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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 07月 18日 ( 6 )


2015年 07月 18日

観心本尊抄文段 上一五

   

  第一段 一念三千の出処を明かす

一 摩訶止(まかし)(かん)第五等

当抄入文、大に三段と()す。

第一に一念三千の出処(しゅっしょ)を示す。第二に「問うて曰く、出処」の下は(まさ)しく観心本尊を明かす。第三に「一念三千を識らざる者には」の下は総結。

第一に一念三千の出処を示す文を、(わか)ちて二と為す。初めに正しく示し、次に「問うて曰く百界」の下は、一念三千は情・非情(ひじょう)(わた)るを明かす。

初めの正しく示すに(また)三と為す。初めに止観第五正観章の文を出し、次に「問うて云く玄義」の下は玄文並びに止観の(さき)の四に一念三千を明かさざるを示し、三に「夫れ智者」の下は結歎(けったん)。初めの止観の第五正観章の文を出すに、先ず開結(かいけつ)()し、後に異本を示す。

一 世間と(にょ)()と一なり開合の異なり

此の文は先ず開釈(かいしゃく)結成(けつじょう)の二文を会するなり。文の意は止観(しかん)第五に一念三千を明かす文に(また)二筋あり。(いわ)く、初め開釈の中の意は百界は(のう)()、世間は(しょ)()、世間は能具、如是は所具なり。故に百界・三百世間・三千如是と成るなり。

次に結成(けつじょう)の中の意は百界は能具、如是は所具、如是は能具、世間は所具なり。故に百界・千如・三千世間と成るなり。(しか)るに開釈の中に如是に約して法数を成ずる時も、(ただ)是れ三千なり。結成の中に世間に約して法数を成ずる時も、唯是れ三千なり。故に「世間と如是と一なり」と云うなり。(ただ)し開釈の中には世間を合して三百と()し、如是を開して三千と為す。若し結成の中には如是を合して千如と為し、世間を開して三千と為す。(ただ)此れ開合の異のみにして三千は別ならず。故に「開合の異なり」と云うなり。

問う、大師は一念三千を明かすこと、(まさ)しく今経の十如の文に()る。故に(まさ)に如是に約して数量を結すべし。何ぞ結成の中に至って世間に約してこれを結するや。

答う、迹門には(いま)だ国土世間を明かさず。故に一念三千その義を(つく)すに(あら)ざるなり。正しく本門に至って十界久遠の上に国土世間(すで)(あらわ)る。故に大師は迹門を以て(おもて)()、本門を以て裹と為して一念三千其の義を尽すなり。故に開釈(かいしゃく)の中には迹門の文に()って数量を(じょう)じ、結成(けつじょう)の中には本門の意に依って法数を成ずるなり。

問う、止追加の義に云く「開釈・結成(とも)に十如に約す。而して結成の中に十如を世間と名づくることは、(もと)三世間(おのおの)十如を具す。故に其の本に従って世間と名づくるなり。是れ(すなわ)ち一念三千は正しく法華の十如に依る。何ぞ余文に()って数量を成ぜんや」と云云。此の如何(いかん)

答えて云く、十章抄に云く「止観に十章あり。(さき)の六重は(みょう)()、迹門の意、第七の正観は本門の意なり。一念三千の出処は(りゃっ)(かい)(さん)の十如実相なれども義分は本門に限る」(取意)等云云。

四吾釈迦仏供養抄()に云く「一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり」等云云。

(にち)(おん)(いか)んぞ此の文を引いて和会(わえ)せざるや。

問う、妙境要義に云く「開釈は法華に()る、故に十如に約す。結成は涅槃(ねはん)大論に依る、故に世間に約す」等云云。此の義如何。

答う、此の義は大旨(たいし)を失するなり。

問う、朝抄の一義に云く「正釈(しょうしゃく)は迹門の意。結成は本門の(ずい)(えん)()(えん)の義なり」と云云。

今謂く、本迹は然るべし。随縁事円は今に()っては便ならざるか。

問う、(にち)()の抄に云く「十如は開なり、三世間は合なり。又合すれば十如、開すれば三世間なり。又十如を離れて三世間無く、三世間を離れて十如(これ)無し。故に一と云うなり」と云云。

