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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 07月 12日 ( 2 )


2015年 07月 12日

観心本尊抄文段 上十一 我等但(ただ)此の本尊を信受し余事を雑(まじ)えず南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が色心の全体、事の一念三千の本尊なりと知るに当れり。


四に「本尊」の二字を釈す。亦二段と為す。初めに本尊の体徳を示し、次に本尊の名義(みょうぎ)(しゃく)す。

(およ)そ本尊とは我等衆生の受持の法体(ほったい)、所信所唱の曼荼羅(まんだら)是れなり。(しか)るに諸門徒、一致・勝劣(しょうれつ)(しょ)(りゅう)(こと)なりと(いえど)も、並びに在世の本門八品の儀式を以て本尊と為す等云云。然るに当抄の大意は則ち(しか)らず。

(いわ)く、在世の本門八品の儀式は(ただ)是れ在世脱益の本尊にして、末法下種の本尊に(あら)ず。故に当抄の中に(つぶさ)にこれを簡別(かんべつ)して(ただ)文底深秘の大法本地(ほんち)難思(なんし)の境智冥合・本有(ほんぬ)無作(むさ)の事の一念三千の妙法五字を取り、以て末法幼稚(ようち)の本尊と()す。これ(すなわ)ち当抄所詮(しょせん)元意(がんい)なり。

亦此の事の一念三千を論ずるに()いて、諸門流の義、異論(らん)(ぎく)たり。若し当流の意は、迹門は諸法実相に約して一念三千を明かす。故に理の一念三千と名づく。本門は因果(いんが)(こく)に約して一念三千を明かす。故に事の一念三千と名づく。

又此の本門事の一念三千を以て(なお)脱益(だっちゃく)迹門に属して理の一念三千と名づく。(ただ)文底深秘の久遠元初の自受用身即一念三千を以て、事の一念三千の本尊と名づくるなり。

問う、久遠元初の自受用の身相如何(いかん)

答う、日本国中の諸門流の(やから)但劣応(ただれっとう)勝応(しょうおう)(ほう)(しん)(ほっ)(しん)応仏(おうぶつ)昇進(しょうしん)の自受用身を知って、(いま)だ久遠元初の自受用身を知らず。故に流々(こと)なりと雖も、同じく本尊に迷うなり。()れ久遠元初の自受用身とは本地難思の境智冥合・本有無作の真仏・名字(みょうじ)凡夫の当体・本因(ほんにん)(みょう)の教主なり。

宗祖云く「釈迦如来・五百塵点劫の当初(そのかみ)、凡夫にて御坐(おわ)せし時、我が身は地水火風空なりと(しろ)しめして即座に悟りを開き給いき」云云。久遠の故に「五百塵点」と云い、元初(がんじょ)の故に「当初」と云うなり。「知」の一字は本地(ほんち)難思(なんし)の智妙なり。「我が身」等は本地難思の境妙なり。此の境智冥合して南無妙法蓮華経と唱えたもうが故に「即座に悟りを開き」、久遠元初の自受(じじゅ)(ゆう)(しん)と顕われたもうなり。大師の所謂(いわゆる)無始(むし)(しき)(しん)妙境(みょうきょう)(みょう)()」は是れなり。

(まさ)に知るべし、此の自受用身の色法の境妙も一念三千の南無妙法蓮華経なり。(いわ)く、釈尊の五大即ち是れ十法界の五大なり。十法界の五大即ち是れ釈尊の五大なり。十法界(こと)なりと(いえど)も五大種は是れ一なり。(あに)十界()()百界(ひゃっかい)千如(せんにょ)・一念三千の南無妙法蓮華経に(あら)ずや。

宗祖云く「五()は地水火風空なり乃至是則ち妙法蓮華経の五字なり、此の五字を以て人身の体を造るなり本有(ほんぬ)常住(じょうじゅう)なり」等云云。

又此の自受用身の心法の智妙も一念三千の南無妙法蓮華経なり。

故に宗祖云く()()は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果(いんが)()()・不思議の一法(これ)有り、之を名けて妙法蓮華と()、此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足(ぐそく)して(けつ)(げん)無し」等云云。「因果()()・不思議の一法」とは、即ちこれ自受用身の一念の心法なり。故に「一法」という。因果()()の故に「蓮華」と名づく。不思議の一法の故に「妙法」と名づくるなり。この妙法蓮華の一念の心法に「十界三千の諸法」を具足す。(あに)自受用の妙心妙智は、一念三千の南無妙法蓮華経に(あら)ずや。

