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日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 04月 12日 ( 2 )


2016年 04月 12日

Gosho 諫暁八幡抄 On reprimanding Hachiman

諫暁八幡抄

On reprimanding Hachiman

On remonstrating with Hachiman

       弘安三年十二月 五十九歳御作

       December 1280 Age: 59

(いま)日蓮は()ぬる建長五年(みずのと)(うし)四月二十八日より今年弘安三年太歳(かのえ)(たつ)十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし、(ただ)妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ(ばか)りなり、

Now for the past twenty-eight years, since the fifth year of the Kenchō era [1253], cyclical sign mizunoto-ushi, the twenty-eighth day of the fourth month, until the present, the twelfth month of the third year of the Kōan era [1280], cyclical sign kanoe-tatsu, I, Nichiren, have done nothing else, but have labored solely to put the five or seven characters of Myoho-renge-kyo into the mouths of all the living beings of the country of Japan.

For the past twenty-eight years, from the twenty-eighth day of the fourth month of the fifth year of Kenchō1253through the twelfth month of this current year, the third year of Kō’an(1280), I, Nichiren, have done nothing else but one thing. That is, to dedicate myself to have all the people of Japan chant the five and seven characters of Myoho-Renge-Kyo.

此れ(すなわち)母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲(じひ)なり

In doing so, I have shown the kind of compassion that a mother does when she labors to put milk into the mouth of her infant child.

This act of compassion is the same as a mother trying to put milk into the mouth of her infant.


                               つづく

御書 本編  目次 Index



by johsei1129 | 2016-04-12 09:51 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2016年 04月 12日

 当体義抄文段 七  如来は是れ妙法の人、妙法は是れ如来の法。人法殊なりと雖も、其の体は是れ一なり


一 問う一切衆生皆(ことごと)く等

  是の下は次に信受に約するなり。

  問う、(さき)には法体に約し、今は信受に約す。其の不同は如何。

  答う、前に法体に約せる意は、信と不信とを(えら)ばず、十界の()(しょう)を通じて妙法蓮華の当体とするなり。今、信受に約する意は、不信謗法の類を簡び捨て、(ただ)妙法信受の人を以て別して妙法の当体とするなり。故に其の義、大いに異なるなり。例せば台家(たいけ)に於て、法体に約する時は「若し理に()って論ぜば法界に非ずと云うこと無し」等と釈し、観門に約する時は「取著(しゅじゃく)の一念には三千を具せず」と釈するが如し。今(また)(また)()くの如し云々。止観第九・五十九、()の九末三十四、異論決上三十等、()いて見よ。  

一 当世の諸人(これ)多しと雖も二人を出でず等

  信受に約す、亦二。初めに略して()を簡び、()(あらわ)す。次に「涅槃経」の下は広く非を簡び、是を顕すなり。而して「権教方便(ほうべん)の念仏等を信ずる」等とは非を簡ぶなり。「(じっ)(きょう)の法華経を信ずる」等とは、是れ是を顕すなり。  

一 涅槃経に云く、一切衆生等

  此の下は広く()を簡び()を顕すなり。(ここ)に亦二。初めに文を引いて義を釈し、次に「此等の文の(こころ)を案ずるに」の下は、正しく非を簡び是を顕す。

  初めの文を引いて義を釈するに、亦二。初めに文を引き、次に「南岳(なんがく)の釈の意」の下は義を釈す。

  初めの文を引く、亦三。初めに涅槃経に云く、次に大強(たいごう)精進(しょうじん)(きょう)、三に四安楽行なり。  

一 一切(いっさい)衆生大乗を信ずる故に大乗の衆生と名く

  涅槃(ねはん)経に「大乗」と説くは、即ち是れ法華経なり。法華経とは妙法蓮華なり。故に文意に云く、一切衆生、妙法蓮華を信ずる故に妙法蓮華の当体(とうたい)と名づくるなりと。故に知んぬ、妙法蓮華を信ぜざる人をば妙法蓮華の当体とは名づけざるなり。  

一 大強精進経等。

  南岳大師の安楽行儀の七紙に之を引きたもうなり。  

一 衆生と如来と乃至(ないし)法蓮華経と称す

  問う、「妙法蓮華経」と称する意は如何(いかん)

  答う、「衆生と如来」とは即ち是れ蓮華の二字なり。謂く、「衆生」は是れ因、「如来」は是れ果。「()」の一字は因果倶時を顕すなり。「同共(どうぐ)一法(いちほっ)(しん)」とは即ち是れ法の一字なり。謂く、衆生、如来に同共すれば九界(そく)仏界なり。如来、衆生に同共すれば仏界即九界なり。十界互具、百界千如は即ち是れ法の字なり。「清浄(しょうじょう)(みょう)無比(むひ)」とは即ち是れ妙の一字なり。此の五字は通じて能歎(のうたん)の辞なるが故なり。中に於て「清浄」の二字は、衆生と如来との蓮華を(たん)ず。「妙無比」の三字は、(どう)()一法身の法の字を歎ずるなり。是の故に「妙法蓮華経」と称するなり。  

一 南岳(なんがく)大師(だいし)等。

  四安楽行三紙の文なり。「一心に一字を学すれば」とは是れ因なり。「衆果(しゅうか)(あまね)(そな)わる」とは是れ果なり。「一時に具足して」とは是れ()()なり。「次第(しだい)(にゅう)に非ず」とは是れ非を簡ぶ。「必ず蓮華の一華に衆果を一時に具足するが如し」等とは()を顕すなり。下の文も之に(じゅん)じて知るべし。  

一 南岳の(しゃく)の意は等

  此の下は次に義を釈するなり。是れを亦三と為す。初めに四安楽(あんらく)(ぎょう)の文を釈し、次に大強精進経の文を釈し、三に涅槃経の文を釈す。(もん)無きは是れを略するなり。初めに四安楽行を釈するに、道理・文証(これ)有り。学者之を見るべし。  

一 法華経に同共(どうぐ)して等

  問う、経文は(にん)に約して「如来と同共」等と云う。今、何ぞ法に約して「法華経に同共して」等と云うや。

  答う、如来は是れ妙法の人、妙法は是れ如来の法。人法(こと)なりと雖も、其の体は是れ一なり云云。


                     つづく

当体義抄文段 目次 



by johsei1129 | 2016-04-12 09:10 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)