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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 12月 12日 ( 3 )


2015年 12月 12日

法華経は仏にまさらせ給う事、星と月とともしびと日とのごとし、又御心ざしもすぐ れて候、と説かれた【窪尼御前御返事】

【窪尼御前御返事(虚御教書)】
■出筆時期:弘安二年(西暦1279)五月四日 五十八歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は日興上人のおばで駿河・富士郡の故高橋入道の御家尼・窪尼御前御がご供養の品々をご供養されたことへの返書となっております。

大聖人は5月(現在では6月)という農家の繁忙期で、さらに宮の造営(富士浅間神社)という経済的にも負担の大きい時期に、窪尼が身延の大聖人のことを思いやり数々のご供養を為された事を、徳勝童子が釈迦仏に砂の餅を供養されたことで阿育大王になった謂れを引かれて「御志殊にふかし」と称えられておられます。

また「法華経は仏にまさらせ給う事、星と月とともしびと日とのごとし、又御心ざしもすぐれて候。されば故入道殿も仏にならせ給うべし。又一人をはする姫御前も、命も長く幸いも有りてさる人の娘なりと聞こえさせ給うべし」と記され、衆生を仏に為す法華経は、ともしびと日との如く仏に優っており、法華経の宝前に供養された窪尼の供養も優れている」と、故高橋入道と残された一人娘に思いを馳せ、窪尼を励まされておられます。
■ご真筆:山梨県妙了寺(断簡) 所蔵。古写本:日興上人筆(富士大石寺(全文)所蔵)
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[真筆本文:下記緑字箇所]
[窪尼御前御返事 本文]

御供養の物数のままに慥(たしか)に給い候、当時は五月の比(ころ)おひにて民のいとまなし、其の上宮の造営にて候なり。かかる暇なき時、山中の有り様思ひやらせ給いて送りたびて候事、御志殊にふかし。

阿育大王と申せし王はこの天の日のめぐらせ給う一閻浮提を大体しろしめされ候いし王なり。此の王は昔徳勝とて五になる童にて候いしが、釈迦仏にすな(砂)のもち(餅)ゐをまいらせたりしゆへに、かかる大王と生れさせ給う。此の童はさしも心ざしなし・たわふれなるやうにてこそ候いしかども、仏のめでたくをはすればわづかの事も、ものとなりて・かかるめでたき事候。まして法華経は仏にまさらせ給う事、星と月とともしびと日とのごとし、又御心ざしもすぐれて候。されば故入道殿も仏にならせ給うべし。又一人をはする・ひめ御前も、いのちもながく・さひわひ(幸)もありて・さる人の・むすめなりと・きこえさせ給うべし。当時もおさなけれども母をかけてすごす女人なれば父の後世をもたすくべし。

から(唐)国にせいしと申せし女人は、わかなを山につみて、を(老)ひたるはわ(母)をやしなひき。天あはれみて越王と申す大王のかり(狩)せさせ給いしが、みつけてきさき(妃)となりにき。これも又かくのごとし・をやを・やしなふ女人なれば天もまほらせ給うらん仏もあはれみ候らん。一切の善根の中に孝養父母は第一にて候なれば・まして法華経にてをはす、金のうつわものに・きよき水を入れたるがごとく・すこしももるべからず候、めでたし・めでたし、恐恐謹言。

五月四日日 蓮 花 押
くぼの尼御前御返事





by johsei1129 | 2015-12-12 19:00 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2015年 12月 12日

報恩抄文段 上八  法華は大陣を破るが如し、涅槃経は残党の難(かた)からざるが如し


一 
(したが)つて法華経の文を開き奉れば等

 此の(しも)は三に(まさ)しく法華の明文(みょうもん)()って一代諸経の勝劣(しょうれつ)を判ず、亦四と()す。初めに正しく法華の明文を引き、次に「()の経文」の下は釈、三に「(また)大日経」の下は諸経相似(そうじ)の文を()し、四に「()る人疑つて云く」の下は(しゃく)(じょう)

