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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 10月 10日 ( 3 )


2015年 10月 10日

撰時抄愚記 上五 時鳥(ほととぎす)は「本尊掛けたか」と鳴く


一 
()(ほと)(とぎす)は春ををくり等

此の下は第三、「况や」は(けつ)なり云云。

「時鳥」は時を知る鳥なり。此の鳥の異名多し。(あるい)子規(しき)、或は杜鵑(とけん)、或は杜宇(とう)、或は(しょっ)(こん)、或は蜀魄(しょくはく)等なり。中に於て今、(ほと)(とぎす)の字を用うるは少しく(こころ)るか。

朗詠(ろうえい)並びに(したごう)和名(わみょう)に時鳥を以て郭公(かっこう)と為す。並びに()に非ず。郭公は()()なり。本草(ほんぞう)綱目(こうもく)()()等の意(しか)なり云云。(こっ)(きょう)一に(これ)を弁ずるが(ごと)し云云。又時鳥と書く事は耕作(こうさく)の時を知って教ゆる故に、別して時鳥と云うなり。

問う、この鳥は春()くとせんや。夏鳴くとせんや。

答う、国に()って同じからず。若し漢土(かんど)に於ては多くは春鳴くと見えたり。文選(もんぜん)二十八・二十三の註に云く「時鳥は春鳴く鳥なり」と云云。()(ぶん)後集(ごしゅう)四十四・六には「春至れば(すなわ)ち鳴く」と云云。又春より夏に至って鳴く(ところ)あり。本草(ほんぞう)四十九・十四に()(ちん)云く「春暮れて即ち鳴き、夏に至って(もっと)(はなは)だし」云云。古詩に云く「如かず、口を()じて残春を過さんには」と云云。

()国に於ては(ろう)(げつ)(ころ)より鳴き始めて、三月の時分には鳴き()むなり。「()(さい)の余春に()くこと(ようや)(まれ)なり」と云う是れなり。三体抄絶句(ぜっく)三十一に云云。

(まさ)に日本に於ては夏至れば則ち鳴くなり。故に詩歌(しいか)(とも)に夏の部に入るるなり。今は和国に約する故に「春を送り」と云うなり。是れ(しか)しながら暖国・寒国の異なりのみ。啓蒙(けいもう)の義は恐らく理を(つく)すに非ざるなり。

問う、()鳥の鳴きよう如何(いかん)

答う、本草に時珍が云く「()の鳴くことは不如(ふにょ)帰去(ききょ)()うが(ごと)」云云。古詩の意皆(しか)なり。又(ごん)抄に云く「早作(そうさく)田過(でんか)()()(じゅく)と鳴くなり」云云。和俗に云く「本尊()けたかと鳴くなり」云云。

(いわ)く、又()人に()って之を聞くこと同じからず。旅客の耳には専ら不如(ふにょ)()と聞こゆ、故に古郷を忍ぶなり。或る宮方(みやかた)の田舎に流されて(えい)じたもう。

鳴けば聞く聞けば都の恋しきに 此の里過ぎて鳴け(ほとと)(ぎす) 云云。

其の里には今に至って此の鳥鳴かずとなん申し伝え(はべ)り。又農人の耳には「早作田過時不熟」と聞く、故に()鳥の鳴くを()って農事を(つと)むるなり。事文後集に云く「(おも)うに(でんか)は其の鳴くを(うかが)いて則ち農事を(おこ)す」と云云。

又我等が耳には「本尊()けたか」と聞くなり。

御遺状に云く「日興が身に()て給わるところの弘安二年の大本尊、日目に(これ)を授与す。本門寺に掛け奉るべし」云云。この鳥の(こころ)に云く「最早(もはや)、広宣流布の時も(きた)るべし、本門寺を建立して本尊掛けたか、本尊掛けたか」と鳴くなり。(しか)れば広宣流布の時を待つ鳥なるが故に時の鳥と云うか云云。此れは是れ観心の釈の(こころ)なるのみ。

