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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 08月 30日 ( 4 )


2015年 08月 30日

開目抄愚記 下二九 「み(見)ん人いかに・をぢぬらむ」とは「不愛身命」の志の決定(けつじょう)せざる人なり。


一 
(かえる)(とし)の二月・雪中にしるして有縁(うえん)の弟子へをくれば等

  (すで)(たつの)(くち)を御(のが)れ、十三日(うま)の時に()()()きたまい、本間六郎が家に入りて二十余日御逗留(とうりゅう)、十月十日に依智を御立ち、同じき二十八日に佐渡に著き給い、十一月(つい)(たち)より塚原に移りたまい、()(ころ)より御(かんが)え、翌年二月御述作し、即ち中務(なかつかさ)三郎(さぶろう)()()(もん)(たま)うなり。佐渡抄十四・九、往いて見よ。

  問う、弟子は定めて是れ有縁(うえん)なり。(あに)弟子の無縁なるものあるべけんや。

  答う、弟子は皆是れ有縁なり。就中(なかんずく)此の三郎左衛門兄弟四人は、(たつの)(くち)の御難の時、一度に腹を切らんと思い定めし人々なり。故に有縁の中の有縁の弟子なり。(まさ)に知るべし「有縁の弟子」とは本仏有縁の弟子なるのみ。

一 ()そろしくて・()そろしからず

  啓蒙(けいもう)に云く「(すで)に幽霊の書なるが故に恐ろしき義なり。年来(としごろ)有縁の師なる故にをそろしからず。常の他人(これ)を見ば、幽霊の書なるが故にいかにをぢぬらん」と云云。

  今(いわ)く、経に云く「濁劫(じょっこう)悪世の中には、多く(もろもろ)恐怖(くふ)有らん乃至(ないし)身命(しんみょう)を愛せず、(ただ)無上道を惜しむ」と云云。此の文の意なり。所謂(いわゆる)、当世の諸人を経文に引き会せ、(まのあ)たり法華の怨敵(おんてき)無間(むけん)罪人(ざいにん)なりと書したまえば、(まこと)に濁劫悪世の中に多く諸の恐怖(くふ)あらん故に、一往は(おそろ)しきに()たり。(しか)りと(いえど)も、日蓮は「不愛身命(しんみょう)但惜(たんじゃく)無上道」の法華経の行者(ぎょうじゃ)なり、何の恐怖(おそろ)しきことか有らん。故に「をそろしくて・をそろしからず」と云云。略して(さき)に之を示す云云。

啓蒙の義、笑うべし、笑うべし。「()ん人いかに・をぢぬらむ」とは「不愛身命」の志の決定(けつじょう)せざる人なり。

一 ()れは釈迦・多宝等

  問う、所述付嘱(ふぞく)の意、如何(いかん)

  答う、今(まさ)に引く所の勧持品の経文は、釈迦・多宝・十方の諸仏の、未来日本国の当世に(まさ)に禅・律等の三類の強敵(ごうてき)あって法華の行者日蓮を(あだ)むべきの為体(ていたらく)を写したもう明鏡なり。(しか)れば(すなわ)ち勧持品の経文は、全体が日蓮が身の上の事なり。故に()の経文を日蓮が形見と見るべしとなり。亦復(まさ)に知るべし、勧持品の経文を形見と見るは、(すなわ)ち当抄を形見と見るの義なり。是れ則ち当抄に勧持品の経文を引いて之を(しゃく)する故なり。

一 勧持(かんじ)品に云く等

此の下は次に(まさ)しく経を引いて之を(しゃく)す、文(また)二と()す。初めに経を引き、次に「鷲峯」の下は之を釈す。初めの経を引く、亦二あり。初めに当品(とうほん)を引き、次に「涅槃」の下は助証(じょしょう)。初めの当品を引く、亦二あり。初めに経を引き、次に釈を引く。

一 (ただ)願はくは(うらおも)したもうべからず等

  初めに経を引く、文(また)三と為す。初めの一行は総じて時節を論じ、次に「諸の乃至有らん」の下は別して三類を明かし、三に「濁劫」の下は誹謗(ひぼう)所以(ゆえん)を明かす。

一 (もろもろ)の無智の人(乃至)有らん等

  此の下は別して三類を明かす、(おのずか)ら三あり。初めの一行は俗衆(ぞくしゅ)増上慢(ぞうじょうまん)、次に「悪世」の下の一行は道門増上慢、三に「或は乃至有らん」の下の五行は僣聖(せんしょう)増上慢なり。