 文に云う「諸経の中に於て(もっと)()(かみ)()り」とは、所謂(いわゆる)「諸経」とは今日(こんにち)一代並びに十方(じっぽう)三世(さんぜ)の諸仏の諸経の中に、法華経最第一なり。故に「最も其の(かみ)に在り」と云うなり。

一 ()の経文のごとくば等

 此の下は釈、亦二と為す。初めに所引の文を釈し、次に「されば(もっぱ)ら」の下は正しく勝劣を判ず。初めの文に亦二あり。初めに広く()()()げ、次に「此の法華経」の下は、略して法に合す。(べっ)して此の文を引き(つぶさ)に之を釈することは、意、()(かく)金剛(こんごう)(ちょう)(しょ)に対する故なり。

一 されば(もっぱ)論師(ろんし)人師(にんし)をすてて等

 此の下は正しく勝劣を判ず、亦三と為す。所謂(ほっ)()(ごう)なり。見るべし。

一 (また)大日経・華厳経等

 (べっ)して二経を挙ぐることは、(また)真言宗に対するが故なり。此の下は三に諸経相似(そうじ)の文を()す、亦二と為す。初めに(うば)って()(ぜん)相似の文を会し、次に(あた)えて涅槃経(ねはんぎょう)の文を会す。初めの文(また)三と為す。初めに正しく会し、次に「(あるい)は」の下は所以(ゆえん)を釈し、三に「法華経」の下は結。

 文意に云く、()(ぜん)の諸経に、此の「諸経の中に於て最も其の上に在り」の経文に相似の経文一字一点もなし。(たと)い諸経の王と説くと(いえど)も、(あるい)は小乗に対し、或は俗諦(ぞくたい)に対する等なり。(けだ)し法華経は諸王に対して大王なり。故に「最も其の上に在り」と云う。故に相似の経文一字一点も(これ)無きなり。学者()所対(しょたい)に意を(とど)むべきなり。

一 (ただ)涅槃経(ばか)こそ等

 此の下は次に与えて涅槃経の文を会す、亦四と()す。初めに一往(いちおう)相似の文有るを示し、二に「されども(もっぱ)ら」の下は涅槃も(なお)法華に(おと)れるを明かし、三に「かう経文」の下は十方(じっぽう)世界(せかい)の一切経の勝劣を()()すべきを明かし、四に「(しか)るを経文」の下は略して諸宗を破す。

文に云う「法華経に相似の経文」とは、(すなわ)ち是れ五味(ごみ)の文なり。是れ所対(しょたい)同じきが故に相似と云うなり。

一 されども(もっぱ)ら経文を開き見るには等

 此の下は二に涅槃(ねはん)(なお)法華に劣れるを明かす、亦二と為す。初めに()(ぜん)・涅槃の勝劣を()げ、次に「(また)法華経」の下は正しく法華・涅槃の勝劣を明かす。

下の文十五に云く「涅槃経の第十四に四味(しみ)を挙げて、涅槃経に対して勝劣を説かれて候へども、(まった)く法華経と涅槃経との勝劣は見へず。第九の巻に法華・涅槃の勝劣分明(ふんみょう)なり。所謂(いわゆる)()の経の出世』」等云云。(これ)を思い合すべし。

文に云く「是の経の出世」等文。会疏(えしょ)九・二十七、(せん)一本五十一、文の九・七十三。記の九末五十。「法華は大陣(だいじん)を破るが如し。涅槃経は残党(ざんとう)(かた)からざるが如し。故に法華は大収(だいしゅう)の如し、涅槃は(くん)(じゅう)の如し」等云云。総じて十六の同異等云云。

一 かう経文は分明(ふんみょう)なれども等

此の下は三に十方(じっぽう)世界(せかい)一切(いっさい)(きょう)勝劣(しょうれつ)()()すべきを明かすなり。(いわ)く、()し涅槃も(なお)法華に劣れることを(りょう)せば、十方世界の一切諸経、法華経に劣れること(また)以て分明(ふんみょう)なり。故に十方世界の一切経の勝劣を比知すべきなり。故に「()く能く(まなこ)とど()むべし」と云うなり。

