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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 10月 07日 ( 3 )


2015年 10月 07日

法華証明抄三 The Proof of the Lotus Sutra 3


 いかなる過去の宿習(しゅくじゅう)にて・かかる身とは生るらむと悦びまいらせ候上、

I wonder what karma we created in the past to have been born as such persons, and I am filled with joy.

One must have accumulated immense good fortune in past lives to be born a person who believes in the Lotus Sutra. That you are such a person brings me great joy.

経文には過去に十万億の仏にあいまいらせて供養をなしまいらせて候いける者が・法華経(ばか)りをば用いまいらせず候いけれども・仏くやう(供養)の功徳莫大(ばくだい)なりければ・謗法(ほうぼう)の罪に依りて貧賤の身とは生れて候へども・又此の経を信ずる人となれりと見へて候、

The words of Shakyamuni that I referred to above indicate that the blessings that come from having made offerings to a hundred thousand million Buddhas are so great that, even if one has believed in teachings other than the Lotus Sutra and as a result of this slander been born poor and lowly, one is still able to believe in this sutra in this lifetime.

It is expounded in the Lotus Sutra that there was once a person who in his past existences encountered and made offerings to tens of billions of Buddhas but failed to take faith in the Lotus Sutra. Because of this slander, he was born into poor and humble circumstances. However, as a result of having made offerings to Buddhas, he received the great benefit of being able to embrace the Lotus Sutra in his present life.

此れをば天台の御釈に云く「人の地に倒れて(かえ)って地より()つが如し」等云云、

A T’ien-t’ai [school’s] commentary states, “It is like the case of a person who falls to the ground, but who then pushes himself up from the ground and rises to his feet again.”

According to Miao-lo of the Ten-tai school, A person who falls to the ground must push himself up from the ground in order to stand.”

地に()うれたる人は・かへりて地よりをく、

One who has fallen to the ground recovers and rises up from the ground.

This means that when a person falls to the ground, it is by virtue of his pushing himself off the ground that he can arise again.

法華経謗法の人は三悪並びに人天の地には・()うれ候へども・かへりて法華経の御手(みて)にかかりて仏になると・こと()わられて候。

Those who slander the Lotus Sutra will fall to the ground of the three evil paths, or of the human and heavenly realms, but in the end, through the help of the Lotus Sutra, they will attain Buddhahood. it is by virtue of his pushing himself off the ground that he can arise again.

Those who slander the Lotus Sutra will fall to the “ground” of the Three Evil Paths or the worlds of Humanity and Rapture but it is through the power of the very same Lotus Sutra then they all shall rise to the Buddhas realm.


                    つづく Next
【御書本文】 【目次 Index】



by johsei1129 | 2015-10-07 22:45 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2015年 10月 07日

法華証明抄二 The Proof of the Lotus Sutra 2


 なれども・なをなを末代の凡夫は・をぼつかなしと・をぼしめしや有りけん、

Nevertheless, Shakyamuni Buddha may have felt that ordinary people in the latter age would still be skeptical.

But perhaps believing that common mortals in the Latter Day of the Law would still remain skeptical,

十方の諸仏を()しあつめさせ給いて広長舌相(ぜっそう)と申して無量劫より・このかた永くそらごとなきひろくながく大なる御舌(おんした)須弥山(しゅみせん)のごとく虚空(こくう)に立てならべ給いし事は・をびただしかりし事なり、

Hence he summoned the Buddhas of the ten directions to come and join him in the magnificent act of extending their long broad tongues,which had told nothing but the truth for countless kalpas, until they projected into the sky as high as Mount Sumeru.

Shakyamuni Buddha then summoned all Buddhas from throughout the ten directions to verify the truth of the Lotus Sutra. Following Shakyamuni’s example, the assembled Buddhas extended their long, broad tongues, which had told nothing but the truth for countless kalpas, until they magnificently rose into the sky like Mount Sumeru. This was truly astounding.

かう候へば末代の凡夫(ぼんぷ)の身として法華経の一字・二字を信じまいらせ候へば十方の仏の御舌を持つ物ぞかし、

Since this is the case, when ordinary people in the latter age believe in even one or two words of the Lotus Sutra, they are embracing the teaching to which the Buddhas of the ten directions have given credence.

 This means that when you, a common mortal in the Latter Day of the Law, believe in even one or two words of the Lotus Sutra, you are embracing the True Law attested to by all the Buddhas in the ten directions.


