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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 07月 09日 ( 1 )


2015年 07月 09日

観心本尊抄文段 上九  但(ただ)本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うべし。これ末法の観心なり。


問う、(およ)そ観心とは、正法一千年は最上利根の故に、或は不起(ふき)の一念を観じ、或は(はっ)(しき)(がん)(じょ)の一念を観ず。()し像法に至れば、人(したが)って鈍根なり。故に不起の一念・元初の一念は所観の境界に()えず。故に(こん)(じん)相対して()()の六識に三千の(しょう)()するを観ず、これを観心と名づく。何ぞ(ただ)信心()(しょう)を以て即ち観心と名づくべけんや。

答う、末法今時、理即・但妄(たんもう)の凡夫の観心、(あに)正像上代の上根上機の観相に同じからんや。(たと)い像法と雖も、一概(いちがい)ならず。伝教(でんぎょう)大師は延暦(えんりゃく)二十三年に御入唐(ごにゅっとう)、大唐の貞元(じょうげん)二十四年三月一日、天台国清寺に於て道邃(どうずい)和尚(わじょう)より四箇の大事を御相伝あり。

所謂(いわゆる)一には一心三観、二には一念三千、三は止観の大旨、四には法華の(じん)()なり。その中の一心三観・一念三千の相伝の中に(じん)(じん)口伝(くでん)あり。

(いわ)く、法具の一心三観、臨終(りんじゅう)の一念三千なり。謂く、法具の一心三観とは()の文二十一に云く「臨終の一心三観とは、此の行の儀式(つう)()の観相に似ず。人終焉(しゅうえん)に臨み、断末魔の苦しみ(すみや)かに来り、(うたた)身体に迫る時、心神昏昧(こんまい)、是事非事を弁ぜず。若し臨終の時に於ては出離(しゅつり)の要行を修せずんば、平安の習学何の(せん)(よう)かあらん。故に此の位に(おい)て法具の一心三観を修すべし。法具の一心三観とは、即ち妙法蓮華経是なり。故に臨終の時、南無妙法蓮華経と唱うべきなり」と文。

臨終の一念三千とは、()の文三十一に云く「一念三千に三重あり。一には常用の一念三千、二には別時の一念三千、三には臨終の一念三千。乃至(ないし)臨終の一念三千の観と妙法蓮華経是なり。妙即一念、法即三千、()の故に一念三千と名異義同なり。臨終の時、専心に(まさ)に南無妙法蓮華経と唱うべし」と文。

また第四法華深義下五十六に云く「一家の諸義、妙の一名を離れて更に別体(べったい)の一心三観、一念三千あるべからず。妙名を唱うる、即ち一心三観、一念三千なり。何ぞ妙名に観心無しと云うべけんや」と云云。

像法・迹門の時、(なお)()くの如し、(いわん)や末法・本門の時をや。天台(てんだい)大師は「心に(しゅ)()せざれども(あまね)く法界を(てら)」と釈し、伝教(でんぎょう)大師は「本門実証の時は無思無念にして三観を修す」と釈する是れなり。故に(ただ)本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うべし。これ末法の観心なり。

問う、若し(しか)らば唱法華題目抄に云く「愚者(ぐしゃ)多き世となれば一念三千の観を先とせず、()の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし」等云云。この文如何(いかん)

答う、これ宗祖の御本意に(あら)ず。

故に四信抄に云く「問う、汝何ぞ一念三千の観門を勧進(かんじん)せずして(ただ)題目(ばか)りを唱えしむるや」等云云。

持妙法華問答抄に云く「利智精進(しょうじん)にして観法修行するのみ法華の機ぞと云ひて無智の人を(さまた)ぐるは当世の学者の所行なり。是れ(かえ)つて愚癡(ぐち)、邪見の至りなり、一切衆生・皆成仏道の教なれば上根・上機は観念・観法も然るべし、下根下機は(ただ)信心肝要(かんよう)なり」と云云。

十章抄に云く「真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり、心に存すべき事は一念三千の観法なり、これは智者の(ぎょう)()なり・日本国の在家の者には(ただ)一向(いっこう)に南無妙法蓮華経ととな()へさすべし、名は必ず体にいたる徳あり」等云云。唱法華題目抄一往(いちおう)天台()(じゅん)の釈なり。佐渡已前、文応元年の御抄なり。

              つづく

上巻 目次



by johsei1129 | 2015-07-09 22:48 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)