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日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 01月 24日 ( 3 )


2016年 01月 24日

法華経に於ては二乗七逆の者を許す上、博(白)地の凡夫、一生の中に仏位に入り妙覚に至つて因果の功徳を具するなり、と断じた【十法界明因果抄】

【十法界明因果抄】
■出筆時期:文応元年(1260)四月二十一日 三十九歳御。
■出筆場所:鎌倉 松葉ヶ谷の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は立正安国論の約三ヶ月前に書かれておられます。立正安国論が対外的に国家の誤った理念を正すことが目的だったのに対し、本書は日蓮門下の弟子・信徒に向け、地獄界から仏界までの十法界の因果を詳細に記すとともに、文末で「法華経に於ては二乗七逆の者を許す上、博(白)地の凡夫、一生の中に仏位に入り妙覚に至つて因果の功徳を具するなり」と断じ、成仏得道のための正法は法華経であることを示されておられます。
■ご真筆:現存しておりません。古写本:日進筆(身延久遠寺蔵)

【十法界明因果抄 本文】

                               沙門 日蓮撰
八十華厳経六十九に云く「普賢道に入ることを得て十法界を了知す」と、法華経第六に云く「地獄声・畜生声・餓鬼声・阿修羅声・比丘(びく)声・比丘尼(びくに)声人道・天声天道・声聞声・辟支仏(びゃくしぶつ)声・菩薩声・仏声」と已上十法界名目なり。

第一に地獄界とは観仏三昧経に云く「五逆罪を造り因果を撥無(はつむ)し大衆を誹謗し四重禁を犯し虚く信施を食するの者此の中に堕す」と阿鼻地獄なり、正法念経に云く「殺盗・婬欲・飲酒・妄語の者此の中に堕す」と大叫喚地獄なり、正法念経に云く「昔酒を以て人に与えて酔わしめ已つて調戯(ちょうぎ)して之を翫(ほころ)び彼をして羞恥(しゅうち)せしむるの者此の中に堕す」と叫喚地獄なり、正法念経に云く「殺生・偸盗・邪婬の者此の中に堕す」と衆合地獄なり、涅槃経に云く「殺に三種有り謂く下中上なり○下とは蟻子乃至(ないし)一切の畜生乃至下殺の因縁を以て地獄に堕し乃至具(つぶさ)に下の苦を受く」文。

問うて云く十悪五逆等を造りて地獄に堕するは世間の道俗皆之を知れり謗法に依つて地獄に堕するは未だ其の相貌(そうみょう)を知らざる如何、答えて云く堅慧(けんね)菩薩の造・勒那摩提(ろくなまだい)の訳・究竟一乗宝性論に云く「楽(ねがっ)て小法を行じて法及び法師を謗じ○如来の教を識らずして説くこと・修多羅に背いて是真実義と言う」文、此の文の如くんば小乗を信じて真実義と云い大乗を知らざるは是れ謗法なり、天親菩薩の説・真諦三蔵の訳・仏性論に云く「若し大乗に憎背するは此は是一闡提の因なり衆生をして此の法を捨てしむるを為(もっ)ての故に」文、此の文の如くんば大小流布の世に一向に小乗を弘め自身も大乗に背き人に於ても大乗を捨てしむる是を謗法と云うなり、天台大師の梵網経の疏に云く「謗は是れ乖背(けはい)の名なり。絓(かい)を是れ解とせば理に称わず、言(ことば)実に当らず異解して説く者を皆名けて謗と為すなり己が宗に背くが故に罪を得」文、法華経の譬喩品に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗(きぼう)せば則ち一切世間の仏種を断ぜん乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」文、此の文の意は小乗の三賢已前・大乗の十信已前・末代の凡夫の十悪・五逆・不孝父母・女人等を嫌わず、此等法華経の名字を聞いて或は題名を唱え一字・一句・四句・一品・一巻・八巻等を受持し読誦し乃至亦上の如く行ぜん人を随喜し讃歎する人は法華経よりの外、一代の聖教を深く習い義理に達し堅く大小乗の戒を持てる大菩薩の如き者より勝れて往生成仏を遂ぐ可しと説くを、信ぜずして還つて法華経は地住已上の菩薩の為・或は上根・上智の凡夫の為にして愚人・悪人・女人・末代の凡夫等の為には非ずと言わん者は、即ち一切衆生の成仏の種を断じて阿鼻獄に入る可しと説ける文なり。

