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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 07月 23日 ( 3 )


2015年 07月 23日

総勘文抄二 The Unanimous Declaration2


 仏の心法(しんぽう)(みょう)・衆生の心法妙と()の二妙を取つて()(しん)(おさ)むるが故に心の外に法無きなり、

The wonder of the Buddha mind and the wonder of the mind of living beings—these two wonders are subsumed within the mind of the individual, and therefore we may say that outside of this mind there is no teaching.

己心と心性と心体との三は己身の本覚(ほんがく)の三身如来なり、

One’s own mind, the mind nature, and the mind entity—these three are the three bodies of the Thus Come One of original enlightenment within one’s own body.

是を経に説いて云く「(にょ)是相()応身如来、如是性報身如来、如是体(ほっ)(しん)如来」此れを三如是と云う、

This is what the Lotus Sutra means when it speaks of the three factors, “appearance” (the Thus Come One of the manifested body),“nature” (the Thus Come One of the reward body), and “entity” (the Thus Come One of the Dharma body).

此の三(にょ)()本覚(ほんがく)(にょ)(らい)は十方法界を身体と()し、十方法界を心性と為し、十方法界を相好(そうごう)と為す、

The Thus Come One of original enlightenment marked by these three factors embodies in flesh the phenomenal realm of the ten directions, has for his mind nature the phenomenal realm of the ten directions,and takes on for his appearance and auspicious features the phenomenal realm of the ten directions.

是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり、

Thus one’s own body becomes the body of the Thus Come One of original enlightenment endowed with the three bodies.

法界に周編(しゅうへん)して一仏の徳用(とくゆう)なれば一切の法は皆(これ)仏法なりと説き給いし

 It pervades and embraces the whole phenomenal world and manifests the functions of a single Buddha. Hence, as the Buddha explained in his preaching, all phenomena are manifestations of the Buddhist Law.

 

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本文】 目次 Index



by johsei1129 | 2015-07-23 22:54 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2015年 07月 23日

開目抄愚記 下三

  第二十九段 ()()出現を明かす

一 ()の上に地涌千界(せんがい)

 此の下は次に(ごん)()、亦二あり。初めに涌出(ゆじゅつ)、次に「弥勒()」の下は疑問。初めを亦二と()す。初めに総じて地涌を(たん)じ、二に「此の千世界」の下は別にして上首(じょうしゅ)を歎ずるなり。

一 ()(げん)文殊(もんじゅ)

 是れ今経の始終(しじゅう)の菩薩を()ぐるなり。

一 宝塔(ほうとう)品に来集(らいじゅう)る大菩薩

 是れ分身の仏に随って来集せる諸菩薩なり。

一 大日経等の金剛(こんごう)薩埵(さった)等の十六の大菩薩等

 「大日経等」の等の字は、金剛(こんごう)(ちょう)経を等取(とうしゅ)するなり。文意に云く、大日経の四菩薩は金剛頂経の十六の大菩薩等なりと。註には大日経の十九金剛の文を引くも、此の義(しか)らざるなり。啓蒙(けいもう)の義も亦不足なり。

一 獼猴(みこう)(むらが)中に等

 ()五二、()五上十八、甫註の十三二十四、仏蔵の第一巻。

一 山人(やまがつ)(げっ)(けい)

 山人は(あるい)(やま)(がつ)に作り、或は山賤(やまがつ)に作る。月卿は三位(さんみ)已上なり。四位已下は雲客(うんかく)なり。職原(しょくげん)抄に云く「天子を日に(たと)うる故に()(ぎょう)(げっ)(けい)と名づけ、殿(でん)上人(じょうびと)雲客(うんかく)と云うなり」(取意)。

 問う、本化・迹化、何の故に尊卑(そんぴ)有りや。

 答う、天台(てんだい)云く「法妙なるが故に人尊し」等云云。(みょう)(らく)の記の四の本四十一に云く「仏世すら(なお)(すなわ)ち人を以て法を(あらわ)す」等云云。故に知んぬ、法に勝劣(しょうれつ)ある故に人に尊卑有り。(いま)、人の尊卑を以て法の勝劣を顕すなり。

一 此の千世界等

 此の下は二に別して上首(じょうしゅ)(たん)ず。(まさ)に知るべし、上首に両重(りょうじゅう)有り。所謂(いわゆる)四大菩薩は是れ上首、六万恒沙(ごうしゃ)は是れ眷属(けんぞく)。六万恒沙(ごうしゃ)は是れ上首、無量千万億は是れ眷属なり。故に四大菩薩は上首の中の上首なり。

