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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 10月 04日 ( 3 )


2015年 10月 04日

観心本尊抄文段 終  唯(ただ)仏力・法力を仰ぎ、応(まさ)に信力・行力を励むべし。一生空しく過(すご)して万劫悔ゆること莫(なか)れ。


 第十一段 総括

一 一念三千を()らざる等

此の下は大段の第三、(けつ)(もん)なり。

文意に謂く、末法今時の理即但妄(たんもう)の凡夫は自受(じじゅ)(ゆう)(しん)念三千を()らず。故に久遠元初の自受用身、大慈悲を(おこ)して妙法五字の本尊に自受用身即念三千の相貌(そうみょう)図顕(ずけん)し、末代幼稚(ようち)(くび)()けしむ等となり。

(あるい)は云く、妙法五字の袋の内に理の念三千の(たま)(つつ)むと云云。或は云く、妙法五字の袋の内に本果(ほんが)修得の事の念三千の珠を裹むと云云。

(いわ)く、妙法五字の袋の内に久遠元初の自受用身即念三千の珠を裹むなり。当に知るべし、久遠元初の自受用とは(れん)()聖人の御事なり。久末(くまつ)一同(いちどう)之を思い合すべし。

問う、妙法五字の()(たい)何物ぞや。

(いわ)く、念三千の本尊是れなり。

一念三千の本尊、其の(たい)何物ぞや。

謂く、(れん)()聖人是れなり。

問う、若し(しか)らば()()如何(いかん)

答う、(しばら)く能所に(わか)つも実は是れ同じきなり。例せば「()心に十法界を()す乃至(ただ)心は是れ切法、切法は是れ心」等の如し云云。

我等()本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち念三千の本尊、蓮祖聖人なり。「幼稚(ようち)(くび)()けさしめ」の意、(まさ)しく(ここ)に在り。故に(ただ)仏力・法力を仰ぎ、(まさ)に信力・行力を励むべし。(むな)しく(すご)して万劫(ばんこう)()ゆること(なか)れ云云。



()れ時享保(きょうほう)(かのと)(うし)霜月(しもつき)上旬

          
                 富士山大石寺二十六世 日寛 在判



文段下 目次




by johsei1129 | 2015-10-04 13:08 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 10月 04日

観心本尊抄文段 下三九  「天晴れぬれば」とは法華を知るなり。「地(ち)明らかなり」とは世法を知るなり。世法を知るとは、天変地夭(ちよう)即地涌出現の先兆と知るなり。


一 問うて曰く仏の記文等

此の下は次に如来の兼讖(けんしん)を明かす、二と()す。初めに問、次に答、三と為す。初めに(しん)(もん)を引き、次に「此の釈」の下は釈、三に「此れを以て之を惟う」の下は()()出現の先兆を明かすなり。初めの讖文は見るべし。

次に「此の釈」の下は釈、亦三と為す。初めに時を(ひょう)し、次に「此の時」の下は釈、三に「此の菩薩」の下は(けっ)(せき)

此の時」の下の釈、二と()す。初めに(まさ)しく本門の本尊を明かし、次に「日本国」の下は権迹(ごんしゃく)の本尊を(えら)ぶ。

初めの文、亦二と為す。初めに正しく本尊を明かし、次に「月氏」の下は称歎(しょうたん)

文に云く「此の時地涌(じゆ)千界(せんがい)出現して本門の釈尊を脇士(きょうじ)と為す一閻(いちえん)浮提(ぶだい)の本尊此の国に立つ可し」とは、是れ即ち妙法五字の本尊なり

前の文に云く「塔中(たっちゅう)の妙法蓮華経の左右には釈迦(しゃか)()()仏・多宝仏」云云。此の文の意なり。又云く「()の時地涌の菩薩始めて世に出現し(ただ)妙法蓮華経の五字を以て幼稚(ようち)に服せしむ」云云。(また)此の意に同じきなり。

(あるい)は云く、地涌千界出現して本門の釈尊の脇士と()る等云云。或は云く、本門の釈尊とは中央の妙法なり云云。此等は()ぎたるは及ばざるの(とが)有るなり。一巻の大旨(たいし)、前来の諸文、之を思い合すべし。

「一閻浮提第一」とは、宗々(こと)なりと(いえど)(みな)仏を以て本尊と為す。(しか)るに当家の意は、別して仏の中に於ても本門の仏を以て(きょう)()とする妙法五字の本尊なり。(あに)閻浮第に非ずや。

