人気ブログランキング |

日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ

2015年 07月 02日 ( 2 )


2015年 07月 02日

観心本尊抄文段 上三

問う、蒙抄(もうしょう)に古来の諸点を(えら)んで(ただ)一点を取って云く「(ごの)五百歳に始めて心の本尊を観ずる抄」と。(しこう)してこれを(たん)じて云く「始の字は正像を簡び未曽(みぞ)()の言に合す」等云云。この義如何(いかん)

答う、彼の点の「始観」の意は正しくこれ機に約す。未曽有の言は即ちこれ法に約す。何ぞ未曽有の言に合すといわんや。(いわん)や彼の点の如くんば「始観」の二字は(たい)と成り「本尊」の二字は(ゆう)と成らん。(あに)今の大旨に(たが)うに非ずや。今この「本尊」の二字は体なるが故なり。

問う、忠抄に云く「(ごの)五百歳(ごひゃくさい)の二百年に蓮祖出世す。故に後五百歳の始めと云うなり」と云云。この意、(まさ)しく仏滅後二千二百二十余年の言に合す。何ぞこれを用いざるや。

答う、恐らくはこれ文異義同を知らずして(はん)(じゅう)(とが)を招くか。(いわ)く、今「如来滅後(にょらいめつご)後五百歳」というは、即ちこれ(もろもろ)の本尊の「仏滅後二千二百二十余年」の文なり。何ぞ(さら)に「始め」というべけんや。況んや(また)「始めて之を()(せん)す」の文に同じからず。何ぞこれを用うべけんや。

問う、常抄に云く「後五百歳に始まりたる心の本尊を観ずる抄」と云云。既に相伝という、何ぞこれを用いざるや。

答う、彼の抄はこれ中山の三代(にち)(ゆう)が述作なり云云。故に同門流の蒙抄等すら(なお)之を用いず。(いわん)や彼の点の意は()()に約するをや。(あに)今の大旨に(たが)うに非ずや。これ(すなわ)ち当文は(こん)()に約する故なり。

問う、辰抄に云く「万年の始めを指す故に始と云うなり」と云云。この義如何(いかん)

答う、「後五百歳」の四字即ちこれ万年の始めなり。何ぞ(さら)に「始め」というべけんや。末法の初めの釈これを思い合すべし。

問う、日我抄に云く「後五百歳に始まる観心本尊抄」と云云。この点は法に約して(こん)()に約す。未曽(みぞ)()の言に合い、広宣流布の文に応ず。何ぞ之を用いざるや。

答う、彼は(しょ)()の法に約する故に「始まる」と点ずるなり。今は(のう)()の辺に約する故に「始む」と点ずるなり。()し能弘の辺を()ぐれば、所弘の辺は(おのずか)(せっ)するなり。(いわ)く、始むるが故に始まるなり。若し始めざれば何ぞ始まることを得んや。故に彼の点の(こころ)は即ちこの点の含む所と成るなり。況や(また)宗祖は既に「上行菩薩、世に出現し始めて之を()(せん)す」と云う。何ぞ別義を用いんや。また広宣流布の文の前後の大旨(たいし)に准じ、また能弘の辺を含む。故に顕仏未来記()()に云く「地涌(じゆ)千界(せんがい)乃至本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮提(えんぶだい)に広宣流布せしめんか」と云云。

問う、(たと)い日我の点の如きと(いえど)も、何ぞ(のう)()の辺を欠かん。(すで)に「本朝沙門(ほんちょうしゃもん)日蓮」という故なり。

答う、若しその義に()らば(うたた)これ潤色(じゅんしょく)なり。(いわ)く、後五百歳に始む観心の本尊抄、誰人かこれを始むるや。本朝沙門日蓮等云云。

次に「観心本尊」の文点を(つまび)らかにするとは

問う、観心本尊の文点、古来の諸師(あるい)は「心の本尊を観る抄」と点じ、或は「心を観ずる本尊抄」と点じ、或は無点等なり。(いず)れの点を用ゆべきや。

答う、此等は並びに題の意に非ず。今(つつし)んで点じて云く「観心()本尊抄」と云云。(およ)(もろもろ)法相(ほっそう)は多くこれ相対して以てその名を立つ。所謂(いわゆる)(じっ)(そう)(ごん)(じつ)六重本迹等、一々の名目及び大小・権実・迹本等の如きこれなり。(いわん)や教相観心の名目(みょうもく)の如きは、諸宗通じて同じく一双(いっそう)の立名なり。

(しか)るに()の言は理を(えら)び、果の言は因を簡び、大の言は小を簡び、実の言は権を簡び、本の言は迹を簡ぶ。観心の言、(あに)教相を簡ばざらんや。故に観心()本尊と点ず。(まさ)に教相の本尊を簡び、観心の本尊を(あらわ)すべきなり。例せば三大秘法の中に(すで)「本門()本尊」と点ずるは、(まさ)しく迹門の本尊を簡び、本門の本尊を(あらわ)すが如きこれなり。