涅槃経に云く「仏の正法に於て永く護惜建立の心無し」文、此の文の意は此の大涅槃経の大法世間に滅尽せんを惜まざる者は即ち是れ誹謗の者なり、天台大師法華経の怨敵を定めて云く「聞く事を喜ばざる者を怨と為す」文、謗法は多種なり、大小流布の国に生れて一向に小乗の法を学して身を治め大乗に遷らざるは是れ謗法なり、亦華厳・方等・般若等の諸大乗経を習える人も、諸経と法華経と等同の思を作し人をして等同の義を学ばしめ法華経に遷らざるは是れ謗法なり、亦偶(たまたま)円機有る人の法華経を学ぶをも我が法に付けて世利を貪るが為に、汝が機は法華経に当らざる由を称して此の経を捨て権経に遷らしむるは是れ大謗法なり、此くの如き等は皆地獄の業なり、人間に生ずること過去の五戒は強く三悪道の業因は弱きが故に人間に生ずるなり、亦当世の人も五逆を作る者は少く十悪は盛に之を犯す、亦偶後世を願う人の十悪を犯さずして善人の如くなるも自然に愚癡の失に依つて身口は善く意は悪しき師を信ず、但我のみ此の邪法を信ずるに非ず国を知行する人・人民を聳(すすめ)て我が邪法に同ぜしめ妻子・眷属・所従の人を以て亦聳め従え我が行を行ぜしむ、故に正法を行ぜしむる人に於て結縁を作さず亦民・所従等に於ても随喜の心を至さしめず、故に自他共に謗法の者と成りて修善・止悪の如き人も自然に阿鼻地獄の業を招くこと末法に於て多分之れ有るか。

阿難尊者は浄飯王の甥・斛飯王の太子・提婆達多の舎弟・釈迦如来の従子なり、如来に仕え奉つて二十年覚意三昧を得て一代聖教を覚れり、仏入滅の後・阿闍世王・阿難を帰依し奉る、仏の滅後四十年の此(ころ)阿難尊者・一の竹林(ちくりん)の中に至るに一りの比丘有り、一の法句の偈を誦して云く「若し人生じて百歳なりとも水の潦涸(ろうかく)を見ずんば、生じて一日にして之を覩見(とけん)することを得るに如かず」已上、阿難此の偈を聞き比丘に語つて云く此れ仏説に非ず、汝修行す可らず、爾時に比丘阿難に問うて云く仏説は如何、阿難答えて云く若人生じて百歳なりとも生滅の法を解せずんば生じて一日にして之を解了することを得んには如かず、已上此の文仏説なり、汝が唱うる所の偈は此の文を謬(あやま)りたるなり、爾の時に比丘此の偈を得て本師の比丘に語る、本師の云く我汝に教うる所の偈(げ)は真の仏説なり阿難が唱うる所の偈は仏説に非ず、阿難年老衰して言錯謬(ことばあやまり)多し、信ず可らず、此の比丘亦阿難の偈を捨てて本の謬りたる偈を唱う、阿難又竹林に入りて之を聞くに我が教うる所の偈に非ず、重ねて之を語るに比丘信用せざりき等云云、仏の滅後四十年にさえ既に謬り出来せり、何に況んや仏の滅後既に二千余年を過ぎたり、仏法天竺より唐土に至り唐土より日本に至る、論師・三蔵・人師等伝来せり定めて謬り無き法は万が一なるか、何に況や当世の学者・偏執を先と為して我慢を挿(さしはさ)み火を水と諍(あらそ)い之を糾さず、偶(たまたま)仏の教の如く教を宣ぶる学者をも之を信用せず、故に謗法ならざる者は万が一なるか。

第二に餓鬼道とは正法念経に云く「昔財を貪りて屠殺せるの者此の報を受く」と、亦云く「丈夫自ら美食をくらい妻子に与えず或は婦人自ら食して夫子(おとこ)に与えざるは此の報を受く」と、亦云く「名利を貪るが為に不浄説法する者此の報を受く」と、亦云く「昔酒をうるに水を加うる者此の報を受く」と、亦云く「若し人労して少物を得たるを誑惑して之を取り用いける者此の報を受く」と、亦云く「昔行路人の病苦ありて疲極せるに其の売(うりもの)を欺き取り直(あたい)を与うること薄少なりし者此の報を受く」と、又云く「昔刑獄を典主(つかさどり)・人の飲食を取りし者此の報を受く」と、亦云く「昔陰凉樹(おんりょうじゅ)を伐り及び衆僧の園林を伐りし者此の報を受く」と文、法華経に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば○常に地獄に処すること園観に遊ぶが如く余の悪道に在ること己が舎宅の如し」文、慳貪(けんどん)・偸盗(ちゅうとう)等の罪に依つて餓鬼道に堕することは世人知り易し、慳貪等無き諸の善人も謗法に依り亦謗法の人に親近し自然に其の義を信ずるに依つて餓鬼道に堕することは智者に非ざれば之を知らず能く能く恐る可きか。

