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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 09月 11日 ( 3 )


2015年 09月 11日

開目抄愚記 下三二


  第四十一段 第三
僣聖(せんしょう)増上慢を明かす

一 第三は、法華経等

此の下は第三の僣聖を禅・律二宗に配す、(また)三と()す。初めに(かさ)ねて経釈を引き、次に「東春に、即是」の下は通じて二宗を()し、三に「止観」の下は別して禅徒を()す。

一 華洛(からく)には聖一(しょういち)

  釈書(しゃくしょ)七初。「鎌倉には(りょう)(かん)」は釈書の十三・十五。

一 止観(しかん)の第一

  ()一上八、補註(ふちゅう)十一・四、()五・二、弘の五上十八、止の七・七十に云く「(いま)十の意有って仏法を(ゆう)(ずう)す。一には道理乃至十には一々の句偈(くげ)、心に入って観を成ず」と文。弘の七末六十一。

一 止観の七に(いわ)

  第七・七十八。「隠隠(いんいん)轟轟(ごうごう)」とは皆車馬(しゃば)の声なり。弘の七末八十二に「禅祖の(はじめ)なり。其の地を王化す」とは、「王」は主の義なり。

一 無眼(むげん)の者等

  此の下は釈中の第三、(けつ)(もん)なり。

一 一分の(ぶつ)(げん)を得るもの()れをしるべし

  御書二十三・二十七に云く「究竟(くきょう)円満(えんまん)の仏にならざらんより(ほか)は法華経の御敵は見しら(不知)ざらんなり、一乗のかたきを夢のごとく(かんが)(いだ)して候」と云云。宗祖(すで)に末法の始めの三類の強敵(ごうてき)を知る。()(しか)らば内証は「究竟円満」の仏にてましますか。(しか)るに(あるい)は「一分の仏眼」と云い、或は「夢のごとく勘へ出して」という、仍卑(なおひ)(けん)の御辞か。又撰時抄の下に云く「()れを能く能く知る人は一閻(いちえん)浮提(ぶだい)第一の智人(ちじん)なるべし」(注:この御文「御書全集」に拝せず「平成新編」に拝す)と云云。



  第四十二段 諸宗の非を(えら)



一 当世の念仏者等

  此の下は次に(まさ)しく法華経の行者(ぎょうじゃ)なるを顕す、(また)二と()す。初めに()(えら)び、次に「仏語」の下は()を顕す。初めの非を簡ぶに(また)三あり。初めに浄・禅二宗、次に天台・真言、三に「寺塔」の下は世の(つみ)



  第四十三段 正しく法華経の行者なるを顕す



一 仏語むなしからざれば等

  此の下は()(あらわ)す、亦二あり。初めに(まさ)しく顕し、次に「有る人」の下は難を(しゃ)す。初めに正しく顕す、亦三あり。初めに仏語の(たが)わざるを明かし、次に「(そもそも)」の下は正しく法華経の行者なるを明かし、三に「日蓮は」の下は伏疑(ふくぎ)を遮す。初めの仏語(たが)わざる、(また)二あり。初めに順、次に反。

一 (ただ)し日蓮は法華経の行者にあらず等文。

  此の下は伏疑を(しゃ)す、亦二あり。初めに伏疑を()げ、次に「仏と提婆」の下は釈なり。

一 仏と提婆(だいば)

  増一(ぞういち)阿含の四十六・十四、名疏(みょうしょ)九・六、()二末三十四。御書の十五・二以下。

一 聖徳(しょうとく)太子(たいし)

  御抄の三十九・三十五。


                      つづく
開目抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-09-11 22:59 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 09月 11日

観心本尊抄文段 下一六

文に云く「爾前迹門の円教すら尚仏因に非ず」等とは、此の下は次に滅後(めつご)に約するなり。

問う、今大旨(たいし)に准ずるに、(ただ)在世に約して(まさ)其の義を明かすべし。何ぞ(また)滅後に約して之を(しゃく)するや。

答う、此れに所以(ゆえ)あり。謂く、此の第五の中の正宗(しょうしゅう)(まさ)しく末法の(れん)()(ため)なるが故に「末法の本門」と名づくるなり。(また)其の序分の経々は正像流布の宗々の()(きょう)なり。故に滅後に約して序分の()を以て正宗の()(あらわ)すなり。

