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日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 05月 08日 ( 2 )


2016年 05月 08日

十界互具とは法華の淵底・此の宗の沖微なり四十余年の諸経の中には之を秘して伝えず、と説いた【十法界事】

【十法界事】
■出筆時期:正元元年(1259) 三十八歳御作
■出筆場所:駿河国・岩本実相寺にてと思われます。
■出筆の経緯:本抄は実相寺で一切経を読了された過程でしたためられた立宗初期の法門の一つで、弟子・信徒教化のために法華経本門の「十界互具」を講説された書と思われます。
■ご真筆:現存しておりません。

【十法界事 本文】

二乗三界を出でざれば即ち十法界の数量を失う云云、問う十界互具を知らざらん者六道流転の分段の生死を出離して変易の土に生ず可きや、答う二乗は既に見思を断じ三界の生因無し底に由つてか界内の土に生る事を得ん是の故に二乗永く六道に生ぜず、故に玄の第二に云く「夫れ変易に生るに則ち三種有り三蔵の二乗・通教の三乗・別教の三十心」已上此の如き等の人は皆通惑を断じ変易の土に生ずることを得て界内分段の不浄の国土に生ぜず。

難じて云く小乗の教は但是れ心生の六道を談じて是れ心具の六界を談ずるに非ず、是の故に二乗は六界を顕さず心具を談ぜず云何ぞ但六界の見思を断じて六道を出ず可きや、故に寿量品に云える一切世間・天・人・阿修羅とは爾前迹門・両教の二乗・三教の菩薩・並に五時の円人を皆天人・修羅と云う豈に未断見思の人と云うに非ずや。

答う十界互具とは法華の淵底・此の宗の沖微なり四十余年の諸経の中には之を秘して伝えず、但し四十余年の諸の経教の中に無数の凡夫・見思を断じて無漏の果を得・能く二種の涅槃の無為を証し塵数の菩薩・通別の惑を断じ頓に二種の生死の縛を超ゆ、無量義経の中に四十余年の諸経を挙げて未顕真実と説くと雖も而も猶爾前・三乗の益を許す、法華の中に於て正直捨方便と説くと雖も尚見諸菩薩授記作仏と説く此くの如き等の文爾前の説に於て当分の益を許すに非ずや、但し爾前の諸経に二事を説かず謂く実の円仏無く又久遠実成を説かず故に等覚の菩薩に至るまで近成を執する思い有り此の一辺に於て天人と同じく能迷の門を挙げ生死煩悩・一時に断壊することを証せず故に唯未顕真実と説けり、六界の互具を明さざるが故に出ず可からずとは此の難甚だ不可なり、六界互具せば即ち十界互具す可し何となれば権果の心生とは六凡の差別なり心生を観ずるに何ぞ四聖の高下無からんや。

第三重の難に云く所立の義誠に道理有るに似たり委く一代聖教の前後を検するに法華本門並に観心の智慧を起さざれば円仏と成らず、故に実の凡夫にして権果だも得ず所以に彼の外道五天竺に出でて四顛倒を立つ、如来出世して四顛倒を破せんが為に苦・空等を説く此れ則ち外道の迷情を破せんが為なり、是の故に外道の我見を破して無我に住するは火を捨てて以て水に随うが如し堅く無我を執して見思を断じ六道を出ずると謂えり、此れ迷の根本なり故に色心倶滅の見に住す大集等の経経に断常の二見と説くは是れなり、例せば有漏外道の自らは得道すと念えども無漏智に望むれば未だ三界を出でざるが如し、仏教に値わずして三界を出ずるといわば是の処有ること無し小乗の二乗も亦復是くの如し、鹿苑施小の時外道の我を離れて無我の見に住す此の情を改めずして四十余年草庵に止宿するの思い暫くも離るる時無し、又大乗の菩薩に於て心生の十界を談ずと雖も而も心具の十界を論ぜず、又或る時は九界の色心を断尽して仏界の一理に進む是の故に自ら念わく三惑を断尽して変易の生を離れ寂光に生るべしと、然るに九界を滅すれば是れ則ち断見なり進んで仏界に昇れば即ち常見と為す九界の色心の常住を滅すと欲うは豈に九法界に迷惑するに非ずや、又妙楽大師の云く「但し心を観ずと言わば則ち理に称わず」文、此の釈の意は小乗の観心は小乗の理に称わざるのみ、又天台の文句第九に云く「七方便並に究竟の滅に非ず」已上、此の釈は是れ爾前の前三教の菩薩も実には不成仏と云えるなり、但し未顕真実と説くと雖も三乗の得道を許し正直捨方便と説くと雖も而も見諸菩薩授記作仏と云うは、天台宗に於て三種の教相有り第二の化導の始終の時過去の世に於て法華結縁の輩有り爾前の中に於て且らく法華の為に三乗当分の得道を許す所謂種熟脱の中の熟益の位なり是は尚迹門の説なり、本門観心の時は是れ実義に非ず一往許すのみ、其の実義を論ずれば如来久遠の本に迷い一念三千を知らざれば永く六道の流転を出ず可からず、故に釈に云く「円乗の外を名けて外道と為す」文、又「諸善男子・楽於小法・徳薄垢重者」と説く若し爾れば経釈共に道理必然なり、答う執難有りと雖も其の義不可なり。

