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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 12月 31日 ( 7 )


2015年 12月 31日

日蓮大聖人が身延山中への入山する時の心境を記された書【仏眼御書】

【仏眼御書】
■出筆時期:建治二年(1276年)五十五歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は前後の文が不明で数行の断簡が残されているだけのため対告衆等の詳細は不明ですが「一人のし(知)る人日蓮をにくみしかば、此の山にかくれて候」と、身延山中に入山される心境を率直に記されておられることから、気持ちの通じ合った富木常忍のような古参の強信徒に送られたのではないかと推察されます。

本文の趣旨は、「仏眼・仏耳をもって三度、日本国の為政者を諌めたが、日蓮の言を用いることなく、蒙古の襲来で国が滅びようとしている。また国中に白癩病(現ハンセン病)で苦しむ人々が大勢いる。それにも関わらず日本国の中で只一人、この原因を知っている日蓮を憎むが故に、此の身延に隠居するのである」とおもわれますが、この断簡だけでは、大聖人が国家諌暁が叶わなかった事への諦めの心境とも受け取られますが、恐らく本書の全体が明らかになれば、今後は弟子・信徒を教化し令法久住に邁進する思いが記されいたのではないかと強く拝されますす。
■ご真筆:東京都 常圓寺(断簡)所蔵。

【仏眼御書 本文】

仏眼をか(借)り、仏耳をたまわ(賜)りて、しめ(示)し候ひしかども、
用ゐる事なければ、ついに此の国やぶれなんとす。
白癩病の者のあまたありて、一人のし(知)る人日蓮をにくみしかば、
此の山(身延山)にかくれて候。
※本書の前後の文はご真筆・古写本が伝えられていないため不明です。






by johsei1129 | 2015-12-31 20:12 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2015年 12月 31日

GOSHO 立正安国論67 施を止めて命を絶つ 十七

蟻子(ぎし)を殺す者は必ず三悪道に落つ、謗法(ほうぼう)(きん)ずる者は不退(ふたい)の位に(のぼ)る、

One who kills so much as an ant will invariably fall into the three evil paths, but one who helps eradicate slander of the Law will ascend to the state from which there can be no retrogression.

If one kills even an act, he will surely descend into the three evil paths. However, if one tries to refute slander of the sutra, he will definitely reach the stage of non-regression.

所謂(いわゆる)(かく)(とく)とは是れ()(しょう)仏なり、有徳(うとく)とは則ち釈迦(しゃか)(もん)なり。

Thus the passage tells us that the monk Realization of Virtue was reborn as the Buddha Kāshyapa, and that King Possessor of Virtue was reborn as the Buddha Shakyamuni.

For example, Kakutoku was reborn as Kashyapa Buddha, and King Utoku was reborn as Shakyamuni Buddha.

法華涅槃(ねはん)(きょう)(ぎょう)は一代五()肝心(かんじん)なり、其の(いましめ)実に(おも)し、誰か帰仰(きごう)せざらんや、

The Lotus and the Nirvana sutras represent the very heart of the doctrines that Shakyamuni preached during the five periods of his teaching life. Their warnings must be viewed with the utmost gravity. Who would fail to heed them?

The teachings of the Lotus-Nirvana Period are the heart of Shakyamuni’s doctrines expounded throughout the five periods of his lifetime of preaching. The warnings in these teachings are extremely serious. How could anyone fail to seek and devote oneself to them

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by johsei1129 | 2015-12-31 18:57 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2015年 12月 31日

GOSHO 立正安国論66 施を止めて命を絶つ 十六

法華経に云く「()し人信ぜずして此の経を毀謗(きぼう)せば、(すなわ)ち一切世間の(ぶっ)(しゅ)を断ぜん、乃至(ないし)其の人(みょう)(じゅう)して阿鼻獄(あびごく)に入らん」已上。

The Lotus Sutra says: “If a person fails to have faith but instead slanders this sutra, immediately he will destroy all the seeds for becoming a Buddha in this world. . . . When his life comes to an end he will enter the Avīchi hell.”

