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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 11月 29日 ( 7 )


2015年 11月 29日

撰時抄愚記 下二十


 二には、佐渡抄十四・十に云く「法華経の行者を
梵釈(ぼんしゃく)・左右に(はんべ)日月(にちがつ)・前後を(てら)し給ふ、かかる日蓮を用いぬるとも()しく()やまはば国亡ぶべし、(いか)(いわん)や数百人ににくませ二度まで流しぬ、此の国の亡びん事疑いなかるべけれども(しばら)(いましめ)をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども・()うに()ぐれば罰あたりぬるなり」文。

  文の表は近報を語ると(いえど)も、文の意は(また)遠報にも通ずるなり。(いわ)く、(すで)に数百人に(にく)ませ二度まで流しぬるは鎌倉殿の大科なり。此の大科、(ほう)に過ぐるが故に、近くは文永十一年二月中旬、京・鎌倉に於て同士(うち)して多く一族を誅し(おわ)んぬ。遠くは蓮祖の滅後五十二年に当って子孫跡形(あとかた)無く滅亡し畢んぬ。

太平記第十終に云く「嗚呼(ああ)、此の日は(いか)なる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申すに、平家九代の繁昌(はんじょう)一時に滅亡して、源氏多年の(ちっ)(かい)一朝に()くる事を得たり」等云云。

  当に知るべし、法華守護の八幡大菩薩は(いきおい)刹那(せつな)(もよお)し、天照大神の垂迹(すいじゃく)(うしお)を万里に退けて、源氏の(いただき)に乗り移って平家の(やから)を責め(ほろぼ)せしなり。(けん)仁寺(にんじ)(てん)()の詩に云く

短世(たれ)()亀谷(きこく)の水

()(れい)久しく保つ鶴岡(つるがおか)の松

(かつ)て日蓮師の(いさ)めに(たが)うに()って

永々の英将(あと)()がず    等云云。

安国論の性師(じょ)に云く、

先代の英将諫言(かんげん)()れずして万世(たも)たず

(あわれ)むべし焦土(しょうど)となりぬること

惜しいかな亀谷の水は(あざけり)を献じ

鶴岡の松は笑いを()ぐ    等云云。

聖人御難抄二十三・三十一に法華経の行者(ぎょうじゃ)三十九・二十六に極楽寺の事。

  三には、乙御前抄十四・二十一に云く「日蓮が(こうべ)には大覚世尊かはらせ給いぬ」又云く「事の後に()へばこそ人も信ずれ、()うただ・()()きなばこそ未来の人は智ありけりとは・しり候はんずれ、又身軽(しんきょう)(ほう)(じゅう)死身(ししん)弘法(ぐほう)とのべて候へば身は軽ければ人は打ちはり(にく)むとも法は重ければ必ず弘まるべし、法華経弘まるならば死か()(かえ)って重くなるべし、かばね重くなるならば此のかばねは利生(りしょう)あるべし、利生あるならば今の八幡大菩薩と・い()()るるやうに・いはうべし」等云云。

本門の大法年々に弘まり、蓮祖の威光(いこう)月々に倍増し、御影(みえい)の利生日々に(あらた)なり。故に(これ)を祝い祭ること(ほとん)ど鶴岡に過ぎたり。既に是れ眼前なり。(あに)兼知(たが)わざるに非ずや。

故に知んぬ、()が蓮祖は是れ(まこと)に大聖人にして、末法下種の教主なること其の意分明(ふんみょう)なり云云。


                   つづく
撰時抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-11-29 21:11 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 11月 29日

撰時抄愚記 下一九 日蓮大聖人、滅後の符合に三事あり


  十五日

  問う、宗祖の兼知未萌(けんちみぼう)の現世符合(ふごう)の事、(すで)に命を聞き(おわん)ぬ。又現世の御言、滅後符合の事(これ)有りや

  答う、実に所問の如し。今(しばら)く現世の三事に(じゅん)じて滅後符合(ふごう)の三事を出さん。 

  一には、下山抄二十六・五十二に云く「教主釈尊より大事なる行者を法華経の第五の巻を以て日蓮が(こうべ)を打ち十巻(とも)に引き散して散散(さんざん)(ふみ)たりし大禍(たいか)は現当二世にのがれたくこそ候はんずらめ」云云。

