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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 09月 12日 ( 7 )


2015年 09月 12日

開目抄愚記 下三八  竜の口の法難、興師は佐州まで御伴(おとも)なり。


  第四十七段  不求自得の大利益を明かす

一 涅槃(ねはん)経に云く等

  此の下は不求(ふぐ)自得(じとく)利益(りやく)を明かす、(また)三あり。初めに経を引き、次に「此の経文」の下は釈、三に「我並びに」の下は(けっ)(かん)。初めの経を引くに、亦二と為す。初めに(たとえ)、次に「文殊」の下は法に合す。

一 此の経文は章安(しょうあん)

  此の下は釈、亦二あり。初めに譬の文を釈して以て身に()て、次に「引業」の下は法に合する中の文を(しゃく)す。

一 引業(いんごう)と申すは等

  此の下は法に合する中の文を釈す、亦二あり。初めに「梵天(ぼんてん)を求めざれども梵天(おのずか)ら至る」の文を釈し、次に「又仏」の下は「解脱(げだつ)を求めずと雖も解脱自ら至る」の文を(しゃく)す。

  問う、「引業(いんごう)」とは其の義、如何。

  答う、倶舎(くしゃ)等に引業・満業という事あり。引業は(また)総報業と名づけ、満業は(また)別報業と名づく。(いわ)く、殺生(せっしょう)の業に()って(とう)(かつ)()し、五逆等に依って無間(むけん)に堕し、戒善に()って人天に生まるる等、是れを引業というなり。(おのおの)其の果報を受けると(いえど)も、亦(おのおの)其の中に果報の勝劣(しょうれつ)同じからず、是れ満業に依るなり。

又此の「梵天(ぼんてん)(おのずか)ら至る」の釈中にも亦二あり。初めに(じょう)()通因(つういん)()げ、「今此の貧女」の下に相似(そうじ)の別因を明かす。

一 (また)仏になる道は等

  此の下は「解脱を求めずと雖も」等を(しゃく)す、亦二あり。初めに諸宗を(えら)び、次に「而れども一代」の下は直ちに経説に()る。

一 石女(うまずめ)に子のなきがごとし

  「うまずめ」とよむなり。補註(ふちゅう)十一・二十一に云く「男女の(こん)無きが故に石女と云うなり」と。

一 不求(ふぐ)解脱(げだつ)

  此の文は証前(しょうぜん)起後(きご)なり。

一 我(なら)びに我が弟子

  此の下は第三結勧の中に、初めに弟子、次に檀那(だんな)なり。

一 皆()てけん等

  佐州より鎌倉辺の御弟子等を御推察(すいさつ)の御文章ならんか。興師は佐州まで御伴(おとも)なり。自筆日記に云云。

        
                 つづく
開目抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-09-12 21:18 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 09月 12日

開目抄愚記 下三七


  第四十六段 
転重(てんじゅう)軽受(きょうじゅ)を明かす


一 疑つて云く
()()にとして等

  此の下は次に行者(ぎょうじゃ)値難(ちなん)の利益を明かす、(また)二あり。初めに転重(てんじゅう)軽受(きょうじゅ)、次に「涅槃経」の下は不求(ふぐ)自得(じとく)。初めの転重軽受の文に亦三あり。初めに経を引き、次に「此の経文」の下は(しゃく)、三に「日蓮」の下は結なり。

一 般泥洹(はつないおん)経等

  法顕(ほっけん)三蔵の訳六巻有り。第四・八・四依品の文なり。初めに経を引く、亦三あり。初めに過去の重罪、次に「是の諸」の下は現世(げんぜ)軽受(きょうじゅ)、三に「及び余」の下は所以(ゆえん)を結す。

一 此の経文・日蓮が身に(あたか)()(けい)のごとし

  此の下は釈、亦二あり。初めに現世軽受の八句を(しゃく)し、以て一身に合するなり。

佐渡御抄十七・二十四に云く「日蓮は此の因果(いんが)にはあらず・法華経の行者を過去に軽易(きょうい)せし故に(乃至)此の八種の大難に(あえ)るなり、此の八種は(じん)未来(みらい)(さい)(あいだ)(ひとつ)づつこそ現ずべかりしを日蓮つよ()く法華経の敵を責むるに()て一時に(あつま)(おこ)せるなり」略抄。

一 ()(ゆい)護法等

  此の下は次に結文を(しゃく)す、亦三あり。初めに文を(ちょう)し、次に「摩訶止観」の下は止観(しかん)の文を借りて以て(きょう)()を示し、三に「我れ無始」の下は釈なり。