之に(ちな)んで思い(いだ)せることあり。季吟(きぎん)発句(ほっく)に云く

一声(ひとこえ)に 本迹いかに 時鳥 云云。

()(かつ)て之を伝え聞いて笑って云く

(こえ)は本 (ひびき)は迹よ 時鳥 云云。

古歌に云く「山彦(やまびこ)の答うる山の時鳥 一声(ひとこえ)()けば二声(ふたこえ)ぞきく」。又古詩に云く「雲は老樹を()空山(くうざん)(うち)千声(せんしょう)彷彿(ほうふつ)として一度(ひとたび)飛ぶ」云云。之を思え。此れは是れ本迹(ほんじゃく)の釈の意なるのみ。

一 (にわ)(とり)(あかつき)をまつ

(また)是れ時を知る鳥なり。即ち第五の徳なり。()(ぶん)後集(ごしゅう)に云く「(にわとり)に五徳あり。冠を(いただ)くは文なり。(けづめ)を以て()つは()なり。(いさ)んで(たたか)うは勇なり。食を見て相呼ぶは(じん)なり。夜を守って時を失わざるは(しん)なり」と云云。

問う、この鳥の鳴きよう如何(いかん)

答う、一説に(いわ)く「夜(すで)(あかつき)に近し、我が(すね)即ち(こご)ゆ。里人早く驚きて、夢の世を厭離(おんり)せよと鳴くなり」と。一説に云く「()()()と鳴くなり」と。

故に当山に(おい)ては、鶏鳴(けいめい)に即ち起きて(ほら)を吹き、(かね)()いて勤行を(つと)むるなり。是れ(にわとり)の時を知るが故なり云云。
 彼
(なお)時を失わず、二三子(にさんし)、何ぞ山谷(さんこく)に似たるや。(こく)()に云く「(あさ)(とり)(もよお)せども起きず(ふすま)(よう)して松風(しょうふう)()く」と云云。(つつし)みて(おこた)ること(なか)

 
                    つづく

撰時抄愚記上 目次



by johsei1129 | 2015-10-10 20:35 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 10月 10日

撰時抄愚記 上四

入文七月七日


  第一段 
(とき)(よう)となすを(ひょう)

一 ()れ仏法を(がく)せん法は必ず()づ時をならうべし

是れ時を要と()すことを(ひょう)するなり。

孟子(もうし)(せい)の国の(ことわざ)()せて云く「智慧ありと雖も(いきおい)(じょう)ずるに()かず。鎡基(じき)りと雖も、時を待つに()かず」と云云。「鎡基(じき)」とは即ち是れ農具なり。(すき)(くわ)の類なり云云。

或る人の歌に云く「何事も時ぞと思え夏来ては、(にしき)にまさる(あさ)狭衣(さごろも)」云云。

世間の浅き事すら(なお)()くの如し。(いわん)や仏法をや。故に涅槃(ねはん)経の第十八に云く「時を知るを以ての故に大法師(ほっし)と名づく」と云云。文の意に云く、時尅(じこく)相応の道を知るを以ての故に大法師と名づく云云。「大法師」とは()く法を説いて衆生を利する故なり。

如説修行抄二十三・三十三に云く「されば国中の諸学者等、仏法をあらあら学すと雖も、時尅(じこく)相応の道を知らず。四節四季取り取りに(かわ)れり。夏は(あつ)く冬はつめたく、春は花さき秋は(このみ)なる。春は種子を(くだ)して秋は菓を取るべし。秋種子を下して春菓を取らんに(あに)取らるべけんや。極寒の時は(あつ)(ころも)(ゆう)なり、極熱の夏はなにかせん。冷風は夏の用なり、冬はなにかせん。仏法も(また)(また)()くの如し。小乗流布して(とく)(やく)あるべき時もあり、権大乗流布する時もあるべし。(しか)るに正像二千年は小乗・権大乗流布の時なり。末法の始めの五百年には純円(じゅんえん)(いち)(じつ)の法華経のみ広宣流布の時なり」已上。「純円一実の法華経」とは末法下種の正体・本門の本尊・妙法蓮華経の五字の事なり云云(うんぬん)