此の大科(つい)(まぬか)れずして、(へいの)左衛門尉(より)(つな)も宗祖滅後二十一年に当って一類(みな)滅亡せり。

鎌倉将軍()に云く「弘安七年十月、時宗(ときむね)の子息(さだ)(とき)十四歳、家督(かとく)()いで執権(しっけん)す。同八年四月、貞時、(さがみ)(のかみ)に任ず。

(頼綱、泰盛の子宗景(むねかげ)が藤原氏を改めて源氏と為し、(ひそか)謀叛(むほん)して将軍たらんと欲すと()ぐ。十一月、泰盛、宗景(ちゅう)に伏す。()の党皆(たいら)ぐ。(ここ)に於て頼綱(ひと)()(ふる)う)。

永仁元年四月、鎌倉大地震、死者一万余人。貞時の家令(かれい)頼綱、剃髪(ていはつ)して()(えん)と号す。権威()に盛んなり。其の次男安房(あわの)(かみ)廷尉(ていじょう)に任じ、飯沼殿と号す。(ひそか)に安房守を立てて将軍と為さんと(はか)る。果円が長子(むね)(つな)、以て貞時に告ぐ。貞時、果円及び安房守等を誅す。宗綱も(また)佐渡国に流さる。(其の後之を(ゆる)す)一族滅亡す」等云云。

  今案じて云く、平左衛門入道果円の首を()らるるは、是れ(すなわ)ち蓮祖の御顔を打ちしが故なり。最愛の次男安房守の首を刎ねらるるは、是れ則ち安房国の蓮祖の御頸(おんくび)を刎ねんとせしが故なり。嫡子(ちゃくし)宗綱の佐渡に流さるるは、是れ則ち蓮祖聖人を佐渡島に流せしが故なり。其の事、(すで)に符号せり、(あに)大科(まぬか)れ難きに非ずや。

問う、頼綱の滅亡は(まさ)しく(あつ)(はら)の法華宗の首を切りしが故なり。謂く、駿州(すんしゅう)富士熱原の郷の住人、神四郎・田中の四郎・広田弥太郎を始めとして多くの信者有り。然るに駿河(するが)の国は(こう)殿(どの)(ごり)(ょう)(こと)に富士(ごおり)後家(ごけ)(あま)御前達の内の人々多し。故に最明寺(さいみょうじ)・極楽寺の御敵(おんかたき)(いか)り給う故にや、平左衛門頼綱、弘安()年の秋の(ころ)、彼の神四郎・田中の四郎・広田の弥太郎等二十四輩を生け()りて(ろう)に入れ、其の年の冬、三人の者は法華宗の張本として頭を刎ねらる。其の(ほか)の者をば残らず追却(ついきゃく)せり。

  されば蓮祖大聖人、彼等籠者(ろうしゃ)の問の御書二十二・三十三に云く「彼のあつわら(熱原)愚癡(ぐち)の者ども・()はげ()まして・をどす事なかれ、彼等にはただ()えん()におもい切れ・()からんは不思議わる()からんは一定(いちじょう)とをもへ」已上。

  又(くび)切られて後、上野殿への御書三十二・十八に云く「()つはら()のものども・かく()しませ給へる事は・(しょう)(へい)将門(まさかど)・天喜の(さだ)(とう)のやうに此の国のものどもは・おもひて候ぞ、是れはひと()へに法華経に命を()つるがゆえなり、まつたく主君にそむ()く人とは天・御覧(ごらん)あらじ」已上。

  其の後、日興上人、彼の菩提(ぼだい)(とぶら)中に御本尊書写し給う。其の端書(はしが)きに云く「駿河国富士下方(しもかた)熱原郷の住人、神四郎、法華宗と号して(へいの)左衛門尉が為に(くび)()らるる三人の内なり。(へいの)左衛門入道、法華宗の頸を切るの(のち)十四年を経て、謀叛(むほん)(くわだ)つる間、(ちゅう)せられ、其の子孫、跡形(あとかた)も無く滅亡し(おわ)んぬ。徳治三年(つちの)(えさる)卯月(うづき)八日、日興在判」云云。

