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日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 05月 05日 ( 3 )


2016年 05月 05日

妙法と唱へ蓮華と読まん時は、我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり、と説いた【一生成仏抄】

【一生成仏抄】
■出筆時期:建長七年(1255年) 三十四歳御作。
■出筆場所:鎌倉松葉ケ谷の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は立宗二年後、最古参の信徒である富木常忍に与えられた書と伝えられております。
内容は一生成仏の要諦を初心の信徒にも理解できるようわかりやすく記されており、現在においても、日蓮正宗門下の信徒となった者にとっては必読すべき書であると言えます。
■ご真筆:現存しておりません。

【一生成仏抄 本文】

夫れ無始の生死を留めて此の度決定して無上菩提を証せんと思はばすべからく衆生本有の妙理を観ずべし。衆生本有の妙理とは・妙法蓮華経是なり故に妙法蓮華経と唱へたてまつれば衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり、文理真正の経王なれば文字即実相なり実相即妙法なり唯所詮一心法界の旨を説き顕すを妙法と名く故に此の経を諸仏の智慧とは云うなり。

一心法界の旨とは十界三千の依正色心・非情草木・虚空刹土いづれも除かず・ちりも残らず一念の心に収めて此の一念の心・法界に遍満するを指して万法とは云うなり。此の理を覚知するを一心法界とも云うなるべし。
但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらずそ法なり。そ法は今経にあらず今経にあらざれば方便なり権門なり。方便権門の教ならば成仏の直道にあらず成仏の直道にあらざれば多生曠劫の修行を経て成仏すべきにあらざる故に一生成仏叶いがたし。故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は、我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。

都て一代八万の聖教・三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとは・ゆめゆめ思ふべからず、然れば仏教を習ふといへども心性を観ぜざれば全く生死を離るる事なきなり、若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し、然れば天台の釈の中には若し心を観ぜざれば重罪滅せずとて若し心を観ぜざれば無量の苦行となると判ぜり。

故にかくの如きの人をば仏法を学して外道となると恥しめられたり、爰を以て止観には雖学仏教・還同外見と釈せり。然る間・仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり、之に依つて浄名経の中には諸仏の解脱を衆生の心行に求めば衆生即菩提なり生死即涅槃なりと明せり、又衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり。

衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり。譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり。

抑妙とは何と云う心ぞや只我が一念の心・不思議なる処を妙とは云うなり不思議とは心も及ばず語も及ばずと云う事なり、然れば・すなはち起るところの一念の心を尋ね見れば有りと云はんとすれば色も質もなし又無しと云はんとすれば様様に心起る有と思ふべきに非ず無と思ふべきにも非ず、有無の二の語も及ばず有無の二の心も及ばず有無に非ずして而も有無に遍して中道一実の妙体にして不思議なるを妙とは名くるなり。

此の妙なる心を名けて法とも云うなり、此の法門の不思議をあらはすに譬を事法にかたどりて蓮華と名く、一心を妙と知りぬれば亦転じて余心をも妙法と知る処を妙経とは云うなり。然ればすなはち善悪に付いて起り起る処の念心の当体を指して是れ妙法の体と説き宣べたる経王なれば成仏の直道とは云うなり。此の旨を深く信じて妙法蓮華経と唱へば一生成仏更に疑あるべからず。

故に経文には「我が滅度の後に於て・応に斯の経を受持すべし・是の人仏道に於て・決定して疑有る事無けん」とのべたり。努努不審をなすべからず穴賢穴賢、一生成仏の信心南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経。

日蓮 花押





by johsei1129 | 2016-05-05 19:48 | 富木常忍・尼御前 | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 05日

Gosho 始聞仏乗義 On First Hearing the One Vehicle of the Buddha 1

 始聞仏乗義

What It Means to Hear the Buddha Vehicle for the First Time

On First Hearing the One Vehicle of the Buddha

            建治四年二月二十八日 五十七歳御作

               February 28, 1278Age:57

()法蔵(ほうぞう)の第十三天台大師の高祖・竜樹(りゅうじゅ)()(さつ)・妙法の妙の一字を釈して、(たと)えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し等云云。

I would like simply to quote the words of Bodhisattva Nāgārjuna, the thirteenth of the Buddha’s successors and founder of the Great Teacher T’ien-t’ai’s line, who in explaining the word myō, or “wonderful,” in the term myōhō says it is “like a great physician who can change poison into medicine.”