問う、日忠の抄に云く「玄文は(にょ)に約して法数を成じ、止観(しかん)は界に約して三千を成ず。然れども()れは(ただ)同意なり。開する時は三千種の世間なり、合する時は一箇の(にょ)()に収まるなり」と云云。

(いわ)く、日我の抄・日忠の抄、(おのおの)分明(ふんみょう)ならざるか。其の(ほか)之を略す云云。


                  つづく

上巻 目次



by johsei1129 | 2015-07-18 22:28 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 07月 18日

久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なりと説いた【船守弥三郎許御書】

【船守弥三郎許御書】
■出筆時期:弘長元年(1279)六月二十七日 四十歳御作。
■出筆場所:伊豆・伊東 伊東八郎左衛門尉の屋敷にて。
■出筆の経緯:本書は弘長元年五月十二日伊豆流罪の時、移送されてきた船から出て苦しんでいた大聖人を見つけ救済した伊豆・伊東川奈の漁師「船守弥三郎夫妻」に送られたご消息文です。船守弥三郎夫妻は、伊東・地頭の伊東八郎左衛門尉の屋敷に移られるまで、30日以上に渡って夫妻で庇護されております。さらに本書冒頭に「ちまき・さけ・ほしひ・さんせう・かみ(紙)しなじな給候い畢んぬ」とあるように、移居されたあとも大聖人を非難する地元の目を盗んで、人づてに数々のご供養を続けられておられました。大聖人はこの夫妻の真心の志に対して、法華経寿量品を引いて「過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり<中略>しからば夫婦二人は教主大覚世尊の生れかわり給いて日蓮をたすけ給うか」と称えられております。
■ご真筆:現存していおりません。
[船守弥三郎許御書本文]

わざと使を以てちまき・さけ・ほしひ・さんせう・かみ・しなじな給候い畢んぬ、又つかひ申され候は御かくさせ給へと申し上げ候へと、日蓮心得申べく候。

 日蓮去る五月十二日流罪の時その津につきて候しに、いまだ名をもききをよびまいらせず候ところに、船よりあがりくるしみ候いきところに、ねんごろにあたらせ給い候し事は、いかなる宿習なるらん。

 過去に法華経の行者にて、わたらせ給へるが、今末法にふなもりの弥三郎と生れかわりて日蓮をあわれみ給うか。

 たとひ男は・さもあるべきに、女房の身として食をあたへ、洗足てうづ(手水)、其の外(ほか)さも事ねんごろなる事、日蓮はしらず不思議とも申すばかりなし。

ことに三十日あまりありて内心に法華経を信じ、日蓮を供養し給う事、いかなる事のよしなるや。

 かかる地頭・万民・日蓮をにくみねだむ事、鎌倉よりもすぎたり。みるものは目をひき・きく人はあだむ。ことに五月のころなれば、米もとぼしかるらんに日蓮を内内にて、はぐくみ給いしことは、日蓮が父母の伊豆の伊東かわなと云うところに生れかわり給うか。

 法華経第四に云く「及清信士女供養於法師」と云云。
法華経を行ぜん者をば諸天善神等、或はをとことなり、或は女となり形をかへさまざまに供養してたすくべしと云う経文なり。

弥三郎殿夫婦の士女と生れて日蓮法師を供養する事疑なし。さきにまいらせし文につぶさにかきて候し間、今はくはしからず。

 ことに当地頭の病悩について祈せい申すべきよし仰せ候し間、案にあつかひて候、然れども一分信仰の心を日蓮に出し給へば、法華経へそせう(訴訟)とこそをもひ候へ。此の時は十羅刹女もいかでか力をあわせ給はざるべきと思い候いて、法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏並に天照・八幡・大小の神祇等に申して候。定めて評議ありてぞ、しるしをばあらはし給はん。よも日蓮をば捨てさせ給はじ。いたきとかゆきとの如くあてがわせ給はんと・をもひ候いしに、ついに病悩なをり・海中いろくづの中より出現の仏体を日蓮にたまわる事、此れ病悩のゆへなり。さだめて十羅刹女のせめなり、此の功徳も夫婦二人の功徳となるべし。

