人気ブログランキング |

日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ

2016年 01月 07日 ( 3 )


2016年 01月 07日

報恩抄文段 下六

一 此れはそれには・()るべくもなし等

此の下は次に(まさ)しく当世の災難の盛んなる所以(ゆえん)を明かす、亦三と()す。初めに略して示し、次に経を引いて正しく釈し、三に例を引いて(しゃく)(じょう)す。

文に云う(こん)光明(こうみょう)経」等とは、次に経を引いて正しく釈す、亦二と為す、初めに別して四経の文を引き、次に「(これ)()」の下は、通じて釈す。

「金光明」の文は光明記の六・二十二、「最勝(さいしょう)(おう)経」は十巻本の六・二。「大集経」とは(さき)に引く所の第八・十。「仁王(にんのう)経」とは、安国論四に「(ぞく)(きた)って国を(おびや)かし百姓(ひゃくせい)亡喪(もうそう)し」等云云。

文に云う「例せば()()多王(たおう)雪山下(せっせんげ)(おう)()め」等とは、此の(しも)三に例を引いて釈成す、亦二と()す、初めに例を引き、次に「是れは彼には」等の下は釈成す。初めの引例、亦二と為す。初めに(がっ)()、次に漢土(かんど)。初めの「()()多王(たおう)」等は西域(さいいき)三十七に出ず。「大族王」等は西域四・二の如し。

文に云う「漢土にも仏法をほろ()ぼしし王」とは、()()(てい)は統の三十九・四、(しゅう)の武帝は統の三十九・十六、(とう)の武帝は統の四十三・六、付けたり、韓退之(かんたいし)は統の四十・二十三、十六、十九。欧陽(おうよう)永叔(えいしゅく)は統の四十・十五、同四十六・十六、傅奕(ふえき)は統四十・十二。

文に云う「是れは彼には・にるべくもなし」等とは、此の下は次に釈成なり。文意(もんい)は、彼は仏法の敵人と()って仏法を破る。極悪(ごくあく)分明(ふんみょう)なる故に愚人(ぐにん)(なお)を知る。(いわん)や智人に於いてをや。(これ)は仏法の方人(かたうど)と成って仏法を破る。故に智人分明に知らず。況や愚人に於てをや。愚人(すべ)て之を知らず。智者も常の智人は之を知り難き故に一同に皆分明(ふんみょう)に之を知る者無し。是の故に国を挙げて正法の行者を怨嫉(おんしつ)す。故に災難も(いにしえ)よりも最大ならん。

妙法尼抄十三・四十九に云く「彼は王一人の悪にして大臣以下は心より(おこ)る事無し、(また)権経と権仏との敵なり、僧も法華経の行者にはあらず、(これ)は一向に法華経の敵、王一人のみならず、一国の智人並びに万民等の心より起れる大悪心なり」と云云。此の意なり。(つぶさ)取要抄愚記の如し。(しか)れば(すなわ)ち当世の災難の(さか)んなる所以(ゆえん)(もっと)分明(ふんみょう)なり。


                つづく
報恩抄文段下 目次



by johsei1129 | 2016-01-07 21:24 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 07日

末法本門「法華寿量品の久遠の受戒」の化儀・作法を著された書【本門戒体抄】

【本門戒体抄】

■出筆時期:弘安二年(西暦1279) 五十八歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:末法の本仏日蓮大聖人の法門を受戒する際の化儀・作法を示された書です。
百六箇抄種の本迹二十一、下種の戒体の本迹 に、「爾前迹門の戒躰は権実雑乱(ぞうらん)、本門の戒躰は純一無雑の大戒なり。勝劣は天地・水火尚及ばず、具に戒躰抄の如し云云」とあり、本抄がそれにあたります。大聖人は小乗の戒、大乗戒を具に示すとともに、末法本門の受戒について、第一不殺生戒から第十不謗三宝戒まで、十項目の受戒の化儀・作法を示されておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

【本門戒体抄 本文】

菩薩の前にしても仏の前に非ざれば戒を授けざるなり。
大乗戒の事。師は必ず五徳を具する僧なり。常には一師二師なり。一師とは名目梵網経に出づ。二師とは和尚と阿闍梨となり。
具に十重禁戒を受くるを大僧と名づくるなり。亦具足戒とも云ふなり。一戒二戒を受くるをば具足戒とは云はざるなり。日本国には伝教大師より始めて一向大乗戒を立つるなり。伝教已前には通受戒なり。

通受戒とは、小乗戒を受けては威儀を正し、大乗戒を受けては成仏を期するなり。大小乗の戒を兼ね受くるを通受戒と云ふ。日本国には小乗の別解脱戒の弘まることは鑑真和尚の時より始まれり。鑑真已前は沙弥戒なり。
千里の内に五徳を具せし僧無くんば自誓受戒す。自誓受戒とは道場に座して一日二日乃至一年二年罪障を懺悔す。普賢文殊等来たりて告げて、毘尼薩(びにさ)毘尼薩と云はん時自誓受戒すべし。即ち大僧と名づく。

