moreover, they are the heart of all the sutras, as well as the correct teaching that stands above all the Buddhas and bodhisattvas, the people of the two vehicles, and all the heavenly and human beings, asuras, and dragon deities.

The five characters of Myoho-Renge-Kyo are the essence of the eight volumes [of the Lotus Sutra], the heart of all sutras, and the most supreme and correct Law revered by all Buddhas, bodhisattvas, people of the two vehicles, heavenly beings, ashuras, drangon deities, and so on.


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本文 Original Text    目次 Index



by johsei1129 | 2016-05-09 21:42 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 09日

若し人間に生れて其の難処を去らざれば、百千万劫を経歴すとも仏法の名字を聞かず 、三界に昇沈して六道流浪の身となるべし、と説いた【総在一念抄】

【総在一念抄】
■出筆時期:正嘉二年(1258) 三十七歳御作
■出筆場所:駿河国・岩本実相寺にてと思われます。
■出筆の経緯:大聖人は正嘉二年二月、駿河国・岩本実相寺に入り大蔵経(釈尊の一切経)を読まれ二年後に立正安国論として結実し北条時頼(最明寺入道)に献じ国家諌暁を果たします。また合わせて法華経の法門を初心の弟子・信徒の教化のため数多く述作されておられます。
本書もその一つで、妙楽大師の『法華玄義釈籤(天台の法華玄義の釈)』巻六を依書として、九識、十界互具、十如是、三世間の法門で一念三千を対話形式で譬喩をまじえわかりやすく講説されておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

【総在一念抄 本文】
釈籤の六に云はく「総は一念に在り別は色心を分かつ」云云。問うて云はく「総じて一念に在り」とは其れ何なる者ぞや。答へえて云はく、一偏に思ひ定め難しとい
へども、且らく一義を存せば、衆生最初の一念なりと定む。心を止めて倩按ずるに
我等が最初の一念は無没無記と云ひて、善にも定まらず、悪にも定まらず、闇々湛々たる念なり、是を第八識と云ふ。

此の第八識は万法の総体にして、諸法総在して備はるが故に是を総在一念と云ふ。但し是は八識の事の一念なり。此の一念動揺して一切の境界に向かふといへども所縁の境界を未だ分別せず、是を第七識と云ふ。此の第七識又動揺し、出でて善悪の境に対して悦ぶべきをば喜び、愁ふべきをば愁へて善悪の業を結ぶ、是を第六識と云ふ。この六識の業感じて来生の色報を獲得するなり。

譬へば最初の一念は湛々たる水の如し。
次に動揺して一切の境界に向かふとは、水の風に吹かれて動ずれども、波とも泡とも見分けざるが如し。又動揺して善悪の境界に対して喜ぶべきをば喜び、愁ふべきをば愁ふとは、水の波涛と顕はれて高く立ち上るが如し。次に来生の色報を獲得するとは、波涛の岸に打ちあげられて、大小の泡となるが如し。泡消ゆるは我等が死に還るが如し、能く能く思惟すべし。波と云ひ泡と云ふも一水の所為なり、是は譬へなり。法に合せば、最初の一念展転して色報を成す、是を以て外に全く別に有るにあらず、心の全体が身体と成るなり。相構へて各別には意得べからず。譬へば是水の全体寒じて大小の氷となるが如し。仍って地獄の身と云ひて、洞然猛火の中の盛んなる焔となるも、乃至仏界の体と云ひて、色相荘厳の身となるも、只是一心の所作なり。

之に依って悪を起こせば三悪の身を感じ、菩提心を発せば仏菩薩の身を感ずるなり。是を以て一心の業感の氷にとぢられて、十界とは別れたるなり。故に十界は源、其の体一にして是一心なり。

  一物にて有りける間、地獄界に余の九界を具し、乃至仏界に又余の九界を具す是くの如く十界互ひに具して十界即百界と成るなり。此の百界の一界に各々十如是あるが故に百界は千是如となるなり。此の千如是を衆生世間にも具し、五陰世間にも具し、国土世間にも具せるが故に、千如是は即ち三千となれり。此の三千世間の法門は我等が最初の一念に具足して全く欠減無し。此の一念即色身となる故に、此の身は全く三千具足の体なり。是を一念三千の法門と云ふなり。
  