一 摩訶止(まかし)(かん)

  第五巻三の文なり。止観の文を借りて(きょう)()を示す、亦三あり。初めに(しょ)()の法力を(えら)び、次に「今、止観を修して」の下は(のう)()の行力を示し、三に「又云く」の下は止観の意を助くるなり。

  問う、止観借用(しゃくよう)(こころ)如何(いかん)

  答う、定散(じょうさん)・権実・自行化他(こと)なりと雖も、其の(おもむき)は之同じ。故に彼れを借りて此れを(あらわ)すなり。

  問う、経には「護法(ごほう)」と云うに、何ぞ「(のう)()」等というや。

  答う、(みょう)(らく)の云く「護持とは即ち流通(るつう)異名(いみょう)」と云云。流通は即ち弘通(ぐつう)なり。故に「能説(のうせつ)・所弘」という。是れ(すなわ)ち顕し(やす)きが故なり。

一 止観(しかん)を修せ令

  「令」の字は応に「(こん)」の字に作るべし。

一 健病(ごんびょう)()ざれば等

  問う、此の下の八字の意、如何(いかん)

  答う、先ず此の止観の文は、十境の次第を釈する時、病患(びょうげん)(きょう)の次に業境(ごうきょう)の発することを(しゃく)する文なり。宿業冥伏(みょうぶく)して身中に之有り。散善の分にては動ぜざりし処に、今(えん)(どん)止観を修するが故に宿業発動するぞとなり。()五上二十三に此の文を釈して云く「(ごん)(いわ)く、(すで)に大と分とを観ずるなり。病は謂く、(すで)に病境を観ずるなり。三(みな)(かつ)て観ず、故に()けずと云う。観に()って(ごう)を動ず。故に生死の輪を動ずと云う。業相は是れ能運、生死(しょうじ)は是れ所運。生死を()するの輪なれば生死の輪と名づく」と。

  陰入(おんにゅう)境は地水火風の四大なり。煩悩境は貪瞋癡(とんじんち)等分の四分なれば、大と分とを観ずると云うなり。此の二を(ごん)というは病境に対する言なり。此の三境を()けずして観ずれば諸業(しょごう)を発動するぞと云う義なり。業を生死(しょうじ)の輪と云う事は()の文の如し。業は是れ生死を()する輪なるが故に生死の輪と云うなり。

一 我れ無始(むし)より等

  此の下は釈、亦二あり。初めに過去の重罪を()げ、次に「功徳」の下は正しく釈するなり。()し経文に()っては、過去の重罪は最も始めに()す。(しか)るに今釈する時は、結文の釈の中に之を挙げたまうこと、(ぼん)()の及ぶ所に非ざるなり云云。

一 功徳は(せん)(きょう)なり等

  此の下は、正しく護法(ごほう)力の文を釈す、亦二あり。初めに(しょ)()の法力を(えら)び、次に「鉄を熱」の下は(のう)()行者(ぎょうじゃ)(あらわ)すなり。

一 (くろがね)(やく)

  此の本拠、大宝積(だいほうしゃく)経第百十六に出でたり。

一 (いま)日蓮等文。

  此の下は第三に結文なり。「日蓮・(ごう)(じょう)に国土の謗法を責むれば」とは、即ち次下の所謂(いわゆる)今生(こんじょう)(ごほう)」なり。

一 (くろがね)火に()わざれば等

  「鉄」と「(ながれ)」と「師子」とは過去の重罪なり。「火」と「水」と「手」とは「今生の護法」なり。


                     つづく
開目抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-09-12 20:54 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 09月 12日

開目抄愚記 下三六  後代の弟子等、当に心腑(しんぷ)に染むべき御文


  第四十五段 法華経の行者を顕す文を結す


一 
(せん)ずるところ等

  此の下は三に結文なり。(いわ)く、法華の行者(ぎょうじゃ)心地(しんじ)を結示するなり。若し此の心地決定(けつじょう)せざれば、法華経の行者に(あら)ざるなり。此の下の九行余りの文、肝心(かんじん)なり。中に(おい)ても別して肝要の文有り、意を(とど)むべきなり。

一 善に()け悪につけ等

  「日本国の位をゆづ()らむ」とたばかるは善につけてなり。「父母の(くび)(はね)ん」とおどすは悪につけてなり。是れ世間の極善・極悪を()ぐるなり。

一 大願を立てん句、日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて(かん)(ぎょう)等について後生を()せよ句、父母の頚を(はね)ん、念仏申さずば云云。