The Lotus Sutra states,If one does not believe in the sutra and commits slander, he will sever himself from all the causes in this world for becoming a Buddha.….After he dies, he will fall into avichi hell.

()れ経文顕然(けんねん)なり、私の(ことば)何ぞ(くわ)えん、

The meaning of these passages from the sutras is perfectly clear. What need is there for me to add any further explanation?

The meanng of this passage is all too apparent. Why should I elaborate any further

(およ)そ法華経の如くんば大乗経典を(ぼう)ずる者は無量の五(ぎゃく)(すぐ)れたり、

If we accept the words of the Lotus Sutra, then we must understand that slandering the Mahayana scriptures is more serious than committing the five cardinal sins countless times.

Based on the Lotus Sutra, slandering the Mahayana scriptures is a greater offense than committing the five cardinal sins an infinite number of times.

故に阿鼻(あび)大城(だいじょう)()して永く(いず)()無けん、

Therefore, one who does so will be confined in the great citadel of the Avīchi hell and cannot hope for release for an immeasurable length of time.

Those who commit an offense against the scriptures will fall into the hell of incessant suffering and remain there nearly an eternity.

涅槃経(ねはんぎょう)の如くんば(たと)い五逆の()を許すとも謗法(ほうぼう)()(ゆる)さず、

According to the Nirvana Sutra, even though you may give alms to a person who has committed the five cardinal sins, you must never give alms to a person who has slandered the Law.

According to the Nirvana Sutra, though one may be forgiven for making offerings even to a perpetrator of the five cardinal sins, one will never be permitted to give alms to slanderers of the sutra.

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by johsei1129 | 2015-12-31 18:40 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2015年 12月 31日

報恩抄文段 上二九  「教を匿(かく)さざれ」等の厳命を固く守るべし。命を的(まと)に・懸(か)けるべし。


一 それは・いかにもあれ()(かく)智証(ちしょう)の等

  此の下は次に先師の違背(いはい)(しゃく)(じょう)するなり。

一 かうせめ候も()それにては候へども等

  此の下は次に()(しゃく)所以(ゆえん)を明かすなり。

是れ(すなわ)ち「(われ)身命を愛せず、(ただ)無上道を惜しむ」及び「(むし)ろ身命を(うしな)うとも、教を(かく)さざれ」等の厳命を固く守るが故なり。是の故に「い()ちをまと()に・()けて」等と云うなり。

一 されば(ろう)(まい)を等

  此の下は第三に総結(そうけつ)の文なり。此れ亦二と為す。初めに結して破し、次に覚・証の謗法(ほうぼう)弘法(こうぼう)(ちょう)()するを示すなり。

文に云う「()(こん)(とう)の経文をやぶ()らせ給う」とは、覚・証の()(どう)()(しょう)(すなわ)ち三説超過の経文を(やぶ)れり。()(しか)らば、(あに)三仏の怨敵(おんてき)(あら)ずや。

文に云う「弘法大師こそ」等文。此の下は次に覚・証の謗法、弘法に超過するを示す、亦三と為す。初めに(まさ)しく示し、次に「例せば」の下は(たとえ)()げ、三に「()(かく)」の下は譬を合す。

文に云う「弟子も(もち)ゆる事なし」とは、撰時抄下十三に云く「弘法の門人等は、大師の法華経を華厳(けごん)経に(おと)ると()かせ給へるは、我が()たながらも少し(こわ)きやうなれども」等云云。


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報恩抄文段上 目次



by johsei1129 | 2015-12-31 16:16 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 12月 31日

報恩抄文段 上二八


問う、本理(ほんり)大綱集(たいこうしゅう)に云く「(けん)(みつ)(こと)なりと(いえど)も、大道(たが)うこと無し」云云。(また)等海抄十七に云く「山家の釈に云く、真言と止観と()(むね)(いつ)なり。故に一山に於て両宗を弘むと」等云云。(これ)()の文は(いかん)