又此の無始(むし)(しき)(しん)妙境(みょうきょう)(みょう)()、境智冥合すれば則ち因果の二義有り。故に大師云く「境智冥合すれば則ち因果あり。照境未だ(きわま)らざるを因と名づけ(みなもと)を尽すを果と名づく」等云云。(まさ)に知るべし「照境(しょうきょう)未窮(みぐ)」は種家の本因(ほんにん)(みょう)なり。「尽源(じんげん)為果(いか)」は即ち是れ種家の本果妙なり。此の本因本果は刹那(せつな)始終(しじゅう)、一念の因果にして真の十界()()百界(ひゃっかい)千如(せんにょ)・事の一念三千の南無妙法蓮華経なり。()くの如く本地(ほんち)難思(なんし)の境智冥合・本有(ほんぬ)無作(むさ)の事の一念三千の南無妙法蓮華経を証得(しょうとく)するを久遠(くおん)元初(がんじょ)の自受用身と名づくるなり。此の時、法を尋ぬれば人の(ほか)に別の法なし。人の全体即ち法なり。此の時、人を尋ぬれば法の(ほか)に別の人なし。法の全体即ち人なり。(すで)に境智冥合し人法体一なり。故に事の一念三千と名づくるなり。

故に宗祖云く「自受用身即一念三千。伝教云く一念三千即自受用身」等云々。此れ(すなわ)ち今の御本尊なり。故に事の一念三千の本尊と名づくるなり。

(まさ)に知るべし。此の久遠元初の自受用身乃至末法に出現し、下種本尊と(あら)れたもうと雖も、雖近(すいごん)()()(けん)にして、自受用身即一念三千を()らず。故に本尊に迷うなり。本尊に迷う故に(また)我が色心に迷うなり。我が色心に迷う故に生死(しょうじ)を離れず。故に仏、大慈悲を()こし、我が証得する所の全体を一幅(いっぷく)図顕(ずけん)て末代幼稚(ようち)に授け給へり。故に我(ただ)此の本尊を信受し余事を(まじ)えず南無妙法蓮華経と唱え奉れば、其の義を()らずと云うと雖も自然(じねん)に自受用身即一念三千の本尊を知るに当る。既に本尊を知るに当る故に、亦我が色心の全体、事の一念三千の本尊なりと知るに当れり。(たと)えば小児(しょうに)の乳を含むに、其の味を知らずとも自然に其の身を養うが如し。耆婆(ぎば)が妙薬、その方を知らざれども服するに随って病を治するが如し。是れ(すなわ)ち本尊の仏力・法力の(あら)わす所の()(のう)なり。之を疑うべからず。

             つづく

上巻 目次



by johsei1129 | 2015-07-12 20:24 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 07月 12日

開目抄愚記 上三五  外に大難を忍ぶは、内に慈悲の勝れたる故なり

第二十二段 経文に符号するを明かす。

一 されば日蓮が等

 この下は三に功を(あらわ)して(うたがい)を立て、広釈(こうしゃく)の本と()すなり。「千万()一分(いちぶん)」等とは、一には卑下(ひげ)の意、二には慈悲に対するが為なり。

一 難を(しの)び慈悲のすぐ()れ等

  外に大難を忍ぶは、内に慈悲の勝れたる故なり。顕戒論に云く「(おのれ)を忘れて他を利するは慈悲の(きわ)みなり」と云云。また云云、愚案三八、御書二十三・三十五。

一 ()それをも・いだ()きぬべし等  

啓蒙(けいもう)に云く「天台・伝教も()が祖に対しては恐れをも懐きぬ可きなり」と云云。今謂く、吾が祖、天台(てんだい)伝教(でんぎょう)に大して恐れを懐くの義なり。これ(すなわ)ち天台・伝教に勝れたりという故なり。

一 (しか)るに法華経の第五の巻等

 此の下は第四に身に当てて釈成(しゃくじょう)するに、亦三あり。初めに経を引いて身に()て、次に「例せば世尊」の下は仏説の(たが)わざるを明かし、三に「経文に我が身」の下は前を結して素懐(そかい)を述ぶ。初めの経を引いて身に当つるに、また二あり。初めに総、次に「経に云く、諸の」の下は別なり。