所以は如来の説教は機に備りて虚からず是を以て頓等の四教・蔵等の四教八機の為に設くる所にして得益無きに非ず、故に無量義経には「是の故に衆生の得道差別あり」と説く、誠に知んぬ「終に無上菩提を成ずることを得ず」と説くと雖も・而も三法・四果の益無きに非ず、但是れ速疾頓成と歴劫迂回との異なるのみ、是れ一向に得道無きに非ざるなり、是の故に或は三明六通も有り或は普現色身の菩薩も有り縦い一心三観を修して以て同体の三惑を断ぜずとも既に析智を以て見思を断ず何ぞ二十五有を出でざらん、是の故に解釈に云く「若し衆生に遇うて小乗を修せしめば我則ち慳貪に堕せん此の事不可なりとして祇二十五有を出す」已上、当に知るべし此の事不可と説くと雖も而も出界有り但是れ不思議の空を観ぜざるが故に不思議の空智を顕さずと雖も何ぞ小分の空解を起さざらん、若し空智を以て見思を断ぜずと云わば開善の無声聞の義に同ずるに非ずや、況や今の経は正直捨権・純円一実の説なり諸の爾前の声聞の得益を挙げて「諸漏已に尽きて復煩悩無し」と説き又「実に阿羅漢を得・此の法を信ぜず是の処有ること無し」と云い又「三百由旬を過ぎて一城を化作す」と説く、若し諸の声聞全く凡夫に同ぜば五百由旬一歩も行く可からず。

又云く「自ら所得の功徳に於て滅度の想を生じて当に涅槃に入るべし、我余国に於て作仏して更に異名有らん是の人滅度の想を生じて涅槃に入ると雖も而も彼の土に於て仏の智慧を求めて是の経を聞くことを得ん」已上、此の文既に証果の羅漢・法華の座に来らずして無余涅槃に入り方便土に生じて法華を説くを聞くと見えたり、若し爾らば既に方便土に生じて何んぞ見思を断ぜざらん是の故に天台妙楽も「彼土得聞」と釈す、又爾前の菩薩に於て「始めて我が身を見・我が所説を聞いて即ち皆信受し・如来慧に入りにき」と説く、故に知んぬ爾前の諸の菩薩三惑を断除して仏慧に入ることを、故に解釈に云く「初後の仏慧円頓の義斉し」已上。

或は云く「故に始終を挙ぐるに意・仏慧に在り」と若し此等の説相経釈共に非義ならば正直捨権の説・唯以一大事の文・妙法華経・皆是真実の証誠皆以て無益なり皆是真実の言は豈一部八巻に亘るに非ずや、釈迦・多宝・十方分身の舌相・至梵天の神力・三世諸仏の誠諦不虚の証誠・空く泡沫に同ぜん、但し小乗の断常の二見に至つては且く大乗に対して小乗を以て外道に同ず小益無きに非ざるなり、又七方便並に究竟の滅に非ざるの釈・或は復但し心を観ずと言わば則ち理に称わずとは又是れ円実の大益に対して七方便の益を下して並に非究竟滅・即不称理と釈するなり。

