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日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 01月 29日 ( 2 )


2016年 01月 29日

Gosho 南条殿御返事(白麦御書) 五

追伸 

Postscript:

この()()の中は・いみじかりし時は何事かあるべきと()えしかども、当時はことにあぶ()なげ()に・()え候ぞ、

When things are going smoothly in this world of ours, we suppose there is nothing to worry about, but these days the situation seems very threatening indeed.

When times are stable and peaceful, it seems as if nothing is happening; however at such times danger is imminent.

いかなる事ありともなげ()かせ給うべからず、ふつとおも()ひきりてそり()やう()なんども、たが()ふ事あらば・いよい()よ 悦びとこそおもひて・()うそ()ぶきて・これへわたらせ給へ。

Whatever happens, however, you must not despair. Be firm in your approach, and if things should not go as you wish with regard to your lands, then determine to be more contented than ever, adopt an attitude of indifference, and if you like, come here.

No matter what happens, do not despair. Have absolute conviction, even if you encounter difficulties including the loss of your fief. Accept it all with joy and come to visit me here, in high spirits.

所地しらぬ人もあまりにすぎ候ぞ、当時つくし(筑紫) へ・むかひて・なげく人人は・いかばかりとか・おぼす。これは皆日蓮を・かみ()あな()づらせ給いしゆへなり。

There are a great many people nowadays who cannot keep possession of their lands. Think of how grievous it must be for those who these days have to set off for Tsukushi ! And all of this comes about because the authorities treat me with disdain.

The number of people who have lost their land is rising. How deep the grief of those presently assigned to garrison Tsukushi must be. All of this is because those in authority hold me, Nichiren, in disdain.


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by johsei1129 | 2016-01-29 22:04 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 29日

報恩抄文段 下三一  本因妙の教主自受用身は、人法体一にして更に勝劣無し。法に即(そく)して人、人に即して法なり。

  問う、当文の(こころ)如何(いかん)

  答う、大段(だいだん)二義あり。

  一には諸流一同の義に云く、在世の本門の教主釈尊を本尊とすべし。是れ(すなわ)ち色相を以て本尊とすべきなり。戒壇・題目も亦(しか)なり。(いわ)く、在世の本門の戒壇、在世の本門の題目なりと云云。故に諸流一同に色相(しきそう)荘厳(しょうごん)の仏を造立(ぞうりゅう)して本尊と為せり。

  二には当流の(じん)()の意に云く、本門寿量文底の教主釈尊を本尊とすべし。是れ則ち名字(みょうじ)凡夫(ぼんぷ)の当体、本因妙の教主釈尊なり。戒壇・題目も亦(しか)なり。謂く、本門寿量文底の戒壇、本門寿量文底の題目なり。故に開目抄に「本門寿量文底秘沈(ひちん)」と云うは是れなり。

  先ず道理を明かさん。()在世(ざいせ)の本門の教主は(もと)是れ脱益(だっちゃく)()(しゅ)なり。久遠(くおん)本因の教主は本是れ下種(げしゅ)法主(ほっす)なり。今(すで)に末法下種の時なり。何ぞ下種の教主を(さしお)いて、(かえ)って脱仏を以て本尊と()すべけんや。是一。

  (いわん)(また)末法は(ほん)未有(みう)(ぜん)の衆生なり。故に脱益の仏に於ては三徳の(えん)浅し。何ぞ我が三徳の仏を閣いて、他の三徳の仏を以て本尊と為すべけんや是二。

  况や復本尊とは、(まさ)に勝れたるを用うべし。(しか)るに色相(しきそう)荘厳(しょうごん)の仏は(にん)(ぽう)体別なり。故に法に望むれば(すなわ)ち既に師資(しし)、父子、君臣の別あり。

(しばら)く一文を引かん。経に云く「()(また)人有って、七宝(しっぽう)を以て乃至供養(くよう)せん、()の人の所得の功徳(くどく)も、()の法華経の乃至一四(いっし)句偈(くげ)(じゅ)()する()の福の最も多きには()かじ」云云。

文の十・三十一に云く「七宝を四聖に(たてまつ)るは、一偈(いちげ)(たも)つに()かず。法は是れ聖の師なり。能生(のうしょう)(のう)(よう)(のう)(じょう)(のう)(えい)、法に()ぎたるは()し。故に人は軽く法は重し」云云。