毘尼薩毘尼薩とは滅罪滅罪と云ふ事なり。若し五徳を具する僧有れば、好相を見ざれども受戒するなり。十重禁戒を破る者も懺悔すれば之を授く。四十八軽も亦復是くの如し。五逆七逆は論なり。経文分明ならず、授けざるは道理なり。
仏は則ち盧舎那仏・二十余の菩薩・羅什三蔵・南岳・天台乃至道邃・伝教大師等なり。達磨・不空は天竺より此の戒を受けたり。已上常人の義なり。  

日蓮云はく、彼は梵網の意か。伝教大師の顕戒論に云はく「大乗戒に二有り。一には梵網経の大乗。二には普賢経の大乗なり。普賢経は一向自誓受戒なり」と。常人は梵網千里の外の自誓受戒と普賢経の自誓受戒と之同じと思へるなり。日蓮云はく、水火の相違なり。所以は何ん。伝教大師の顕戒論に二義有り。一には梵網経の十重戒、四十八軽戒の大僧戒。二には普賢経の大僧戒なり。梵網経の十重禁・四十八軽戒を以て眷属戒と為すなり。法華経・普賢経の戒を以て大王戒と為すなり。小乗の二百五十戒等は民戒、梵網経の戒は臣戒、法華経普賢経の戒は大王戒なり云云。

普賢経の戒師は、千里の外にも千里の内にも、五徳有るも五徳無きも、等覚已下の生身の四依の菩薩等を以て全く伝受戒師に用ふべからず。受戒には必ず三師一証一伴なり。已上五人なり。三師とは一は生身の和尚は霊山浄土の釈迦牟尼如来なり。響きの音に応ずるが如く、清水に月の移るが如く、法華経の戒を自誓受戒する時必ず来たり給ふなり。然れば則ち何ぞ生身の釈迦牟尼如来を捨てゝ更に等覚の元品未断の四依等を用ゐんや。若し円教の四依有らば伝戒の為に之を請ずべし、伝受戒の為には之を用ふべからず。
  疑って云はく、小乗の戒、梵網の戒に何ぞ生身の如来来たらざるや。答へて云はく、小乗の釈迦は灰身滅智の仏なり、生身既に破れたり。譬へば水瓶に清水を入れて他の全瓶に移すが如し、本瓶は既に破れぬ。小乗の釈迦は五分法身の水を以て迦葉・阿難等の全瓶に移して、仏既に灰断(けだん)に入り了んぬ。乃至仏・四果・初果・四善根・三賢及以(および)博地(はくじ)の凡夫、二千二百余年の間、次の瓶に五分法身の水を移せば前瓶は即ち破壊す。是くの如く展転するの程に、凡夫の土器の瓶に此の五分法身の水を移せば、未だ他瓶に移さゞるの前に五分法身の水漏失す。更に何れの水を以てか他の瓶に移さんや。小乗の戒体も亦復是くの如し。正像既に尽きぬ。末法の濁乱には有名無実なり。二百五十戒の僧等は、但土器の瓶のみ有りて全く五分法身の水無きなり。是くの如き僧等は、形は沙門に似れども戒体無きが故に天之を護らず。唯悪行のみを好みて愚人を誑惑するなり。

 梵網大乗の戒は、譬へば金銀の瓶に仏性法身の清水を入れて亦金銀の瓶に移すが如し。終には破壊すべしと雖も瓦器土器に勝れて其の用強し。故に小乗の二百五十戒の僧の持戒よりも、梵網大乗の破戒の僧は国の依怙と為る。然りと雖も此の戒も終に漏失すべきものなり。
普賢経の戒は、正像末の三時に亘って生身の釈迦如来を以て戒師と為す。故に等覚已下の聖凡の師を用ゐざるなり。小乗の劣応身、通教の勝応身、別教の台上の盧遮那、爾前の円教の虚空為座の毘盧遮那仏、猶以て之を用ゐず。何に況んや其の已下の菩薩・声聞・凡夫等の師をや。但法華迹門の四教開会の釈迦如来、之を用ゐて和尚と為すなり。二は金色世界の文殊師利菩薩、之を請じて阿闍梨と為す。四味三教並びに爾前の円教の文殊には非ず。此は法華迹門の文殊なり。三は都史多天宮の弥勒慈尊、之を請じて教授と為す。小乗未断惑の弥勒、乃至通・別・円等の弥勒には非ず。亦無著菩薩、阿輸舎国に来下して授けし所の大乗師の弥勒にも非ず。此は迹門方便品を授くる所の弥勒なり。已上三師なり。一証とは十方の諸仏なり。此は則ち小乗の七証に異なるなり。一伴とは同伴なり。同伴とは同じき受戒の者なり。法華の序品に列なる所の二乗・菩薩・二界八番の衆なり。今の戒は、小乗の二百五十戒等並びに梵網の十重禁・四十八軽戒・華厳の十無尽戒・瓔珞の十戒等を捨てゝ、未顕真実と定め畢って、方便品に入って持つ所の五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒乃至十重禁戒等なり。経に「是名持戒」とは則ち此の意なり。迹門の戒は爾前大小の諸戒には勝ると雖も而も本門戒には及ばざるなり。
  