                    つづく Next
【御書本文】 【目次 Index】



by johsei1129 | 2015-10-07 22:24 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2015年 10月 07日

法華経は一切経の中の第一の経王なりと知るは是れ教を知る者なり、と説いた【教機時国抄】

【教機時国抄】
■出筆時期:弘長二年(1280年)二月十日 四十一歳御作
■出筆場所:伊豆・伊東 地頭伊東八郎左衛門の屋敷にて。
■出筆の経緯:大聖人は本書を記された前年の弘長元年五月十二日、鎌倉幕府執権・北条長時の命により伊豆に流罪となります。
本書はその伊豆の地で、弟子・信徒に向け、仏教流布の理(ことわり)について「経・機・時・国・教法流布の先後」の五義に分別して比較的平易に説かれた法門です。
大聖人は二年前の文応元年七月十六日、「立正安国論」を北条時頼に献上し国家諌暁を成し遂げると、翌八月二十七日には「松葉ヶ谷の法難」そして立秋宣言以後、初めての国家権力による「王難」に遭われます。
大聖人は本書で「已上の此の五義を知つて仏法を弘めば日本国の国師と成る可きか。所以に法華経は一切経の中の第一の経王なりと知るは是れ教を知る者なり」と記し、自身が法華経の行者として日本の国師たらんとすると宣言しておられます。

さらに法華経勧持品の文を引いて「後の五百歳、二千余年に当つて法華経の敵人・三類有る可しと記し置きたまえり。当世は後五百歳に当れり、日蓮、仏語の実否を勘うるに三類の敵人之有り、之を隠さば法華経の行者に非ず、之を顕さば身命定めて喪(うしな)わんか」と記し、伊豆流罪という王難をへて、末法という時に、法華経有縁の地・日本において法華経の行者として振舞うことの確信を得たことを示されておられます。
尚、この確信は、撰号(筆名)にも表されており、『立正安国論』では「天台沙門日蓮勘之(日興上人の写本)」と記されておられると伝えられていますが、本書では「本朝沙門日蓮註之」と記され、この撰号は佐渡での法本尊開顕の書「観心本尊抄」でも、本初同様に記されておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

[教機時国抄 本文]

                          本朝沙門日蓮之を註す

一に教とは釈迦如来所説の一切の経・律・論・五千四十八巻・四百八十帙(ちつ)・天竺に流布すること一千年・仏の滅後一千一十五年に当つて震旦国(しんたんこく)に仏経渡る、後漢の孝明皇帝・永平十年丁卯(ひのとう)より唐の玄宗皇帝・開元十八年庚午(かのえうま)に至る六百六十四歳の間に一切経渡り畢んぬ、此の一切の経・律・論の中に小乗・大乗・権経・実経・顕経・密経あり此等を弁うべし、此の名目は論師人師よりも出でず仏説より起る十方世界の一切衆生一人も無く之を用うべし之を用いざる者は外道と知るべきなり、阿含経を小乗と説く事は方等・般若・法華・涅槃等の諸大乗経より出でたり、法華経には一向に小乗を説きて法華経を説かざれば仏慳貪(けんどん)に堕すべしと説きたもう、涅槃経には一向に小乗経を用いて仏を無常なりと云わん人は舌口中に爛(ただ)るべしと云云。

二に機とは仏教を弘むる人は必ず機根を知るべし、舎利弗(しゃりほつ)尊者は金師に不浄観を教え浣衣(かんえ)の者には数息観(すそくかん)を教うる間、九十日を経て所化の弟子仏法を一分も覚らずして還つて邪見を起し一闡提(いっせんだい)と成り畢(おわ)んぬ、仏は金師に数息観を教え浣衣の者に不浄観を教えたもう故に須臾(しゅゆ)の間に覚ることを得たり、智慧第一の舎利弗すら尚機を知らず何に況や末代の凡師機を知り難し但し機を知らざる凡師は所化の弟子に一向に法華経を教うべし、問うて云く無智の人の中にして此の経を説くこと莫(なか)れとの文は如何、答えて云く機を知るは智人の説法する事なり又謗法の者に向つては一向に法華経を説くべし毒鼓(どっく)の縁と成さんが為なり、例せば不軽菩薩の如し、亦智者と成る可き機と知らば必ず先ず小乗を教え次に権大乗を教え後に実大乗を教う可し、愚者と知らば必ず先ず実大乗を教う可し信謗共に下種と為ればなり。