問う、正像(しょうぞう)流布(るふ)の宗々、何ぞ末法弘通(ぐつう)の序分と()るや。

答う、宗祖の妙判(みょうはん)分明(ふんみょう)の故なり。

下山抄に云く「迹化(しゃっけ)他方の大菩薩に法華経の半分・迹門十四品を(ゆず)り給う、()は又地涌(じゆ)の大菩薩・末法の初めに出現せさせ給いて本門寿量品の肝心(かんじん)たる南無妙法蓮華経の五字を一閻(いちえん)浮提(ぶだい)切衆生に唱えさせ給うべき先序(せんじょ)為なり」と云云。

撰時抄の下に云く「法然選択(せんちゃく)を作る。本朝同に念仏者なり。(ごん)大乗の題目の流布するは、実大乗の題目の広宣流布せんずる序に(あら)ずや」(取意)等云云。

此の下の文、分ちて亦二と()す。初めに台宗の()(きょう)()()げ、次に「(いか)に況や」の下は七宗の依経の非を明かす。

初めの文に云く「爾前・迹門の円教」等とは、即ち是れ台宗の()(きょう)なり。故に守護章上中二十九に云く「今山家(さんけ)所伝の円教宗の依経は(しょう)に法華及び無量義に()り、(ぼう)は大涅槃(ねはん)乃至(ないし)諸大乗所説の円教等に()」等なり云云。

文に云く「況や阿含大日経等の諸小乗経」等とは、啓蒙(けいもう)に云く「『阿含』の二字は(えん)(もん)なり。古本(みな)『況や大日経』と云うなり」と云云。故に大日経とは即ち是れ()(かく)智証(ちしょう)()(きょう)なり。故に文意に(いわ)く、天台(てんだい)(ぶつ)(りゅう)宗の所依の()(ぜん)・迹門の円教は、久遠(くおん)元初(がんじょ)の仏種を明かさざれば(なお)仏因に非ず。(いわん)や慈覚・智証等の所依の大日経等の小乗教をや云。

問う、何ぞ天台・伝教(でんぎょう)弘通(ぐつう)を以て序分の()に属すべけんや。

答う、此れに二意あり。

一には謂く、彼の師は像法適時(ちゃくじ)の弘通なり。何ぞ非分に属せん。(ただ)()の依経の()(ぜん)・迹門の円教(なお)序分の非に属するなり。彼々(かれがれ)の経々に久遠元初の仏種を明かさざる故なり。

二には謂く、彼の師の依経は像法熟益(じゅくやく)の法にして末法下種の法に非ず。(しか)るに彼の末弟、時機を知らず、今末法に(おい)(なお)之を弘通す。故に(たと)い彼の師の如く法の(まま)の弘通なりと雖も、今末法に(いた)っては去年(こぞ)(こよみ)の如し。(いか)(いわん)や慈覚已来(いらい)謗法(ほうぼう)に同ずるをや。故に序分の()に属するなり。

文に云く「何に況や華厳」等とは、文の意に(いわ)く、天台仏立宗の依経すら(なお)仏因に非ず。何に況や論師(ろんし)人師(にんし)の所立の宗々の依経をやと。

此の下の文、分ちて二と為す。初めに「況や」は標の文を()だす。次に「与えて之を論ずれば」の下は(しゃく)二と為す。初めに法に約し、次に「譬えば」の下は(にん)に約す。

初めの文意に(いわ)く、彼の論師(ろんし)人師(にんし)の宗々の依経は、与えて之を論ずれば前三教を出でず。(うば)って之を論ずれば蔵通に同ず。其の故は、(たと)い華厳・真言等の経々に初地(しょじ)の即身成仏を明かし、法は(じん)(じん)なりと(しょう)すと(いえど)も、(いま)だ種熟脱を論ぜざれば(かえ)って二乗の灰断(けだん)に同ず、故に蔵通(ぞうつう)に同ずるなり云云。

次の文意に謂く、彼の七宗の論師・人師の(そん)()なること、(たと)えば王女の如し。蔵通の下劣(げれつ)経々(きょうぎょう)を受持するは畜種を懐妊(かいにん)するが如し。故に其の下賎(げせん)なること、(なお)殺者(せっしゃ)屠者(としゃ)にも劣るなりと。

文に云く「此等は且く之を()く」とは、彼の宗々の非分に()いて種々の義ありと雖も、(これ)()(しばら)く之を()くとなり。古来の諸師の義は未だ(いん)(とう)ならざるか。正宗(しょうしゅう)()なるを(あらわ)すこと、前に反するを知るべし云云。(注:允当=よくあてはまること)

                     つづく

文段下 目次



by johsei1129 | 2015-09-11 21:54 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 09月 11日