之に依って地獄界とて恐るべきにあらず、仏界とて外に尊ぶべきにあらず、此の一身に具して事理円融せり。全く余念無く不動寂静の一念に住せよ。上に云ふところ
の法門、是を観ずるを実相観と云ふなり。余念は動念なり、動念は無明なり、無明は迷ひなり。此の観に住すれば此の身即本有の三千と照らすを仏とは云ふなり。是を以て妙楽大師云はく「当に知るべし、身土一念の三千なり。故に成道の時此の本理に称ふて、一身一念法界に遍し」云云。

若し此の観に堪へざる人は余の観に移りて最初の一念の起こる心を観ずべし。起こる心とは寂静の一念動じて迷ひ初むる心なり。

此の動の念は全く三諦なり。三諦とは心の体は中なり、起こる所の念は仮なり、念に自性無きは空なり。此の三観成就する時、動ずる念は即不動念と成るなり。是の無明即明と観ずるを唯識観と云ふなり。縦ひ唯識観を成すといへども終には実相観の人に成るなり。故に義例 妙楽釈 に云はく「本末相映じ事理不二なり」と云へり。本とは実相観、末とは唯識観、事とは唯識観、理とは実相観なり。此の不思議の観成ずる時、流転生死一時に断壊して果位に登るなり。是を事理体一の不思議の総在一念と云ふなり。

  此の性具を顕はして観音は三十三身を顕はし、此の理具を照らして妙音は三十四身を現ずる者なり。若し然らずんば仏の分身、薩埵の化身、之を現ずるに由無し。又此の理を得ざる時は胎金両部の千二百余尊、大日の等流身・変化身も更に以て意得難し。是等の法門は性具の一念の肝要なり。秘蔵すべし秘蔵すべし。

  此の一念三千を天台釈して云はく「夫一心に十法界を具す。一法界に又十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば百法界に即ち三千種の世間を具す。此の三千、一念の心に在り。若し心無くんば已みなん。介爾も心有れば即ち三千を具す」云云。介爾とは妙楽釈して云はく「細念を謂ふなり」云云。意はわずかにと云ふなり。仍って意得べき様は、次第を以て云ふ時は一心は本、十界は末なり。是思議の法門なり。不思議を以て云ふ時は、一心の全体十界三千と成る故に、取り別つべき物にもあらず、表裏も之無し。一心即三千、三千即一心なり。

譬へば不覚の人は氷の外に水ある様に是を思ふ。能く能く心得る人は氷即水なり。故に一念と三千と差別なく一法と心得べし。仍って天台釈して云く「只心是一切法、一切法是心なり。故に縦に非ず横に非ず、一に非ず異に非ず、玄妙深絶なり。識の識る所に非ず、言の言ふ所に非ず、所以に称して不可思議境と為す。意茲に在り」云云。故に一念は一念に非ず即三千なり、三千は三千に非ず即一念なり。之に依って事理体一修性不二の法門なり。此の一念三千の不思議は国土世間に三千を具するが故に、草木瓦石も皆本有の三千を具して円満の覚体なり。

然れば即ち我等も三千を具するが故に本有の仏体なり。仍って無間地獄の衆生も三千を具し、妙覚の如来と一体にして差別無きなり。是を以て提婆が三逆の炎、忽ちに天王如来の記を蒙る。地獄すら尚爾なり。何に況んや余の九界をや。心智都て滅せる二乗すら尚成仏す、何に況んや余の八界をや。

  故に十界の草木等も一々に本有の三千の仏体にして、悪心悪法と云ひて、捨つべき物之無く、善心善法と云ひて取るべき物之無し。故に今の経には此の理を説き顕はすが故に妙法蓮華経とは題するなり。妙法とは十界の草木等に三千を具す、一法として捨つべき物なきが故なり。蓮華とは此の理を悟る人は必ず仏と等しく蓮華の台に処し、蓮華を以て身を荘厳し、蓮華を以て国土をかざる故に云ふなり。知んぬ、此の身即ち三世の諸仏の体なり。若し此の理を得ざる者をば仏種とは名づけず。故に妙楽釈して云はく「若し正境に非ずんば縦ひ妄偽無けれども、亦種と成らず」云云。爰に知んぬ、法華以前の諸経は権法を説き交ゆるが故に、塵劫を経歴して受持すとも仏種となるべからず、仏智を説き顕はさゞるが故なり。仏智を説かざるが故に、悪人女人成仏すとは云はず。故に天台釈して云はく「他経は但菩薩に記して二乗に記せず、但善に記して悪に記せず、但男に記して女に記せず、但人天に記して畜に記せず。今経は皆記すなり」云云。妙楽釈して云はく「縦ひ経有りて諸経の王と云ふとも已今当説最為第一と云はず。兼但対帯其の義知んぬべし」云云。