答う、本理大綱集は(しん)偽未決(ぎみけつ)の抄なり。又等海の所引(しょいん)(また)是れ分明(ふんみょう)ならず。()伝教(でんぎょう)大師の真作ならば、(づなわ)ち亦是れ(やっ)(きょう)一往(いちおう)の義なり。(かみ)(じゅん)じて知るべし。

文に云う「()(かく)智証(ちしょう)と日蓮とが伝教大師の御事を」等とは、此の下は伏難を(しゃ)するなり。

(いわ)く、難じて云く「慈覚・智証は伝教大師の(じき)(てい)なり。日蓮は是れ後世(こうせい)末学(まつがく)なり。仮令(たとい)日蓮、智(かしこ)しと(いえど)も、伝教大師の御事(おんこと)に於ては、何ぞ慈覚・智証等に及ばんや」等云云。

之を()するに進・退の両釈あり。初めに退(しりぞ)いて之を会し、次に「玄奘(げんじょう)」の下は進んで之を会するなり。文義見るべし。

文に云う「宝蔵(ほうぞう)法師(ほうし)」とは、応に「(ほう)(ぼう)法師」に作るべし。宋高僧伝の第四・七云云。法宝法師は悲相の見惑(けんなく)を以て玄奘(げんじょう)三蔵(さんぞう)を難ず。此の難を通ずる為に婆沙(ばしゃ)の中に更に一十六字を加えたり。

(ほう)()三蔵は(ぞく)累品(るいほん)を以て経末に()く。(みょう)(らく)大師は記の第十に之を()す。法宝法師と妙楽大師とは、梵本(ぼんぽん)を見ずと(いえど)も、(しか)も梵本所覧の玄奘・法護を難じたもう。日蓮も(また)(しか)なり。後世(こうせい)末学(まつがく)なりと雖も直弟の(かく)(しょう)を難ずるに、何ぞ不可(ふか)有らんや。是れ(すなわ)正文(しょうもん)に相違する故なり。

一 伝教大師の依憑集(えひょうしゅう)と申す(ふみ)は等

此の(しも)は次に正文相違の(とが)を責む、亦二と()す。初めに文を引き、次に(いん)(もん)を釈す。初めの文を引くに、亦二と為す。初めに序の文を引き、次に正宗(しょうしゅう)の文を引く。

文に云う「新来の真言家(しんごんけ)は則ち筆授(ひつじゅ)相承(そうじょう)(ほろぼ)し」とは、諌迷(かんめい)七・六十、啓蒙(けいもう)七・五十五、同十四・三十四、其の(ほか)云云。

今謂く、此の序の文の意に(あるい)は二意有り。謂く、(しばら)文相(もんそう)(じゅん)ずるに、(ただ)元祖(がんそ)の依憑を挙げて、以て末弟の偏執(へんしゅう)を破するなり。()いて義意に(じゅん)ずるに、彼の元祖の依憑は、(すなわ)ち盗台に当るなり。其の故は天台法華の()に依憑して、宗々の()(きょう)誇耀(こよう)する故なり。(たと)えば大海の徳を取って()(しゃく)(たん)じ、王者の法を(もち)いて民家に()するが如し。(あに)誑惑(おうわく)に過ぐべけんや。故に宗祖は常に此の序の文を(もっ)て、(ただ)ちに元祖を()する義と()すなり。開目抄下十三に云云。撰時抄下七に云く「(ただ)し依憑集と申す一巻の秘書(ひしょ)あり乃至()の文の序に真言宗の誑惑一筆みへて候」等云云。

文に云う「(しょう)(しん)の心酔を(おお)う」とは、板点不可なり。秀句十勝抄九に輔の三・二十五を引き「(のち)に章安の義記(ぎき)を借るに()って(すなわ)(いよいよ)浅深に達し、体()け口(つぐ)み、身踊り心()う」云云。此の文何ぞ「心酔を(たい)()す」と点ずるを得んや。