十重禁とは、一には不殺生戒、二には不偸盗戒、三には不邪淫戒、四には不妄語戒、五には不酒戒、六には不説四衆過罪戒、七には不自讃毀他戒、八には不慳貪戒、九には不瞋恚戒、十には不謗三宝戒なり。
  
第一に不殺生戒とは、爾前の諸経の心は仏は不殺生戒を持つと説けり。然りと雖も法華経の心は爾前の仏は殺生第一なり。所以は何。爾前の仏は一往世間の不殺生戒を持つに似たりと雖も、未だ出世の不殺生戒を持たず。二乗・闡提・無性有情等の九界の衆生を殺して成仏せしめず。能化の仏未だ殺生罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。
今身より仏身に至るまで、爾前の殺生罪を捨て、法華寿量品の久遠の不殺生戒を持つや不や、持つと三返。

第二に不偸盗戒とは、爾前の諸経の心は仏は不偸盗戒を持つと説けり。然りと雖も法華の心は爾前の仏は偸盗第一なり。所以は何。爾前の仏は一往世間の不偸盗戒を持つに似たりと雖も、未だ出世の不偸盗戒を持たず。二乗・闡提等の九界の衆生の仏性の玉を盗んで成仏せしめず。能化の仏未だ偸盗罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。
今身より仏身に至るまで、爾前の偸盗罪を捨て、法華寿量品の久遠の不偸盗戒を持つや不や、持つと三返。

第三に不邪淫戒とは、爾前の諸経の心は仏は不邪淫戒を持つと説けり。然りと雖も法華の心は爾前の仏は邪淫第一なり。所以は何。爾前の仏は一往世間の不邪淫戒を持つに似たりと雖も、未だ出世の不邪淫戒を持たず。二乗・闡提等の九界の衆生の仏性の智水を犯して成仏せしめず。能化の仏未だ邪淫罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。今身より仏身に至るまで、爾前の邪淫罪を捨て、法華寿量品の久遠の不邪淫戒を持つや不や、持つと三返。

第四に不妄語戒とは、爾前の諸経の心は仏は不妄語戒を持つと説けり。然りと雖も法華の心は爾前の仏は妄語第一なり。所以は何。爾前の仏は一往世間の不妄語戒を持つに似たりと雖も未だ出世の不妄語戒を持たず。二乗・闡提等の九界の衆生の色心を破りて成仏せしめず。能化の仏未だ妄語罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。今身より仏身に至るまで、爾前の妄語罪を捨て、法華寿量品の久遠の不妄語戒を持つや不や、持つと三返。

第五に不酤酒(ふこしゅ)戒とは、爾前の諸経の意は仏は不酤酒戒を持つと説けり。然りと雖も法華経の心は爾前の仏は酤酒第一なり。所以は何。爾前の仏は一往世間の不酤酒戒を持つに似たりと雖も、未だ出世の不酤酒戒を持たず。二乗・闡提等の九界の衆生をして無明の酒を飲ましめて成仏せしめず。能化の仏未だ酤酒罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。今身より仏身に至るまで、爾前の酤酒罪を捨て、法華寿量品の久遠の不酤酒戒を持つや不や、持つと三返。

第六に不説四衆過罪戒とは、爾前の諸経の心は仏は不説過罪戒を持つと説けり。然りと雖も法華経の心は爾前の仏は説過罪第一なり。所以は何。爾前の仏は一往世間の不説過罪戒を持つに似たりと雖も、未だ出世の不説過罪戒を持たず。二乗・闡提等の九界の衆生の過罪を説きて成仏せしめず。能化の仏未だ説過罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。今身より仏身に至るまで、爾前の説過罪を捨て、法華寿量品の久遠の不説過罪戒を持つや不や、持つと三返。

第七に不自讃毀他戒とは、爾前の諸経の心は仏は不自讃毀他戒を持つと説けり。然りと雖も法華の意は、爾前の仏は自讃毀他第一なり。所以は何。爾前の仏は一往世間の不自讃毀他戒を持つに似たりと雖も、未だ出世の不自讃毀他戒を持たず。二乗・闡提等の九界の衆生を毀りて成仏せしめず。能化の仏未だ自讃毀他罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。
今身より仏身に至るまで、爾前の自讃毀他罪を捨て、法華寿量品の久遠の不自讃毀他戒を持つや不や、持つと三返。

