日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ

2015年 08月 22日 ( 10 )


2015年 08月 22日

自らの死期がそう遠くないことを阿仏房に率直に吐露されたご消息【阿仏房御返事】

【阿仏房御返事】
■出筆時期:弘安元年(1278年)六月三日 五十七歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は阿仏房から大聖人の病状について何がしかのお尋ねあったと思われ、それへの返書となっております。
大聖人は大覚世尊(釈尊)が入滅間際に説かれた涅槃経の文を引くとともに「今月六月一日に至り連連此の病息むこと無し、死ぬる事疑い無き者か」と、自身の死期がそう遠くないことを率直に吐露されておられます。さらに「今は毒身を棄てて後に金身を受ければ、豈歎くべけんや」と記し、来世に金身を受けるのであるから嘆くことではないと、病状を心配する阿仏房を諭されておられます。

尚、この消息を受け取った阿仏房は、直ぐに佐渡から身延山中の草庵を訪れ大聖人を見舞います。この事について翌月の七月二十八日の妻千日尼御前に宛てた消息[千日尼御前御返事]で「弘安元年太歳戊寅七月六日、佐渡の国より千日尼と申す人、同じく日本国甲州・波木井郷の身延山と申す深山へ同じき夫の阿仏房を使として送り給う」と記されていることからもよくこの時の状況が伺えます。

それでは何故大聖人は、自身の死期が近づいている事を語られたのかという点ですが、釈尊も自身がまもなく涅槃すると弟子たちに度々伝えております。釈尊も大聖人の振る舞いも、その意味の一つは、仏に対する渇仰心を呼び起こす事とともに、実際に滅度した時の信徒の喪失感を、少しでも和らげたいと思う仏の慈悲であるうと推知いたします。
■ご真筆:現存されておりません。

[阿仏房御返事 本文]

御状の旨、委細承り候い了んぬ。大覚世尊説いて曰く「生老病死・生住異滅」等云云。

既に生を受けて齢六旬に及ぶ老又疑い無し、只残る所は病死の二句なるのみ。
然るに正月より今月六月一日に至り連連此の病息むこと無し、死ぬる事疑い無き者か。
経に云く「生滅滅已・寂滅為楽」云云。

今は毒身を棄てて後に金身を受ければ、豈歎くべけんや。

六月三日    日  蓮 花 押

阿仏房

by johsei1129 | 2015-08-22 23:18 | 阿仏房・千日尼 | Comments(0)
2015年 08月 22日

開目抄愚記 下二四  庭戸(ていこ)を出でずして一切経の勝劣を知れ


一 
(かん)をへだて等

  此の下は次に正しく()するなり。

一 王に小王・大王

  (しばら)漢土(かんど)の如し。皇帝は「大王」なり、諸候(しょこう)は「小王」なり。

一 一切(いっさい)に少分・全分

  名義(みょうぎ)五・二十二、(あまね)(じん)(さい)に及ぶは「全分」の一切なり。愚案の五・十二に註釈して云く「一切とは悉数(しつじゅ)の義なり。一切の二字を、もろもろとよむ。悉数の義とは残る所()きの義なり」と云云。是れ又全分なり。

  (せん)七・二十七に「経に言う一切とは、穢土(えど)に出ずる仏に約す」(取意)等。又名義(みょうぎ)集に「名字の一切」と云うは、此等は少分の一切なり。外典(げてん)の意は、一切とは総じてと云う意なり。顔師(がんし)の古註に云く「(なお)刀を以て物を切るがごとく、()整斉(せいせい)を取る」云云。一刀に物を切り調(そろ)えたる意なり。

一 五乳に(ぜん)()(ふん)()文。

  異本は「五味」に作れり。正と()すべきなり。

一 六波羅蜜(ろくはらみつ)

  此の下は便(びん)(ちな)んで別して真言を破するなり。

一 有()の成仏あって無性の成仏無し

  文意に云く、彼の経に「五無間謗法闡提速疾(ごむげんほうぼうせんだいそくしつ)解脱(げだつ)」と説くと(いえど)も、(ただ)是れ菩薩の成仏にして二乗(にじょう)の成仏なし。(いか)(いわん)()(おん)(じつ)(じょう)をや等云云。

一 法華経の迹門・本門等

  此の本門の句頭に何況(がきょう)の勢あり云云。

一 (しん)(たん)の人師

  二教論の下四。年代相違の()難勢(なんぜい)撰時抄下九、()いて見よ。六波羅蜜経は天台(てんだい)入滅の後百九十二年に当って漢土(かんど)に渡るなり。「(おし)(かな)古賢」は二教論の上四に。

一 此等はさてをく等

  此の下は上来(じょうらい)を結するなり。

一 一渧(いってい)をなめて等

  「一渧・一華」は六難九(ろくなんく)()の一文なり。此の一文を以て、一切経の勝劣(しょうれつ)推知(すいち)せよとなり。古語に云く「(いっ)()開くの日、天下の春なり。一葉()つるの時、四海の秋なり」と云云。

一 万里(ばんり)をわたて宋に入らずとも等

  ()(しか)らば「万里を渡って」等なり。是れ(すなわ)(てい)()()でずして一切経の勝劣を知るなり。

  和漢(わかん)道法(みちのり)に両説あり。韻会(いんね)七・二十三の(ごと)は「一万四千里」と云云。(とう)()三十三・三には「三千里」と云云。御書の十九・五十八は此の説に同じきなり。今是れを()()せば、()し三千里を以て六町一里に約すれば、(すなわ)ち一万八千里なり。故に一万四千里の説と相違するに(あら)ざるなり。(ただ)し四千・八千の不同は、発足の(ところ)同じからず、所至の処も亦(ことな)るが故なり。

一 三箇年を()霊山(りょうぜん)にいたらずとも等

  月氏の道法に多くの異説あり。今(いわ)く「三箇年」は則ち是れ千日なり。一日に十里行く(とき)千日、三箇年には一万里なり。即ち韻会(いんね)二十五の九千八百里の説に合するなり。()し九千八百里を六町一里に約すれば、五万八千四百里なり。故に大般若の序、名義(みょうぎ)集の五万八千里の説に相違せざるなり。若し十万八千里は往還(おうかん)に約せるか。(つぶさ)()(しゅう)()愚記(ぐき)の如し。