 我等衆生無始よりこのかた生死海の中にありしが、法華経の行者となりて無始色心・本是理性・妙境妙智・金剛不滅の仏身とならん事あにかの仏にかわるべきや。
 
 過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり。
法華経の一念三千の法門・常住此説法のふるまいなり、かかるたうとき法華経と釈尊にてをはせども凡夫はしる事なし。

 寿量品に云く「顛倒(てんどう)の衆生をして近しと雖も而も見えざらしむ」とはこれなり。迷悟の不同は沙羅(しゃら)の四見の如し、一念三千の仏と申すは法界の成仏と云う事にて候ぞ。
 雪山童子(せっせんどうじ)のまへにきたりし鬼神は帝釈の変作なり、尸毘王(しびおう)の所へにげ入りし鳩は昆首羯摩天(びしゅかつまてん)ぞかし、班足王の城へ入りし普明王は教主釈尊にてまします、肉眼はしらず仏眼は此れをみる、虚空と大海とには魚鳥の飛行するあとあり此等は経文にみえたり。木像即金色なり金色即木像なり、あぬるだが金(こがね)はうさぎとなり死人となる、釈摩男がたなごころにはいさごも金となる、此等は思議すべからず、凡夫即仏なり・仏即凡夫なり・一念三千我実成仏これなり。

 しからば夫婦二人は教主大覚世尊の生れかわり給いて日蓮をたすけ給うか、伊東とかわなのみちのほどはちかく候へども心はとをし、後のためにふみをまいらせ候ぞ、人にかたらずして心得させ給へ・すこしも人しるならば御ためあしかりぬべし。
むねのうちにをきてかたり給う事なかれ・あなかしこ・あなかしこ、南無妙法蓮華経。

弘長元年六月二十七日 日蓮花押 船守弥三郎殿許へ之を遣わす 

【妙法蓮華経 如来寿量品 第十六】 
為度衆生故 方便現涅槃 
而実不滅度 常住此説法 
我常住於此 以諸神通力 
令顛倒衆生 雖近而不見 
衆見我滅度 広供養舎利 
咸皆懐恋慕 而生渇仰心 

 [和訳] 
(仏)衆生を救わんがための故に、方便として涅槃を現ずるも、
而して実には滅度せず、常に此処(娑婆世界)にあって法を説くなり。 
我は諸々の神通力を以て、常に此処に住する、 
顛倒(意識が転倒し愚かな)衆生は、(我)近くにいるも、しかも見ざらん。 
衆は我滅度を見て、広く舎利を供養し 
皆、咸(悉く)恋慕を懐いて、而して(仏)を渇仰する心を生ぜん。

   


by johsei1129 | 2015-07-18 21:45 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2015年 07月 18日

開目抄愚記 上四二

一 具とは十界()()

  此の下は二に、妙は是れ十界互具の義なるを顕す、亦二あり。初めに所詮(しょせん)の法体に約し、次に「此の経一部」の下は(のう)(せん)の文字に約するなり。

一 (みな)妙の一字を備えて等

  意に云く、今経の一部始終(しじゅう)は皆是れ十界()()()(あらわ)す。故に一々(いちいち)文字は皆是れ十界互具なり。一々の文字、(すで)に妙の一字を備えたるは皆(しょ)()の仏界を顕すなり。故に結して「十界に皆己界(こかい)の仏界を顕す」というなり。(なお)仏界を具す、(いわん)や余界をや。故に(みょう)(らく)を引いて「尚仏()を具す、余界も亦(しか)り」等と云うなり。故に知んぬ、(のう)(せん)の文字は十界互具分明(ふんみょう)なり。此の能詮の一々の文字は所詮の法体の十界互具を説き顕す。所詮の法体の十界互具は能詮の文字に()って顕る。()くの如き十界互具の妙法は四味(しみ)三教、四十(しじゅう)()(ねん)の間、(いま)だ聞かざる法門なり。此の法門を(うけたまわ)らんと請ずるなり。故に「具足の道を聞かんと(ほっ)す」等というなり。