  故に頼綱の滅亡は熱原の現罰なり。何ぞ蓮師打擲(ちょうちゃく)の大科と云うや。

  答う、現報に遠近(おんごん)あり。遠くは蓮師打擲の大科に()り、近くは熱原の殺害(せつがい)に由るなり。故に興師は近く現報を論じ、今は遠く(これ)を論ずるが故なり。


                      つづく
撰時抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-11-29 20:41 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 11月 29日

撰時抄愚記 下一八 日寛上人、暫時筆を閣いて、紅涙紙を点ず

一 建長寺(けんちょうじ)文。

  是れ禅宗なり。()福山(ふくざん)と号す。五山の第一なり。相模(さがみ)(のかみ)平時頼(たいらのときより)、建長三年十一月に建立(こんりゅう)なり。開山は宗の大覚禅師(ぜんじ)(いみな)道隆(どうりゅう)蘭渓(らんけい)(つぶさ)には元亨(げんこう)釈書(しゃくしょ)第六九の如し。

一 寿(じゅ)福寺(ふくじ)文。

  (また)禅宗なり。亀谷山(きこくざん)と号す。五山の第三なり。開山は千光(せんこう)国師(こくし)栄西(えいさい)なり。此の地は頼義・義家居住の処なり。(のち)に義朝も(ここ)に住せり。二位の(ぜん)()、彼の菩提の為に栄西に付するなり。

一 極楽(ごくらく)

  是れ律宗なり。霊山(りょうぜん)山と号す。開山は忍性(にんしょう)菩薩(ぼさつ)(りょう)(かん)上人なり。陸奥(むつの)(かみ)平重時の建立なり。重時、極楽寺殿と号するなり。

一 大仏殿等

  建長寺の持分なり。(かん)(げん)元年の建立なり。今の大仏は金銅の()遮那仏(しゃなぶつ)なり。

一 長楽寺

  浄土宗の法然が弟子、(りゅう)(かん)所住の寺なり。

一 去年(こぞ)文永十一年四月八日

 「去年」とは文永十一年なり。故に当抄は建治元年の述作なり。文永十一年(きのえ)(いぬ)二月十四日の御赦免(ごしゃめん)(じょう)、同じき三月八日島に()き、同じき十二日に島を御立ち、同じき二十六日に鎌倉に入り給い、同じき四月八日に(へいの)()衛門(えもん)に御対面なり。註画(ちゅうが)五初

一 (こと)に真言宗乃至(おおい)なるわ()はひにては

 東寺(とうじ)叡山(えいざん)、並びに是れ真言なり。

 問う、(さき)の両度は(ただ)禅・念仏を破し、今は別して真言を破する所以(ゆえん)如何(いかん)

  答う、三沢抄十九・二十三に云く「又法門の事は()()(くに)へながされ候いし()(ぜん)の法門は・ただ仏の()(ぜん)(きょう)とをぼしめせ」等云云。是れに二義有り。一には所破、二には所顕なり。

  所破と云うは佐渡已前には(いま)だ真言を破せざるなり。何となれば即ち()下の文に云く「此の国の国主、我が()をも・たもつべくば真言師等にも()し合わせ給はんずらむ、()の時まことの大事をば申すべし、弟子等にもなひなひ申すならばひろう(披露)してかれら(彼等)()りなんず、さらば・よも()わじと・をもひて各各(おのおの)にも申さざりしなり」云云。

  所顕と言うは(いま)だ三()の秘法を顕さざるなり。即ち()次下の文に云く(しか)るに(いぬ)る文永八年九月十二日の夜、たつ()(くち)にて(くび)()ねられんとせし時より・のち()ふびんなり、我につきたりし者どもにま()との事を()わざりけると()もうて・()()の国より弟子どもに内内申す法門あり、此れは仏より後、乃至竜樹・(てん)(じん)・天台・妙楽・伝教・義真等の大論師・大人師は知りてしかも御心の中に秘せさせ給いし、口より外には(いだ)し給はず」等云云。三十三・十九三十五・五十一

  佐渡已後(いご)(もっぱ)ら真言を破し、三()の秘法を顕すなり。例せば法華に至って始めて三を破して一を顕し、(しゃく)を破して本を顕すが如し。()(ぜん)の中に於ては此の破顕の二義無し。佐渡已前も(また)(しか)なり。故に「(ただ)仏の爾前経」等と云うなり。()し通じて(これ)を談ぜば、彼も未顕(みけん)真実なり。此れも未顕真実なり。故に(しか)云うなり。