一 竜樹(りゅうじゅ)の如く。

  此の下は蒙の八・二十八に竜樹伝を引く。()いて見よ。

一 無著(むじゃく)菩薩(ぼさつ)

  上巻二十六、西域(さいいき)五十一。

一 蛇は七日が内の洪水(こうずい)をしる

  此の中の(さん)()の初めの蛇・(からす)の二喩は(ただ)知る辺を取り、第三の鳥の(たとえ)(ただ)勝の辺を取る。故に云く「日蓮は諸経の勝劣(しょうれつ)をしること華厳(けごん)(ちょう)(かん)・三論の()(じょう)法相(ほっそう)()(おん)・真言の弘法(こうぼう)すぐ()れたり」と云云。()所以(ゆえん)を明かして「天台(てんだい)伝教(でんぎょう)の跡をしのぶゆへなり」と云云。若し第五巻二十四に蛇・烏の(たとえ)()げたまうは、是れ兼知(けんち)未萌(みぼう)に譬うるなり。(また)二十一・二十「秋元御書」は今文の意に同じからざるなり。

一 (からす)は年中の吉凶(きっきょう)をしれり

  御書二十・三十啓蒙(けいもう)八・三十一、同二十六・百一、同二十九・七。

一 鳥は()ぶ徳、人にすぐ()れたり

  大輪の七十八、文の三・百五、(けい)(うん)一・五十一。

一 第一に()める者は日蓮なるべし


       つづく

開目抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-08-22 21:57 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)
2015年 08月 22日

開目抄愚記 下二三  教理の浅深を知らざれば則ち大謗法の根源となるなり


一 
()(じん)(みつ)経に云く

  第二巻十六の文なり。若し天台(てんだい)家の意は、此の三時を次の如く蔵通別の三教に配するなり。(げん)()第十・三十四の意に云く「深密は(すで)に是れ方等部の摂なり。故に知んぬ、彼の方等()(ぜん)()るに、彼の三時とは小を以て初めと為し、第二時とは(おそ)らく是れ一時(いっとき)仏、通教の体空の義を説くのみ。故に彼の三時は是れ前三教の次第(これ)を立つれば、阿含(あごん)は是れ蔵、理疑わざるに()り。第二は既に是れ空なり、(あに)通の義に(あら)ずや。第三は深密は円融無きの故に多く別門に在り」等と云云。

一 有上(うじょう)なり()(よう)なり

  「有容」は即ち是れ未満の義なり。(なお)「有余」というがごとし云云。守護章の上の上・初に麁食者(そじきしゃ)を破する文あり。()いて見よ。

一 大般若(はんにゃ)経に云く

  大般若五百四十九、真如品の文なり。此の文は即ち法開会を明かす。故に「法性に会入(えにゅう)し一事として法性を()ずる者を見ず」等というなり。(げん)九・三に云く「般若の中に二乗所行の念処道品等は(みな)摩訶衍(まかえん)なりと明かして、善悪(ぜんなく)の法(ことごと)く皆()せらるるも、(また)悪人及び二乗の人等を会せず、()の作仏を(べん)ぜざるは、此れ即ち別門の(せつ)なり」と文。玄私の九・二十三云云。

一 大日経第一等

  初めの「大乗行乃至(ないし)(おこ)す」等は第六住心なり。次の文は第七住、次の文は第八住、「乃至、(ごく)()自性(じしょう)(しん)は第九住、已上第一巻九紙の文なり。次の「又(いわ)く、大日」の下は第十住心、第一巻三紙の文なり。此の経文に付いて空海の(びゅう)()安然(あんねん)()(もん)(しげ)き故に之を略す云云。

一 華厳(けごん)経に云く

  華厳第八賢首品(けんじゅぼn)の文なり。即ち是れ七言の()なり。此の経文は法華経の六難(ろくなん)()()の文に()たり。故に他師は以て法華経に同ずるなり。

五百問論下五十に云く、

「問う、経の「()し仏滅後」より「皆(まさ)に供養すべし」に至るまでは何ぞや。答えて云く、華厳経の()に云うが如し。『若し三千大千界を以て乃至法を信解すとは殊勝(しゅしょう)()す』と。今(いわ)く、此の殊勝は以て彼の経を(たた)う。彼の経は即ち此の経とせんやいなや。此の経、()(ことな)らば何を以てか引き来らん。若し(すなわ)ち此の経ならば、如何(いかん)ぞ異を弁ぜん。(いわん)や彼の華厳は(ただ)福を以て()す、此の経の法を以て之を比するに同じからず。故に『乃至(ないし)()(きょう)一偈(いちげ)をも受けざれ』と云う。人(これ)を思うべし。(いたずら)に引いて何の(えき)あらん」云云。記の十、記の二・五十に今経第五十人に望みて優劣を判ず。()いて見よ。

一 涅槃(ねはん)経に云く等

  会疏(えしょ)十三・二十一、涅槃・法華の勝劣は常の如し。記の六・五十九に十六の同異を明かす。(せん)一本五十一に「一家の義意に(いわ)く、二部は同味と。(しか)るに涅槃(なお)劣れり」と文。

一 此等の経文等

  此の下は次に会す、亦三あり。初めに諸宗は教理の浅深(せんじん)勝劣(しょうれつ)を知らざるを示し、次に「巻をへだて」の下は、正しく会し、三に「六波羅蜜」の下は便(びん)(ちな)んで別して真言を破す云云。

一 月に星をなら()べ九山に(しゅ)()を合せたる等

  (じゅう)()の中の第三、第二の意なり。

一 ()はんや虚空(こくう)のごとくなる理に等

  記の九本二に云く「虚空は理なり、本迹は事なり。本迹(なお)迷う、(いわん)や不思議一なるをや」等云云。

一 教の(せん)(じん)をしらざれば等

  ()の七の末五十七に云く「一期(いちご)の仏教並びに(しょ)(せん)を以て体と為す。体も(また)教に随って(ごん)(じつ)一ならず」等云云。守護章の中四十六に云く「(およ)(のう)(せん)の教、(ごん)なれば所詮の理も(また)権なり。能詮の教、実なれば所詮の理も亦実なり」等云云。(たと)えば茅屋(ぼうおく)の空は金殿の空に同じからざるが如し。(げん)八三十云云。