「月氏・(しん)(たん)(いま)()の本尊(ましま)さず」とは、御本尊の(さん)に云く「閻浮提の内未曽(みぞ)()の大(まん)()()なり」云云。即ち此の意なり。

問う、何を以て(これ)を知るや。

答う、天に二の日無く、国に二の主無し。故に知んぬ、(のう)()の師、(ただ)此の国に生じて()の土に生ぜざることを。故に「月氏・震旦に(いま)此の本尊(ましま)さず」。

文に云く「此れを以て之を(おも)う」等とは、此の下は三に地涌出現の先兆を明かす、三と()す。初めに正釈、次に「天台」の下は例証、三に「天()れぬれば」の下は結。

文に「智人は起を知り」と云うは、文意に(いわ)く、智人は我と我が智慧を知るなり。(たとえ)の意(また)(しか)なり。蛇は自ら蛇足(だそく)()るなり。

文に云く「天晴れぬれば」とは法華を知るなり。「()らかなり」とは世法を知るなり。世法を知るとは、天変地夭(ちよう)即地涌出現の先兆と知るなり。

 
                    つづく
文段下 目次



by johsei1129 | 2015-10-04 12:53 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 10月 04日

観心本尊抄文段 下三八  拙き者は約束せし事を忘る、高貴の人は約束を差えず


一 今末法の(はじめ)、小を以て大を打ち等

此の下は五に末法に必ず()ずる所以(ゆえん)を明かす、三と為す。初めに謗法(ほうぼう)の時に約して()()出現を明かし、次に「我が弟子」の下は(こば)んで必ず出ずる所以を明かし、三に「当に知るべし」の下は(しょう)(しゃく)適時(ちゃくじ)を示すなり。

初めの文、(また)二と為す。初めに謗法の時を示し、次に地涌出現を明かす。初めの文、亦三と為す。初めに執権(しゅうごん)(ぼう)(じつ)、次に迹化(しゃっけ)不現、三に諸天(しょてん)(しゃ)(こく)なり。

文に「此の時地涌の菩薩乃至幼稚に服せしむ」と云うは、前の文に「末法に来入(らいにゅう)して始めて()の仏像出現せしむ可きか」云云といい、今「()の時地涌の菩薩始めて世に出現し」云云と云う是れを思い合すべし。

「妙法蓮華経の五字」とは(すなわ)是れ本尊なり。「幼稚(ようち)に服せしむ」とは即ち是れ観心なり。「妙法蓮華経の五字」は「()(こう)良薬(ろうやく)」なり。「幼稚に服せしむ」は即ち是れ「(にょ)()取服(しゅぶく)」なり云云。

文に云う「我が弟子之を惟え」等とは、此の下は次に必ず出ずる所以(ゆえん)を明かす、二と為す。初めに初発心(しょほっしん)の弟子なるに寄せ、次に地涌の高貴(こうき)に寄するなり

文に云う「地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり」等とは、文意に(いわ)く、地涌の菩薩は釈尊久遠(くおん)名字(みょうじ)已来(いらい)の御弟子なり。(しか)るに初成道にも来らず、(にゅう)涅槃(ねはん)にも(とぶら)わざるは是れ不孝の(とが)()たり。()し末法に出現せずんば、此の(とが)何に由って(まぬか)るるを()んや云云。是れ世界(しつ)(だん)に約するなり。

文に云く「是くの如き高貴の大菩薩」等とは、(つたな)き者の習いは約束せし事をも(まこと)の時は之を忘る。然るに高貴の人は約束を(たが)えず。例せば()(さつ)等の如し云云。

文に云く「当に知るべし此の四菩薩」等とは。

問う、(まさ)に「四菩薩、折伏を現ずる時は聖僧と成って」と云うべし。即ち(れん)()の如し。何ぞ「賢王」と云うや。

答う、折伏に二義あり。

一には法体(ほったい)の折伏。(いわ)く「法華折伏、()(ごん)(もん)()」の如し。蓮祖の修行是れなり。

二には()()の折伏。謂く、涅槃経に云く「正法を護持(ごじ)する者は五戒を受けず威儀(いぎ)を修せず、(まさ)刀剣(とうけん)弓箭(きゅうせん)鉾槊(むさく)を持すべし」等云云。(せん)()国王等なり。

今化儀の折伏に望み、法体の折伏を以て(なお)摂受と名づくるなり。(あるい)(また)()ねて順縁(じゅんえん)広布の時を判ずるか云云。


                 つづく
文段下 目次



by johsei1129 | 2015-10-04 12:37 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)