第三に畜生道とは愚癡無慙(ぐちむざん)にして徒(いたずら)に信施の他物を受けて之を償わざる者此の報を受くるなり、法華経に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば○当に畜生に堕すべし」文已上三悪道なり。
第四に修羅道とは止観の一に云く「若し其の心・念念に常に彼に勝らんことを欲し耐えざれば人を下し他を軽しめ己を珍(たっと)ぶこと鵄(とび)の高く飛びて下視(みおろす)が如し、而も外には仁・義・礼・智・信を掲げて下品の善心を起し阿修羅の道を行ずるなり」文。
第五に人道とは報恩経に云く「三帰五戒は人に生る」文。
第六に天道とは二有り、欲天には十善を持ちて生れ色無色天には下地は麤苦障(そくしょう)・上地は静妙離の六行観を以て生ずるなり。

問うて云く六道の生因は是くの如し、抑(そもそも)同時に五戒を持ちて人界の生を受くるに何ぞ生盲・聾・瘖瘂(おんあ)・矬陋(ざる)・癴躃(れんびゃく)・背傴(はいる)・貧窮(びんぐ)・多病・瞋恚(しんに)等・無量の差別有りや、答えて云く大論に云く「若は衆生の眼を破り、若は衆生の眼を屈(くじ)り、若は正見の眼を破り、罪福無しと言わん、是の人死して地獄に堕し罪畢(おわ)つて人と為り生れて従り盲(めくら)なり、若は復仏塔の中の火珠及び諸の灯明を盗む・是くの如き等の種種の先世の業・因縁をもて眼を失うなり○聾(つんぼ)とは是れ先世の因縁・師父の教訓を受けず行ぜず而も反つて瞋恚す、是の罪を以ての故に聾となる、復次に衆生の耳を截り若は衆生の耳を破り若は仏塔・僧塔諸の善人・福田の中の犍椎(けんち)・鈴(れい)・貝(ばい)及び鼓を盗む故に此の罪を得るなり、先世に他の舌を截(き)り或は其の口を塞ぎ或は悪薬を与えて語ることを得ざらしめ、或は師の教・父母の教勅を聞き其の語を断つ○世に生れて人と為り唖(おし)にして言うこと能わず○先世に他の坐禅を破り坐禅の舎を破り諸の咒術(じゅじゅつ)を以て人を咒して瞋らし闘諍し婬欲せしむ、今世に諸の結使(けっし)厚重なること婆羅門の其の稲田を失い其の婦復(つままた)死して即時に狂発し裸形にして走りしが如くならん、先世に仏・阿羅漢・辟支仏の食及び父母所親の食を奪えば仏世に値うと雖も猶故(なお)飢渇(けかつ)す、罪の重きを以ての故なり、○先世に好んで鞭杖(べんじょう)・拷掠(こうりょう)・閉繋(へいけい)を行じ種種に悩すが故に今世の病を得るなり○先世に他の身を破り、其の頭を截り、其の手足を斬り、種種の身分を破り或は仏像を壊り、仏像の鼻及び諸の賢聖の形像を毀(やぶ)り、或は父母の形像を破る、是の罪を以ての故に形を受くる多く具足せず、復次に不善法の報・身を受くること醜陋(しゅうる)なり」文、法華経に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば○若し人と為ることを得ては諸根闇鈍にして盲・聾・背傴ならん○口の気常に臭く鬼魅に著せられん、貧窮(びんぐ)下賤にして人に使われ多病瘠痩(しょうそう)にして依怙(えこ)する所無く○若は他の叛逆し抄劫(しょうこう)し竊盗(せっとう)せん、是くの如き等の罪横(よこしま)に其の殃(わざわい)に羅(かか)らん」文。

又八の巻に云く「若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出さん、若は実にもあれ若は不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん、若し之を軽笑すること有らん者は当に世世に牙歯疎欠(げしすきかけ)・醜き脣(くちびる)・平める鼻・手脚繚戻(しゅきゃくりょうらい)し、眼目角睞(かくらい)に身体臭穢(しゅうえ)にして悪瘡(あくそう)・膿血(のうけつ)・水腹・短気、諸の悪重病あるべし」文、