  問う、教理の(せん)(じん)を知って何の(せん)あらんや。

  答う、()し浅深を知らざれば(すなわ)ち大謗法の根源と()るなり。報恩抄下八十章抄三十同二十八当抄上巻二十()いて見よ。



                   つづく
開目抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-08-22 21:32 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)
2015年 08月 22日

開目抄愚記 下二二  菩薩行方便境界神通変化経は、当山の経蔵第四十二の函(はこ)にあり


一 舌
(ただ)れども止まざるは等文。(注:この文は両御書に拝せず)

  啓蒙(けいもう)に点じて云く「舌(ただ)れて()まざるは(なお)()華報(けほう)のごとし」云云。今(いわ)く、(もう)の点は(せん)の次上の「舌(ただ)れども口中(なお)志を()えざるがごとし」の文に合せず。故に板点の如く(しか)るべきなり。「不止」の字の意は、舌爛れたるに()し志を()えたらば苦流(くる)長劫(じょうごう)の果を受くべからず。然れば舌爛(ぜつらん)(ぶん)(ばか)りにては華報と云いがたきなり。故に「不止」の二字を加うる(とき)は華報の義分明(ふんみょう)なり。(いわん)(また)(せん)次上(つぎかみ)の文に「諌暁(かんぎょう)すれど止めずんば、舌(ただ)れんこと(いか)んぞ疑わん」と云云。此の「不止」の二字は正しく志を()えざる義なり。註の十三・二十二、啓蒙の四・五十一、同二十四・二十八、会疏(えしょ)五・八。

一 狐疑(こぎ)の氷()けぬ等

  「狐疑」とは末師の如し。「氷()けぬ」とは左伝の序に云わく「(かん)(ぜん)として氷の如く解け、()(ぜん)として理に(したが)う。(しか)る後、()たりと()す」と云云。

  開目抄下愚記末

一 (みつ)(ごん)経等

  此の下は三に相似(そうじ)の文を()す、亦二あり。初めに八経の文を引き、次に「此等の経文」の下は正しく会す。「密厳教」は、唐の地婆(じば)()()の訳、上中下三巻あり。此の文は上巻・二十一に()でたり。「十地(じゅうじ)華厳(けごん)」とは、華厳の十地品を十地経と名づく。故に総別を()()げて十地華厳というなり。「大樹(だいじゅ)」とは大樹(だいじゅ)緊那(きんな)()(しょ)(もん)(きょう)なり。四巻あり、羅什(らじゅう)訳なり。「神通(じんつう)」とは菩薩(ぼさつ)(ぎょう)方便(ほうべん)境界(きょうがい)神通(じんつう)変化(へんげ)(きょう)なるべし。是れ宋の求那(ぐな)跋陀(ばつだ)()の訳、和本は三巻あり、唐本は二巻あり。当山の経蔵第四十二の(はこ)にあり。

一 一切経の中に勝れたり等。

  是れ(あまね)(じん)(さい)に及ぶの「一切」に(あら)ず、(ただ)是れ少分の「一切」なり。

一 大雲経に云く

  是れ第四の巻の文なり。一乗要決下・三十八紙に「多少事理の二意を以て(みつ)(ごん)・大雲の二経の文を会せり」と。(いわ)く、彼は華厳・(しょう)(まん)等に望んで王と為す、法華の()(こん)(とう)に望むるに()かず。(また)彼は(ただ)実相に約して王と為す、法華は()ねて二乗(にじょう)作仏(さぶつ)を説く。次の如く二意に配することを知るべし。

一 諸経の中の(てん)(りん)(じょう)(おう)文。

  又是れ少分の経王なり。一切の諸経の王には(あら)ず。

一 六波羅蜜(はらみつ)経等

  第一帰依(きえ)三宝品の文なり。此の五蔵に()いて種々の異解(いげ)あり。所詮(しょせん)(さき)の三は小乗三蔵なり。第四の般若(はんにゃ)()()(みっ)()は即ち是れ通別二教なり。(ぐう)般若・不共(ふぐう)般若(はんにゃ)を通じて般若波羅密多と名づくるなり。第五の陀羅尼(だらに)(もん)とは即ち是れ()(ぜん)の円教なり。陀羅尼は(ここ)には総持と(ほん)、円教の中道は二辺の悪を(しゃ)して中道の善を(たも)つ故なり。是の故に円教は四教の中の最上なり。故に「総持門は(かい)(きょう)等の中に最も()れ第一」と云うなり。(かん)迷論(めいろん)八巻。

一 契経・調伏(じょうぶく)

  「契経・調伏・対法」は、次の如く経律論の三蔵なり。般若は(すなわ)ち第四蔵なり。

一 速疾(そくしつ)解脱(げだつ)

  是れは菩薩の人に約して説く。二乗の人には(かかわ)らざるなり。

一 譬えば(にゅう)(らく)生蘇(しょうそ)熟蘇(じゅくそ)及び妙なる醍醐(だいご)の如し等

  問う、涅槃経の五味と同異如何(いかん)

  答う、今()六波羅蜜(ろくはらみつ)経は華厳(けごん)の後、鹿(ろく)(おん)を始めと為す。故に中間(ちゅうげん)三味の(ぜん)(きょう)は正しく是れ方等部の教なり。「乳・酪・生蘇(しょうそ)」は即ち是れ三蔵教、「熟蘇(じゅくそ)」は是れ通別二教、「醍醐(だいご)」は()(ぜん)の円教なり。故に(ただ)中間(ちゅうげん)三昧(ざんまい)の中の四教に(たと)うるなり。(けだ)し涅槃経の五味は始め華厳より終り涅槃経に至るまで、総じて一代五時に(たと)うるなり。同じく五味に譬うと(いえど)も、其の義は水火なり、勝劣(しょうれつ)雲泥(うんでい)なり。故に下の文にいう「六波羅蜜経は(乃至)(なお)涅槃経の五味に()よばず、(いか)(いわん)や法華経の迹門・本門にたい()すべしや」とは是れなり。


             つづく
開目抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-08-22 21:14 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)
2015年 08月 22日

開目抄愚記 下二一


一 
名異体(みょういたい)(どう)・二経一法等

  三論宗の意は、般若経には法華経に同じて法開会(かいえ)を明かす。故に二経一法というか。人開会を明かさざることは、(ただ)是れ人の(あやま)にして法体(ほったい)に関わらずという義勢(ぎせい)か。即ち般若経の文の次下に御所引(しょいん)の如し。()し人開会を明かさざれば有名(うみょう)無実の法開会なり。