第四重の難に云く法華本門の観心の意を以て一代聖教を按ずるに菴羅果を取つて掌中に捧ぐるが如し、所以は何ん迹門の大教起れば爾前の大教亡じ・本門の大教起れば迹門爾前亡じ・観心の大教起れば本迹爾前共に亡ず此れは是れ如来所説の聖教・従浅至深して次第に迷を転ずるなり、然れども如来の説は一人の為にせず此の大道を説きて迷情除かざれば生死出で難し、若し爾前の中に八教有りとは頓は則ち華厳・漸は則ち三味・秘密と不定とは前四味に亘る蔵は則ち阿含方等に亘る通は是れ方等・般若・円・別は是れ則ち前四味の中に鹿苑の説を除く、此くの如く八機各各不同なれば教説も亦異なり四教の教主亦是れ不同なれば当教の機根余仏を知らず、故に解釈に云く「各各仏独り其の前に在すと見る」已上。

人天の五戒・十善・二乗の四諦・十二・菩薩の六度・三祇・百劫・或は動逾塵劫・或は無量阿僧祇劫・円教の菩薩の初発心時・便成正覚・明かに知んぬ機根別なるが故に説教亦別なり、教別なるが故に行も亦別なり行別なるが故に得果も別なり此れ即ち各別の得益にして不同なり。

然るに今法華方便品に「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」と説き給う爾の時八機並に悪趣の衆生悉く皆同じく釈迦如来と成り互に五眼を具し一界に十界を具し十界に百界を具せり、是の時爾前の諸経を思惟するに諸経の諸仏は自界の二乗を二乗も又菩薩界を具せず三界の人天の如きは成仏の望絶えて二乗菩薩の断惑即ち是れ自身の断惑なりと知らず、三乗四乗の智慧は四悪趣を脱るるに似たりと雖も互に界界を隔つ而も皆是れ一体なり、昔の経は二乗は但自界の見思を断除すると思うて六界の見思を断ずることを知らず菩薩も亦是くの如し自界の三惑を断尽せんと欲すと雖も六界・二乗の三惑を断ずることを知らず、真実に証する時は一衆生即十衆生・十衆生即一衆生なり、若し六界の見思を断ぜざれば二乗の見思を断ず可からず是くの如く説くと雖も迹門は但九界の情を改め十界互具を明す故に即ち円仏と成るなり、爾前当分の益を嫌うこと無きが故に「三界の諸漏已に尽き三百由旬を過ぎて始めて我身を見る」と説けり又爾前入滅の二乗は実には見思を断ぜず故に六界を出でずと雖も迹門は二乗作仏が本懐なり故に「彼の土に於いて是の経を聞くことを得」と説く、既に「彼の土に聞くことを得」と云う故に知んぬ爾前の諸経には方便土無し故に実には実報並に常寂光も無し、菩薩の成仏を明す故に実報・寂光を仮立す然れども菩薩に二乗を具す二乗成仏せずんば菩薩も成仏す可からざるなり、衆生無辺誓願度も満せず二乗の沈空尽滅は即ち是れ菩薩の沈空尽滅なり凡夫六道を出でざれば二乗も六道を出ず可からず。

尚下劣の方便土を明さず況や勝れたる実報寂光を明さんや、実に見思を断ぜば何ぞ方便を明さざらん菩薩実に実報・寂光に至らば何ぞ方便土に至ること無らん、但断無明と云うが故に仮りに実報寂光を立つと雖も而も上の二土無きが故に同居の中に於て影現の実報寂光を仮立す、然るに此の三百由旬は実には三界を出ずること無し迹門には但是れ始覚の十界互具を説きて未だ必ず本覚本有の十界互具を明さず故に所化の大衆能化の円仏皆是れ悉く始覚なり、若し爾らば本無今有の失何ぞ免るることを得んや、当に知るべし四教の四仏則ち円仏と成るは且く迹門の所談なり是の故に無始の本仏を知らず、故に無始無終の義欠けて具足せず又無始・色心常住の義無し但し是の法は法位に住すと説くことは未来常住にして是れ過去常に非ざるなり、本有の十界互具を顕さざれば本有の大乗菩薩界無きなり、故に知んぬ迹門の二乗は未だ見思を断ぜず迹門の菩薩は未だ無明を断ぜず六道の凡夫は本有の六界に住せざれば有名無実なり。