一 濁劫(じょっこう)悪世の中等

  此の下は三に誹謗(ひぼう)所以(ゆえん)を明かす、亦二あり。初めに外魔の身に入るが故に、次に「濁世」の下は内心愚癡(ぐち)なるが故なり。三十五・四十五十六・五已下

一 涅槃(ねはん)経の九に云く等

  会疏(えしょ)九・二十一。「(また)云く、()の時」は同巻三十八。

一 世間の荘厳(しょうごん)文飾(もんじき)無義(むぎ)の語を安置す

  啓蒙(けいもう)に点ずるなり。

一 六巻の般泥洹(はつないおん)

  第六巻五の「我如来と」とは、本経に「我(なん)(だち)と」と云うなり。「如来」の二字、伝写の(あやま)りなり。

一 涅槃経に云く、(われ)涅槃の(のち)

  会疏(えしょ)第四十三。

一 袈裟(けさ)()ると雖も(なお)猟師の如く細かく()(おもむ)ろに行くこと猫の(ねずみ)(うかが)うが如し

  点ずるが如し。

           
                   つづく
開目抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-08-30 17:28 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 08月 30日

開目抄愚記 下二八 「魂魄(こんぱく)佐渡の国にいたりて」とは、是れ凡夫(ぼんぷ)の魂魄に非ず。久遠名字の本仏の魂魄なり


一 
()(うし)の時に(くび)はねられぬ

()の時」は、鎌倉を引き(いだ)(たてまつ)る時なり。

種々御振舞抄二十三・四十六に云く「さては十二日の夜・武蔵(むさしの)(こう)殿(どの)あづ()かりにて夜半に及び頚を切らんがために鎌倉をいでしに」と云云。夜半は即ち()の時なり。「(うし)の時」は正しく頚の座に()()え奉るなり。

妙法尼抄十三四十三に云く「鎌倉(たつ)の口と申す処に九月十二日の丑の時に頚の座に引きすへられて候いき」と文。

今「子丑」というは、是れ始終を()ぐるなり。「頚はねられぬ」とは、(ただ)の義は頚を()ねらるるに当るなり。例せば「()(みょう)、頚を刎ねらる」の文の如し。是れ則ち「(ぎゅう)()(とう)(じょう)」の文に合するなり。「魂魄(こんぱく)・佐渡の国にいたりて」とは「数数(さくさく)(けん)(ひん)(ずい)」の文に合するなり。故に蓮師は「不愛(ふあい)身命(しんみょう)但惜(たんじゃく)無上(むじょう)(どう)」の法華経の行者(ぎょうじゃ)なること、(たれ)か之を疑うべけんや。(なお)是れ付文の辺なり。

問う、元意(がんい)の辺は如何(いかん)

答う、云云(うんぬん)

(かさ)ねて問う、如何。

答う、是れ第一の秘事なりと(いえど)も、略して之を示さん。(なんじ)伏して之を信ずべし。(まさ)に知るべし、此の文の元意は、蓮祖大聖は名字(みょうじ)凡夫の御身の当体、(まった)く是れ久遠元初の自受(じじゅ)(ゆう)(しん)と成り給い、内証真身の成道を唱え、末法下種の本仏と(あらわ)れたもう明文なり。

問う、其の(いわ)如何。

答う、(およ)丑寅(うしとら)の時とは(おん)の終り、(よう)の始め、即ち是れ陰陽の中間(ちゅうげん)なり。(また)是れ死の終り、生の始め、即ち是れ生死の中間なり。古徳の云く「(うし)は是れ大陰の指帰(しき)(とら)は是れ小陽の萌動(ほうどう)なり。生生の始め、死死の終りなり」と云云。

宗祖の外の五・七に云く「相かま()えて相かま()えて自他の生死は()らねども御臨終のきざみ生死の中間に日蓮かならず・むか()いにまいり候べし、三世の諸仏の成道は()うし()()わり・()らのきざ()みの成道なり、仏法の住処は鬼門(きもん)の方に三国とも()にたつなり此等は相承(そうじょう)の法門なるべし」等云云。

故に知んぬ「()(うし)の時」は末法の(れん)()名字(みょうじ)凡身の死の終りなり。故に「(くび)はね()られぬ」と云うなり。寅の時は久遠元初の自受用身の生の始めなり。故に「魂魄(こんぱく)」等と云うなり。