  (ひと)たび此の文を拝せば涙数々(しばしば)(くだ)る。後代の弟子等、(まさ)(しん)()()むべし云云。

一 (われ)日本国の柱とならむ等

  此の下に(さん)()(ただ)師の徳のみに譬うるか、或は三徳に配するか。

 


                つづく
開目抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-09-12 20:32 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 09月 12日

年の瀬に新年を祝う十字(むしもち)を供養されたことへの返書【ほりの内殿御返事(十字御書)】

【ほりの内殿御返事(十字御書)】
■出筆時期:弘安三年(1280年)十二月二十一日 五十九歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本書を与えられたほり(堀)の内殿の詳細は不明です。また伝えられている御書も本書だけとなっております。
堀内殿は炭も供養されておられますので、身延の大聖人の暮らしぶりがよくわかっておられたのではと思われます。身延の草庵の近くに住んでいて、出入りしてたがゆえ書状を交わすまでもなかったのではとも推察されます。

また本書は新年の祝いの供養でもあったこともあり大聖人は供養の品を記載し、あらためて書状を認めたものと思われます。十字(むしもち)は鎌倉後期に中国から伝来した食べ物で、中国のいわれで魔除けの意味で十字の切れ込みを入れていたようです。
尚、本書のご真筆は一紙一杯に大書された全文が京都市瑞龍寺に現存しております。
■ご真筆:京都市瑞龍寺所蔵(一紙にて全文完存)。
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[ほりの内殿御返事 本文]

十字三十、
法華経の
御宝前に
つみまいらせ
候ひぬ。又すみ
二へい給び候ひ了んぬ。
恐々謹言。

十二月廿一日           日 蓮 花押
ほりの内殿御返事

by johsei1129 | 2015-09-12 20:31 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2015年 09月 12日

開目抄愚記 下三五


一 
謗法(ほうぼう)の世をば守護神()て去り諸天まほるべからず等

  問う、諌暁八幡抄二十七・二十五に云く「経文の(ごと)くんば南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天(ぼんてん)帝釈(たいしゃく)日月(にちがつ)・四天等・昼夜に守護すべし」と云云。(あに)相違に非ずや。

  答う、諸天謗法の国を(しゃ)()すとは、安国論所引の四経の文に分明(ふんみょう)なり。(すで)に其の国を去れば、正法の行者も自ら放捨(ほうしゃ)せらるるの義なり。(しか)りと(いえど)も、若し正法の行者()の国に()らば必ず守護したもうべし。是れ()(ごう)別感あるが故に進退の判釈を(もう)けたまえり。

  故に諌暁八幡抄に云く「此の大菩薩は宝殿をやきて天にのぼ()給うとも法華経の行者・日本国に有るならば其の所に()み給うべし」と。

  又四条金吾抄十六・六十二に云く「されば八幡大菩薩は不正直をにくみて天にのぼ()り給うとも、法華経の行者を見ては(いかで)か其の影をばをしみ給うべき」(四条金吾殿許御文)と云云。()の意なり。

故に今諸天善神、守護無しと云うと(いえど)も、(また)守護あること分明なり。所謂(いわゆる)(たつの)(ぐち)光物(ひかりもの)()()の星(くだ)り、(あに)現証に非ずや。啓蒙(けいもう)一・三十一。


              つづく
開目抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-09-12 16:26 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 09月 12日

開目抄愚記 下三四


一 
(また)守護(しゅご)(じん)

  此の下は三に守護人の(しゃ)・不捨に()る。文意は、今末法は悪国謗法(ほうぼう)の世なるが故に、守護神此の国を()()る、故に謗者には現罰無し。故に知んぬ、聖代(せいだい)明時(めいじ)の正法の国をば諸天善神守護する故に、法華の行者に(あだ)すれば(たちま)ちに現罰有り。今、一辺を釈すと雖も、其の義(おのずか)宛然(おんねん)なり。故に守護神の捨・不捨に由ると云うなり。

  上来の三義の大意は、()し行者安穏(あんのん)・謗者現罰の文の如きは、是れ宿謗(しゅくぼう)なき行者に約す。故に又謗者堕獄(だごく)不定の人に約す故に、又諸天善神の国土を守護するに約するが故なり。(しか)るに日蓮が如くんば、身に宿謗なきに非ざるが故に、又日本一同に謗法堕獄必定(ひつじょう)の故に、守護神此の国を捨て去るが故に、日蓮を(あだ)むと雖も(しか)も現罰無し等となり。