(せん)八・二十五に云く「父母に(あら)ざれば以て(しょう)ずること無く、()(ちょう)に非ざれば以て(じょう)ずること無く、君主に非ざれば以て(さか)ること無し」文。

故に人法(にんぽう)の勝劣(あたか)も天地の如し。何ぞ(おと)れる仏を以て本尊と()すべけんや是三。

  (けだ)本因(ほんにん)(みょう)の教主自受用(じじゅゆう)(しん)は、人法(たい)(いつ)にして(さら)に勝劣無し。法に(そく)して人、人に即して法なり。故に経に云く「若しは経巻(きょうかん)所住の(ところ)には乃至()の中には、(すで)に如来の全身(いま)す」云云。天台云く「此の経は是れ(ほっ)(しん)舎利(しゃり)なり」と云云。今「法身」とは(すなわ)ち是れ自受用身なり。宗祖云く「自受用身即一念三千」と。伝教(でんぎょう)云く「一念三千即自受用身」等云云。故に知んぬ、本因(ほんにん)(みょう)の教主釈尊、自受用の全体(すなわ)ち是れ()の一念三千の法の本尊なり。事の一念三千の法の本尊の全体、即ち是れ本因妙の教主釈尊、自受用身なり。譬えば()()(やく)(どう)薬種(やくしゅ)(まった)く是れ童子(どうじ)にして、童子全く是れ薬種なるが如し。

  問う、何が故に体別・体一の(ことなり)ありや。

  答う、若し()()って論ずれば法界に非ざる無し。今、事に()いて論ずるに、差異無きに(あら)ず。(いわ)く、自受用身は(もと)是れ境地冥合(きょうちみょうごう)の真仏なり。故に(たい)(いつ)なり。(たと)えば月と光と冥合するが故に是れ体一なるが如し。若し色相荘厳の仏は世情(せじょう)随順(ずいじゅん)する形貌(ぎょうみょう)なり。故に体別なり。譬えば水月は方円(ほうえん)(うつわ)に移るが故に、天月と体は別なるが如し。

  問う、色相の応仏は世情に随順するの証文如何(いかん)

  答う、教時義に云く「世間(みな)仏に三十二相を具することを知る。()の世情に(したが)って、三十二相を(もっ)て仏と()す」と云云。金剛(こんごう)般若経(はんにゃきょう)に云く「()し三十二相を以て如来を見れば、(てん)(りん)(じょう)(おう)(すなわ)ち是れ如来ならん」文。止の七・六十七に云く「縁の(ため)に同じからず、多少は(かれ)()り」等云云。

  次に文相に(しょう)せん。「本門の教主釈尊」とは、是れ標の文にして人の本尊なり。「所謂(いわゆる)宝塔」の下は、是れ釈の文にして法の本尊なり。即ち本尊抄の文に同じ、少しく略なるのみ。(すで)人の本尊を標して、法の本尊を以て(これ)を釈す。故に知んぬ「本門の教主釈尊」とは、即ち是れ人法体一の遠元(くおんがん)(じょ)自受用報(じじゅゆうほう)(しん)本因(ほんにん)(みょう)の教主釈尊なり。意に云く、本因妙の教主釈尊の全体、即ち是れ一念三千の法の本尊なり。故に本尊とすべしと云云。()色相(しきそう)荘厳(しょうごん)の脱仏を(もっ)て「本門の教主釈尊」と名づけば、(すで)に是れ(にん)(ぽう)体別にして勝劣(しょうれつ)も亦雲泥(うんでい)なり。何ぞ一念三千の法の本尊を以て(これ)を釈すべけんや。之を思え、之を思え。

故に知んぬ「本門の教主釈尊」とは本門寿量文底、本因妙の教主釈尊なること、其の義(うた)た明らかなり。

 問う、若し(しか)らば、本因妙の教主釈尊を以て本尊と為すべし。何ぞ(れん)()を以て本尊と為すや。

 答う、云云。()末法相応抄の如し。啓蒙(けいもう)十五・七十三に多義あり云云。


                    つづく

報恩抄文段下 目次



by johsei1129 | 2016-01-29 21:52 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)