                  つづく
上巻 目次



by johsei1129 | 2015-07-02 22:51 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 07月 02日

開目抄愚記 上二七

一 仏語に二言(にごん)なし等

  光明童子経、註に所引の如し。大集、啓蒙(けいもう)に所引の如し。

一 決定性を(まさし)くついさして成仏すとは・とかれず

  彼の宗、曲会(きょくえ)して云く、法華の二乗(にじょう)作仏(さぶつ)不定性(ふじょうしょう)なり。涅槃(ねはん)経の(しつ)()仏性(ぶっしょう)は理仏性に約するも、(しか)も行仏性無きなり等というなり。一乗要決中三十五の如し。

一 華厳宗と真言宗。

  初めの一行は(しばら)く彼の宗を歎じ、「二乗作仏」の下は(まさ)しく(びゅう)()()ぐ。

一 華厳(けごん)経・大日経に分明なり等文

  問う、二乗作仏、華厳経に分明の文は如何(いかん)

  答う、華厳の中に二乗作仏の文なきも、彼の師、義を以て(しか)()うなり。故に華厳演義抄九十・十六に云く「声聞(しょうもん)作仏(さぶつ)を説かざることは不共(ふぐう)の義に約す。(すで)にして厭捨(おんしゃ)せず、(かつ)て何ぞ之を()てん。(いわん)や一成一切成、(ひとり)として衆生の仏智を具せざるは無し」と云云。甫註三・二十一に破して云く「二乗は聞かず、(いか)(いわん)や受持せんや。故に座に()りと(いえど)(みみしい)の如く(めしい)の如し。何ぞ(かつ)て授記せん。()し授記すと()わば(こう)(こく)名号(みょうごう)は如何。諸部の円門、何ぞ(かつ)て一切衆生(みな)仏智を()すと説かざらん。何ぞ(ただ)華厳(けごん)のみならん。仏、厭捨(おんしゃ)せずと(いえど)も、而も二乗(いま)(さと)らず、故に法華に至って開悟(かいご)作仏(さぶつ)す」取意と云云。

  問う、二乗作仏、大日経に分明(ふんみょう)の文は如何(いかん)

  答う、亦是れ文なし、故に弘法(こうぼう)(ざつ)問答(もんどう)十七に云く「次に大那(だいな)()延力(えんりき)とは是れ不共(ふぐう)の義なり。一闡提(いっせんだい)は必死の病、二乗已死(いし)の人は余教の救う所に(あら)ず。(ただ)()秘密(ひみつ)神通力(じんつうりき)のみ即ち()救療(くりょう)す。此の不共の力を顕さんが為に大を以て(これ)(わか)つ」と文。(ただ)「大」の字を取って二乗作仏を証す、可笑(かしょう)の至りなり。(いわん)や「唯」の一字は第一の謗法(ほうぼう)なり。法華に分明の二乗作仏を無きに属する故なり云云。

一 ()(じゅん)

  (とう)()三十、註所引の如し。続高僧伝三十四・十五。「智儼(ちごん)」もこの伝の中に在り。

一 法蔵(ほうぞう)

  即ち賢首(げんしゅ)なり。また香像大師と号す。統紀三十、註所引の如し。宋僧伝第五初、(ぶっ)()通載(つうさい)十二・三十一に金師子(こんじし)(たとえ)等云云。

一 (ちょう)(かん)

  註三・四十二に統紀を引く。また宋僧伝五・十八、甫註三・三十二、通載十四已下。

一 華厳(華厳経)には、或は釈迦・仏道を(じょう)(おわ)つて不可思議劫(ふかしぎこう)()るを見る

  華厳疏抄八十・三十二に経文を()げて(しょ)に釈して云く「(すで)已経(いきょう)多劫(たこう)と云うは(すなわ)()(じょう)不定(ふじょう)なり」と。同抄に云く「経に或は釈迦等を見ると云う。此の言を(ちょう)する所以(ゆえん)天台(てんだい)師の謬釈(びゅうしゃく)(しゃ)するなり」と云云。甫註三・三十に破して云く「既に或は見ると云う、故に機見に約す。(いわん)()(げん)の因人、何ぞ如来の実成を知らんをや。重々()(しゃく)す」と云云。

一 大日経には、我れは一切の本初(ほんじょ)なり等文

  大日教第三巻、転字輪曼荼羅(まんだら)行品十五紙の文なり。義釈(ぎしゃく)九・四十五に云く「本初は即ち是れ寿量の義なり」と文。この義は狂惑(おうわく)なり。これ(ほっ)(しん)本有(ほんぬ)の理に約して「一切の本初」というなり。何ぞ寿量の事成に同じからんや。(げん)私七・四十五に云く「本有の理に帰す、故に本初と云う。本有仏性を名づけて自覚と為す」等云云。

一 井底(せいてい)(かわず)

  ()九・四十九、()九末十九。

一 先判(せんぱん)後判(ごはん)文。

  華厳玄談五・二十七。()六末六に云云。

                  つづく
開目抄愚記 上 目次



by johsei1129 | 2015-07-02 21:44 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)