一 善無畏(ぜんむい)

  善無畏の意は、若し理同の辺に()れば是れ六難の経なり。若し事勝の辺に拠れば大日経は六難の外にして(なお)法華に勝れたりという義勢なるべし。

一 日本の弘法(こうぼう)・読んで云く、大日経は(ろく)(なん)()()の内にあらず等云云。

  弘法の意は、釈迦の三身、大日の三身各々(おのおの)不同と定めて、法華経等は釈迦応化(おうけ)の所説にして劣れり。大日経は法身大日如来の所説にして勝れたりと云云。

  天台(てんだい)家の意は、釈迦・大日一体なり。故に授決(じゅけつ)集下・三身仏決に云く「(ただ)大日法身を見るに、即ち釈迦(しゃか)()()なり。釈迦牟尼は即ち大日法身、一切処(いっさいじょ)(あまね)くして本来常住(じょうじゅう)無始(むし)無終(むしゅう)なり、乃至(ないし)既に三身一体、(みな)等しく遮那(しゃな)と云う。何ぞ三身各別の意を用うべけんや」と已上。是れ(まさ)しく弘法の二教論を破するなり。

  亦伝教(でんぎょう)大師の(けん)戒論(かいろん)に云く「稽首(けいしゅ)す、十方(じっぽう)(じょう)寂光(じゃっこう)常住内証の三身仏、実報(じっぽう)・方便・同居土(どうこど)大悲をもって()(げん)す大日尊」文。此の文の意は、大日如来を垂迹(すいじゃく)示現の迹仏(しゃくぶつ)と為すなり。

一 日蓮なげ()いて云く等

  此の下は正しく破す、亦二あり。初めに仏祖の(おきて)を示し、次に「上にあぐるところ」の下は正しく破するなり。

一 双林(そうりん)最後の御遺言

  涅槃(ねはん)経第六、四依(しえ)品の文なり。

一 初依(しょえ)・二依等。

  玄の五に云く「五品・六根を初依と()し、十住を二依と為し、十行・(じゅう)回向(えこう)を三依と為し、十地(じゅうじ)・等覚を四依と為す」文。()(げん)文殊(もんじゅ)は第四依なり。故に「等覚の菩薩」と云うなり。

一 竜樹(りゅうじゅ)菩薩等

  十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)第六巻、取意の文なり。

一 天台(てんだい)大師云く。

  (げん)(もん)第十・初。「伝教(でんぎょう)大師云く」は(しゅう)()下四。「円珍(えんちん)智証大師云く」は授決(じゅけつ)(しゅう)上四十九。

一 曲会(こくえ)私情(しじょう)

  此の言は記の九末四十五に。「荘厳(しょうごん)()()」は(せん)三に出でたり。

一 仏法外の外道(げどう)

  即ち是れ仏前の外道なり。今文の意は「仏滅後の犢子(とくし)(ほう)(こう)」は仏前の外道の(けん)よりも邪見(じゃけん)(ごう)(じょう)なり。「後漢已後(いご)の外典」は「三皇五帝の儒書(じゅしょ)」よりも邪法(たくみ)なり云云。是れ(すなわ)華厳(けごん)・真言等の人師、天台(てんだい)正義(しょうぎ)を盗み取って自宗を巧に立つるに例するなり。上巻七已下()いて見よ。「犢子」は大論一・十三、「方広」は()十・二十五に云云。

一 法華経に云く「()(こん)(とう)」等云云。

  此の下は二に正しく(しゃく)す、又二あり。初めに一家の正義を明かし、次に「今真言」の下は便(びん)(ちな)みて別して真言を破す。

  問う、何ぞ三説超過(ちょうか)の文を引いて六難九易の義を釈するや。

  答う、(もと)是れ経文の相は、三説の()(しん)()()を開いて以て九易と()し、最為(さいい)難信難解を開いて六難と為す。故に今、(かえ)って三説超過の文を引いて六難九易を(しゃく)するなり。

一 妙楽(みょうらく)云く、(とて)い経有って諸経の王と云うとも

  記の三十六。「又云く、()(こん)(とう)の妙」は(せん)三・五十三。


                     つづく
開目抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-08-22 20:51 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)
2015年 08月 22日

開目抄愚記 下二十  牛跡に大海を入るる事なかれ


   第三十六段 諸経の浅深勝劣を判ず

一 此の経文の()は等

  此の下は初めに略して示す。意に云く、此の経文の六難九(ろくなんく)()、一代諸経の浅深(せんじん)勝劣(しょうれつ)()の明かなること晴天の日輪、白面の(ほくろ)のごとし。(しか)れども(いき)(めくら)等の者は見がたし。我が門弟の道心あらん者にしるし(とど)めて見せん。(まこと)王母(おうぼ)が桃、輪王の(どん)()よりもあいがたし。(しか)るに一代(いちだい)諸経の勝劣、諸宗の元祖並びに末弟と伝教・日蓮との諍論(じょうろん)は、(たと)えば(はい)(こう)項羽(こうう)等の如し。中に於て此の法華経の正義(しょうぎ)の顕るることは、(ただ)伝教・日蓮のみなりと知るべし。此の諸経の勝劣は、釈迦・多宝・分身の来集(らいじゅう)して定め給いしなり云云。

一 各謂(かくい)自師(じし)の者。

  先師の(びゅう)()(ただ)さざる者なり。「(へん)(しゅう)家」とは、自宗を(かた)く信ずる者なり。故に此の二句は末流を()すか。

一 西王母(せいおうぼ)

  列仙伝の一・四、胡曽(こそう)()中・終。

一 (りん)(のう)出世等。

  文の四・二十三、私志十二・三十八、其の(ほか)処々に()でたり云云。

一 沛公(はいこう)項羽(こうう)等。

  十八史略の第二、太平の二十八、朝は史記を引く。

一 (より)(とも)(むね)(もり)等。

  治承(じしょう)四年より文治(ぶんじ)元年に至るまで、始終(しじゅう)六年なり。(しか)るに北条時政、残党を治罰(じばつ)して文治二年三月、鎌倉に帰す。故に七年と云うか。