  問う、(みな)妙の一字を備うる相貎(そうみょう)如何(いかん)

  答う、(およ)そ妙法と題するは、即ち是れ所詮の法体(ほったい)の十界互具を妙法と名づくるなり。既に「別とは総に(おい)て別」なるが故に、入文の一々の文字、妙の一字を備えざること()し。故に妙楽の「句句の下に通じて妙名を結す」と云うは即ちこの意なり。

一 三十二相・八十(しゅ)(ごう)仏陀(ぶつだなり

  (しばら)く世情に准ずるが故に「三十二相」等と云うなり。実には是れ自受用身なり。何ぞ色相(しきそう)荘厳の仏陀ならん云云。

  問う、一義に云く、(すで)に「二十八品」と云う、故に至極(しごく)本迹(ほんじゃく)相対して本迹一致なり。故に一々(いちいち)皆仏陀というなり云云。此の義如何(いかん)

  答う、今、四十余年の四味三教に望み、通じて二十八品を以て一々皆仏体と云うなり。故に(ごん)(じつ)相対、文に()ること分明(ふんみょう)なり。今「二十八品」とは通じて是れ能対の法華なり。二十八品の中に於て(いま)だ本迹を()かたず。何ぞ本迹相対と云わんや。

一 妙楽云く

  ()五上・七十三の文なり。

一 仏此れを答えて云く

  此の下は次に広開なり。「欲令(よくりょう)衆生(しゅじょう)」は九界なり。「開仏(かいぶつ)知見(ちけん)」は仏界なり。今、分明(ふんみょう)に十界互具を説き(あらわ)すなり。

一 衆生と申すは舎利弗等

  ()ず別して二乗(にじょう)闡提(せんだい)を挙げ、次に通じて九界を()ぐるなり。

一 諸大菩薩等

 此の下は領解(りょうげ)の段なり。「(じん)(みょう)の上法」とは十界互具の妙法なり。

一 伝教(でんぎょう)大師云く

  守護章下の中三十八の文なり。

一 一代の肝心(かんじん)たる一念三千の大綱・骨髄たる二乗作仏(さぶつ)・久遠実成

  点ずるが如し。一念三千は(しょ)(せん)に約し、()(しょう)()(じょう)(のう)(せん)に約するなり。即ち是れ文意の綱骨、教法の心髄(しんずい)なり。故に「大綱・骨髄」と云うなり。(せん)十・十二。

  問う、本門は(いま)だ聞かず、何ぞ迹門に於て之を領解せんや。

  答う、今は通じて法華一部を以て()(ぜん)に望む、故に下の意を探取(たんしゅ)して「久遠(くおん)(じつ)(じょう)」等と云うなり。文句(もんぐ)第一の「四節三益(さんやく)」の下、玄第三の「二(たい)(きょう)開麁(かいそ)」の下、及び、第六の「眷属(けんぞく)(みょう)」の下等、この例(はなは)だ多し。天台云く「(いま)だ是れ本門ならずと(いえど)も、意を取って説くのみ」と云云。


   上巻(おわ)んぬ。

                           下巻につづく

                            
開目抄愚記 上 目次


by johsei1129 | 2015-07-18 13:20 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 07月 18日

開目抄愚記 上四一 広開の中に至って一念三千方(まさ)に是れ分明なり。故に当流に於ては別して広開の長行を読む。


第二十七段 法華の深恩を明かす

一 仏・御年・七十二の年等

 此の下は法華の深恩を明かす、亦二あり。初めに迹門、次に「而れども霊山()」の下は本門。初めの迹門に(また)三あり。初めに序分、次に正宗、三に流通(るつう)