  問う、(れん)()は既に是れ本化(ほんげ)の菩薩なり。何ぞ宿謗あらんや。

  答う、不軽(ふきょう)菩薩は釈尊果後の応用なり。何ぞ宿罪あらんや。故に()(どう)凡夫(ぼんぷ)の辺に()るなり。

  問う、蓮祖始めは大難に()うと雖も、(つい)には免許(めんきょ)(こうむ)り、其の身安穏(あんのん)なり。若し謗者は始めは(こと)無しと雖も、(つい)には現罰を(こうむ)り、其の身滅亡せり。所謂(いわゆる)、東条(かげ)(のぶ)(じゅう)羅刹(らせつ)(せめ)(こうむ)って早く其の身を失う。御抄七・二十三の如し。又清澄寺の明心(みょうしん)(ぼう)・円智房は現に白癩(びゃくらい)を得、道阿(どうあ)()無眼(むげん)の者と成る。御書十六・七十一の如し。又極楽寺重時(しげとき)は我が身並びに一門皆滅亡せり。御書三十九・二十六の如し。何ぞ(れん)()(あだ)むと雖も(しか)も現罰無しと云うや。

  答う、此の義を知らんと(ほっ)せば、()(すべから)く所対に()って罪の軽重あることを(りょう)すべし。兄弟抄に云く「(こぶし)をもつて虚空(こくう)を打てばく()しいたからず、石を打てばく()しいたし。悪人を殺すは罪あさし、善人を殺すは罪ふかし。(あるい)は他人を殺すは拳をもつて泥を打つがごとし。父母を殺すは拳をもつて石を打つがごとし。鹿を()うる犬は(こうべ)われず、師子をほう()る犬は(はらわた)くさる。日月(にちがつ)をのむ修羅(しゅら)(こうべ)七分にわれ、仏を打ちし提婆(だいば)は大地()れて入りにき。所対によりて罪の軽重(けいちょう)はありけるなり」と云云。

  亦復(まさ)怨敵(おんてき)の強大なることを知るべし。
 御書三十六・十一に云く「日本国の男女・四十九億九万四千八百二十八人ましますが・
(それがし)一人を不思議なる者に思いて()の四十九億九万四千八百二十七人は皆敵と成りて、主師親の釈尊を()ちひぬだに不思議なるに、かへりて或は()り或はうち或は処を追ひ或は讒言(ざんげん)して流罪し死罪に行はる」と已上。

  又三十七・二十七に云く「今は又法華経の行者出来(しゅったい)せり・日本国の人人(おろか)の上にいか()りを()こす邪法をあい()し正法をにくむ、三毒()うじ()うなる(乃至)今日本国の人人四十九億九万四千八百二十八人の男女人人こと()なれども同じく(ひとつ)の三毒なり、所謂(いわゆる)南無妙法蓮華経を(きょう)として()れる三毒なれば人ごと()に釈迦・多宝・十方の諸仏を一時に()()め流しうし()なうなり」と云云。

  (まさ)に知るべし、所対(すで)に末法下種の主師親の三徳なり。(いわん)怨敵(おんてき)強大なり。故に所難の如きの現罰は、有りと(いえど)もなきが如し。故に()に属し現罰なしというなり。又、今所引(しょいん)の中の「主師親の釈尊」の文、「南無妙法蓮華経を境として()れる」等の文に意を留むべし云云。

  撰時抄上二十に云く「法華経をひろ()むる者は日本国の一切衆生の父母なり乃至今の日本国の国主・万民等()()まか()せて父母・宿世(しゅくせ)(かたき)よりも(乃至)つよく()めぬるは現身にも大地われて入り天雷も身を()かざるは不審なり」と。

  四信抄に云く「相州(そうしゅう)は日蓮を流罪(るざい)して百日の内に兵乱に()えり」等云云。是れ(すなわ)ち文永九年二月十一日の同士(いくさ)の事なり。此の時、多くの一門(ことごと)く滅亡せり。今案じて云く、此の同士(いくさ)は正しく此の抄下巻の述作の時に当れり。佐渡抄十四・九、之を見合(みあわ)すべし。

其の(ほか)正嘉(しょうか)の大地震・文永の大彗星(すいせい)に日本国の人々皆(こうべ)われたり等の事、(へいの)()衛門(えもん)が宗祖滅後十二年に滅亡の事、又鎌倉の()も宗祖(めつ)()五十二年に滅亡等の事、別抄の如し。故に之を略す。