第八に不慳貪戒とは、爾前の諸経の心は仏は不慳貪戒を持つと説けり。然りと雖も法華の心は爾前の仏は慳貪第一なり。所以は何。爾前の仏は一往世間の不慳貪戒を持つに似たりと雖も、未だ出世の不慳貪戒を持たず。二乗・闡提等の九界の衆生の仏性の玉を慳みて成仏せしめず。能化の仏未だ慳貪罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。
今身より仏身に至るまで、爾前の慳貪罪を捨て、法華寿量品の久遠の不慳貪戒を持つや不や、持つと三返。

第九に不瞋恚戒とは、爾前の諸経の心は仏は不瞋恚戒を持つと説けり。然りと雖も法華の意は、爾前の仏は瞋恚第一なり。所以は何。爾前の仏は一往世間の不瞋恚戒を持つに似たりと雖も、未だ出世の不瞋恚戒を持たず。二乗・闡提等の九界の衆生を瞋りて成仏せしめず。能化の仏未だ瞋恚罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。
今身より仏身に至るまで、爾前の瞋恚罪を捨て、法華寿量品の久遠の不瞋恚戒を持つや不や、持つと三返。

第十に不謗三宝戒とは、爾前の諸経の心は仏は不謗三宝戒を持つと説けり。然りと雖も法華の意は、爾前の仏は謗三宝第一なり。所以は何。爾前の仏は一往世間の不謗三宝戒を持つに似たりと雖も、未だ出世の不謗三宝戒を持たず。二乗・闡提等の九界の衆生の三宝を謗りて成仏せしめず。能化の仏未だ謗三宝罪を免れず、何に況んや所化の弟子をや。然るを今の経に悉く成仏せしむ云云。
今身より仏身に至るまで、爾前の謗三宝罪を捨て、法華寿量品の久遠の不謗三宝戒を持つや不や、持つと三返。





by johsei1129 | 2016-01-07 21:17 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 07日

GOSHO 立正安国論74 疑を断じて信を生ず 一

(すなわ)ち席を()(えり)(つくろ)いて曰く、仏教()(まちまち)にして旨趣(ししゅ)(きわ)(がた)く、不審(ふしん)多端(たたん)にして理非(りひ)(あきらか)ならず、

With this the guest moved off his mat in a gesture of respect, straightened the collar of his robe, and said: The Buddhist teachings vary greatly, and it is difficult to investigate each doctrine in full. I have had many doubts and perplexities, and have been unable to distinguish right from wrong.

[Out of respect for the host], the guest lowered himself from his mat, straightened his posture and said: The teachings of the Buddha are so diverse that their true intentions are difficult to grasp. They have so many puzzling aspects that there is no way of judging what is right and what is wrong.

(ただ)(ほう)(ねん)聖人の選択(せんちゃく)現在なり、諸仏(しょぶつ)(しょ)(きょう)諸菩薩(しょぼさつ)・諸天等を以て捨閉閣抛(しゃへいかくほう)()す、其の文顕然(けんねん)なり、

Nevertheless, this work by the Sage Hōnen, Nembutsu Chosen above All, does in fact exist. And it lumps together all the various Buddhas, sutras, bodhisattvas, and deities, and says that one should “discard, close, ignore, and abandon” them. The meaning of the text is perfectly clear.

However, Priest Hōnen’s The Sole Selection of Nembutsu exists in reality, and it states that all Buddhas, sutras, bodhisattvas, and guardian deities must be discarded, closed, ignored, and rejected. These [slanderous] words clearly appear in his writing.

()れに()つて聖人国を去り、善神所を捨てて天下飢渇(きかつ)し、世上疫病(えきびょう)すと、

And as a result of this, the sages have departed from the nation, the benevolent deities have left their dwelling places, hunger and thirstfill the world, and disease and pestilence spread widely.

Due to this teaching, sages have left the land, while guardian deities have abandoned their domains; people of the whole nation are suffering from starvation and thirst; pestilence afflicts the entire nation.

(いま)主人広く経文を引いて(あきら)かに理非を示す、故に妄執(もうしゅう)(すで)(ひるが)えり耳目(じもく)(しばしば)(あき)かなり、

Now, by citing passages from a wide variety of scriptures, you have clearly demonstrated the rights and wrongs of the matter. Therefore, I have completely forsaken my earlier mistaken convictions, and my ears and eyes have been opened on point after point.

By extensively citing the sutras, you have clearly shown what is consistent with and contrary reason. Thus, my deluded attachment has vanished, and now my ears have cleared and my eyes have opened.


                      つづく Next
御書本文】【目次 Index



by johsei1129 | 2016-01-07 20:48 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)