一 よも今年はすごし候はじ等

  即ち其の年の冬、文永十一年十月、蒙古の兵船対馬(つしま)に寄せ(きた)り、二箇国を(うば)い取れり。已上(いじょう)三度の兼知、(ごう)(まつ)(たが)わず、(あに)大聖人に非ずや。

佐渡御書十七・十九に云く「現世に云い()(ことば)(たが)はざらんをもて後生(ごしょう)(うたがい)をなすべからず」等云云。

(ここ)に於て暫時(ざんじ)、筆を()いて紅涙(こうるい)紙を点ず云云。

 

                    つづく
撰時抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-11-29 20:00 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 11月 29日

撰時抄愚記 下一七 自界叛逆難の兼知符合を説く

  十三日

一 (へいの)左衛門尉(さえもんのじょう)に向かって云く

 是れ即ち名字なり。故に「へイ」とよむべし。愚案(ぐあん)記三・十六に云云。語式は不可なり。

一 日蓮は日本国の棟梁(とうりょう)なり

 職原抄(しょくげんしょう)一・六の頭書(かしらがき)に云く「室、棟梁に非ざれば(すなわ)(じょう)ず」云云。又云く「(ずい)高孝基(こうこうき)、人を知るの(かがみ)有り杜如(とじょ)(かい)を見て(いわ)く、必ず棟梁の重きに任ぜんと。班固(はんこ)(しゃ)()()(すす)む、(まこと)大僕(たいぼく)の棟梁なりと。棟梁の二字は(ここ)より出ず」と云云。

佐渡抄十四・九に云く「日蓮によりて日本国の有無(うむ)はあるべし、(たと)えば(いえ)に柱なければ・たもたず人に(たましい)なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり平左衛門(すで)に日本柱をたをしぬ」文。即ち今文に同じきなり。

一 只今(ただいま)自界(じかい)叛逆(ほんぎゃく)

 問う、(けん)()符合(ふごう)如何(いかん)

 答う、顕立正意抄十三・二十七に云く「(いぬ)る文永八年九月十二日御勘気(ごかんき)(こうむ)りしの時()く所の(ごう)(げん)次の年二月十一日に符合せしむ、(こころ)有らん者は之を信ず可し。(いか)(いわん)や今年(すで)に彼の国災兵(さいひょう)の上二()国を(うば)()る。(たと)い木石()(いえど)も、設い禽獣(きんじゅう)()りと雖も感ず可く驚く可きに」等云云。

「次の年の二月十一日」とは(すなわ)ち文永九年二月の騒動の事なり。

文永九年壬申(みずのえさる)春、鎌倉の時宗の舎兄・六波(ろくは)()の南方・北条式部丞(ほうじょうしきぶのじょう)(とき)(すけ)(ひそか)に時宗を(ちゅう)せんと(はか)る。北条尾張守(きみ)(とき)入道(にゅうどう)(けん)西(ざい)遠江守(とうとうみのかみ)教時(のりとき)(これ)に応ず。事、関東に聞こゆ。故に二月十一日、鎌倉に於て彼の与党(きみ)(とき)入道並びに遠江守教時を誅す。(しか)るに(けん)西(ざい)罪科なき故に()って、討手(うって)大倉次郎左衛門尉、渋谷新左衛門尉、四方田(よもだ)竜口左衛門尉、石河神の次左衛門尉、薩摩左衛門三郎等、首を()られ(おわん)ぬ。又中の御門(みかど)中将(さね)(たか)郷、(ろう)者と成る。その(ほか)、多くの人誅敗(ちゅうばい)を受く。

同じき十五日、鎌倉の早馬、六波羅の北方・北条義宗(よしむね)(もと)に来る。義宗(にわか)に南方へ押し寄せ、(とき)(すけ)()(ほろぼ)す。吉野の奧に遁逃(とんとう)し、(つい)に行方を知らず。(これ)二月の騒動と()うなり。