一 無量義経にて等

 一より多を出だすと説くと雖も、(いま)だ多より一に()するを明かさざる故なり。

一 法華経・方便品等

 此の下は次に正宗、(また)二あり。初めに正説、次には領解(りょうげ)。初めの正説に亦二あり。初めには略開(りゃっかい)致請(ちしょう)、次に「仏此れを答えて云く」の下は(こう)(かい)。初文に亦二あり。初めに(りゃっ)(かい)、次に「舎利弗()」の下は致請。

一 一念三千等

 是れ十如実相の文を指すなり。(すで)に是れ略開なり。故に一念三千(なお)(いま)だ分明ならず。故に「ほととぎす(時鳥)初音(はつね)」等と云うなり。広開の中に至って一念三千(まさ)に是れ分明なり。故に当流に於ては別して広開の長行を読む。之を思い合すべし云云。(ごん)抄の本迹の沙汰は手を()って笑うべし。

一 舎利弗等

 此の下は次に致請、亦二あり。初めに文を引き、次に(しゃく)、亦二あり、初めに通じて文意を示し、次には別して一句を釈するに亦二あり。初めに諸文を引き、次に「妙とは具足()」の下は釈なり云云。

一 具足の道を開かんと欲す

 一言(いちごん)を以て之を示さば「具足」は即ち妙の義なり。弘の一中・四に云く「法華より前は(いま)(かつ)て権を開せざれば、具足と名づけず」と云云。(せん)一に云く「()し権を開せずんば、妙の名立たず」と文。

一 大経に云く等

 会疏(えしょ)八・五十四に云く「()とは具足の義に名づく」と文。

一 ()とは訳して六と云う等

 大経・大論の文に()るに、(まさ)に「沙とは訳して六と云う」に作るべし。沙は(また)砂に同じ。砂の字は妙の字に似たり、故に伝写の(あやま)れるか。吉蔵の(しょ)も亦(しか)なり。本尊抄も之に准じて知るべし。

一 玄義の八等

 第八巻初めに云く「(つぶさ)()音を存す」等云云。是れ(がっ)()を胡と云うなり。次上の「胡法に六を以て」の胡も、亦月氏を指すべきなり。

一 大智度論(だいちどろん)

 大論四十八二・十五に云く「沙、(しん)には六と言う」と文。

一 善無畏(ぜんむい)三蔵等

 小野の仁海僧正の真言集に()でたり云云。

 問う、無畏(むい)は是れ所破なり。何ぞ之を引用するや。

  答う、是れ他師なりと(いえど)も、引いて之を助釈するに何の(さまた)げ有らんや。是れ(すなわ)ち大師の先蹤(せんしょう)、諸家の通法なり。(いわ)く、其の不可なるを破して其の可なるを用う。諸処に散在せり。何ぞ之を(あや)しむべけんや。(いわん)(また)今の意は、(なお)無畏の(しょ)(りゅう)不成(ふじょう)(あらわ)せるをや。謂く、(すで)に法華に真言あり。何ぞ密教()(しょう)と云わんや。況や(また)此の文に無畏の改悔(かいげ)を顕し、既に妙法の五字の上に南無の両字を置く。邪を捨て正に帰すること亦是れ分明(ふんみょう)なり。(かん)(めい)論の意は之に(こと)なるなり云云。

一 浮陀哩迦(ふんだりきや)白蓮華 

  妙法蓮華の蓮華は即ちこれ白蓮華なり。

一 南天竺(てんじく)の鉄塔の中等

 中正論十五・十三已下にこの義を評す。()いて見よ。

一 ()と申すは(しょう)なり

 今、彼の「正」を引いて此の「妙」に同ずるなり。余は皆同文(どうぶん)故来(こらい)(同文の故に来る)なり。

一 妙とは具足(ぐそく)

  此の下は次に(しゃく)、亦二あり。初めに妙は是れ六度具足の義なるを明かし、次に「()とは」の下は、妙は是れ十界具足の義なるを(あらわ)す。二義異なりと(いえど)も、具足は是れ妙の義なり。