Bodhisattva Nagarjuna was the thirteenth of Shakyamuni Buddha’s successors, who was later revered as a master by the Great Teacher Tiantai. Nagarjuna interpreted the single character Myoof Myoho as followers: It is likened to an excellent physician skillfully turning poisons into medicine.

毒と云うは何物ぞ、我等が煩悩(ぼんのう)(ごう)()の三道なり。

What is the poison? It is the three paths of earthly desires, karma, and suffering that are our lot.

What is poison? Poison indicates our three paths of earthly desires, karma, and suffering.

薬とは何物ぞ、(ほっ)(しん)般若(はんにゃ)解脱(げだつ)なり。

What is the medicine? It is the Dharma body, wisdom, and emancipation.

What ismedicineMedicine indicates the three virtues [of the Buddha]: the property of the Law, wisdom, and emancipation.

能く毒を以て薬と為すとは何物ぞ、三道を変じて三徳と為すのみ。

And what does it mean to change poison into medicine? It means to transform the three paths into the three virtues: the Dharma body, wisdom, and emancipation.

What is meant byskillfully turning poison into medicine?”It means to transform the three paths into the three virtues.


                          つづく
御書本文 Original text  目次 Index



by johsei1129 | 2016-05-05 10:49 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 05日

 如説修行抄筆記 六 宗祖の弘経は「有(あり)のままの妙法」なり。故に「真実の法華経の行者」と云うなり


一 (いか)(いわん)や末法等

是れより下は末法に当てて「況滅(きょうめつ)度後(どご)」の文を釈す。二あり。初めは正釈、四意あり。一(のう)()に約し、二は弟子に約し、三には調(じょう)()に約し、四は法体(ほったい)に約す。在世に対して(こころ)()べき者なり。

一 (いか)(いわん)や。

「悪師には親近(しんごん)す」まで(かん)すべきか。何に況や凡師なり、何に況や三毒(ごう)(じょう)の弟子なり、何に況や調機調養無き故に、善師をば(おん)()し、悪師には親近(しんごん)するなり。

一 末法今の時。

()の教相なり。「末法」とは時なり。機・教は文に分明(ふんみょう)なり。「時刻(とう)(らい)す」とは流布(るふ)の前後なり。略して国土を()げざるなり。師弟をいわば住処は(おのずか)ら顕るるなり。

一 其の師を(たず)ぬれば凡師なり

此の下は末法の師弟・人法・自行化他を明かすなり。題号に合すべきなり。(また)此の下は宗旨の三()を釈するなり。「其の師」とは(にん)の本尊なり。御義口伝下九二十五丁。「真実の法華経」とは本門の題目なり。妙法五字は本尊と云われ、題目と云わるる両辺あり。今、(にん)の本尊に対して題目と云うなり。一()三箇の開合、之を思え。

後日(ごじつ)云く、真実の法華経とは法の本尊にして、如説修行は題目か、案ずべし。

一 故に善師をば(おん)()し等

此れは調機(じょうき)等に対して見るべし。意に云く、人非人等有りと雖も調機調養せる故に怨嫉有るべからず。而るに(なお)(これ)有り。何に況や末法には、調機調(じょう)(よう)無き故に必ず大難有るとなり。

一 ()の上真実の法華経

「其の上」とは()(きょう)の意なり。「真実の法華経」とは在世の脱益に対す。故に此れは下種の法華経なり。是れ則ち(しゅ)(だつ)相対なり。

  問う、釈尊所説の法華経は真実に(あら)ずや。

  答えて云く、此れ真実なり。今文は下種に対する故なり。下種無き(だつ)は「超高(ちょうこう)が位にのぼる」等なり。開目抄下十一に云うなり。在世に法華経に於て得脱することは()(おん)の下種を顕す故なり。妙楽云く「脱は現に在りと雖も(つぶさ)に本種を()ぐ」文。下種は本なり、脱は迹なり。脱益(だっちゃく)の真実なる事は下種の真実なるが故なり。今は功を種に帰せしめて、別して「真実」と云うなり。(また)像法天台の()(きょう)に対するなり。
 御書に云く「正直の妙法を止観と説きまぎらかす故に(あり)のままの妙法ならざれば帯権(たいごん)の法に似たり」文。宗祖の弘経は「(あり)のままの妙法」なり。故に「真実の法華経の行者」と
云うなり。


           つづく


  本書目次                   日寛上人 文段目次



by johsei1129 | 2016-05-05 10:25 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)