問うて云く何なる業を修する者が六道に生じて其の中の王と成るや、答えて云く大乗の菩薩戒を持して之を破る者は色界の梵王・欲界の魔王・帝釈・四輪王・禽獣王・閻魔王等と成るなり、心地観経に云く「諸王の受くる所の諸の福楽は往昔(むかし)曾つて三の浄戒を持し、戒徳薫修して招き感ずる所人天の妙果・王の身を獲○中品に菩薩戒を受持すれば福徳自在の転輪王として心の所作に随つて尽く皆成じ、無量の人天悉く遵奉す、下の上品に持すれば大鬼王として一切の非人咸く率伏す、戒品を受持して欠犯すと雖も戒の勝るるに由るが故に王と為ることを得、下の中品に持すれば禽獣の王として一切の飛走皆帰伏す清浄の戒に於て欠犯有るも戒の勝るるに由るが故に王と為ることを得、下の下品に持すれば琰魔王(えんまおう)として地獄の中に処して常に自在なり、禁戒を毀り悪道に生ずと雖も戒の勝るるに由るが故に王と為る事を得○若し如来の戒を受けざる事有れば終に野干の身をも得ること能わず、何に況んや能く人天の中の最勝の快楽を感じて王位に居せん」文、安然和尚の広釈に云く「菩薩の大戒は持して法王と成り犯して世王と成る而も戒の失せざること譬えば金銀を器と成すに用ゆるに貴く器を破りて用いざるも、而も宝は失せざるが如し」亦云く「無量寿観に云く劫初(こっしょ)より已来(このかた)八万の王有つて其の父を殺害すと、此則ち菩薩戒を受けて国王と作ると雖も今殺の戒を犯して皆地獄に堕れども犯戒の力も王と作るなり」大仏頂経に云く「発心の菩薩罪を犯せども暫く天神地祇と作る」と、大随求(だいずいぐ)に云く「天帝命尽きて忽ち驢(ろ)の腹に入れども随求の力に由つて還つて天上に生ず」と、尊勝に云く「善住天子・死後七返畜生の身に堕すべきを尊勝の力に由つて還つて天の報を得たり」と、昔国王有り千車をもて水を運び仏塔の焼くるを救う自ら憍心(きょうしん)を起して修羅王と作る、昔梁の武帝五百の袈裟を須弥山の五百の羅漢に施す、誌公(しこう)云く「往(むかし)五百に施すに一りの衆を欠けり罪を犯して暫く人王と作る即ち武帝是なり、昔国王有つて民を治むること等からず今天王と作れども大鬼王と為る、即ち東南西の三天王是なり拘留孫(くるそん)の末に菩薩と成りて発誓し現に北方毘沙門と作る是なり」云云、
此等の文を以て之を思うに小乗戒を持して破る者は六道の民と作り大乗戒を破する者は六道の王と成り持する者は仏と成る是なり。

第七に声聞道とは此の界の因果をば阿含・小乗・十二年の経に分明に之を明せり、諸大乗経に於ても大に対せんが為に亦之をば明せり、声聞に於て四種有り一には優婆塞(うばそく)・俗男なり、五戒を持し苦・空・無常・無我の観を修し自調自度の心強くして敢て化他の意無く見思を断尽して阿羅漢と成る、此くの如くする時・自然に髪を剃(そ)るに自ら落つ、二には優婆夷(うばい)・俗女なり五戒を持し髪を剃るに自ら落つること男の如し・三には比丘僧なり二百五十戒具足戒なりを持して苦・空・無常・無我の観を修し見思を断じて阿羅漢と成る此くの如くするの時・髪を剃らざれども生ぜず、四に比丘尼なり五百戒を持す余は比丘の如し、一代諸経に列座せる舎利弗(しゃりほつ)目連等の如き声聞是なり、永く六道に生ぜず亦仏菩薩とも成らず灰身滅智(けしんめっち)し決定(けつじょう)して仏に成らざるなり、小乗戒の手本たる尽形寿(じんぎょうじゅ)の戒は一度依身を壊れば永く戒の功徳無し、上品を持すれば二乗と成り中下を持すれば人天に生じて民と為る、之を破れば三悪道に堕して罪人と成るなり、安然和尚の広釈に云く「三善は世戒なり因生して果を感じ業尽きて悪に堕す、譬えば楊葉(ようよう)の秋至れば金に似れども秋去れば地に落つるが如し、二乗の小戒は持する時は果拙(つたな)く、破る時は永く捨つ、譬えば瓦器(がき)の完くして用うるに卑しく、若し破れば永く失するが如し」文。

第八に縁覚道とは二有り一には部行独覚・仏前に在りて声聞の如く小乗の法を習い小乗の戒を持し見思を断じて永不成仏の者と成る、二には鱗喩独覚(りんゆどっかく)・無仏の世に在りて飛花落葉を見て苦・空・無常・無我の観を作し見思を断じて永不成仏の身と成る、戒も亦声聞の如し此の声聞縁覚を二乗とは云うなり。