三に時とは仏教を弘めん人は必ず時を知るべし、譬えば農人の秋冬田を作るに種と地と人の功労とは違わざれども一分も益無く還つて損す一段を作る者は少損なり、一町二町等の者は大損なり、春夏耕作すれば上中下に随つて皆分分に益有るが如し、仏法も亦復是くの如し、時を知らずして法を弘めば益無き上還つて悪道に堕するなり、仏出世したもうて必ず法華経を説かんと欲するに縦(たと)い機有れども時無きが故に四十余年には此の経を説きたまわず、故に経に云く「説時未だ至らざるが故なり」等と云云、仏の滅後の次の日より正法一千年は持戒の者は多く破戒の者は少し、正法一千年の次の日より像法一千年は破戒の者は多く無戒の者は少し、像法一千年の次の日より末法一万年は破戒の者は少く無戒の者は多し、正法には破戒・無戒を捨てて持戒の者を供養すべし像法には無戒を捨てて破戒の者を供養すべし、末法には無戒の者を供養すること仏の如くすべし但し法華経を謗ぜん者をば正像末の三時に亘りて持戒の者をも無戒の者をも破戒の者をも共に供養すべからず、供養せば必ず国に三災七難起り供養せし者も必ず無間大城に堕すべきなり、法華経の行者の権経を謗ずるは主君・親・師の所従・子息・弟子等を罰するが如し、権経の行者の法華経を謗ずるは所従・子息・弟子等の主君・親・師を罰するが如し、又当世は末法に入つて二百一十余年なり、権経・念仏等の時か法華経の時か能く能く時刻を勘うべきなり。

四に国とは仏教は必ず国に依つて之を弘むべし国には寒国・熱国・貧国・富国・中国・辺国・大国・小国・一向偸盗国(ちゅうとうこく)・一向殺生国・一向不孝国等之有り、又一向小乗の国・一向大乗の国・大小兼学の国も之有り、而るに日本国は一向に小乗の国か一向に大乗の国か大小兼学の国なるか能く之を勘うべし。

五に教法流布の先後とは未だ仏法渡らざる国には未だ仏法を聴かざる者あり、既に仏法渡れる国には仏法を信ずる者あり、必ず先に弘まれる法を知つて後の法を弘むべし、先に小乗・権大乗弘らば後に必ず実大乗を弘むべし先に実大乗弘らば後に小乗・権大乗を弘むべからず、瓦礫(がりゃく)を捨てて金珠(こんじゅ)を取るべし金珠を捨てて瓦礫を取ること勿れ。

已上の此の五義を知つて仏法を弘めば日本国の国師と成る可きか。所以(ゆえ)に法華経は一切経の中の第一の経王なりと知るは是れ教を知る者なり、但し光宅の法雲・道場の慧観等は涅槃経は法華経に勝れたりと、清涼山の澄観・高野の弘法等は華厳経・大日経等は法華経に勝れたりと、嘉祥寺の吉蔵・慈恩寺の基法師等は般若・深密等の二経は法華経に勝れたりと云う、天台山の智者大師只一人のみ一切経の中に法華経を勝れたりと立つるのみに非ず法華経に勝れたる経之れ有りと云わん者を諌暁(かんぎょう)せよ、止まずんば現世に舌口中に爛(ただ)れ後生は阿鼻地獄に堕すべし等と云云、此等の相違を能く能く之を弁(わきま)えたる者は教を知れる者なり、当世の千万の学者等一一に之に迷えるか、若し爾らば教を知れる者之れ少きか教を知れる者之れ無ければ法華経を読む者之れ無し法華経を読む者之れ無ければ国師となる者無きなり、国師となる者無ければ国中の諸人・一切経の大・小・権・実・顕・密の差別に迷うて一人に於ても生死を離るる者之れ無く、結句は謗法の者と成り法に依つて阿鼻地獄に堕する者は大地の微塵(みじん)よりも多く法に依つて生死を離るる者は爪上の土よりも少し、恐る可し恐る可し、日本国の一切衆生は桓武皇帝より已来(このかた)四百余年一向に法華経の機なり、例せば霊山八箇年の純円の機為るが如し、天台大師・聖徳太子・鑒真和尚・根本大師・安然和尚・慧心等の記に之有り是れ機を知れるなり、而るに当世の学者の云く日本国は一向に称名念仏の機なり等と云云、例せば舎利弗の機に迷うて所化の衆を一闡提と成せしが如し。