一 所謂(いわゆる)・上行等

 問う、当流の口伝に総体の地涌(じゆ)別体(べったい)の地涌と云う。証文は如何(いかん)

 答う、輔記(ふき)九・四に云く「上行は我を表し、無辺(むへん)(ぎょう)は常を表し、(じょう)(ぎょう)は浄を表し。安立(あんりゅう)(ぎょう)は楽を表す。有る時は一人に此の四義を具す。二死の表を出ずるを上行と名づけ、(だん)(じょう)(きわ)()ゆるを無辺行と称し、五重の()(るい)()ゆるを浄行を名づけ、道樹にして徳(まどか)なるを安立行と云う」と文。

文意は、二死の裏に没するは即ち是れ(くだ)る義なり。二死の表に()ずるは(あに)(のぼ)る義に(あら)ずや。二死の裏に没すれば、即ち是れ繋縛(けばく)不自在なり。二死の表に出ずれば、則ち解脱(げだつ)自在なり。故に上行は我を表するなり。断常を()えて(へん)(ざい)無きは即ち是れ中道常住なり。故に無辺行は常を表するなり。五重の()(るい)()ゆれば、即ち是れ清浄(しょうじょう)なり。故に(じょう)(ぎょう)は浄を表するなり。道場菩提樹下にして万億円満の故に安楽に成立す。故に安立(あんりゅう)(ぎょう)は楽を表するなり。此れは是れ別体の地涌なり。「或る時は一人に此の四義を()す」とは、即ち是れ総体の地涌なり。(まさ)に知るべし、在世は是れ別体の地涌なり、末法は是れ総体の地涌なり。故に「或る時」と云う。或る時と言うは、即ち末法を()す。是れ内鑒(ないがん)冷然(れいねん)の意なるのみ云云。(なお)人法の相伝有り云云。

 問う、又此の四菩薩は地水火風の四大という証文は如何(いかん)

 答う、台家(たいけ)の学者・尊舜の止観(しかん)見聞(けんもん)五に云く「地涌の四大士は即ち四大なり。地大は万物を育て、清水は(じん)()を洗い、火大は寒苦を防ぎ、涼風は()()の熱を(りょう)す。皆是れ本化の慈悲、本覚(ほんがく)の施す所なり」文。此の文の意、()(すべから)く是れを案ずべし。(あに)(ただ)我一人のみ能く救護(くご)を為す」に(あら)ずや。

  問う、四大菩薩を以て四大に配する(そう)は如何。

  答う、火は是れ空に(のぼ)る、故に上行は火大なり。風は(へん)(ざい)無し、故に無辺(むへん)(ぎょう)は風大なり。水は是れ清浄なり、故に(じょう)(ぎょう)は水大なり。地は是れ万物を安立(あんりゅう)す、故に安立行は地大なり。

  問う、四菩薩の行の字は如何(いかん)

  答う、御義の上巻終に云く「火は物を焼くを以て行とし、水は物を(きよ)むるを以て行とし、風は(じん)()を払うを以て行とし、大地は草木を長ずるを以て行とするなり、四菩薩の利益(りやく)是なり、四菩薩の行は不同なりと(いえど)も、(とも)に妙法蓮華経の修行なり」文。

  宗祖の十四・四十四に云く「地水火風空、(これ)則ち妙法蓮華経の五字なり、此の五字を以て人身の体を造るなり」等云云。又云く「此の良薬(ろうやく)を持たん女人等をば、此の四人の大菩薩・前後左右に(たち)そひて・此の女人たたせ給へば、此の大菩薩も立たせ給ふ。乃至此の女人・道を行く時は此の菩薩も道を行き給ふ」等云云。此等の文、()く是れを思うべし。

                つづく
開目抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-07-23 22:22 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 07月 23日