此の釈の如くんば爾前の諸経は方便にして成仏の直因に非ざるなり。
  問うて云はく、法華以前の諸経の中に円教と云ひて殊勝の法門を説く、何ぞ強ちに爾前の諸経をば仏の種子と成らずと之れを簡ぶや。答へて云はく、円教を説くといへども、彼の円は仏の種子を失へる声聞・縁覚・悪人・女人を成仏すと説かざるが故に円教の至極にあらず、究竟に非ざるが故に仏意を挙げず、故に又仏智にもあらず、されば成仏の種子に非ざるなり。之に依って諸経をば法華に対して皆簡ぶなり。爰を以て大師の云はく「細人・麁人二倶に過を犯す。
過の辺に従って説いて倶に麁人と名づく」云云。仍って余経をば妙法蓮華経と名づけざるなり。

  問うて云はく、一文不通の愚人南無妙法蓮華経と唱へては何の益か有らんや。答ふ、文盲にして一字を覚悟せざる人も信を致して唱へたてまつれば、身口意の三業の中には先ず口業の功徳を成就せり。若し功徳成就すれば仏の種子むねの中に収めて必ず出離の人と成るなり。此の経の諸経に超過する事は誹謗すら尚逆縁と説く不軽軽毀の衆是なり。何に況んや信心を致す順縁の人をや。故に伝教大師云はく「信謗彼此決定成仏」等云云。

  問うて云はく、成仏の時の三身とは其の義如何。答ふ、我が身の三千円融せるは法身なり。此の理を知り極めたる智慧の身と成るを報身と云ふなり。此の理を究竟して、八万四千の相好より虎狼野干の身に至るまで、之を現じて衆生を利益するを応身と云ふなり。此の三身を法華経に説いて云はく「如是相如是性如是体」云云。相は応身、性は報身、体は法身なり。此の三身は無始より已来我等に具足して欠減なし。然りと雖も迷ひの雲に隠されて是を見ず。悟りの仏と云ふは此の理を知る法華経の行者なり。此の三身は昔は迷ふて覚らず知らず、仏の説法に扣かれて近く覚りたりと説くをば迹門と云ふなり。此の三身の理をば我等具足して一分も迷はず、三世常住にして遍せざる所無しと説くをば本門と云ふなり。若し爾らば本迹は只久近の異にして其の法体全く異ならず。是を以て天台釈して云はく「本迹殊なりと雖も不思議一なり」云云。

  悟りとは只此の理体を知るを悟りと云うなり。譬へば庫蔵の戸を開いて宝財を得るが如し。外より来たらず、一心の迷ひの雲晴れぬれば、三世常住の三身三諦の法体なり。鏡に塵積もりぬれば形現ぜず、明らかなれば万像を浮かぶるが如し。塵の去る事は人の磨くによる、像の浮かぶ事は磨くに非ずばならじ。若し爾れば転迷覚悟は行者の所作による。三千三諦三身の理体は全く人の所作に非ず、只是本有なり。また迷ひを修行する事は人の作なりといへども、但迷ひの去る処を見ざるなり。百年の闇室に火をともすが如し、全く闇の去るところを見ず。
 
 是転迷覚悟返流尽源なり。無明即明は唯迷悟に名づけ、無明法性は全く其の体一なり。穴賢穴賢。各別には心得べからず。若し迷悟異体と心得るならば成仏の道遼遠ならん事、一須弥より一須弥に至るが如し。本より不二なる理体に迷ふが故に衆生と云ひ、是を悟るを仏と云ふなり。よくよく此の大旨を心得て失錯あるべからざるなり。

我等が生死の一大事なり、出離の素懐なり。豈宝の山に入りて手を空しくせんや。後悔千万すとも敢へて益無し。閻魔の責め、獄卒の杖は全く人を選ばず只罪人を打つ。

若し人間に生れて其の難処を去らざれば、百千万劫を経歴すとも仏法の名字を聞かず、三界に昇沈して六道流浪の身となるべし。出離の要法を聞かざる事悲しむべし悲しむべし。恐るべし恐るべし。獄卒阿防羅刹の責めを蒙らん事を。
                               日蓮花押






by johsei1129 | 2016-05-09 20:41 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 09日