一 六度万行を具足

  無量義経に云く「(いま)だ六波羅蜜(はらみつ)を修行することを得ずと雖も、六波羅蜜自然(じねん)在前(ざいぜん)す」等云云。本尊抄に云云。十九巻日妙抄に云云。

                 つづく
開目抄愚記 上 目次



by johsei1129 | 2015-07-18 13:19 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 07月 18日

開目抄愚記 上四十

第二十六段 菩薩等について()(ぜん)無恩を明かす

一 (また)諸大菩薩等

 此の下は第二に菩薩等の守護なき(うたがい)を立つ、亦二と()す。初めに今昔(こんじゃく)の仏恩の(せん)(じん)を明かし、次に下巻十四の「されば諸経の諸仏」の下は意を結するなり。初文にまた二あり。初めに()(ぜん)の無恩を明かし、次に「仏・御年」の下は(まさ)しく法華の深恩を明かすなり。

一 ()(ぜん)(きょう)(ぎょう)にして等

 是れ爾前の記別は有名(うみょう)無実(むじつ)なることを明かすなり。(しばら)く三意有り。(いわ)く、爾前の記別は一には一往二乗に対する為に記別を授く、故に成仏の名は有りと(いえど)も、実義は無きなり。(なお)()が子を責めんと欲して、(しばら)隣家(りんか)の子を(たん)るが如し。隣家の子も(また)実には善人に(あら)ざるなり。二には一人出過の成仏にして十界(かい)(じょう)の成仏に非ず、故に成仏の名は有りと雖も、(しか)も実義は無きなり。三には過去の下種を明かさず、故に成仏と云うと雖も有名(うみょう)無実(むじつ)なり。

一 世尊(しょ)成道(じょうどう)

 初めに華厳(けごん)、次に三味は正釈(しょうしゃく)の結文云云。之を略す。

一 六十余の大菩薩

 十恵、十林、十(どう)、三十六蔵の菩薩、故に「六十余」というなり。若し新訳に准ずれば六十八の菩薩之有り。(せん)十・三、啓蒙(けいもう)六・四十九。

一 此等の大菩薩の所説の法門等

 問う、今経に(すで)に「即遣(そくけん)傍人(ぼうにん)」と云い、華厳の処処に皆「仏力(ぶつりき)故説(こせつ)」と云う。師弟の義に於ては何の(うたがい)か有らんや。

 答う、(いま)()()を論じて内証を論ぜず。既に此等の菩薩は(いま)開権(かいごん)開迹(かいしゃく)の法門を聞かず。故に実の()弟子(でし)に非ず。故に今化儀に寄せて以て此の義を(あらわ)すなり。

一 不思議解脱(げだつ)に住せる

 三徳秘蔵の妙理を(さと)るが故に「不思議解脱に住す」というなり。又(げん)六・五十九、啓蒙(けいもう)二十・二十、()いて見よ。

一 ()弟子(でし)は出()して候

 (しか)りと(いえど)も、真実の御弟子に(あら)ず。是れ(すなわ)権法(ごんぽう)のみを(ゆる)して、実法を(さず)けざる故なり。

一、蔵・通・二教は()・別・円の枝流(しりゅう)文。

 若し根源を知らば(あに)枝流に迷わんや。(いわん)や勝は劣を()ぬるをや。(あに)蔵・通を知らざるべけんや。

一 ()()不説(一字)

 一義に云く、先仏所説の(ほか)(われ)一字をも説かず。今引用の意は、四菩薩所説の外に我一字をも説かずとなりと。

一義に云く、止観(しかん)第五・七十二に楞伽(りょうが)第三を引いて自証(じしょう)法、本住(ほんじゅう)法の義に約して之を(しゃく)す。自証法とは、能証(のうしょう)の智修得なり。本住法とは、所証(しょしょう)の理(しょう)(とく)なり。並びに是れ()くべからざるなり。(われ)()(ぜん)に於て()くの如く如来自証の本法をば一字をも之を説かず、即ち法華の中に至って始めて之を説くなりと云云。