 (とき)(すけ)は是れ時宗の兄なるに、弟の時宗家督(かとく)を取られ鬱憤(うっぷん)止まざる故に、逆心の(くわだて)りしなり。六波羅の北方・義宗は是れ長時が子なり。長時は重時(しげとき)が子なり。重時は是れ義時の三男なり。義時は時政が嫡子(ちゃくし)なり。(きみ)(とき)(のり)(とき)(みな)時頼、時宗の一門なり。自界叛逆(ほんぎゃく)の兼知(あたか)も符節の合うが如し。(あに)大聖人に非ずや。

 日妙抄十九・六十に云く「今年二月十一日合戦、()れより今五月のすゑ()・いまだ世間安穏ならず」等云云。

 又文永九年正月十六日、佐州塚原に於て諸宗と法論、勝利を得るの後、本間重連(しげつら)に向って未萌(みぼう)を示す。此の事、三十日の内に符合せり。(つぶさ)佐渡抄十四・八紙()()の如し。

 「(いか)(いわん)や今年二箇国を(うば)()る」とは、「今年」は即ち文永十一年なり。王代一覧の五・四十二に云く「文永十一年十月、蒙古の兵船、対馬(つしま)島に寄せ来る。武士等防戦」等云云。「二箇国」とは壱岐(いき)・対馬なり。

一 経文の如く乃至(ないし)彼等が()由井(ゆいの)(はま)にて切らずば等

  問う、(いず)れの経文を指すや。

  答う、安国論の意に(じゅん)ずるに、(せん)()有徳(うとく)の経文なるべし。会疏(えしょ)三・五十五、同十一・十九、安国論十七・八。

  問う、涅槃(ねはん)経には「(とう)(じょう)を持すと雖も、(まさ)に命を断ずべからず」云云。

  安国論に云く「釈迦の以前の仏教は其の罪を()ると(いえど)(のう)(にん)の以後、経説は(すなわ)()()を止む」等云云。「諸宗の僧の(くび)()ねらるべし」云云。(あに)相違するに非ずや。

  答う、「則ち其の施を止む」とは、是れ為人悉(いにんしつ)(だん)に約す。「頸を()ぬべし」とは是れ対治(たいじ)悉檀に約す。本経の文に両辺あり。故に(おのおの)一意に()るなり。啓蒙九・十四、又会疏(えしょ)三・三十一に云云。二十一・二十三


                    つづく

撰時抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-11-29 17:52 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 11月 29日

撰時抄愚記 下一六 他国侵逼難の兼知符合を説く


  第三十二段 
聖人(しょうにん)たるを広く釈す

 

一 外典(げてん)に云わく等

 此の下は広釈、三あり。初めに釈名、次に「()に三度」の下は正釈、三に「問うて云く第二」の下は(かん)(もん)なり。

一 未萌(みぼう)をしるを是れ聖人と云う

()二末九十三に云く「(ぜい)(えん)に云く、(ぼう)(ちょう)(いま)だ現れざるに存亡の機を見るを名づけて聖臣と為す」云云。文選(もんぜん)四十四に云く「明者は(あやう)きを無形と見、智者は福を未萌に(はか)る」云云。良曰く「(ぼう)は初生なり」と。善曰く「太公金匱(きんき)に曰く、明者は未萌を見る」文。

三沢抄十九・二十二に云く「聖人は未萌(みぼう)を知ると申して三世の中に未来の事を知るを・ま()との聖人とは申すなり」等云云。二十八巻八の聖人知三世抄()いて見よ。

一 ()に三度の高名(こうみょう)あり等

  此の下は正釈、又二あり。兼知(けんち)未萌(みぼう)を明かすに(おのずか)ら三あり、見るべし。

一 最明寺(さいみょうじ)殿等

  釈書十七・二十、王代一覧五・二十九、鎌倉志三・四十六。

一 宿()の入道に向かって云く等

  (のち)蓮師に帰し、光則寺(こうそくじ)を立つるなり。啓蒙の一・三、往いて見よ。

一 禅宗と念仏宗とを(うしな)い給うべし

  問う、安国論には(ただ)法然のみを破す。今何ぞ「禅宗」と云うや。

 答う、彼の論の現文は但法然のみを破すと(いえど)も、意は諸宗に通ずるなり。(つぶさ)には安国論愚記の如し。諸宗の中に於ても禅宗は別して鎌倉殿帰依(きえ)の宗なり。故に宿屋に向って「禅宗と念仏宗」等と云うなり。報恩抄に云く「国主は禅宗を尊む、日蓮は天魔の所為(しょい)と云うゆへに我と(まね)ける・わ()わひなれば」と云云。