日本国の当世は如来の滅後二千二百一十余年後五百歳に当つて妙法蓮華経広宣流布の時刻なり是れ時を知れるなり、而るに日本国の当世の学者或は法華経を抛(なげう)ちて一向に称名念仏を行じ或は小乗の戒律を教えて叡山の大僧を蔑(あなず)り或は教外(きょうげ)を立てて法華の正法を軽しむ此等は時に迷える者か、例せば勝意比丘が喜根菩薩を謗じ徳光論師が弥勒菩薩(みろくぼさつ)を蔑りて阿鼻の大苦を招きしが如し、日本国は一向に法華経の国なり例せば舎衛国(しゃえこく)の一向に大乗なりしが如し、又天竺には一向に小乗の国・一向に大乗の国・大小兼学の国も之有り、日本国は一向大乗の国なり大乗の中にも法華経の国為る可きなり瑜伽論(ゆがろん)・肇公(じょうこう)の記・聖徳太子・伝教大師・安然等の記之有り是れ国を知れる者なり、而るに当世の学者日本国の衆生に向つて一向に小乗の戒律を授(さず)け一向に念仏者等と成すは「譬えば宝器に穢食(えじき)を入れたるが如し」等云云宝器の譬・伝教大師の守護章に在り、日本国には欽明天皇の御宇に仏法百済(くだら)国より渡り始めしより桓武天皇に至るまで二百四十余年の間此の国に小乗・権大乗のみ弘まり法華経有りと雖も其の義未だ顕れず、例せば震旦国に法華経渡つて三百余年の間・法華経有りと雖も其の義未だ顕れざりしが如し、桓武天皇の御宇に伝教大師有(いま)して小乗・権大乗の義を破して法華経の実義を顕せしより已来又異義無く純一に法華経を信ず、設い華厳・般若・深密・阿含・大小の六宗を学する者も法華経を以て所詮と為す、況(いわん)や天台・真言の学者をや何に況や在家の無智の者をや、例せば崑崙山(こんろんざん)に石無く蓬莱山(ほうらいさん)に毒無きが如し、建仁より已来今に五十余年の間・大日・仏陀・禅宗を弘め、法然・隆寛・浄土宗を興し実大乗を破して権宗に付き一切経を捨てて教外を立つ、譬えば珠を捨てて石を取り地を離れて空に登るが如し此は教法流布の先後を知らざる者なり。

仏誡めて云く「悪象に値うとも悪知識に値わざれ」等と云云、法華経の勧持品に後の五百歳・二千余年に当つて法華経の敵人・三類有る可しと記し置きたまえり、当世は後五百歳に当れり、日蓮・仏語の実否を勘うるに三類の敵人之有り之を隠さば法華経の行者に非ず之を顕さば身命(しんみょう)定めて喪(うしな)わんか、法華経第四に云く「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」等と云云、同じく第五に云く「一切世間怨多くして信じ難し」と、又云く「我身命を愛せず但無上道を惜む」と、同第六に云く「自ら身命を惜まず」と云云、涅槃経第九に云く「譬えば王使の善能(よく)談論し方便に巧みなる命を他国に奉け寧ろ身命を喪うとも終に王の所説の言教を匿(かく)さざるが如し、智者も亦爾なり凡夫の中に於て身命を惜まずして要必(かならず)大乗方等を宣説すべし」と云云、章安大師釈して云く「寧喪身命不匿教(にょそうしんみょうふのくきょう)とは身は軽く法は重し身を死(ころ)して法を弘めよ」等と云云、此等の本文を見れば三類の敵人を顕さずんば法華経の行者に非ず之を顕すは法華経の行者なり、而れども必ず身命を喪わんか、例せば師子尊者・提婆菩薩等の如くならん云云。

二月十日  日 蓮 花押

 [妙法蓮華経 勧持品第十三]
 濁劫悪世中 多有諸恐怖
 悪鬼入其身 罵詈毀辱我
 我等敬信仏 当著忍辱鎧
 為説是経故 忍此諸難事
 我不愛身命 但惜無上道
[和訳]
 濁劫の悪世の中は、諸の恐怖、多く有り
 悪鬼が其の身に入り、我を罵詈し毀辱せん
 しかし我等、仏を敬信する故に、当に忍辱(にんにく)の鎧(よろい)を著せん
 是の経(法華経)を説かんが為の故に、此の諸の難事を忍ぶべし
 我、自らの身命を愛せず、但無上道(に入らない事)を惜しむのみである

by johsei1129 | 2015-10-07 20:05 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)