文に云う「(こう)(にん)の七(ひのえ)(さる)の歳」とは、彼の最末に「弘仁四年」と云う。故に知んぬ、序は後に之を述するか。

文に云く「天竺(てんじく)の名僧、大唐(だいとう)天台の教迹(きょうしゃく)最も(じゃ)(しょう)(えら)ぶに()えたりと聞いて、渇仰(かつごう)して訪問する縁」云云。(まさ)に此くの如く点ずべし。「録」の字は(あやま)りなり。

文に云う「魯人(ろひと)のごとし」とは、補註(ふちゅう)十・四十に云く「魯の国の人(ちゅう)()(うやま)わず、(これ)を東家の丘と()えり。仏を学する(ひと)天台(てんだい)の妙教を敬わず、(また)魯人の如し」と云云。朝抄等は不可なり。

文云う「()の書は法相(ほっそう)三論(さんろん)華厳(けごん)・真言」等とは、是れ四宗の元祖(がんそ)()するなり。



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報恩抄文段上 目次



by johsei1129 | 2015-12-31 15:54 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 12月 31日

報恩抄文段 上二七

一 (ただ)二宗(さい)(とう)文。

  此の(しも)は次に広く先師違背の(とが)()む、亦二と為す。初めに(まさ)しく責め、次に「かう()め」の下は()(しゃく)所以(ゆえん)を明かす。初めの正しく責むるに亦二と為す。初めに二宗斉等の(とが)を責め、次に「それは・いかにも」の下は(しゃく)(じょう)

初めの二宗斉等の失を責むるに亦二と()す。初めに無文の失を責め、次に正文(しょうもん)相違の失を責む。初めの無文の失を責むるとは亦二と為す。初めに正しく責め、次に「慈覚」の下は伏難を(しゃ)す。初文の中に先ず()の義を(ちょう)し、次に正しく責むるなり。

  文に云う「(そもそ)も伝教大師いづ()れの書に」等とは、

  問う、伝教大師に「二宗斉等」の文無きに(あら)ず。一には牛頭決(ごずけつ)に云く「(てん)(だい)(しょ)(りゅう)の『十界(じっかい)()()』の文と『秘密最大の三十七尊住心城』の文と大道(こと)なりと雖も、不思議(いつ)なり」云云。二には学生式(がくしょうしき)に云く「止観(しかん)と真言と二羽・両輪」等云云。(あに)「二宗(せい)(とう)」の文に非ずや。

  答う、是れ(やっ)(きょう)一往(いちおう)(ぼう)()にして(やく)部再往(ぶさいおう)正意(しょうい)には非ざるなり。例せば「此の妙と彼の妙と妙の義は(こと)なること無し。(ただ)方便を帯すると・方便を帯せざるを(もっ)(こと)なりと為すのみ」の文の如し。又「(すなわ)通依(つうえ)一切の大部指帰(しき)の妙境は法華より()ずと雖も」の文の如し。一往・再往、(ぼう)(しょう)分明(ふんみょう)なり。

中に於ても「大道殊なりと(いえど)も不思議一なり」「止観と真言と二羽・両輪」等とは、(ただ)是れ「此の妙と彼の妙と妙の義は(こと)なること無し」「則ち通依一切の大部」等の文の如く一往の(ぼう)()なり。

何を以て知ることを()るや。

謂く、一には真言宗の名を(けず)り、(ただ)天台(てんだい)法華宗と号する故に。

二には守護章に、大日経を傍依(ぼうえ)の経とするが故に。

三には依憑集(えひょうしゅう)に、真言宗を()するが故に。

四には又記の十を引き、真言の元祖(がんそ)魯人(ろひと)と云う故に。

五には含光(がんこう)の物語を引載(いんさい)する故なり。

(これ)()の文義に(じゅん)ずるに、教大師の御心(みこころ)、二宗の勝劣(しょうれつ)分明(ふんみょう)なり。故に知んぬ、「二宗斉等」の釈は、約教一往の傍義にして、約部再往の正意(しょうい)(あら)。故に()に属して(うば)って「いづれの書に()かれて」等と云うなり。守護章の上に云く「我が山家(さんけ)は部に約すれば八教に摂せず」云云。(すで)に「我が山家は部に約すれば」と云う、之を思い合すべし。