房州日我の本尊抄見聞に云く「開目抄に、魂魄(こんぱく)佐渡の国にいたりてとは、是れ凡夫(ぼんぷ)の魂魄に非ず。久遠名字の本仏の魂魄なり」と云云。

経王抄二十二・十四に云く「此の曼荼羅(まんだら)能く能く信ぜさせ給うべし乃至日蓮がたまし()ひをすみ()()めながして・かきて候ぞ信じさせ給え、仏の御意(みこころ)は法華経なり日蓮が・たまし()ひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」と云云。

明星(みょうじょう)(じっ)(けん)の口伝に云く「即ち明星(みょうじょうが)(いけ)を望みたまえば、日蓮が影は即ち今の大曼荼羅なり」(新定二七二二)と云云。

大曼荼羅とは、即ち是れ一念三千即自受(じじゅ)(ゆう)(しん)なり云云。釈尊は、二月八日の明星の()ずる時、霍燃(かくねん)と大悟し給うを成道の相と名づくるなり。明星の出ずる時は、即ち是れ(とら)の刻なり。()が祖(また)(しか)なり。名字(みょうじ)凡夫の当体、(まった)く是れ久遠元初の自受用身と(あらわ)れ、内証真身の成道を唱えたもうなり。故に佐渡已後(いご)に正しく本懐を顕すなり。

(まさ)に知るべし、鬼門は即ち丑寅(うしとら)の方なり。(りょう)鷲山(じゅせん)王舎(おうしゃ)(じょう)の鬼門なり、天台山は(かん)陽宮(ようきゅう)の鬼門なり、比叡(ひえい)山は平安城の鬼門なり。類聚(るいじゅ)第一巻の如し。富士山も(また)王城の鬼門なり。義楚(ぎそ)六帖(ろくじょう)二十一巻の如し。録外第五・七啓運(けいうん)抄三・二十九の如し。()いて見よ。

亦復(まさ)に知るべし、当山の勤行(ごんぎょう)は、往古(おうこ)より今に至るまで(まさ)しく是れ丑寅の時なり。之を思え、之を思え。


                   つづく
開目抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-08-30 17:01 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 08月 30日

開目抄愚記 下二七


  第三十八段 三類の
強敵(ごうてき)(あらわ)

一 已上(いじょう)五箇の(ほう)(しょう)にをどろきて勧持(かんじ)品の()(きょう)あり

是れ(けつ)前生後(ぜんしょうご)の文なり。当に知るべし、(すで)に「五箇の鳳詔」に驚きて、(まさ)に「勧持の弘経」あり。故に今五箇の鳳詔を引く意は、正しく勧持の明鏡(みょうきょう)を顕すに在り。学者()く此の文意を思い、大科の大旨(たいし)を知るべし云云。

此の下は勧持品の明鏡を引いて三類の強敵(ごうてき)に対して法華の行者を顕す、亦二あり。初めに三類の強敵、次に「当世」の下は法華の行者を顕すなり。初めの三類の強敵、(また)二有り。初めに経を引いて之を釈する意を示し、次に「勧持」の下は正しく経を引いて之を釈す。

一 明鏡の経文を(いだ)して等

此の下は正しく経を引いて之を釈する意を示すなり。(ここ)(また)三と為す。初めに所述解釈(げしゃく)の意を示し、次に「日蓮」の下は所述不怖(ふふ)の意を示し、三に「此れは釈迦」の下は所述付嘱(ふぞく)の意を示す。

問う、所述解釈の意、如何(いかん)

答う、(ここ)に即ち経文に引き合せて三類の強敵の謗法(ほうぼう)を知らしむ、即ち解釈の大意なり。「禅」は即ち華洛(からく)聖一(しょういち)等、「律」は即ち鎌倉の(りょう)(かん)等。此の禅・律の二宗は即ち是れ第三の僣聖(せんしょう)増上慢(ぞうじょうまん)なり。「念仏」は即ち(ほう)(ねん)(ぼう)等の無戒(むかい)邪見(じゃけん)の者、即ち第二の道門(どうもん)増上慢なり。「並びに大檀那」とは()の禅・律・念仏に御帰依(ごきえ)の国王大臣等なり。此等の三類の謗法を知らしむるは、即ち今の解釈(げしゃく)の大意なり。

一 日蓮といゐし者等

問う、所述不怖(ふふ)の意、如何(いかん)