第九に菩薩界とは六道の凡夫の中に於て自身を軽んじ他人を重んじ悪を以て己に向け善を以て他に与えんと念う者有り、仏此の人の為に諸の大乗経に於て菩薩戒を説きたまえり、此の菩薩戒に於て三有り一には摂善法戒(しょうぜんぽうかい)所謂(いわゆる)八万四千の法門を習い尽さんと願す、二には饒益有情戒(にょうやくうじょうかい)・一切衆生を度しての後に自ら成仏せんと欲する是なり、三には摂律儀戒一切の諸戒を尽く持せんと欲する是なり、華厳経の心を演ぶる梵網経に云く「仏諸の仏子に告げて言く十重の波羅提木叉(はらだいぼくしゃ)有り、若し菩薩戒を受けて此の戒を誦せざる者は菩薩に非ず仏の種子に非ず、我も亦是くの如く誦す、一切の菩薩は已に学し、一切の菩薩は当に学し、一切の菩薩は今学す」文、菩薩と言うは二乗を除いて一切の有情なり、小乗の如きは戒に随つて異るなり、菩薩戒は爾らず、一切の有心に必ず十重禁等を授く、一戒を持するを一分の菩薩と云い、具(つぶさ)に十分を受くるを具足の菩薩と名く、故に瓔珞(ようらく)経に云く「一分の戒を受くること有れば一分の菩薩と名け乃至二分・三分・四分・十分なるを具足の受戒と云う」文。

問うて云く二乗を除くの文如何、答えて云く梵網経に菩薩戒を受くる者を列ねて云く「若し仏戒を受くる者は国王・王子・百官・宰相・比丘・比丘尼・十八梵天・六欲天子・庶民・黄門・婬男・婬女・奴婢(ぬひ)・八部・鬼神・金剛神・畜生・乃至変化人にもあれ但法師の語を解するは尽く戒を受得すれば皆第一清浄の者と名く」文、此の中に於て二乗無きなり、方等部の結経たる瓔珞経にも亦二乗無し、問うて云く二乗所持の不殺生戒と菩薩所持の不殺生戒と差別如何、答えて云く所持の戒の名は同じと雖も持する様並に心念永く異るなり、故に戒の功徳も亦浅深あり、問うて云く異なる様如何、答えて云く二乗の不殺生戒は永く六道に還らんと思わず、故に化導の心無し、亦仏菩薩と成らんと思わず但灰身滅智の思を成すなり、譬えば木を焼き灰と為しての後に一塵も無きが如し、故に此の戒をば瓦器に譬う、破れて後用うること無きが故なり、菩薩は爾らず饒益有情戒を発して此の戒を持するが故に機を見て五逆十悪を造り同く犯せども此の戒は破れず、還つて弥弥(いよいよ)戒体を全くす、故に瓔珞経に云く「犯すこと有れども失せず未来際を尽くす」文、故に此の戒をば金銀の器に譬う、完くして持する時も破する時も永く失せざるが故なり、問うて云く此の戒を持する人は幾劫を経てか成仏するや、答えて云く瓔珞経に云く「未だ住前に上らざる○若は一劫二劫三劫乃至十劫を経て初住の位の中に入ることを得」文、文の意は凡夫に於て此の戒を持するを信位の菩薩と云う、然りと雖も一劫二劫乃至十劫の間は六道に沈輪し十劫を経て不退の位に入り永く六道の苦を受けざるを不退の菩薩と云う、未だ仏に成らず還つて六道に入れども苦無きなり。

第十に仏界とは菩薩の位に於て四弘誓願を発すを以て戒と為す、三僧祇の間六度万行を修し見思・塵沙・無明の三惑を断尽して仏と成る、故に心地観経に云く「三僧企耶大劫(そうぎやだいこう)の中に具に百千の諸の苦行を修し功徳円満にして法界に遍く十地究竟して三身を証す」文、因位に於て諸の戒を持ち仏果の位に至つて仏身を荘厳す、三十二相・八十種好は即ち是の戒の功徳の感ずる所なり、但し仏果の位に至れば戒体失す、譬えば華の果と成つて華の形無きが如し、故に天台の梵網経の疏に云く「仏果に至つて乃ち廃す」文、問うて云く梵網経等の大乗戒は現身に七逆を造れると並に決定性の二乗とを許すや、答えて云く梵網経に云く「若し戒を受けんと欲する時は師問い言うべし汝現身に七逆の罪を作らざるやと、菩薩の法師は七逆の人の与に現身に戒を受けしむることを得ず」文、此の文の如くんば七逆の人は現身に受戒を許さず、大般若経に云く「若し菩薩設い恒河沙劫に妙の五欲を受くるとも菩薩戒に於ては猶犯と名けず若し一念二乗の心を起さば即ち名けて犯と為す」文、大荘厳論に云く「恒に地獄に処すと雖も大菩提を障(ささえ)ず、若し自利の心を起さば是れ大菩提の障(さわり)なり」文、此等の文の如くんば六凡に於ては菩薩戒を授け二乗に於ては制止を加うる者なり、二乗戒を嫌うは二乗所持の五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒等を嫌うに非ず、彼の戒は菩薩も持す可し、但二乗の心念を嫌うなり、夫れ以(おもん)みれば持戒は父母・師僧・国王・主君の一切衆生三宝の恩を報ぜんが為なり、父母は養育の恩深し一切衆生は互に相助くる恩重し国王は正法を以て世を治むれば自他安穏なり、此に依つて善を修すれば恩重し主君も亦彼の恩を蒙りて父母・妻子・眷属・所従・牛馬等を養う、設い爾らずと雖も一身を顧る等の恩是重し、師は亦邪道を閉じ正道に趣かしむる等の恩是深し、仏恩は言うに及ばず是くの如く無量の恩分之有り、而るに二乗は此等の報恩皆欠けたり、故に一念も二乗の心を起すは十悪五逆に過ぎたり、一念も菩薩の心を起すは一切諸仏の後心の功徳を起せるなり、已上四十余年の間の大小乗の戒なり。