一 (あき)津嶋(つしま)

  神代合(じんだいごう)(かい)一の三、徒然(つれづれ)文段の一・二十一、韻鏡大成七・二十、啓蒙(けいもう)二十九・七十四。

一 修羅(しゅら)帝釈(たいしゃく)

  註の五・三十九、(こっ)(きょう)三・十二、太平抄の二十三・二。

一 金翅(こんじ)(ちょう)

  文二六十七に、両翅(りょうし)の相去ること三百三十六万里と。名義(みょうぎ)三十九。

一 日本国。

  義楚(ぎそ)二十一・五、随筆の三・三十。

一 問うて云く華厳(けごん)経等

  此の下、次に(しゃく)、亦三あり。初めに異解(いげ)を破し、次に「法華経に云く、已今当」の下は正しく釈し、三に「密厳経」の下は相似(そうじ)の文を()す。初めの異解を破す、亦二あり。初めに四宗の異解を(ちょう)し、次に「日蓮なげいて云く」の下は正しく破す。初めの四宗の異解を牒す、(また)二あり。初めに元祖(がんそ)を出し、次に「此の四宗」の下は末弟。

一 華厳経と法華経と六難の内・名は二経なれども所説・乃至理()同じ文。

  華厳宗の意は、彼の経第七巻に六難相似(そうじ)の文あり。次下に御所引の如く「大乗を求むることは(なお)(やす)しと()し、()く是の法を信ずるは(はなは)(かた)しと為す」等云云。故に所説同じと云うか。又二経の理(ひと)しくして差別無し。例せば「四門(しもん)(かん)(べつ)なれども、真諦(しんたい)を見ることは同じ」の如し。故に理同じと云うなり。

一 四門(かん)(べつ)

  止観六・二十五の文なり。次の文に云く「城に四門有れども、会通(えつう)すること異ならざるが如し」と云云。是れは教々の中の有門(うもん)空門(くうもん)等に約するなり。故に真諦(しんたい)を見ること同じきなり。

一 第三時の教・六難の(うち)なり

  法相(ほっそう)宗の意は、一乗方便・三乗真実と云うと(いえど)も、或る時は(また)華厳(けごん)・法華・深密を(とも)に第三時の教に属するなり。(げん)(さん)一・二十に云く「教三と言うは、一には多く有宗を説く、阿含(あごん)等は(これ)なり。二には多く空宗を説く、即ち中論・百論・十二門・般若(はんにゃ)等是なり。三には非空(ひくう)()宗、即ち華厳・深密・法華等是なり」と已上。

()の宗は深密経に()って三時の教を立つ。一には有相(うそう)、二には無相教、三には中道教なり。故に彼の所依(しょえ)の経文、次下二十一に御所引の如し。此等の義、実に()(しゃく)に大海を()るるが如きなり云云。


         つづく
開目抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-08-22 18:52 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)
2015年 08月 22日

観心本尊抄文段 下六  本門戒壇の本尊は応(まさ)に是れ総体の本尊なるべし。是れ則ち一閻浮提一切衆生の本尊なるが故なり。自余(じよ)の本尊は応に是れ別体の本尊なるべし。


 問う、妙法蓮華経の左右に文字に書き(あらわ)す仏菩薩等と、色相(しきそう)荘厳(しょうごん)造立(ぞうりゅう)の仏菩薩等と、何の(ことな)りありや。

答う、種本脱迹(だつしゃく)、天地雲泥(うんでい)なり。謂く、文字(もんじ)に書き顕す仏菩薩等は本地自証(じしょう)の妙法、無作(むさ)本有(ほんぬ)の体徳なり。(たと)えば種子の中に百千の枝葉を具足するが如し。若し色相荘厳の造立(ぞうりゅう)の仏菩薩等は迹中化他の形像(ぎょうぞう)なり。(たと)えば種子より生ずる所の百千枝葉の如し。(あに)(せき)()(あら)ずや。

問う、色相荘厳の仏菩薩等を以て、何ぞ必ずしも迹中()()の形像と云わんや。

答う、教時義に云く「世間(みな)仏に三十二相を()するを知る。()の世情に随って三十二相を以て仏と()す」と文。当に知るべし、劣応(れっとう)の三十二相八十(しゅ)(ごう)勝応(しょうおう)の八万四千の相好(そうごう)()受用(じゅゆう)(ほう)(しん)の十蓮華蔵微塵(みじん)の相好、及び微妙(みみょう)浄法(じょうほっ)(しん)の具相三十二、応仏昇進(しょうしん)自受(じじゅ)(ゆう)(しん)等は皆世情に順じて現ずる所の仏身なり。故に機縁に随って相好に多少あり。故に止観(しかん)第七に云く「縁の為に同じからず。多少は彼に()り」等云云。

問う、(たと)い色相荘厳と(いえど)も、若し本果の成道(じょうどう)の如きは即ち是れ本地自行の成道なり。何ぞ(しゃく)中化(ちゅうけ)()の形像といわんや。

答う、本果第一番の成道に(すで)に四仏あり。(つぶさ)に四教・八教を説く。故に天台云く「本地の四仏」等云云。妙楽云く「久遠に(また)四教有り」等云云。既に四教・八教有り。(あに)化他の形像に(あら)ずや。妙楽云く「本地(ほんち)の自行は(ただ)円と合す。化他は不定、亦八教有り」等云云

問う、辰抄(しんしょう)に云く「本尊に総体・別体あり。総体の本尊とは一幅(いっぷく)の大曼荼羅(まんだら)なり。即ち当文是れなり。別体の本尊に(また)二義あり。には人本尊。(いわ)く、報恩抄・三大秘法抄・佐渡抄・当抄の下の文の『事行の南無妙法蓮華経の五字七字並びに本門の本尊』等の文(これ)なり。二には法の本尊。(すなわ)ち本尊問答抄の『末代悪世の凡夫は法華経の題目を本尊とすべし』等の文是なり」と云云。此の如何(いかん)

答う、此れは是れ文底の大事を知らず、人法体一の(じん)()に迷い、(ただ)在世(だっ)(ちゃく)・教相の本尊に(しゅう)して以て末法下種の観心の本尊と為す。故に諸抄の意に通ずる(あた)わず。(ほしいまま)に総体、別体の名目(みょうもく)を立て、曲げて諸文を()し、宗祖の(こころ)を失うなり。