 今(いわ)く、初めの義、(もん)に応ずるなり。

                 つづく
開目抄愚記 上 目次



by johsei1129 | 2015-07-18 13:14 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 07月 18日

開目抄愚記 上三九

一 阿闍(あじゃ)()王の(すい)(ぞう)を放ちし

  註に増一の四十七を引く。是れ()(おう)の難の中には(あら)ず。(しか)るに今之を()げたまう所以(ゆえん)は、(だっ)()が大石を(なげう)つと(いえど)も、如来を害すること(あた)わず、所以(ゆえ)に更に方便を(もう)け、(じゃ)(おう)(すす)めて酔象を放たしむ。この便を以ての故に、続いて之を引くなり。

  問う、(いか)んぞ九横の中に立てざるや。答う。

  問う、阿含(あごん)の意は、仏、象の来たるを見て、()を説いてこれを(くだ)す。涅槃(ねはん)経の意は、仏、()善根(ぜんこん)の力を以て手の五指より五師子を出して之を伏す云云。(あに)相違に非ずや。

  答う、(おのおの)一辺を挙ぐるなり。

一 阿耆(あぎ)()王の()(みゃく)文。

  問う、大論には阿耆(あぎ)(だっ)()()羅門(らもん)毘奈耶(びなや)には火授(かじゅ)(おう)胎教(たいきょう)には尸利崛(しりくつ)長者(ちょうじゃ)(きょう)(りつ)異相(いそう)には阿耆達多婆羅門王と云云。(あに)相違に(あら)ずや。

  答う、(あるい)は是れ梵音の賖促(しゃそく)ならんか。

一 無量の釈子(しゃくし)文。

  九千九百九十万人の釈子なり。

一 千万の眷属(けんぞく)

  註には増一の二十六、瑠璃(るり)殺釈(せっしゃく)の中を指す。最も便(びん)有るなり。啓蒙(けいもう)に云く「或は(じゃ)(おう)の酔象を主伴に配せんが(ため)に重ねて之を()ぐるか」と云云。

一 迦留陀(かるだ)()乃至目連(もくれん)

  問う、二聖はこれ法華受記の人なり、如何(いかん)

  答う、増一阿含の十八・十四に云く「(ただ)総報の悪を断じて別報(べっぽう)(とど)めざる故に(ごう)(つぐな)うなり」と文。

一 六師同心して等

  (じゃ)(おう)讒訴(ざんそ)は前に涅槃(ねはん)経を引く、(のく)(おう)に讒訴は北本涅槃経三十の五紙に出でたり。

一 (また)うちそうわざわいと

上は打ち()うの義なり。下は打ち()うの意なり。

一 ()の上大難等

 此の下は五に供養を制止することを明かす。前文十五已下。

一 (たす)けさせ給いしか

 「か」の字の清音は(かな)の義なり。清音に三義あり。一には哉の義、二には(うたがい)()、三には「ありたしか」なり。濁音に二義あり。前後移転の「が」句読連属の「が」なり。(つぶさ)語式の如し。

一 (しか)るに四十余年

 此の下は第二に今の授記(じゅき)を明かすなり。

一 一言一時に等文。

 「一言」は諸経に対し「一時」は四十余年(しじゅうよねん)に対するなり。

一 水すまば月・影等

 此の下は二乗の守護なき(うたがい)を立つる中の第二に意を結するなり。是れ(また)二と()す。初めには順結、次に「後五百歳」の下は反結なり。

一 (ごの)五百歳等

此の下は五義を()げて反結するなり。「後五百歳」は時に約し「広宣流布」は法に約す。故に一連の文なりと(いえど)も、分ちて二意と()すなり。禅宗・浄土は(ただ)れ謗者の一意なり。「仏前」の下は(また)諸天に約す。其の義は前の如し。

一 法華経を教内と(くだ)して等

  異本に「教外(きょうげ)と下して」等云云。


                          つづく
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by johsei1129 | 2015-07-18 03:31 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)