法華経の戒と言うは二有り、一には相待妙の戒・二には絶待妙の戒なり、先ず相待妙の戒とは四十余年の大小乗の戒と法華経の戒と相対して爾前を麤(そ)戒と云い法華経を妙戒と云うて諸経の戒をば未顕真実の戒・歴劫修行の戒・決定性の二乗戒と嫌うなり、法華経の戒は真実の戒・速疾頓成の戒・二乗の成仏を嫌わざる戒等を相対して麤妙を論ずるを相対妙の戒と云うなり。

問うて云く梵網経に云く「衆生・仏戒を受くれば即ち諸仏の位に入る、位大覚に同じ已に実に是諸仏の子なり」文。
華厳経に云く「初発心の時便ち正覚を成ず」文、大品経に云く「初発心の時即ち道場に坐す」文、此等の文の如くんば四十余年の大乗戒に於て法華経の如く速疾頓成の戒有り、何ぞ但歴劫修行の戒なりと云うや、答えて云く此れに於て二義有り、一義に云く四十余年の間に於て歴劫修行の戒と速疾頓成の戒と有り、法華経に於ては但一つの速疾頓成の戒のみ有り、其の中に於て四十余年の間の歴劫修行の戒に於ては法華経の戒に劣ると雖も、四十余年の間の速疾頓成の戒に於ては法華経の戒に同じ、故に上に出す所の衆生仏戒を受れば即ち諸仏の位に入る等の文は法華経の須臾聞之・即得究竟の文に之同じ、但し無量義経に四十余年の経を挙げて歴劫修行等と云えるは四十余年の内の歴劫修行の戒計りを嫌うなり、速疾頓成の戒をば嫌わざるなり、一義に云く四十余年の間の戒は一向に歴劫修行の戒・法華経の戒は速疾頓成の戒なり、但し上に出す所の四十余年の諸経の速疾頓成の戒に於ては凡夫地より速疾頓成するに非ず、凡夫地より無量の行を成じて無量劫を経、最後に於て凡夫地より即身成仏す、故に最後に従えて速疾頓成とは説くなり、委悉に之を論ぜば歴劫修行の所摂なり、故に無量義経には総て四十余年の経を挙げて仏・無量義経の速疾頓成に対して宣説菩薩歴劫修行と嫌いたまえり、大荘厳菩薩の此の義を承けて領解して云く「無量無辺・不可思議阿僧祇劫を過れども終に無上菩提を成ずることを得ず、何を以ての故に菩提の大直道を知らざるが故に険逕(けんぎょう)を行くに留難多きが故に、乃至大直道を行くに留難無きが故に」文、若し四十余年の間に無量義経・法華経の如く速疾頓成の戒之れ有れば仏猥りに四十余年の実義を隠し給うの失之れ有り云云、二義の中に後の義を作る者は存知の義なり、相待妙の戒是なり、次に絶待妙の戒とは法華経に於ては別の戒無し、爾前の戒即ち法華経の戒なり、其の故は爾前の人天の楊葉戒・小乗阿含経の二乗の瓦器戒・華厳・方等・般若・観経等の歴劫菩薩の金銀戒の行者法華経に至つて互に和会して一同と成る、所以に人天の楊葉戒の人は二乗の瓦器・菩薩の金銀戒を具し菩薩の金銀戒に人天の楊葉・二乗の瓦器を具す、余は以て知んぬ可し、三悪道の人は現身に於て戒無し、過去に於て人天に生れし時人天の楊葉・二乗の瓦器菩薩の金銀戒を持ち退して三悪道に堕す、然りと雖も其の功徳未だ失せず之有り、三悪道の人・法華経に入る時其の戒之を起す故に三悪道にも亦十界を具す、故に爾前の十界の人法華経に来至すれば皆持戒なり、故に法華経に云く「是を持戒と名く」文、安然和尚の広釈に云く「法華に云く、能く法華を説く是を持戒と名く」文、爾前経の如く師に随つて戒を持せず、但此の経を信ずるが即ち持戒なり。