一 此の一門より事()こりて他国に()めらせ給うべし等

 次上(つぎかみ)の二十六紙を往いて見よ。

 問う、兼知符合(ふごう)は如何。

 答う、種種御振舞抄二十三・三十九に云く「()ぬる文永五年(のち)の正月十八日、西戎(せいじゅう)大蒙古国より日本国を(おそ)うべきの由(ちょう)(じょう)を渡す。日蓮が()ぬる文応元年(たい)(さい)庚申(かのえさる)立正安国論に(かんが)えたるが如く、今に少しも(たが)わず符合(ふごう)しぬ。此の書は(はく)楽天(らくてん)楽府(がふ)にも越え、仏の未来記にも劣らず、末代の不思議、何事か是れに過ぎん。賢王・聖主の御代(みよ)ならば日本第一の権状(けんじょう)にも行われ、現身に大師号あるべしと思いしに()の義なし」(取意)等云云。

「白楽天の楽府にも越え」とは安国論愚記(ごと)し。

「仏の未来記にも劣らず」とは、顕立正意抄十三・二十五に云く「立正安国論に云く、乃至朝に賢人(けんじん)有らば(これ)(あやし)む可し」等云云。

()(とく)外道(げどう)涅槃(ねはん)経三十一・八の如し。瞻婆(せんば)長者は涅槃経二十八・七の如し。「()って後三月」の文は()(げん)観経に出ず。()の外、六十年の()田地(でんち)、一百年の(きょう)比丘(びく)及び阿育(あそか)大王、六百年の馬鳴(めみょう)、七百年の竜樹(りゅうじゅ)、皆仏記(ぶっき)の如く(しゅう)(ごう)(たが)わず。蓮祖の兼知(また)(また)()くの如し、故に「仏の未来記にも劣らず」と云うなり。

  

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by johsei1129 | 2015-11-29 17:12 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 11月 29日

撰時抄愚記 下一五

七日

 
 第三十一段 閻浮提第一の聖人


一 いまにしもみよ等

  此の下は第三に、日蓮は(えん)()第一の聖人なることを明かす、三あり。

  初めに略して(けん)()兵乱(ひょうらん)を示し、次に「外典に曰く」の下は広く釈し、三に「されば国土いたくみだれば」の下は結。初めの兼知兵乱を示す中に、()ず正しく示し、次に信伏(しんぷく)を明かす中に内外(ないげ)の例を引くなり。(註:兼知=かねて知る事。予知、予言。兼讖と同義)

一 月支(がっし)の大族王。

  西域(せいいき)四・二。註の所引の如し。

一 (むね)(もり)(かじ)(わら)うや()まう等

  「(かげ)(とき)」の二字は(まさ)に「能員(よしかず)」に作るべし。即ち是れ比企四郎(ひきしろう)能員なり。東鑑(あずまかがみ)第四の元暦(げんりゃく)二年、盛衰記四十五・五の如し。此の能員は安国論所覧(しょらん)の比企大学三郎の父なり。

一 提婆(だいば)乃至南無と唱え等

  増一(ぞういち)阿含(あごん)四十六・十三に云云。「南無」の事、種々の因縁は林の二十・二十、愚案記の十六巻五十七に云云。

一 南無日蓮聖人等

  聖人知三世抄二十八・九に云く「日蓮は一閻浮提(いちえんぶだい)第一の聖人なり」文。経に云く「()(にち)大聖尊」云云。「尊」とは人なり。人即尊なり。「唯我独尊(ゆいがどくそん)・唯我一人(いちにん)(これ)を思え、(まさ)に知るべし「大聖人」とは即ち仏の別号なり。是れ(すなわ)ち末法下種の教主なるが故なり。江戸阿私加大論二十二・十六。


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by johsei1129 | 2015-11-29 13:06 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 11月 29日

撰時抄愚記 下一四

  六日

   第三十段 智人たるの証文

一 問うて云くなにをもつてか此れを信ぜん等

 此の下は引証なり。次上(つぎかみ)に正しく瑞相(ずいそう)(いわれ)を答えて云く「今の大地震・大長星は国王・日蓮をにく()みて亡国の法たる禅宗と念仏者と真言師をかたうど(方人)せらるれば、天いか()らせたまいていださせ給うところの災難なり」云云。故に(いま)此の証拠を問うて「なにをもってか此を信ぜん」と云うなり。