問う、宗教の五()は並びに是れ肝要(かんよう)なり。(なん)ぞ別して「必ず()ず時をならう」と云うや。

答う、実に所問の如し。(しか)るに五箇の中に於ては時を以て本と為す。()し時の一字を離れては、之を論ずること(あた)わざるが故なり。

初めに教の(せんじん)を判ずる如き、正法の始めの五百年は(もっぱ)内外(ないげ)相対(そうたい)を用い、次の五百年は専ら大小相対を用う。像法一千年は専ら権実相対を用う。()し末法に至らば専ら本迹相対を用うる等なり。

機も(また)(しか)なり。正像二時は本已(ほんい)()(ぜん)、末法は(ほん)()()(ぜん)等なり。

国も亦爾なり。正像弘通(ぐつう)の権迹は(がっ)()(しん)(だん)を始めと()し、末法流布(るふ)の本門は日本国を以て始めと()す。

祖判の二十七・三十一に(いわ)く「月は西より出でて東を照し、日は東より出でて西を照す。仏法も(また)以て()くの如し。正像には西より東に向い末法には東より西に()く」等云云。

(いわん)や教法流布の前後とは、正法は小乗・権大乗、像法は法華経の迹門等、末法は法華経の本門等なり。(つぶさ)には諸抄の如し。

故に知んぬ、(みな)是れ時を以て本として余の四を論ず。()し時を知らざれば何ぞ余の四を論ずることを得んや。故に時は是れ別して肝要(かんよう)なり。故に「必ず()づ」等と云うなり。

一 過去の大通(だいつう)

此の下は三世の仏を引き、時を(よう)と為すを釈するなり。初めに過去の仏を引いて釈し、次に「今の教主」の下は現仏(げんぶつ)を引いて釈す。亦二あり。初めに(まさ)しく引き、次に「老子」等を以て現仏の時を待ちたもうに例するなり。三に「弥勒(みろく)」の下は未来の仏を引いて釈するなり云云。

一 老子は母の(たい)()して八十年等

「老子」は仏滅後三百四十六年、(しゅう)の第二十二定王(ていおう)の三年丁巳(ひのとみ)九月十四日、()(ちん)郡に(うま)る云云。

老子経序(きょうじょ)に云く「八十一歳、天の太陽の暦数に応じて生る。生るるとき老いの(しるし)あり、人皆()の老いたるを見て其の(わか)きを見ず。之を嬰児(えいじ)()わんと欲すれば年(すで)に八十なり。(これ)を老父と謂わんと欲すれば、又(かつ)新たに生またり。故に之を老子と謂う」文。

一 商山の()(けん)

開目抄の下に之を示すが如し。啓蒙(けいもう)第七十六。

一 (みろく)菩薩等

補処(ふしょ)天に住する年限、種々の異説あり。(あるい)は云く「五十億七千六十万歳」と。或は云く「五十六億万歳」と。或は云く「八百八十万九千二百年」と。(あるい)は「五千七百六十億」と。或は云く「五十七億六百万歳」等となり。(しか)るに今の文は菩薩(ぼさつ)(しょ)(たい)(きょう)第二の巻に()る故に「五十六億七千万歳」と云うなり。

(まさ)に知るべし、三世の仏、皆時を()ちたまう所以(ゆえん)は、時は是れ肝要(かんよう)なるを以ての故なり。


            つづく
撰時抄愚記上 目次



by johsei1129 | 2015-10-10 15:37 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 10月 10日

撰時抄愚記 上三


 第三には、蓮祖は
()謗法(ほうぼう)呵責(かしゃく)したもうが故に。涅槃(ねはん)経の第三・二十九に云く「()(ぜん)比丘(びく)あって法を(やぶ)る者を見て、()いて呵責し駈遣(くけん)()(しょ)せずんば、(まさ)に知るべし、是の人は仏法の中の(あだ)なり。若し()く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子、真の声聞なり」と文。

