人気ブログランキング |

日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ

2016年 05月 03日 ( 2 )


2016年 05月 03日

Gosho 法華題目抄(法華経題目抄)The Daimoku of the Lotus Sutra 1

妙とは法華経に云く「方便(ほうべん)の門を開いて真実の相を示す」、

Coming now to the character myō, the Lotus Sutra says, “This sutra opens the gate of expedient means and shows the form of true reality.” The character Myo means all-encompassing, which in turn means lacking nothing, the perfect mutual possession of all things.

As for the character Myo”, the Lotus Sutra states,This sutra opens the gate of expedient means in order to reveal the true aspect of all reality.

章安(しょうあん)大師の釈に云く「秘密の奥蔵(おうぞう)(ひら)く之を称して妙と為す」、

The Great Teacher Chang-an states, “Myō means to reveal the depths of the secret storehouse.”

The Great Teacher Zhangan interpreted this, stating,Myo means to unlock the profound truth that has been kept secret.”

妙楽大師此の文を受けて云く「(ほつ)とは(かい)なり」等云云、

The Great Teacher Miao-lo says of this, “To reveal means to open.”

In response to this passage, the Great Teacher Miaole explained,To unlock means to open.

 妙と申す事は開と云う事なり

  Hence the character myō means to open.

Therefore, the character Myo means to open [the truth].


                   つづく To be continued
御書本文 Original text  目次 Index



by johsei1129 | 2016-05-03 18:08 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 03日

 如説修行抄筆記 四  迹門には二乗鈍根の菩薩を以て怨嫉と為し、本門には菩薩中の近成(ごんじょう)を楽(ねが)う者を以て怨嫉と為す


一 入文に三あり。初めには宗教に()って宗旨を弘むれば必ず大難有ることを標す。二には「其の故は」の下は釈なり。三には「(あわれ)なるかな」の下は総結なり。初めの標に亦二。初めに宗教・(しゅう)()を標し、次に「如来の在世より」の下は大難を標するなり。

一 ()(おも)んみれば乃至此の経を信ぜん人

此の文を宗教に約するに「此の経」とは第一の教なり。「信ぜん人」とは第二の()なり。「末法」とは第三の時なり。「此の()」とは第四の国なり。「流布(るふ)の時」とは教法流布の前後なり。是れ宗教の五()分明なり。(また)宗旨の三()に約するに「此の()」とは本門の戒壇なり。「此の経」とは本門の本尊なり。「信」とは本門の題目なり。所謂(いわゆる)題目に二あり、信行なり。題目には修行と云い、(ここ)には信と云う。是れ信行の題目なり。此の故に宗教・(しゅう)()を標すと云うなり。

一 末法流布(るふ)の時

経に云く「(のち)の五百歳中広宣流布」文。次第の如く末法流布なり。一閻(いちえん)()(だい)なり。別しては日本国なり。

一 此の()

宝塔品に云く「誰か能く此の(しゃ)()国土に於て」文。涌出品に云く「(まさ)に此の土に於て」文。

私に云く、通じては一縁浮提、別しては日本国なり。御義口伝下十八丁。

一 ()の経を信ぜん人

「信」とは(じゅ)()の義なり。「此の経」とは題目の五字なり。経に云く「此の経は持ち(がた)し」文。御義口伝上四十七丁。

一 如来の(ざい)()より

必ず大難あることを標するなり。「怨嫉(おんしつ)」とは(しょ)の八・十六に云く「四十余年即ち説くことを得ず。今説んと欲すと(いえど)も、而も五千(つい)で即ち座を退く。仏世すら尚(しか)なり、(いか)(いわん)や未来をや」等云云。記の八本十五に云く「今通じて論ぜば、迹門には二乗(どん)(こん)の菩薩を以て怨嫉(おんしつ)と為し、五千起去(きこ)は未だ(きら)う可きに足らず。本門には菩薩中の(ごん)(じょう)()()(ねが)う者を以て怨嫉と為す。(こぞ)って衆の()らざるは、何ぞ(あやしみ)と為すを得ん」文。御書十七・六丁、()いて見よ。


                  つづく


 本書目次                        日寛上人 文段目次



by johsei1129 | 2016-05-03 16:59 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)