一 勧持(かんじ)品の二十行の偈等

 問う、勧持品の三類、像法迹化(しゃっけ)に通ずと()んや、末法の本化(ほんげ)に限ると()んや。()し限るといわば、(すで)に是れ迹化の(ほっ)(せい)なり。何ぞ本化に(かぎ)らん。(いわん)や南三北七の十師、漢土の無量の学者は天台を怨敵(おんてき)となし、得一大師は天台を悪口(あっく)して「(つたな)いかな智公」等と云云。南都七大寺の(せき)(とく)()(みょう)(しゅ)(えん)等は奏状を捧げて伝教大師を(ざん)(そう)す。(あに)像法迹化の怨敵に(あら)ずや。若し通ずといわば、今文の意は像法に通ぜず。故に「日蓮だにも此の国に生まれずば・ほと()をど世尊は大妄語(もうご)の人・八十万億那由陀(なゆた)の菩薩は提婆が虚誑(こおう)(ざい)にも()ちぬべし」というなり。()し通ずることを許さば、像法の迹化に(すで)怨敵(おんてき)あり。蓮祖(たと)い出世せずと(いえど)も、世尊何ぞ大妄語の人ならん。八十万億、()(かん)虚誑(こおう)ならん。故に今文は末法に限るなり。

 答う、(あるい)は通ずべしと雖も、若し別して論せば末法の本化に限るなり。(ここ)に両意あり。

 一には経意に()るが故に。(いわ)く、三類の次上の文に云く「恐怖(くふ)(あく)()(ちゅう)」と云云。この文意は別して末法に在るなり。故に蓮祖、寺泊抄に云く「日蓮が浅智には及ばず(ただ)し『恐怖悪世中』の経文は末法の始めを指すなり。」等云云。(いわん)や迹化の発誓なりと雖も、仏(すで)に之を許さざるをや。故に「仏、今黙然(もくねん)として(ごう)(ちょく)を見ず」というなり。況や次下に至って即ち本化を召すをや、故に三類は別して本化に限るなり。故に(みょう)(らく)が云く「今、下の文に下を召すが如きは尚(ほん)眷属(けんぞく)を待つ。(あきら)けし。余は未だ()えず」等云云。

 二には現事に由るが故に。謂く、今の所難の如きは、彼に怨敵あれどもその事微弱なり。謂く、(ただ)悪口(あっく)怨敵のみにして(いま)(とう)(じょう)遠流(おんる)のことあらず。況や一切世間の怨嫉に非ざるをや。所以(ゆえ)(けん)(のう)・聖主は()く是非を(さと)る。今、末法の三類はその事、甚だ強盛なり。(ただ)一切世間の悪口怨嫉のみに非ず、(なお)刀杖・遠流に及ぶ。故に今、強を以て弱を奪い、末法の本化に限らしむ。三類は像法に通ぜずというには非ず云云。

一 経に云く(もろもろ)の無智の人あつて等

 即ちこれ第一の俗衆(ぞくしゅ)増上慢(ぞうじょうまん)、第二、第三の大檀那等なり。また云く「悪世の中の比丘」とは即ちこれ第二の道門増上慢、念仏宗の(ほう)(ねん)(ぼう)等の無戒邪見の者なり。また云く「白衣(びゃくえ)(ため)に法を説いて」等とは即ちこれ第三の僭聖(せんしょう)増上慢。禅宗・律宗の聖一(しょういち)・良観等なり。

一 付法蔵経に記して云く等

 付法蔵経の第三九紙、林の五十、同五十六、統紀の三十四初。

一 摩耶(まや)経に云く等

  摩耶経下巻十二に(つぶさ)に滅後の法滅の相を説くなり。

一 大悲(だいひ)経に云く等

  大悲経第二巻十四、西域(さいいき)第三十四。

一 経文に我が身・()号せり等

  この下は前を結して素懐(そかい)を述ぶるなり。

一 いよいよ(よろこ)びをますべし等

  一義に云く、経文に我が身普合(ふごう)する上に、()勘気(かんき)(こうむ)る、故に「いよいよ悦ぶ」と云うなり云云。

今謂く、経文に普合して御勘気を蒙る上に、未来の悪道を(まぬか)るべければ「いよいよ悦ぶ」なり。即ち此の意を次下に(しゃく)するなり。啓蒙(けいもう)の後の義はこの義に似たり云云。

一 願兼於業(がんけんおごう)文。

  通教は(がん)習を兼ね、三蔵は願に(ごう)を兼ぬるなり。若し別円は(ただ)願のみにして界内(かいだい)受生(じゅしょう)するなり。並びに教力の優劣に()るなり。


                     つづく
開目抄愚記 上 目次



by johsei1129 | 2015-07-12 16:07 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)