「法を壊る者」とは、禅・念仏・真言等なり。(しか)るに彼等が謗法を見て置いて呵責せずんば仏法中の怨なり。(たと)えば(ちょう)(てき)を見て(いたずら)に之を責めざるが如し。(あに)朝敵に(こと)らんや。(ただ)、吾が蓮師は(もっぱ)ら如来の勅命を仰ぎ、(あえ)身命(しんみょう)を惜しまず、日々(にちにち)夜々(やや)に之を呵責し、月々年々に之を駈遣したまう。(あに)「是れ我が弟子、真の声聞」に非ずや。故に真実の釈子(しゃくし)なり。若し門流の行者と雖も、謗法を呵責せずんば仏法中怨(ちゅうおん)(せめ)、恐らくは免れ難きか。(なん)ぞ身命を()しんで無上道を惜しまざらんや。

第四には、蓮祖は能く此の経を読持(どくじ)したもうが故に。宝塔品に云く「能く来世に於て、此の経を読み持たんは、是れ真の仏子、(じゅん)(ぜん)の地に住するなり」と文。

経文に「()く来世に於て」とは即ち是れ末法なり。「読持」とは本門の題目なり「(どく)」は即ち是れ行なり「()」は即ち是れ信なり。信ずるが故に此れを(たも)つ、()信ぜずんば何ぞ持つべけんや。故に「持」は是れ信なり。「此の経」とは法華経なり。法華経とは、今末法に(おい)ては即ち是れ本門の本尊の妙法蓮華経の五字なり。是れ(すなわ)ち広・略・要の中には要の法華経なり。(もん)・義・意の中には意の法華経なり。種・(じゅく)・脱の中には下種の法華経なり。

故に知んぬ、()く末法に於て本門の本尊・妙法蓮華経を唱え信ずる人は、即ち是れ真実の釈子(しゃくし)なり。故に「是れ真の仏子」と云うなり。
 「淳善の地に住す」とは、即ち是れ本門の戒壇なり。
(およ)そ戒とは防止を義と()す。()(ふせ)ぎ悪を(とど)むるが故なり。「淳」とは(すなお)なり。(すで)に非を防ぐ、故に是れ(すなお)なり。悪を止むるが故に是れ「善」なり。故に戒壇の地を指して「(じゅん)(ぜん)の地」と云うなり。故に本門の本尊・妙法蓮華経の五字を、我も(是れ)を信行し、人にも之を信行せしむるは、(すなわ)ち是れ真実の釈子にして、本門戒壇の地に住するなり。故に当流の弟子檀那(だんな)は、是れ真の仏子にして真実の釈子なり。

第五には、蓮祖は即ち是れ本因(ほんにん)(みょう)の釈子なるが故に。是れ内証深秘(しんぴ)相承(そうじょう)なり。「釈」とは釈尊なり「子」とは因の義、故に釈尊の本因(すなわ)ち是れ日蓮なり。故に「釈子日蓮」と云うなり。是れ則ち久遠名字(みょうじ)の釈尊の御身(おんみ)の修行を末法今時の蓮師の御身に移し、信行全く同じきが故なり云云。

「日蓮()ぶ」とは、日文字の相伝云云。分字・合字の両釈、九()の深秘(是れ)有り。今(しばら)く之を略す。所詮(しょせん)、釈尊の童名(わらわな)(にっ)(しゅ)太子、蓮祖の童名は(ぜん)(にち)(まろ)。釈尊の果位の御名は()(にち)大聖尊、我が師の御名は日蓮大聖人。国は即ち日本国、山は則ち大日蓮華山。自然(じねん)名号(みょうごう)、不可思議なり云云。

問う、誰人か日蓮の()を立つるや。

答う、若し今日(こんにち)を論ずれば自ら日蓮と号したまうなり。()し其の本を(たず)ぬれば是れ(かたじけな)くも釈尊の勅号(ちょくごう)なり。経文に分明(ふんみょう)なり。(しばら)く之を秘す云云。


                   つづく
撰時抄愚記上 目次



by johsei1129 | 2015-10-10 10:05 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)