答う、(すで)に此の抄の中に、天下御帰依の禅・律・念仏等の大僧並びに国王・大臣等を法華経の怨敵(おんてき)無間(むけん)の罪人と述べ給うが故に(かさ)ねて大難の来たらんことは必定なり。此の故に一往(いちおう)おそろしきに()たり。(しか)るに日蓮は(すで)(くび)をはねられ、魂魄(こんぱく)のみ佐渡にいたって、是れをしるして有縁の弟子へおくれば、(たと)い後難来るというとも(おそろ)しからざるなり云云。

一 九月十二日

御法則抄に云く「十二日は還滅(げんめつ)の十二因縁を表すなり」と云云。


                つづく
開目抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-08-30 16:52 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 08月 30日

開目抄愚記 下二六


一 
涅槃(ねはん)経四十巻の現証は此の品にあり

  問う、常には涅槃経に闡提(せんだい)を治すという。何ぞ此の(ほん)を以て現証とせんや。

  答う、涅槃経の中には(ただ)闡提成仏の道理のみを明かして、闡提成仏の現証を明かさず。(いわ)く、()の経の始終(しじゅう)に闡提の得記(とっき)作仏(さぶつ)の相無く、五十二類の中にも之を列せず。(あまつさ)え第九巻には「(ただ)(いき)(めくら)一闡提(いっせんだい)を除く」と説き、(かえ)って治すべからずと云う。(しか)るに常には涅槃経に闡提を治すと云うことは、是れ「一切の衆生(ことごと)く仏性あり」と説いて仏性の(へん)ずるを明かすが故なり。座に()って経を聞くの(とく)(やく)()うには(あら)ず。(げん)九・五十五、玄私九・五十二、()いて見よ。

一 五逆・七逆・謗法(ほうぼう)・闡提等

  会疏(えしょ)十・四十云云。又「一切」の句頭に「然れば則ち」の意を入れて見るべし。次上を釈成(しゃくじょう)する文なり。

一 毒薬変じて甘露(かんろ)()る等

  涅槃経北本の第八初に云く「善男子、方等経は(なお)甘露の如く、(また)毒薬の如し」と云云。之を信ずれば則ち甘露と()り、之を(そし)れば則ち毒薬と成るが故なり。是れは今文の意に非ず。当文の意は、即ち大論の「()く毒を変じて薬と()す」の文に()なり。御書三十八・二十八云云。

一 或は改転(かいてん)の成仏にして

  問う、改転の意、如何(いかん)

  答う、諸大乗の意は、(さら)に女身を改め、男子と転じて成仏すべきの故に「改転の成仏」というなり。悪人作仏(さぶつ)、畜類の成仏も(これ)に准じて知るべし。東陽(ちゅう)(じん)口伝(くでん)に云く「他経に悪人等に記するは、即ち善人に記すると(これ)を習うなり。其の故は悪人、悪念を(ひるがえ)して善人と()り、仏に成るべきが故なり」と云云。御書三十八・二十七に云く「東陽の忠尋と申す人こそ此の法門はすこ()しあやぶまれて候」等云云。

一 一念三千の成仏にあらざれば有名(うみょう)無実(むじつ)の成仏往生(おうじょう)なり

  東陽の口伝に云く「()(ぜん)は一人出過(しゅつか)の成仏、法華は十界一念の成仏なり。十界一念と開きたる時、十界同時に成仏するなり。故に妙楽(みょうらく)云く『(まさ)に知るべし、身土乃至(ないし)一身一念法界に(あまね)し』と」等云々。

  大意抄十三・二十一に云く「法華経()(ぜん)の諸経は十界()()を明かさざれば仏に成らんと願うには必ず九界を(いと)う。妙楽大師は厭離(おんり)(だん)()の仏と名づく。されば法華経()(ぜん)には実の凡夫(ぼんぷ)が仏に成りたりける事は無きなり。九界を離れたる仏無き故に、往生(おうじょう)したる実の凡夫も無し。人界(にんかい)を離れたる菩薩界も無きが故に」(取意)と。

私に云く、(たと)えば手中の物を忘れて外を(たず)ぬれば、則ち(たと)い百千(こう)()ると(いえど)も、之を得ること(あた)わざるが如し。又猿を離れて生肝(いきぎも)無きが如し。(あに)有名(うみょう)無実(むじつ)の成仏往生」に(あら)ずや。

一 儒家(じゅけ)(きょう)養等

  「(きょう)」の字は啓蒙(けいもう)の義、可なり。科段は之を略す。


                     つづく
開目抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-08-30 14:25 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)