(まさ)に知るべし、日辰所引の諸抄の意は、並びに是れ人法体の本尊なり。人法体なりと(いえど)も、(しか)も人法宛然(おんねん)なり。故に(あるい)は人(そく)法の本尊に約し、或は法即人の本尊に約するなり。人即法の本尊とは即ち是れ自受用身(そく)念三千の大曼荼羅(まんだら)なり。法即人の本尊とは念三千即自受用身の(れん)()聖人是れなり。当文及び本尊問答抄当抄の下の文の「本門の本尊」、佐渡抄の「本門の本尊」の文は並びに是れ(そく)法の本尊なり。三大秘法抄報恩抄等は法即人の本尊なり。

問う、当門流に於ては総体、別体の名目(みょうもく)を立つべからざるや

答う、()()名を借りて以て其の義を明かさば、本門戒壇の本尊は(まさ)是れ総体の本尊なるべし。是れ則ち一閻(いちえん)浮提(ぶだい)切衆生の本尊なるが故なり。自余(じよ)の本尊は応に是れ別体の本尊なるべし。是れ則ち面々各々(おのおの)の本尊なるが故なり。


               つづく
文段下 目次



by johsei1129 | 2015-08-22 08:39 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)
2015年 08月 22日

観心本尊抄文段 下五  寿量品の儀式を以て「雖脱在現・具騰本種」を思い合わすべし


 問う、(まさ)しく本尊の為体(ていたらく)、二仏並座(びょうざ)、本化・迹化、身子(しんし)目連(もくれん)等、(あに)今日寿量品の儀式に(あら)ずや。

答う、今句寿量品の儀式は文上(だっ)(ちゃく)、迹門の理の念三千の教相の本尊なり。()(いま)遺付(いふ)の本尊は文底下種の本門事の一念三千、観心の本尊なり。(しか)るに本事(すで)()く、()し迹を借らずんば何ぞ()く本を()らん。

故に今日寿量品の儀式を以て、久遠(くおん)元初(がんじょ)自受用(じじゅゆう)相貌(そうみょう)(あらわ)すなり。妙楽の所謂(いわゆる)(すい)(だつ)在現(ざいげん)()(とう)本種(ほんしゅ)是れを思い合すべし。若し(つぶさ)是れを論ぜば施開廃(せかいはい)の相伝あり。 謂く、文上の意は、久遠本果の本より中間(ちゅうげん)今日(こんにち)の迹を()れ、中・今日の迹を開して久遠本果の本を顕す。久遠本果の本を顕し(おわ)んぬれば(さら)句の余法無し。(ただ)是れ久遠本果の為体(ていたらく)念三千の儀式なり。

若し文底の意は、久遠元初の本より本果・中間・今日(こんにち)の迹を垂れ、本果・中間・今日の迹を開して久遠元初の本を(あらわ)す。久遠元初の本を顕し(おわ)んぬれば更に句の余法無し。(ただ)是れ久遠元初の自受用身の当体の相貌(そうみょう)にして真の事の念三千の為体なり。

(たと)えば()(げつ)に准じて天月の相貌を知り、天月を知り(おわ)んぬれば池月の影を(はら)って唯天月を指すが如し。天台の所謂(いわゆる)「下に准じて上を知り、影を撥って天を指す」は是れなり。(しか)るに諸流の(やから)は天月を()らず(ただ)池月を()る。()(かん)ぞ盆に(のぞ)みて天漢(てんかん)を仰がざるや。鳴呼(ああ)聾駭(ろうがい)なり、()(かん)ぞ道を論ぜんや云云。

問う、何ぞ本果を以て(なお)迹に属するや。

答う、若し文底の意は(ただ)久遠元初を以て名づけて本地(ほんち)()す。本果已後(いご)を通じて迹に属するなり。是れ則ち本果の成道に既に四教・四仏の(せん)(じん)不同あるが故なり。文の一・二十一に云く「(ただ)本地の四仏は皆是れ本なり」と云云。(せん)の七十一に云く「(すで)に四義の浅深不同あり。故に知んぬ、不同なるは(さだ)めて迹に属す」等云云。

三に文に随って消釈(しょうしゃく)せば、

文に云く「本()(しゃ)()の上に宝塔(くう)()し」とは「本師の裟婆」は即ち是れ常在(じょうざい)(りょう)鷲山(じゅせん)」なり。妙楽云く「常在の言に()るに即ち自受(じじゅ)用土(ゆうど)に属す」等云云。故に知んぬ、(のう)()の宝塔五百()(じゅん)は即ち自受用身の本有(ほんぬ)の五大を表し、(しょ)()虚空(こくう)は即ち自受用所居の寂光(じゃっこう)を表するなり。

文に云く「塔中(たっちゅう)の妙法蓮華経の左右に釈迦牟(しゃかむ)尼仏(にぶつ)・多宝仏」等とは、忠抄に云く「中央の妙法蓮華経の脇士(きょうじ)は釈迦・多宝なり。釈迦・多宝の脇士は四大菩薩なり。文殊(もんじゅ)弥勒(みろく)等は四大菩薩の眷属(けんぞく)なり」と云云。此の最美(さいび)なり。

問う、仏在世の「塔中の妙法蓮華経」とは、()体何物ぞや。

答う、()れ能表を以て所表を(あらわ)し「塔中の妙法蓮華経」と云うり。是れに三意有り。(いわ)く、無始(むし)(しき)(しん)、境智冥合なり。

一には妙法蓮華経とは、即ち是れ本有(ほんぬ)の五大なり。謂く、今日迹中の五百()(じゅん)の宝塔は(ひそか)本地(ほんち)自受(じじゅ)(ゆう)(しん)の本有の五大を表するなり。自受用身の本有の五大とは(すなわ)是れ妙法蓮華経なり。

故に宗祖云く()とは地水火風空なり乃至(これ)則ち妙法蓮華経の五字なり、此の五字を以て人身の体を造るなり本有(ほんぬ)常住(じょうじゅう)なり本覚(ほんがく)の如来なり」云云。