観心本尊抄文段 下一五

一 一(ぽん)二半よりの(ほか)等文。

文の意に(いわ)く、我が内証の寿量の品二半の外は小邪(しょうじゃ)未覆(みふく)なり等云云。

問う、()(しか)らば、文上の寿量品並びに前後の十三品は皆是れ「小邪未覆」なりや。

答う、是れ(しか)るべからず。今は是れ序正相対なり。序の中には既に本門無し。何ぞ「小邪未覆」と云わんや。

問う、迹門十四品は、(あるい)は序分と()し、或は流通(るつう)と為す。(いま)迹を以て本に例するに、文上の本門も(また)(また)(しか)るべし。何ぞ序分の中に之を(のぞ)くや。

答う、或は所問の如し。文上の本門も(また)序分に属すべし。序分に属すと(いえど)も、是れ「小邪未覆」に(あら)ず。是れ則ち「在世の本門と末法の初め一同に純円(じゅんえん)」なるが故なり。此の故に(しばら)之を除く。例せば()(ごん)の中に華厳の別教を除くが如く、誠諦(じょうたい)の下の(ずい)()の中に迹門の円を除くが如し。(しか)りと雖も通じて前四味三教を権と為し、及び権実(とも)是れ随他意と(しゃく)するが如く、(きわ)めて之を論ずるに、文上の本門は亦序分に属すべきなり。(しか)して文に之を除くことは是れ「小邪未覆」に(あら)ざる故なり。(つぶさ)に下に論ずるが如し。

問う、古来(こらい)の諸師は本門流通(るつう)の十品半を以て並びに「小邪未覆」に属す、此の義は如何(いかん)

答う、此れは是れ増滅両(ぼう)をもって妙判を加誣(かぶ)す。謂く、文底の正宗欠くるは是れ滅の謗なり。流通(るつう)の諸品を「小邪未覆」に属するは是れ増の謗なり。妙楽(みょうらく)云く「本門遠ざかり(おわ)れば更に遠からざること無し」等云云。何ぞ流通(るつう)の諸品を以て「小邪未覆」に属すべけんや。

此の下は序分の()を以て正宗の()(あらわ)、亦二と為す。初めに在世に約し、以て「爾前・迹門」の下は滅後に約す。初文(また)二と為す。初めに法、次に「其の機を論ずれば」の下は(にん)

文に「小邪(しょうじゃ)未覆(みふく)」と云うは、今(いわ)く、我が内証の寿量の品二半の(ほか)の序分の経々には、久遠(くおん)元初(がんじょ)の種子の法体(ほったい)を明かさざる故に「小邪未覆」と云うなり。()し別して之を論ぜば、久遠元初の大久(だいきゅう)の仏道を明かさざる故に「小乗教」と云うなり。久遠元初の種家(しゅけ)の因果を明かさざる故に「邪見教」と云うなり。久遠元初の無上(むじょう)の種子を明かさざる故に「()(とく)(どう)(きょう)」と云うなり。久遠元初の真秘を明かさざる故に「()()教」と云うなり。

文に「其の機を論ずれば」等とは、本種を退忘する故に「(とく)(はく)」と云うなり。漸々(ぜんぜん)に迹に執する故に「()(じゅう)」と云うなり。本退(しりぞ)いて迹を取るは、体を忘れて影に(しゅう)するが如し。其の(おろか)(あたか)も小児の如きが故に「幼稚(ようち)」と云うなり。久遠元初の主君を知らざる故に「貧窮(びんぐ)」と云い、久遠元初の父母を知らざる故に「()()」と云うなり。久遠元初の師恩を知らざる故に「禽獣(きんじゅう)に同ず」と云うなり。

問う、序分の()を以て正宗(しょうしゅう)()を顕す(こころ)如何(いかん)

答う、()其の法を論ずれば、我が内証の寿量品には久遠元初の大久の仏道を明かす、故に大乗教なり。久遠元初の種家(しゅけ)の因果を明かす故に(しょう)(けん)の教なり。久遠元初の無上の種子を明かす故に得道の教なり。久遠元初の真秘を明かす故に(けん)()の教なり。()其の人を論ずれば、法華本門の直機(じっき)にして文底下種の主師親・久遠元初の自受(じじゅ)(ゆう)(しん)寵臣(ちょうしん)なり、愛子なり、入室の弟子なり。古来の諸師()義に同ぜず。学者(よろ)しく()之を思うべし。


                   つづく
文段下 目次

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by johsei1129 | 2015-09-11 21:52 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)