問う、教大師は何ぞ「一往(いちおう)(さい)(とう)」の釈を(もう)けたるや。

答う、是れ一山に於て両業(りょうごう)を修し、除障(じょしょう)の方便と()さんが(ため)なり。

問う、其の証如何(いかん)

答う、等海抄の十七・八に都率(とそつ)の三密抄を引いて云く「大日経の(しょ)始終(しじゅう)一向(いっこう)に法華の文義を以て此の経の理を(しゃく)(じょう)す。(さん)(がん)の妙理は(まった)く天台に同じ。問う、()(しか)らば何ぞ秘密経は(さわり)(のぞ)き、顕経は(しか)らざるや。答う、(えん)(どん)の理は法華等の経には()ぎず。除障の方便は三密の加持(かじ)には()かず。天台、法華の陀羅尼品(だらにほん)(しょ)に云うが如し『悪世の()(きょう)(すべ)(のう)(らん)多し、(じゅ)を以て(これ)(まも)流通(るつう)することを()るに便(びん)とす』云云。正宗の妙理は勝ると(いえど)も、(さら)に呪を用いて難を除く。故に知んぬ、三密の教門は除障(じょしょう)の術なり。此の教門は多く悪世の学者を利せんが為なり。我が山は真言・止観(しかん)を兼学す。(まこと)(ゆえ)有るなり」略抄。

諌迷七・五十九、中正十六・八云云。(また)(けん)戒論(かいろん)学生式(がくしょうしき)に「(また)国の為に護る」及び「護国真言」等の文、之を思い合すべし。


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報恩抄文段上 目次



by johsei1129 | 2015-12-31 15:38 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 12月 31日

GOSHO 立正安国論65 施を止めて命を絶つ 十五

善男子・我涅槃(ねはん)の後、(じょく)(あく)の世に国土荒乱(こうらん)し互に(あい)抄掠(しょうりゃく)し人民飢餓(きが)せん、 

“Goodman, in the age of impurity and evil after I have passed away, the nation will fall into devastation and disorder, men will plunder and steal from one another, and the common people will be reduced to starvation.

My disciples, in the defiled age after my death, corruption and chaos will fill the land. People will steal from each other and suffer from starvation.

爾の時に多く飢餓(きが)の為の故に発心(ほっしん)出家するもの有らん

Because of hunger, many men at that time will declare their determination to leave their families and become monks.

Due to hunger, a great many people will choose to become monks in order to gather offerings for survival ].

是くの如きの人を名けて禿人(とくにん)()す、

Men such as these may be called shavepates.

I call them false monks.

是の禿人(とくにん)(やから)、正法を護持(ごじ)するを見て駈逐(くちく)して(いだ)さしめ、若くは殺し、若くは(がい)せん、

When this crowd of shavepates see anyone who is attempting to protect the correct teaching, they will chase after him and drive him away, or even kill him or do him injury.

Since they will drive away, expel, kill, or harm the protectors of the true Law,

是の故に我今持戒(じかい)の人・諸の白衣(びゃくえ)(とう)(じょう)を持つ者に()つて以て伴侶(はんりょ)と為すことを(ゆる)す、

That is why I now give permission for monks who observe the precepts to associate with and keep company with white-robed laymen who bear swords and staves.
 I give permission for [ the true ] monks who observe the precepts to be accompanied by lay believers carrying swords and staves.

(とう)(じょう)を持すと(いえど)も我是等を説いて名けて持戒(じかい)と曰わん、

Even though they carry swords and staves, I would call them men who observe the precepts.

Despite the fact that they are armed, I call them observers of the precepts.

(とう)(じょう)を持すと(いえど)も命を(だん)ずべからず」と。

But although they may carry swords and staves, they should never use them to take life.”

However, though they are permitted to bear weapons, they must not take the lives of others.”

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by johsei1129 | 2015-12-31 11:10 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)