亡き母の舎利を頚に懸け大聖人の草庵に見参した富木常忍を称えた書【忘持経事】

【忘持経事】
■出筆時期:建治二年(1276)三月三十日 五十五歳御作。
■出筆場所:身延 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は富木常忍に送られたご消息文です。本書を記された一か月ほど前、富木殿の母が九十歳という長寿を全うし亡くなられる。富木常忍は葬儀を終えられると亡き母を弔うため、遺骨を頚(くび)にかけて、はるばる下州より身延の大聖人の草庵に見参した。この様子を大聖人は「舎利を頚に懸け足に任せて大道に出で、下州より甲州に至る其の中間往復千里に及ぶ<中略>然る後深洞に尋ね入りて一菴室を見る。法華読誦の音青天に響き、一乗談義の言山中に聞ゆ、案内を触れて室に入り、教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五躰を地に投げ合掌して両眼を開き尊容を拝し、歓喜身に余り心の苦み忽ち息む」と、まるで叙情詩の如く印象的に記されておられます。
尚、本抄の題号「忘持経事」は、常忍が亡き母を大聖人に弔ってもらうという大願を果たし安堵したためか、所持していた持経(法華経)を身延の草庵に忘れ、そのことを本書冒頭で大聖人が「忘れ給う所の御持経追て修行者に持たせ之を遣わす」と記さりたことな由来する。また常忍は本書を受け取ったあと、自身の目録(日常目録)に「物忘者ノ事」と題号をつけている。

■ご真筆: 中山法華経寺所蔵(重要文化財)。
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[忘持経事 本文]

忘れ給う所の御持経追て修行者に持たせ之を遣わす。
魯の哀公云く人好く忘る者有り移宅に乃ち其の妻を忘れたり云云、孔子云く又好く忘るること此れより甚しき者有り桀紂の君は乃ち其の身を忘れたり等云云、夫れ槃特尊者は名を忘る此れ閻浮第一の好く忘るる者なり。今常忍上人は持経を忘る日本第一の好く忘るるの仁か、大通結縁の輩は衣珠を忘れ三千塵劫を経て貧路に踟ちゅうし、久遠下種の人は良薬を忘れ五百塵点を送りて三途の嶮地に顛倒せり。

今真言宗・念仏宗・禅宗・律宗等の学者等は仏陀の本意を忘失し、未来無数劫を経歴して阿鼻の火坑に沈淪せん。此れより第一の好く忘るる者あり、所謂今の世の天台宗の学者等と持経者等との日蓮を誹謗し念仏者等を扶助する是れなり。親に背いて敵に付き刀を持ちて自を破る、此等は且く之を置く。

夫れ常啼菩薩は東に向つて般若を求め、善財童子は南に向いて華厳を得る。雪山の小児は半偈に身を投げ、楽法梵志は一偈に皮を剥ぐ、此等は皆上聖大人なり其の迹を検すれば地住に居し、其の本を尋ぬれば等妙なるのみ・身は八熱に入つて火坑三昧を得・心は八寒に入つて清凉三昧を証し、身心共に苦無し。譬えば矢を放つて虚空を射、石を握つて水に投ずるが如し。

今常忍貴辺は末代の愚者にして見思未断の凡夫なり、身は俗に非ず道に非ず禿居士、心は善に非ず悪に非ず羝羊のみ、然りと雖も一人の悲母堂に有り、朝に出で主君に詣で夕に入て私宅に返り、営む所は悲母の為め、存する所は孝心のみ。而るに去月下旬の比・生死の理を示さんが為に、黄泉の道に趣く此に貴辺と歎いて言く、齢既に九旬に及び、子を留めて親の去ること次第たりと雖も倩事の心を案ずるに去つて後来る可からず何れの月日をか期せん。

二母国に無し、今より後誰をか拝す可き、離別忍び難きの間、舎利を頚に懸け足に任せて大道に出で、下州より甲州に至る其の中間往復千里に及ぶ。国国皆飢饉し山野に盗賊充満し宿宿粮米乏少なり、我身羸弱・所従亡きが若く牛馬合期せず峨峨たる大山重重として漫漫たる大河多多なり、高山に登れば頭を天に打ち幽谷に下れば足雲を踏む、鳥に非れば渡り難く鹿に非れば越え難し、眼眩き足冷ゆ、羅什三蔵の葱嶺・役の優婆塞の大峰も只今なりと云云。

然る後深洞に尋ね入りて一菴室を見る、法華読誦の音青天に響き、一乗談義の言山中に聞ゆ、案内を触れて室に入り、教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五躰を地に投げ合掌して両眼を開き尊容を拝し、歓喜身に余り心の苦み忽ち息む。

我が頭は父母の頭・我が足は父母の足・我が十指は父母の十指・我が口は父母の口なり。譬えば種子と菓子と身と影との如し。教主釈尊の成道は浄飯・摩耶の得道、吉占師子・青提女・目連尊者は同時の成仏なり。是の如く観ずる時・無始の業障忽ちに消え、心性の妙蓮忽ちに開き給うか、然して後に随分仏事を為し事、故無く還り給う云云、恐恐謹言。

富木入道殿

by johsei1129 | 2015-07-23 20:20 | 富木常忍・尼御前 | Trackback | Comments(0)