                  つづく
開目抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-09-12 15:39 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 09月 12日

開目抄愚記 下三三  謗者に現罰の或いは有り、或いは無き所以(ゆえん)

第四十四段 行者値難(ちなん)の故を明かす

一 有る人云く当世等

  此の下は次に遮難(しゃなん)、亦二あり。初めに行者(ぎょうじゃ)安穏(あんのん)謗者(ぼうしゃ)現罰(げんばつ)の文を(こもごも)引いて以て難を立て、次に答、亦二と()す。初めに正しく答え、次に「疑つて云く、いかにとして」の下は、行者値難(ちなん)の利益を明かす。初めの正しく答うる、(また)二と為す。初めに釈、次に「詮ずるところ」の下は結。初めの釈、亦二あり。

初めに(かえ)って行者値難の文を引いて反難し、次に「事の心」の下は謗者に現罰の(あるい)は有り或は無き所以(ゆえん)を明かす、亦三と為す。一には行者宿(しゅく)(ざい)の有無に()り、二には謗者堕獄(だごく)(じょう)不定(ふじょう)に由り、三には守護(しゅご)(しん)(しゃ)・不捨に由る。

一 ()しは実にもあれ若しは不実にもあれ

  釈書の二十九・八。

一 若しは(せつ)若しは(がい)文。

  会疏(えしょ)の三・五十七。

一 仏は小指を提婆(だいば)にやぶられ

  大論の九・二、「目連(もくれん)」は(ぞう)一の十・十八巻十三。

一 提婆(だいば)菩薩。

  (とう)()五・二十紙、即ち三義を立つ云云。

一 師子(しし)尊者(そんじゃ)

  付法蔵(ふほうぞう)経の六・十一、正宗記の四・十三に往因を明かすなり。

一 (じく)の道生

  高僧伝の七・二、統紀の四十七・十七。

一 (ほう)(どう)火印(かなやき)文。

  四・二十一、統紀の四十七・十七、「北野」は啓蒙(けいもう)二十七・八十二。「(はく)(きょ)()」は九・二十四。

一 (つらつら)事の心を案ずるに等

  此の下は一には行者(ぎょうじゃ)宿(しゅく)(ざい)有無(うむ)()るとは亦二段あり。初めの文意は、宿謗(しゅくぼう)なき法華の行者を世間の(とが)に寄せ、或は世間の失無きを(あだ)すれば(たちま)ちに現罰有り。例せば修羅(しゅら)帝釈(たいしゃく)を射る等の如し。次の文の意は、宿謗有る法華経の行者をば(あだ)すれども現罰なきなり。「天台云く」等の文は、玄の六・十二、大論の九・三、(けい)(うん)一・六十六。

心地(しんじ)(かん)(ぎょう)」とは諸経要集十四・九に但「経に曰く」というのみにて「心地観経」とは云わず。古来(こらい)相伝して「心地観経」と云うなり。

不軽(ふきょう)品」とは補註(ふちゅう)十・十六、往いて見よ。

一 又順次生(じゅんじしょう)

  此の下は二には謗者堕獄(だごく)の定・不定に由るとは、(いわ)く順次生に必ず堕獄すべき者は、法華の行者に(あだ)すれども現罰無し。一闡提(いっせんだい)の如きは是れなり。()し順次生に堕獄不定の者は、或は現罰有り、夢中に羅刹(らせつ)の像を示し、菩薩心を(おこ)さしむる等のごとし。

一 一闡提人(いっせんだいにん)是れなり

  御書二十八・六に云く「今の世は(すで)に末法にのぞみて(乃至)日本国一同に一闡提・大謗法(ほうぼう)の者と()る」と云云。故に知んぬ、日本国一同に一闡提の人なることを。故に順次生に堕獄すること決定(けつじょう)の者なり。故に現罰なきなり。

一 涅槃(ねはん)経に云く、迦葉(かしょう)菩薩(ぼさつ)文。

  会疏(えしょ)九・十一、此の下は堕獄不定の人に約す。

枯木(こぼく)石山(しゃくせん)」等の文は、闡提堕獄決定の文を挙げて以て初義を結するなり。

一 例せば()(けつ)

  啓蒙(けいもう)十五・三十九、(ちゅう)千字(せんじ)上九、(もう)(ぎゅう)下十九。少々の天災ありといえども彼の極悪に望むれば、有りと(いえど)もなきが如し。故に無に属するなり。

       


                      つづく
開目抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-09-12 15:19 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)