二には妙法蓮華経とは、即ち是れ十界()()なり。(いわ)く、今日迹中の十界の聖衆は(すなわ)ち本地自受用の念の心法(しょ)()の十界()()の妙法蓮華経を表するなり。故に宗祖云く「因果()()・不思議の(これ)有り。之を名づけて妙法蓮華と()()の妙法蓮華の法に十界三千の諸法を具足(ぐそく)して(けつ)(げん)無し」等云云。

三には妙法蓮華経とは、即ち是れ境智の二法なり。(いわ)く、十界の聖衆左右に()するは即ち本地難思の境智の妙法蓮華経を表するなり。天台(てんだい)云く「境智和合すれば(すなわ)ち因果あり。照境(しょうきょう)(いま)(きわま)らざるを因と為し(みなもと)(つく)すを果と為す」等云云。(まさ)に知るべし、左右の九界は「照境未窮(みぐ)」の妙因を表し、釈迦・多宝の両仏は即ち「尽源(じんげん)為果(いか)」の妙果を表するなり。

  

                       つづく
文段下 目次



by johsei1129 | 2015-08-22 08:37 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)
2015年 08月 22日

観心本尊抄文段 下四  文底下種の本尊を明かす

次に()文底下種の本尊を明かすとは、

問う、此の御本尊の為体(ていたらく)は今日の寿量品の儀式を移すとせんや。久遠(くおん)元初(がんじょ)の本仏の相貌(そうみょう)(あらわ)すとせんや。()今日(こんにち)寿量品の儀式と云わば、即ち是れ在世脱益(だっちゃく)の本尊にして末法下種の本尊に非ず。若し久遠元初の本仏の相貌と云わば、二仏並座(びょうざ)、本化・迹化、身子(しんし)目連(もくれん)等、(あに)今日の寿量品の儀式に非ずや。

答う、此の御本尊は(まさ)しく是れ文底下種の本仏、本地(ほんち)難思(なんし)の境智冥合、久遠元初の自受用(じじゅゆう)身の相貌なり。(まさ)此の義を明かさんとするに、初めに文証を引き、次に外難を(しゃ)す。

一には経に云く「如来秘密(にょらいひみつ)神通之力(じんつうしりき)」云云。

御義口伝に云く「此の本尊の()(もん)とは如来秘密神通之力の文なり、(かい)定慧(じょうえ)の三学、寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮(たし)かに霊山(りょうぜん)に於て面授(めんじゅ)()(けつ)せしなり、本尊とは法華経の行者(ぎょうじゃ)身の当体なり」等云云。

諸法実相抄に云く「()れば釈迦・多宝の二仏と云うも(ゆう)の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座(おわ)し候へ、経に云く『如来(4にょらい)秘密(ひみつ)神通(じんつう)之力(しりき)』是なり、如来秘密は(たい)の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏(しゃくぶつ)ぞかし」等云云。

二には経に云く「()(こう)良薬今留(こんる)(ざい)()」等云云。

下の文に云く「是好良薬とは寿量品の肝要(かんよう)たる名体(みょうたい)宗用(しゅうよう)(きょう)の南無妙法蓮華経是なり乃至仏(なお)迹化(しゃっけ)に授与し給わず(いか)(いわん)や他方をや」と云云。

三には経に云く「時我及衆僧倶(じがぎゅうしゅそうく)(しゅつ)(りょう)鷲山(じゅせん)」等云云。

御義口伝に云く「本門事の念三千の明文なり。御本尊は此の文を顕し()だし給うなり乃至()の故は、時とは末法第五時の時なり、我とは釈尊・及は菩薩・衆僧は二乗・()とは六道なり・出とは霊山(りょうぜん)浄土に列出するなり。霊山とは御本尊並びに日蓮等の(たぐ)い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」等云云。(さき)此の文を引くは文上の意なり。今()文を引くは文底の意なり。

四には下の文に云く「所詮(しょせん)迹化・他方の大菩薩等に我が内証の寿量品を以て授与(じゅよ)すべからず。末法の初は謗法(ほうぼう)の国にして悪機なる故に(これ)(とど)めて地涌(じゆ)千界(せんがい)の大菩薩を召して寿量品の肝心(かんじん)たる妙法蓮華経の五字を以て(えん)()の衆生に授与せしめ給う」と。

五には撰時抄に云く「寿量品の肝要(かんよう)、南無妙法蓮華経の末法に流布せんずるゆえに、此の菩薩を召出(めしいだ)されたり」(取意)等云云。

六には下山抄に云く「(じつ)には釈迦・多宝、十方の諸仏・寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字を信ぜしめんが為なりと出し給う(こう)長舌(ちょうぜつ)なり」と云云。

七には又云く地涌(じゆ)の大菩薩・末法の初めに出現せさせ給いて本寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を一閻(いちえん)浮提(ぶだい)切衆生に唱えさせ給うべき」等云云。次上(つぎかみ)の文に云く「此の本門の肝心南無妙法蓮華経」と云云。

此等の諸抄に「本門寿量の肝要」とは、熟益(じゅくやき)の迹門を(えら)び、脱益の本門を取る。故に「本門寿量」と云うなり。(なお)文上の脱益(だっちゃく)を簡び、(ただ)文底の下種を取る。故に「肝要(かんよう)」と云うなり。此の故に開目抄に「本門寿量品の文の底」と云い、諸抄の中には「本門寿量の肝要」と云うなり。(まさ)に知るべし、肝要とは文底・眼目(げんもく)の異名なり。

(およ)そ肝要とは、(ただ)法を()げて切を(おさ)むるの義なり。文底(また)(また)()くの如し。故に文底大事の口決(くけつ)に云く「所詮(しょせん)、文底とは久遠下種の法華経・名字(みょうじ)の妙法に、今日(じゅく)(だつ)の法華経の帰入(きにゅう)する処を志し給うなり。妙楽云く『(すい)(だつ)在現(ざいげん)()騰本(とうほん)(しゅ)』とは()れなり」と云云。


       つづく


文段下 目次



by johsei1129 | 2015-08-22 08:33 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)
2015年 08月 22日

観心本尊抄文段 下三

一 ()の本尊の為体(ていたらく)

此の下は次に(まさ)しく遺付(いふ)の本尊の相貌(そうみょう)を明かすなり。今此の文を(しゃく)して(しばら)く三段と()す。初めに是れ寿量(しょ)(けん)の本尊を明かし、次に是れ文底下種の本尊を明かし、三には文に随って消釈(しょうしゃく)す。