 如説修行抄筆記 十  大白牛車に乗じて四方に遊ぶ。此れに乗る事は信心第一なり。


一 仏勅を(こうむ)りて

時に約すれば、経文に「悪世末法の時」と。亦「(のち)の五百歳中広宣流布」文。国土に約すれば、経文に「誰か()娑婆(しゃば)国土に於て」と。又「娑婆世界に(おのずか)ら又六万」文。教に約すれば、宝塔品に「広く妙法華経を説かん」と。涌出(ゆしゅつ)(ほん)に云く「広く此の経を説かん」と。神力(じんりき)(ほん)の四句の要法等云云。

一 法王

薬草品に云く「()を破する法王」文。授記品に云く「大雄猛(だいおうみょう)()(そん) 諸釈の法王」文。

一 経文に任せて権実二教のい()さを起し

  問う、「経文に任せて大小・権実・本迹の(いくさ)」と云うべし。何ぞ(ただ)「権実」と云うや。

  答う、玄義第七・三十六に云く「通じて論ずれば、本迹は(ただ)是れ権実なり」文。故に権実の言に本迹を()ぬるなり。是れ則ち迹権本実の故なり。

一 忍辱(にんにく)(よろい)文。

勧持品に云く「当に忍辱の鎧を()るべし」文

一 妙教の(つるぎ)文。

今経は()く元品の無明(むみょう)を切る利剣なりと云云。十七・三十五

一 妙法五字の旗を指上(さしあげ)

(いくさ)には旗じるしを肝要とす。今(また)()くの如し。権実の法論の場所なれば、未曽(みぞ)()の旗を指し上げて仏法の勝相を表するなり。

人記品の下の啓運抄の終りに、()(ちゅう)を引いて「経に『(しょう)(ばん)』というは、什師の云く『外国には敵を破るに勝つことを得る(とき)は勝幡を()つ。道場には魔を降すに亦()の勝相を表するなり』」等云云。()れを以て当文に合すれば、諸宗は法華経の敵なり。今妙法の旗を以て其の敵を破るなり。是れは(たとえ)の意なり。

亦諸宗は三毒五欲の煩悩なり。(なお)悪鬼(あっき)(にゅう)()(しん)の大魔王なり。今此の法華経は能く煩悩の賊を(くだ)き、四魔を降伏(ごうぶく)するなり。録外二十三、日女御前御書に云く「法華弘通(ぐつう)の旗じるしとして」等云云。合せ見るべし。

一 未顕真実の弓をはり正直捨権の()をはげて

弓あれども箭なければ(せん)無し。箭はあれども弓なければ無用なり。法華経に「正直捨方便」と説きたもうとも、無量義経に「四十余年未顕(みけん)真実」の文無くんば、法華経に指示する処の方便は(いず)れの経ぞや、(はか)り難し。(しか)るに無量義経の文を以て之を見れば、四十余年の諸経(ことごと)く方便なりと知る。故に弓矢具足(ぐそく)するが如し。

二句の文を弓箭(きゅうせん)に相配するに表示ありや。

答えて云く、弓は其の(かたち)曲りて直ならず。四十余年の諸経の不正直なるを未顕真実と説く故に、形を以て(これ)(るい)して「未顕真実の弓」と判じ、()は直なる物なれば正直の法華に対す。正直に方便を捨てて後は(ただ)一実(えん)(どん)の妙法なり。故に各々其の形を以て其の法体(ほったい)の正直・不正直を顕す者なり。(あるい)必ずしも表示を求むべからず。仏意(はか)るべきが故なり。(しょ)の四、御義口伝上二十二云云。

一 大白(だいびゃく)()(しゃ)に打乗って

経に云く「是の宝車に乗じて四方に遊ぶ」文。亦云く「(じょう)()宝乗(ほうじょう)(じき)()道場(どうじょう)」文。「打乗って」とは本門の題目を受持する事なり。御義口伝下四十七。此の宝乗に乗じて(ただ)ちに道場に至るを以て、受持と題目とに判ずるなり。「道場」は極果(ごっか)なり。「乗此」とは因なり。(せん)の五に云く「此の因(かわ)らざる故に(じき)()と云う」と。()れに乗る事は信心第一なり。録外二十五・四。


             つづく


本書目次                      日寛上人 文段目次



by johsei1129 | 2016-05-09 06:26 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)