故に涌出品に至つて爾前迹門の断無明の菩薩を「五十小劫・半日の如しと謂えり」と説く是れ則ち寿量品の久遠円仏の非長非短・不二の義に迷うが故なり、爾前迹門の断惑とは外道の有漏断の退すれば起るが如し未だ久遠を知らざるを以て惑者の本と為すなり、故に四十一品断の弥勒・本門立行の発起・影響・当機・結縁の地涌千界の衆を知らず、既に一分の無始の無明を断じて十界の一分の無始の法性を得れば何ぞ等覚の菩薩を知らざらん、設い等覚の菩薩を知らざるも争でか当機・結縁の衆を知らざらん乃ち不識一人の文は最も未断三惑の故か、是を以て本門に至つては則ち爾前迹門に於て随他意の釈を加え又天人・修羅に摂し「貪著五欲・妄見網中・為凡夫顛倒」と説き、釈の文には「我坐道場・不得一法」と云う蔵通両仏の見思断も別円二仏の無明断も並に皆見思無明を断ぜず故に随他意と云う、所化の衆生三惑を断ずと謂えるは是れ実の断に非ず答の文に開善の無声聞の義に同ずとは汝も亦光宅の有声聞の義に同ずるか、天台は有無共に破し給うなり、開善は爾前に於て無声聞を判じ光宅は法華に於て有声聞を判ず故に有無共に難有り、天台は「爾前には則ち有り今経には則ち無し所化の執情には則ち有り長者の見には則ち無し」此くの如きの破文皆是れ爾前迹門相対の釈にて有無共に今の難には非ざるなり、「但し七方便並に究竟の滅に非ず又但し心を観ずと云わば則ち理に称わず」との釈は円益に対し当分の益を下して「並非究竟滅・即不称理」と云うなりと云うは金ぺい論には「偏に清浄の真如を指す尚小の真を失えり仏性安んぞ在らん」と云う釈をば云何が会す可き、但し此の尚失小真の釈は常には出だす可からず最も秘蔵す可し。

但し「妙法蓮華経皆是真実」の文を以て迹門に於て爾前の得道を許すが故に爾前得道の義有りと云うは此れは是れ迹門を爾前に対して真実と説くか、而も未だ久遠実成を顕さず是れ則ち彼の未顕真実の分域なり所以に無量義経に大荘厳等の菩薩の四十余年の得益を挙ぐるを仏の答えたもうに未顕真実の言を以てす、又涌出品の中に弥勒疑つて云く「如来太子為りし時釈の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、乃至四十余年を過ぐ」已上仏答えて云く「一切世間の天人及び阿修羅は皆今の釈迦牟尼仏は釈氏の宮を出で伽耶城を去ること遠からずして三菩提を得たりと謂えり我実に成仏してより以来」已上。

我実成仏とは寿量品已前を未顕真実と云うに非ずや是の故に記の九に云く「昔七方便より誠諦に至るまでは七方便の権と言うは且く昔の権に寄す若し果門に対すれば権実倶に是れ随他意なり」已上、此の釈は明かに知んぬ迹門をも尚随他意と云うなり、寿量品の皆実不虚を天台釈して云く「円頓の衆生に約すれば迹本二門に於て一実一虚なり」已上、記の九に云く「故に知んぬ迹の実は本に於て猶虚なり」已上。

迹門既に虚なること論に及ぶ可からず但し皆是真実とは若し本門に望むれば迹は是れ虚なりと雖も一座の内に於て虚実を論ず故に本迹両門倶に真実と言うなり、例せば迹門法説の時の譬説因縁の二周も此の一座に於て聞知せざること無し故に名けて顕と為すが如し、記の九に云く「若し方便教は二門倶に虚なり因門開し竟りて果門に望むれば則ち一実一虚なり本門顕れ竟れば則ち二種倶に実なり」已上。