爾前の経には十界互具を明さず、故に菩薩無量劫を経て修行すれども二乗・人天等の余戒の功徳無く但一界の功徳を成ず故に一界の功徳を以て成仏を遂げず、故に一界の功徳も亦成ぜず、爾前の人・法華経に至りぬれば余界の功徳を一界に具す、故に爾前の経即ち法華経なり、法華経即ち爾前の経なり、法華経は爾前の経を離れず、爾前の経は法華経を離れず、是を妙法と言う、此の覚り起りて後は行者・阿含・小乗経を読むとも即ち一切の大乗経を読誦し法華経を読む人なり、故に法華経に云く「声聞の法を決了すれば是諸経の王なり」文、阿含経即ち法華経と云う文なり、「一仏乗に於て分別して三と説く」文、華厳・方等・般若即ち法華経と云う文なり、「若し俗間の経書・治世の語言・資生の業等を説かんも皆正法に順ず」文、一切の外道・老子・孔子等の経は即ち法華経と云ふ文なり、梵網経等の権大乗の戒と法華経の戒とに多くの差別有り、一には彼の戒は二乗七逆の者を許さず、二には戒の功徳に仏果を具せず、三には彼は歴劫修行の戒なり、是くの如き等の多くの失(とが)有り、法華経に於ては二乗七逆の者を許す上・博(白)地の凡夫・一生の中に仏位に入り、妙覚に至つて因果の功徳を具するなり。

四月二十一日   日 蓮 花押





by johsei1129 | 2016-01-24 19:27 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(1)
2016年 01月 24日

Gosho 上野殿御返事 (造営書) 四

さる事なくば(ぼん)王・帝釈(たいしゃく)・日月・四天その人の家をすみ()かとせんとちか()はせ給いて候は・いふに()ひなきものなれども約束と申す事はたが()へぬ事にて候に、さりとも・この人人はいかでか仏前の御約束をば・たが()へさせ給い候べき、

Without such resolve, the king Brahmā, the lord Shakra, the gods of the sun and moon, and the four heavenly kings would be unable to carry out their vow to make the home of the upholder of the correct teaching their own dwelling. Even a person who seems worthless strives so as not to go against his promise. How then can these gods go back on the promise that they made to the Buddha?

Bonten,Taishaku, the Gods of the Sun and the Moon and the Four Heavenly Kings have pledged to reside in the house of such a person. Naturally, a promise must be kept. Therefore, how could they break their pledge to the Buddha (注:この訳は内容不足。「いうにかひなきもの」以下の訳文が欠けている)

もし此の事まことになり候はば・()が大事と()もはん人人のせいし(制止)候、又おほ()きなる難来るべし、その時すでに此の事かな()うべきにやとおぼ()()して・いよいよ強盛なるべし、

And if this is indeed the case, when those who are vital to your interests try to prevent you from upholding your faith, or you are faced with great obstacles, you must believe that the king Brahmā and the others will without fail fulfill their vow, and strengthen your faith more than ever.

When the protection of the Heavenly Gods is nigh, those important to you may try to hinder your faith in the Lotus Sutra and great persecutions may befall you. Should that occur, you must have conviction that the Heavenly Gods are always protecting you and are making your faith and practice even stronger.

さるほどならば聖霊・仏になり給うべし、成り給うならば来りて()ほり給うべし。

In that event, your late father will surely attain Buddhahood. And if that happens, he will no doubt come and keep you from harm.

Then, your father will truly attain Buddhahood and surely appear in order to protect you.

()の時一切は心にまか()せんずるなり、かへす・がへす人のせいし(制止)あらば心にうれ()しくおぼすべし、恐恐謹言。

At such a time, things will go just as you wish. If people try to hinder your faith, I urge you strongly to feel joy. With my deep respect.

When faced with difficulties, make faith the foundation for all you do. Again, whenever someone hinders your faith in the Lotus Sutra, you should feel delighted. With my deepest respect.

