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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 10月 08日 ( 2 )


2015年 10月 08日

撰時抄愚記 上二


  十五日


一 
釈子(しゃくし)日蓮()

「釈子」に四句の分別あり。

一には身は釈子に似て心は釈子に(あら)ず。即ち禅宗・念仏・真言等の沙門(しゃもん)なり。

二には身心(とも)に釈子に非ず。即ちこれ禅・念仏・真言等の在家の(やから)なり。

三には身心倶に是れ釈子なり。即ち蓮師(れんし)、興師及び末弟の沙門是れなり。

四には身は釈子に非ざれども心は是れ釈子なり。即ち蓮・興の流れを()む在家の(ともがら)なり。

中に於て我が蓮祖師は身心(とも)に真実の釈子なり。故に「釈子日蓮」と云うなり。(まさ)に此の義を明かさんとするに、略して五義を示さん。

第一には、蓮祖は是れ本化(ほんげ)の再誕なるが故に。涌出品に本化の菩薩を説いて(いわ)く「(これ)()は是れ我が子なり。是の世界に依止(えし)せり」文。妙楽云く「子、父の法を弘む。世界の(やく)有り」云云。故に知んぬ、蓮祖は真実の釈子なり。

又当流の沙門(しゃもん)(みな)れ本化なり。何となれば本化の菩薩は久遠より已来(このかた)(ただ)本門寿量の肝心(かんじん)を行ずるなり。
 故に下山抄に云く「久遠
五百(ごひゃく)塵点(じんてん)(ごう)より已来、一向(いっこう)に本門寿量の肝心を修行し習い給える上行菩薩」等云云。(編者注:「久遠」から「給える」までの文は御書全集に拝せず。平成新編に拝す) 
 既()に門流の沙門は皆是れ一向に本門寿量の肝心を行ず。故に所行の法は全く是れ本化に同じきなり。故に(すなわ)ち是れ本化なり。上行等は昔の本化なり、門流の沙門は今の本化なり。(ただ)ちに上行等なりと謂うには非ず。出家(なお)(しか)なり。(いわん)や在家の義立をや。外典に云く「彼は(いにしえ)(ぎょう)(しゅん)(これ)は今の尭・舜なり」等云云。之に例して知るべし。

又当流の在家も一向(いっこう)に本門寿量の肝心(かんじん)を行ずる故に、皆是れ本化なり。()(しか)らば門流の在家も出家も(とも)に是れ本化なり。故に「此等は是れ我が子」の摂属(しょうぞく)にして、並びに是れ真実の釈子(しゃくし)なり。出家は身心(とも)に釈子なり。在家は心の釈子なり云云。

第二には、蓮祖は()く法の(じゃ)(しょう)(ただ)したもうが故に。会疏(えしょ)三・二十九に(いわ)く「仏法を壊乱(えらん)するは仏法の中の(あだ)なり。能く糺治(きゅうじ)する者は是れ護法の声聞(しょうもん)、真の我が弟子なり」文。禅宗の教外(きょうげ)別伝(べつでん)、念仏宗の捨閉(しゃへい)閣抛(かくほう)、真言宗の第三戯論(けろん)(あに)仏法を壊乱するに非ずや。()(しか)らば仏法(ぶっぽう)中怨(ちゅうおん)(せめ)、何ぞ(まぬか)るるを得んや。(すで)に仏法の中の怨敵(おんてき)なり。(いかで)か釈子と名づけんや。故に真俗(とも)に釈子に非ず。第一、第二の句云云。

(しか)るに()が師蓮祖は、横に権実の(おう)()(きわ)め、(たて)に本迹の淵底(えんでい)(つく)す。(むし)()(きゅう)()する者に非ずや。()(しか)らば「真の我が弟子」なり。故に真実の釈子(しゃくし)なり。

又当流の行者は、真俗(とも)(あお)いで蓮祖の法流を信じて(ごう)(まつ)私立(しりゅう)(そん)せず。故に法の(じゃ)(しょう)に於ては()()も壊乱()。故に「真の我が弟子」真実の釈子なり。文中に「声聞(しょうもん)」と云うは、是れ大乗の声聞なり。「仏道の声を以て一切に聞かしむ」とは是れなり。故に(まこと)に是れ大菩薩なり。小乗の声聞に同じからざるなり。


    