一 最勝(さいしょう)(おう)(きょう)に云く

金光明最勝王経第八巻十八の文なり。

一 (みな)時節によらず

 本経には「皆時を以て行われず」と云云。余抄の所引、御申状(おんもうしじょう)等も(しか)なり。

一 又云く、三十三天の衆等

 最勝王経の第八・十七の文なり。此の中に「他方の怨賊(おんぞく)」等とは、文に同じきが故に来るなり。蓮祖の釈の文、(また)(しか)なり。「三十三天」とは帝釈(たいしゃく)天王(てんのう)の事なり。

一 仁王(にんのう)(きょう)に云く等

 仁王経(ぞく)(るい)品の文なり。次上(つぎかみ)の第一の引証は、国主、智人を(にく)みて悪人に帰依(きえ)するの証なり。第二の引証は天の(いかり)の証文なり。今、()の仁王の文は、禅・念仏・真言は亡国の悪法たるの証文なり。「又云く」の下は知るべし、(すなわ)ち天地の災難なり。

一 次には内賊(ないぞく)と申して等

 問う、所引の経文(いま)だ此の意を見ず。

 答う、破法・破国の文の意を()だすなり。故に下に「是れ(ひとえ)に」等と云うなり。

一 守護(しゅご)経に云く等

 守護国界経の第十・六紙の文なり。次上の仁王経並びに此の守護経の文、及び下の蓮華面(れんげめん)経の文は、三文(とも)に禅・念仏・真言は亡国の悪法たるの証文なり。故に知んぬ、真言亡国、念仏無間等は一往(いちおう)なり、再往は三宗無間、三宗天魔、三宗亡国なり。

一 訖哩枳(きりき)王にかたらせ給い

 伝教大師、(けん)戒論(かいろん)の下十四に経を引いて(つぶさ)に釈す。往いて見よ。

一には(ひん)にして(かっ)せざらんことを(おそ)るる(しゃ)(もん)。二には()にして怖畏(ふい)あるの沙門。三には債負を(おそ)るる沙門。四には仏法の過失を求むる為の沙門。五には(しょ)(うた)の為の沙門。六には名称(みょうしょう)の為の沙門。七には天に生ぜんが為の沙門。八には()(よう)の為の沙門。九には王に生ぜんが為の沙門。十には真実心の沙門。(さき)の九種の沙門は破仏法の三宗なり。第十のみ真実の沙門なり。

一 大族(だいぞく)(おう)文。

 西域(さいいき)第四初に「武宗(ぶそう)皇帝」は註の中に諸文を引く云云。

一 伝教大師の獅子(しし)の身の中の虫三虫等

 問う、蓮祖の獅子身中の虫(これ)ありや。

 答う、開山上人の二十六箇()の第四に云く「偽書(ぎしょ)を造って御書と号し本迹一致の修行を致す者は獅子身中(しんちゅう)の虫と心得(こころう)べき事」と云云。御書の中に(すべ)て本迹一致の義無きこと、此の文に分明(ふんみょう)なり。若し(まこと)に本迹一致の文有らば、何ぞ(さら)に偽書を作って御書と号せんや云云。

 今時、偽書を造らずと雖も(もっぱ)本迹一致の修行を()す、(あに)蓮祖の獅子身中の虫に非ずや。我が日興上人は(まこと)に是れ蓮祖付嘱の(しゃ)(びょう)なり。深く之を思うべし云云。

一 此等の大謗法(ほうぼう)の根源をただ()す等

 是れ蓮祖の(のう)()を明かす中の第三、結文なり。

一 あわれなるかなや等

 是れは(えん)()第一の智人なることを明かす中の第三、悲喜の文なり。

一 今度(しん)(でん)に仏種を()えたる等

 十三・三十に云く「日蓮は民の家より()でて(こうべ)をそり袈裟(けさ)()り。此の(たび)いかにしても仏種をもうえ、生死(しょうじ)を離るる身と成らんと思いて候」云云。自行(じぎょう)既に(しか)なり。()()(また)(しか)り云云。二十二・十八


                 つづく
撰時抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-11-29 12:37 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)