  
  五月三日                日蓮 花押

 The third day of the fifth month      Nichiren

 上野殿御返事

  Reply to Ueno   

 Reply to Lord Ueno


解説  全目次 Index All



by johsei1129 | 2016-01-24 03:53 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 24日

報恩抄文段 下二六

  三月二十五日

一 迦葉(かしょう)阿難(あなん)乃至伝教(でんぎょう)等の弘通(ぐつう)せさせ給はざる正法なり

  問う、(これ)()聖師(しょうし)、之を弘めたまわざる所以(ゆえん)如何(いかん)

  答う、(ここ)に四意有り。

  太田抄二十五・六に云く「一には自身()えざるが故に。二には所被(しょひ)()無きが故に。三には仏より(ゆず)(あた)えられざるが故に。四には時(きた)らざるが故なり」已上。

  故に知んぬ、(れん)()(これ)を弘通するに(また)四意あり。一には自身()く堪えたもうが故に、二には所被の機有るが故に、三には仏より譲り与うるが故に、四には時(きた)るが故に云云。



(せん)(しょう)未弘(みぐ)に対して、蓮祖弘通の所以(ゆえん)明かすべし



  一には、彼は堪えず、是れは能く堪うるが故に。

  本尊抄八・二十四に云く「観音(かんのん)乃至(やく)(おう)菩薩は乃至又爾前(にぜん)迹門(しゃくもん)の菩薩なり、本法(ほんぽう)所持(しょじ)の人に(あら)れば末法の弘法(ぐほう)()らざる者か」文。

「爾前迹門」とは、今日の迹本二門を通じて迹門(しゃくもん)と名づく。是れ(すなわ)ち迹中所説(しょせつ)の故なり。故に妙楽(みょうらく)云く云云。久遠(くおん)名字(みょうじ)の妙法を「本法(ほんぽう)」と名づくるなり。

(まさ)に知るべし、観音(かんのん)(やく)(おう)等は迹中の番々(ばんばん)に於て、迹本二門の説法を聞いて、()く之を所持すと(いえど)も、(いま)文底(もんてい)秘沈(ひちん)の久遠名字の妙法の付嘱を受けず。何ぞ之を所持すべけんや。是れ則ち世々(せせ)番々(ばんばん)に於て付嘱せざるが故なり。

 (しか)るに本化(ほんげ)の菩薩は久遠名字の御弟子(みでし)にして、能く此の本法を受持し給えり。故に久遠名字已来(いらい)、本法所持の菩薩なり。故に此の法を弘むること、(なお)魚の水に()れ、鳥の虚空(こくう)自在(じざい)なるが如し。故に観音・薬王等は自身(すで)()えざるが故に之を弘めず。()(れん)()は自身能く堪うるが故に之を弘めたもうなり。

 二には、彼れは所被(しょひ)()く、()れは所被の機有るが故に。

 立正観抄三十八・六に云く「天台(てんだい)大師は霊山(りょうぜん)聴衆(ちょうしゅう)として如来出世(しゅっせ)本懐(ほんかい)()べたもうと雖も、時(いた)らざるが故に妙法の名字(みょうじ)()えて止観(しかん)と号す乃至正直(しょうじき)の妙法を止観と()きまぎらかす故に(あり)のままの妙法ならざれば帯権(たいごん)の法に()たり、故に知んぬ天台弘通(ぐつう)の所化の機は在世(ざいせ)帯権の円機(えんき)の如し、本化(ほんげ)弘通の所化の機は法華本門の直機(じっき)なり」と文。

 彼は(すで)に「帯権の円機」にして、是れ本門の直機に(あら)ず。何ぞ本門の大法を(さず)けんや。此れは是れ「法華本門の直機」なり。「直機」とは、(ただ)ちに本因下(ほんいんげ)(しゅ)の機なり。故に蓮師(れんし)は本因下種の要法、三()の秘法を弘めたもうなり。

 三には、彼は(ゆず)(あた)えず、此れは譲り与うるが故なり。

 本尊抄八・二十一に云く「所詮迹化(しょせんしゃっけ)他方(たほう)の大菩薩等に我が内証の寿量品(じゅりょうほん)(もっ)授与(じゅよ)すべからず、末法の(はじめ)(ほう)(ぼう)の国にして悪機(あっき)なるが故に(これ)(とど)めて地涌(じゆ)千界(せんがい)の大菩薩を()して寿量品の肝心(かんじん)たる妙法蓮華経の五字を以て(えん)()の衆生に授与せしめ給う」文。

 「内証の寿量品」とは(もん)底本因(ていほんにん)(みょう)の事なり。

 問う、何ぞ迹化(しゃっけ)・他方を(とど)めて、但本化(ただほんげ)のみを召すや。

 答う、天台(てんだい)(すで)に前三後三の六釈を作り、之を()して内鑑(ないがん)すと(いえど)も、末法に(ゆず)って明らかに之を釈せず。故に今、諸文の意に(じゅん)じて、明らかに之を会すべし。(いわ)く、他方・本化の前三後三、迹化・本化の前三後三なり。是れは(おく)(たく)(あら)ず。故に明文(みょうもん)を引く云云。


                      つづく

報恩抄文段下 目次



by johsei1129 | 2016-01-24 03:36 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)