                     つづく

撰時抄愚記上 目次



by johsei1129 | 2015-10-08 22:47 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 10月 08日

法華の持者を禁獄する人、何ぞ現身に悪瘡を感ぜざらんや、と説いた【同一鹹味御書】

【同一鹹(しお)味御書】
■出筆時期:弘長元年((1261年)四十歳御作と推察されます。
■出筆場所:伊豆・伊東の地頭伊東八郎左衛門の屋敷と思われます。
■出筆の経緯:本書は伊豆流罪中に、鎌倉の留守を守る弟子・信徒にあてられた書と思われます。
 大聖人は冒頭で「夫れ味に六種あり<中略>鹹(しお)の味なければ大王の膳とならず、山海の珍物も鹹なければ気味なし」と記し、六種の味の中でも塩味が一番大事てあると示すとともに、その塩を生み出す大海の「八の不思議」を法華経信仰に例えて、わかりやすく説かれておられます。

文末では「法華の持者を禁(いまし)むるは釈迦如来を禁むるなり<中略>法華の持者を禁獄する人、何ぞ現身に悪瘡(あくそう)を感ぜざらんや」と記し、法華経の行者を投獄する者はその身に悪瘡を生じないことはないと断じられておられます。
事実大聖人の佐渡流罪を図った当時の幕府重臣で熱心な念仏信者北条重時(執権北条長時の父)は、 『吾妻鏡』によると伊豆流罪の十九日後、厠で「怪異」により「心神網然」になり一時回復するも再発し同年十一月三日に亡くなっています。
まさに[三三蔵祈雨事] で説かれている「日蓮仏法をこころみるに 道理と証文とには過ぎず、また道理証文よりも現証には過ぎず」そのものでした。
■ご真筆:現存しておりません。

[同一鹹味御書 本文]

夫れ味に六種あり、一には淡(あわき)・二には鹹(しおからき)・三には辛(からき)・四には酸(すき)・五には甘(あまき)・六には苦(にがき)なり。
百味の餚膳(きょうぜん)を調ふといへども一つの鹹(しお)の味なければ大王の膳とならず、山海の珍物も鹹なければ気味なし。

大海に八の不思議あり、一には漸漸に転深し、二には深くして底を得難し、三には同じ一鹹の味なり、四には潮限りを過ぎず、五には種種の宝蔵有り、六には大身の衆生中に在つて居住す、七には死屍(しし)を宿(とど)めず、八には万流大雨之を収めて不増不減なり。

漸漸に転深しとは、法華経は凡夫無解より聖人有解に至るまで、皆仏道を成ずるに譬うるなり。深くして底を得難しとは法華経は唯仏与仏の境界にして等覚已下は極むることなきが故なり。同じ一鹹の味なりとは諸河に鹹なきは諸教に得道なきに譬ふ。

諸河の水、大海に入つて鹹となるは、諸教の機類、法華経に入つて仏道を成ずるに譬ふ。潮限りを過ぎずとは、妙法を持つ人寧ろ身命を失するとも不退転を得るに譬ふ。種種の宝蔵有りとは諸仏菩薩の万行万善、諸波羅蜜の功徳・妙法に納まるに譬ふ。大身の衆生所居の住処とは仏菩薩・大智慧あるが故に大身衆生と名く大身・大心・大荘厳・大調伏・大説法・大勢・大神通・大慈・大悲・おのづから法華経より生ずるが故なり。

死屍を宿めずとは、永く謗法一闡提を離るるが故なり。不増不減とは法華の意は一切衆生の仏性同一性なるが故なり、蔓草漬(つるくさつけ)たる桶缾(とうびょう)の中の鹹は、大海の鹹に随つて満干ぬ、禁獄を被る法華の持者は桶びょうの中の鹹の如く・火宅を出で給へる釈迦如来は大海の鹹の如し。

法華の持者を禁むるは釈迦如来を禁むるなり。梵釈・四天も如何(いかが)驚き給わざらん、十羅刹女の頭破七分の誓ひ此の時に非ずんば何(いつ)の時か果し給ふべき。頻婆娑羅王(びんばしゃらおう)を禁獄せし阿闍世(あじゃせ)早く現身に大悪瘡を感得しき、法華の持者を禁獄する人、何ぞ現身に悪瘡を感ぜざらんや。

    日 蓮 花 押

by johsei1129 | 2015-10-08 20:36 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)