一 (しか)るを経文にこそ迷うとも等

  此の下は四に略して諸宗を破するなり。()(かく)智証(ちしょう)等は(なお)此の経文に眼を(とど)めて比知せざるが故に「()同事(どうじ)(しょう)」等云云。故に「此の経文にくら()し」と云うなり。


                   つづく
報恩抄文段上 目次      



by johsei1129 | 2015-12-12 08:32 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 12月 12日

GOSHO 立正安国論46  和漢の例を出だす九


 又()(かく)大師の入唐(にっとう)巡礼(じゅんれい)()を案ずるに云く「唐の武宗(ぶそう)皇帝・(かい)(しょう)元年、(ちょく)して(しょう)(きょう)寺の(きょう)(そう)法師(ほっし)をして諸寺に於て弥陀(みだ)念仏の教を(つた)()む、寺(ごと)に三日巡輪(じゅんりん)すること絶えず、

Similarly, The Record of a Pilgrimage to China in Search of the Law by the Great Teacher Jikaku states that, in the first year of the Hui-ch’ang era (841), Emperor Wu-tsung of the T’ang dynasty commanded the priest Ching-shuang of Chang-ching-ssu temple to transmit the Nembutsu teachings of the Buddha Amida in the various temples. Ching-shuang spent three days in each temple, going about from one temple to another without ever ceasing.

The Great Teacher Jikaku authored The Recordof a Pilgrimage to China in search of the Law, in which he discusses events of the Huichang era [841-846 CE]. In 841, Emperor Wuzong of the Tang dynasty [618- 907 CE] ordered Priest Jingshuang of Zhangjingsi Temple to promote the doctrine of embracing Amida Buddha among all the temples. In response to this, the priest went from one temple to another to conduct a series of lectures for three days at each temple.

同二年回鶻(かいこつ)(こく)の軍兵等(とう)(さかい)(おか)す、

In the second year of the same era, soldiers from the land of the Uighurs invaded the borders of the T’ang empire.

The following year, the second year of the Huichang era, Uighur soldiers invaded the border of the Tang Empire.

同三年河北(かほく)節度使(せつどし)(たちま)ち乱を起す、

In the third year of the same era, the regional commander in the area north of the Yellow River suddenly raised a revolt.

In the third year of the same era, the military Commander-in-Chief in the Hebei region suddenly rose in revolt.

其の後大蕃(だいばん)(こく)()(めい)(こば)み、回鶻(かいかつ)(こく)重ねて地を(うば)う、

Later, the kingdom of Tibet once more refused to obey orders from China, and the Uighurs repeatedly seized Chinese territory.

Thereafter, the country of Tibet refused to obey Tang government orders, and the country of Uighur again seized land from the Tang Empire.

(およ)兵乱(ひょうらん)(しん)(こう)()に同じく災火邑里(ゆうり)(さい)に起る、

On the whole, the conflicts and uprisings were like those that prevailed at the time when the Ch’in dynasty and the military leader Hsiang Yü were overthrown, and the towns and villages were devastated by fire and other disasters.

This upheaval was reminiscent of the Qin [221-206 BCE] and Xiang Yu [232-202 BCE] periods, when disasters and fires caused by war broke out in every region.

(いか)(いわん)んや武宗(ぶそう)(おおい)に仏法を破し多く寺塔(じとう)を滅す、乱を(おさむ)ること(あた)わずして(つい)に以て(こと)有り」已上取意。

What was even worse, Emperor Wu-tsung carried out a vast campaign to wipe out Buddhist teachings and destroyed a great many temples and pagodas. He was never able to put down the uprisings and died in agony shortly after. (This is the essence of Jikaku’s original passage.)

To make matters worse, Emperor Wuzong severely repressed the Buddhist teachings and destroyed numerous temples and pagodas. As a result, he was unable to control the rebellions, and eventually died an unnatural death. This is a summary of what Jikaku wrote.


                        つづく Next
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by johsei1129 | 2015-12-12 06:23 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)