初めに是れ寿量(しょ)(けん)の本尊を明かすとは、

問う、今()本尊は八品所顕とせんや、寿量所顕とせんや。

答う、寿量所顕の本尊なり。(まさ)此の義を明かさんとするに、初めに明文を引き、次に異解(いげ)を破せん。

初めに明文を引くとは、新尼抄に云く「今()の御本尊は乃至宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し神力品・(ぞく)(るい)に事(きわま)りて候いしぞかし」等云云。

御義口伝下四十二に云く「二仏座を並べ・分身(ふんじん)の諸仏集まつて()好良薬(こうろうやく)の妙法蓮華経を()(あらわ)、釈尊十種の神力を現じて四句に(むす)び上行菩薩に付属し給う」等云云。

二十九に云く「宝塔品の時事(ときこと)()こり・寿量品の時事顕れ・神力属累の時事()るなり」等云云。

此等の諸文並びに寿量品に説き顕すと云うなり。下の文に云く「正像(しょうぞう)(いま)だ寿量の仏(ましま)さず、末法に来入(らいにゅう)して始めて()の仏像出現せしむべきか」と云云。又云く「本門寿量品の本尊並びに四大菩薩」等云云。此等の明文、(あたか)白日(はくじつ)の如し。故に知んぬ、今此の本尊は寿量(しょ)(けん)の本尊にして、八品所顕の本尊には(あら)ざるなり。

問う、既に「八品(はっぽん)を説いて之を付属し給う」と云う此の如何(いかん)

答う、此れは是れ通じて付嘱の始終(しじゅう)を示す。故に「八品」等と云うなり。八品に此の本尊を説き顕すと()うには非ざるなり。

問う、日忠抄に云く「『此の本門の肝心(かんじん)、南無妙法蓮華経の五宇』をば八品の間に説いて上行菩薩に付属して是れを本尊と為すなり」と云云。又下に云わく「『此れは(ただ)題目の五字』とは、此れは(ただ)八品と口伝するなり」と云云。此の意は本門の八品の間に此の本尊を説き(あらわ)し、上行菩薩に付嘱して末法の本尊と()す。故に八品(しょ)(けん)の本尊なり云云。此の如何(いかん)

答う、宗祖の滅後一百余年の後に八品所顕の新義を立つる所以(ゆえん)は、(ただ)此の両の文に()る。(しか)るに彼等の(しょ)()(すで)に宗祖に(たが)う。誰か之を用いんや。何となれば、宗祖は諸抄の中に(ただ)「寿量品に説き顕し」と云い、「八品に説き顕わし」と云わざる故に。(いわん)や宗祖は但「本門寿量の本尊」等と云い、「本門八品の本尊」と云わざるが故に。(いわん)(また)宗祖は但「()れは(ただ)題目の五字」と云い、「此れは但八品」等と云わざるが故に。

是の故に明らかに知んぬ、宗祖違背(いはい)曲説(ごくせつ)なり。況や(また)妙楽云く「今の釈迦仏は本迹を説き(おわ)って、総じて枢要(すうよう)()って諸の菩薩に付嘱す」と。(すで)に「本迹を説き」と云う()(しか)らば(まさ)に「本迹二門・部所顕の本尊」と云うべけんや。況や(また)大師云く「(こんにち)、本門を説いて切諸仏の所有の法を付嘱す」云云。(すで)に「本門を説いて」と云う。若し爾らば(まさ)に「後の十四品・本門(しょ)(けん)の本尊」と云うべけんや。若し爾らずんば、今「八品を説いて」等と云う(いえど)も、何ぞ「八品所顕の本尊」といわんや。

問う、下の文に云く「()くの如き本尊は(乃至)但八品に限る」等云云。此の文は如何。

答う、「是くの如き本尊」とは即ち是れ寿量所顕の本尊なり。()寿量所顕の本尊は但八品に(わた)り、余品に亘らざるが故に「但八品に限る」と云うなり。何ぞ()八品所顕の文ならんや

問う、諸流一同の義に云く「今此の本尊は本門八品(はっぽん)の儀式なり」と云云。此の義は如何。

答う、(およ)此の本尊は(まさ)しく是れ寿量品の儀式なり。何となれば宝塔品の(とき)、二仏座を並べ分身(ふんじん)来集(らいじゅう)し、涌出(ゆじゅつ)品の(とき)本化涌出し、(まさ)しく寿量品に至って十界久遠の上に国土世間(すで)に顕れ、念三千の本尊の儀式既に円満円足して更に事の(けつ)(げん)無し。(あに)寿量品の儀式に(あら)ずや。

(しか)るに此の本尊の付嘱(いま)(おわ)らず、故に(げん)(ねん)未散(みさん)にして通じて嘱累品に至るなり。故に寿量品の儀式は通じて八品に(わた)る故に八品の儀式なりと言わば、是れ大なる(さまた)無し。(しか)るに諸門流の(やから)是れ寿量品の儀式なることを知らず、(ただ)ちに八品の儀式と云う、故に不可なり。     

問う、日辰の抄に云く「通じて本尊を明かす時は八品(しょ)(けん)の本尊なり。故に『(ただ)八品に限る』と()うなり。別して本尊を明かす時は寿量所顕の本尊なり。故に『本門寿量の本尊』と云うなり」云云。此の如何(いかん)

答う、「通じて本尊を明かさば八品所顕」とは恐らくは是れ(あやま)りなり。宗祖の諸抄(すべ)此の説なし。故に(また)(また)日辰の所謂(いわゆる)寿量所顕は、当流の所謂寿量所顕に同じからざるなり。

問う、蒙抄に云く「一部八巻二十八品(みな)是れ本尊なり。『(ただ)八品に限る』とは、念の尊像を但八品の間に事相に示す故なり。隠顕(おんけん)は機に()り、(ぶっ)()は常に(しか)なり」と云云。此の義如何。

答う、亦是れ宗祖違背(いはい)曲説(ごくせつ)なり。宗祖既に「末代悪世の凡夫は但法華経の題目を本尊と()すべし」と云う故なり。但し唱法華題目抄に「本尊は法華経八巻・一巻」等と云うは是れ仏の()(ぜん)経の如し云云。



                    つづく
文段下 目次



by johsei1129 | 2015-08-22 08:30 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)