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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 07月 26日 ( 2 )


2015年 07月 26日

Gosho 総勘文抄四 The Unanimous Declaration4


 一代聖教(しょうぎょう)とは此の事を説きたるなり、

The sacred teachings of the Buddha’s lifetime are devoted to explaining this principle.

此れを八万四千の法蔵とは云うなり、

These are what is known as the storehouse of theeighty-four thousand teachings.

是れ皆(ことごと)く一人の身中の法門にて有るなり、

All these are teachings encompassed within the single entity of an individual.

(しか)れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書(もんじょ)なり、

Hence the storehouse of the eighty-four thousand teachings represents a day-to-day record of one’s own existence.

此の八万法蔵を我が心中に(はら)(たも)(いだ)き持ちたり、

This storehouse of the eighty thousand teachings is embodied in and contained within one’s own mind.

我が身中の心を以て仏と法と浄土とを我が身より(ほか)に思い願い求むるを迷いとは云うなり、

To use the mind to suppose that the Buddha or the Law or the pure land exist somewhere other than in one’s own self and to seek them else where is a delusion.

此の心が善悪の縁に()うて善悪の法をば造り出せるなり

When the mind encounters good or bad causes, it creates and puts forth the aspects of good and bad.

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本文】 目次 Index



by johsei1129 | 2015-07-26 21:09 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2015年 07月 26日

開目抄愚記 下五

第三十段 略開近顕遠を示す

一 仏此の(うたがい)を答えて等

  此の下は次に(まさ)しく説く、亦二あり。初めに(りゃっ)(かい)(ごん)(けん)(のん)、次に「其の後、仏」の下は(こう)(かい)(ごん)(けん)(のん)。初めの文に亦二あり。初めに略開近顕遠、次に「此に弥勒」の下は動執(どうしゅう)生疑(しょうぎ)なり。

一 阿逸(あいっ)()(なん)(だち)

  仏の答の大旨は、涌出(ゆじゅつ)品の中に於ては(ただ)師主の住処を答えて、(いま)因縁(いんねん)の大事を明かさざるなり。今()の中に於ては但師主に答うる文を引くなり。(あるい)は住処の義は自顕すべき故に(しばら)く是れを略するか。

一 (われ)伽耶(がや)(じょう)菩提(ぼだい)樹下(じゅげ)に於て等

  ()如来(にょらい)の密意を尋ぬれば、即ち是れ本地(ほんち)伽耶(がや)なり。(しか)りと(いえど)も、時衆は知らずして(なお)今日の伽耶と(おも)うなり。此の文に(また)相伝有り云云。

一 (しか)して(すなわ)(これ)教化(きょうけ)して初めて道心を(おこ)さしむ等

  問う、地涌(じゆ)の下種は(いず)れの時に()りや。

  答う、記の一の本三十三に云く「地涌は本因果種」と云云。既に(もと)本果()って発心(ほっしん)下種あり。必ず本因在って聞法(もんぼう)下種あらん。此れは是れ台家(たいけ)の意なり。亦当流の相伝有り云云。

一 我久遠より(このかた)

  此の文は正しく略開近顕遠なり。

(およ)そ地涌(せん)(がい)を本化の菩薩と名づくることは、本地に於て教化したもう菩薩なるが故なり。()し其の文拠(もんきょ)を尋ぬれば、即ち今の文是れなり。謂く「我久遠より(このかた)」は即ち是れ本なり。「(これ)()の衆を教化せり」とは即ち是れ化なり。故に本化(ほんげ)というなり。又愚案十七二十五に云云。

一 (ここ)弥勒(みろく)等の大菩薩

  此の下は二に動執生疑、亦二あり。初めに疑念、次に「されば弥勒」の下は発問(はつもん)。初めの疑念に亦二あり。初めに(まさ)しく明かし、次に例を引く。

一 大宝坊・白鷺(びゃくろ)()

  大宝坊は大集経の説処なり。大集経第五初に云く「()(とき)()(そん)(ことさら)に欲色二界の中間、大宝坊中の師子座上に()って、諸の大衆に囲繞(いにょう)せられて法を説く」等文。又第一巻に云く「娑婆(しゃば)世界の大宝坊中」等云云。啓蒙(けいもう)四終、見るべし。

  問う、何ぞ大宝坊と名づくるや。

  答う、第一巻に云く「其の坊四匝(しそう)(びゃく)瑠璃樹(るりじゅ)有り」云云。即ち此の意なり。「白鷺(びゃくろ)()」とは是れ般若(はんにゃ)経の四処十六会の中の一処なり。四処とは一に(じゅ)()(せん)、二には(せっ)(たりん)、三には他化(たけ)自在(じざい)天、四には白鷺池なり。大般若経の五百九十三に云く「如是(にょぜ)我聞(がもん)、一時薄伽(ばが)(ぼん)は王舎城の竹林園の中の白鷺池の(ほとり)に住して(だい)苾芻(びつしゅ)(しゅ)千二百五十人と(とも)なりき」等云云。「薄伽梵(ばがぼん)」とは即ち仏の事なり。三字(とも)濁音(だくおん)なり。太平抄二十五。

  問う、(すで)に四処有り。何ぞ別して白鷺(びゃくろ)()()ぐるや。

  答う、是れ四処の終りなるが故なり。(いわん)(また)其の名、(みやび)(たえ)なるが故なり。(いわん)や亦般若(はんにゃ)経を或は白鷺池経とも名づくるが故なり。

一 しかのごとし

  和語記に云く「しかじかとは、これこれと云う意なり」云云。今(いわ)く「しか」は「さ」に切るなり。故に「さのごとし」と云う意か。常に「しかれば」と云い「されば」と云うと同意なり。

               
                     つづく
開目抄愚記下 目次


by johsei1129 | 2015-07-26 19:14 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)