此の釈の意は本門未だ顕れざる以前は本門に対すれば尚迹門を以て名けて虚と為す若し本門顕れ已りぬれば迹門の仏因は即ち本門の仏果なるが故に天月水月本有の法と成りて本迹倶に三世常住と顕るるなり、一切衆生の始覚を名けて迹門の円因と言い一切衆生の本覚を名けて本門の円果と為す修一円因感一円果とは是なり、是くの如く法門を談ずるの時迹門・爾前は若し本門顕れずんば六道を出でず何ぞ九界を出でんや。







by johsei1129 | 2016-05-08 21:11 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 08日

如説修行抄筆記 九 宗教の五箇を以て三類の強敵を示す


一 問うて云く如説修行等

此の下は行者()(なん)を明かすなり。問に二意あり。(いわ)く、三類の強敵有るを以て知んぬ、如説修行の人に非ざる事を是一。(また)大難有るを以て如説修行の行者と云わば「現世安穏」の経文は妄語(もうご)なりや是二。

答に二意あり。初めに行者値難を明かし、次には経文(むな)しからざるを明かす云云。此の一段の問答(もんどう)開目抄下巻三十九・四十を合せ見るべし。

一 「答えて云く」の()

此の下は行者値難を明かす、二あり。初めに例を()げ、次に「(しか)るに今」の下は値難あることを以て末法の行者なることを明かす。
 初めの文に
亦二。初めに(まさ)く例を挙げ、次に「此れ等の人人」の下は反詰(はんきつ)なり。
 初めに例を挙ぐるに三。初めに現在、二に過去、三に「(じく)道生(どうしょう)」の下は未来なり。是れ(すなわ)ち釈尊の三世なり。

問う、過去・現在と次第(しだい)せざるや。

現顕なるに約して先ず現在を挙ぐるなり。
 御書三十八・十九に云く「日蓮は三世の大難に()い候ぬと存じ候、其の故は現在の大難は(いま)の如し、過去の難は」等云云。
 此れに例して知るべし。

一 (じく)道生(どうしょう)文。

此の下は啓蒙に二義を挙げたり。
 一は、道生等の三人は(つう)()の仏法に付いて難に値うの例に(いだ)したもう云云。
 二は、三人の本意も法華に成るべき故に天台・伝教(いち)()(いだ)したもうと云云。啓蒙の取捨(しゅしゃ)の如く、後の義()なり。今の結文に「(これ)()の仏菩薩」等と云云。
 開目抄下四十に云く「此等は一乗の持者にあらざるか」文。啓蒙九巻、()いて見よ。

一 (しか)るに今の世は等

此の下は()(なん)を以て末法の行者なることを明かす、二あり。初めは値難の所以(ゆえん)なり。次に「日蓮」の下は末法の行者なることを明かす。

問う、()の下は値難の文無し。何ぞ値難を以て末法の行者なることを明かすと云うや。

答う、問難に「如説の行者は現世安穏なるべし」とは、末法の法華経の行者を問うなり。答の(たい)()、先ず在世及び正像二時の法華の行者の値難を(いだ)し、次に「然るに今」と云うは、(まさ)しく末法の行者の値難を述べて問難を答うるなり。「然るに今」等の意に云く「在世及び正像の間の法華の行者、既に値難有り。(いわん)や末法の今は、時を論ずれば闘諍(とうじょう)(けん)()・白法隠没の時なり。国を論ずれば謗法(ほうぼう)の悪国なり。()を論ずれば謗法の悪臣・悪民なり。法を論ずれば邪法なり。師を論ずれば邪師なり。故に正像の行者を見て必ず大難を致す。三類の強敵(ごうてき)有るを以て法華の行者なることを知るべし。『況滅(きょうめつ)度後(どご)』の経文に附合するが故なり」と云う大旨なり。

一 末法の行者、難に値う所以は、時・機・国・法・師、(とも)に悪邪充満するが故なり。正法の行者を見て種々の難をなすなり。(いわ)く、是れ(また)宗教の五箇なり。初めの「闘諍堅固」等とは第三の時なり。「悪国」とは第四の国なり。「悪王・悪臣・悪民」とは第二の機なり。「正法を(そむ)きて」の下は第五の教法流布の前後なり。第一の教を挙げざる事は、(こん)()の弘通第一の勝教なるが故に(ここ)には挙げざるなり云云。


            つづく


本書目次
                   日寛上人 文段目次



by johsei1129 | 2016-05-08 08:16 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)