人気ブログランキング |

日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ

2015年 05月 12日 ( 4 )


2015年 05月 12日

皆の御心は水の如し、信の弱気は濁る如し、信心の潔き良きは澄めるが如し、と説いた【日厳尼御前御返事】

【日厳尼御前御返事】
■出筆時期:弘安三年(1280)十一月二十九日 五十九歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄を送られた日厳尼は日興上人の叔母の夫である強信徒、高橋六郎兵衛入道と縁ある信徒と思われるます。
 本抄は、日厳尼が銭一貫文を供養して願い事の書を大聖人に送られたことへの返書となっております。大聖人は願書は法華経の御宝前及び日月天に確かに申し上げたことを報告するとともに、「叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず」と諭され人任せの信心を厳しく戒められております。また仏法は呪いではなく「水すめば月うつる風ふけば木ゆるぐごとく」の様にあくまで道理であることをわかりやすい譬えで説明し、極めて短い文の中に仏法の本質を示す書となっております。
■ご真筆: 現存しておりません。

[日厳尼御前御返事 本文]

 尼日厳の立て申す立願の願書並びに御布施の銭一貫文、又たふかたびら(太布帷子)一つ、法華経の御宝前並びに日月天に申し上げ候い畢んぬ。
 其の上は私に計(ばか)り申すに及ばず候。叶ひ叶はぬは御信心により候べし、全く日蓮がとがにあらず。
 水すめば月うつる、風ふけば木ゆるぐごとく、みなの御心は水のごとし、信のよはきはにごるがごとし。信心のいさぎよきは、すめるがごとし。
 木は道理のごとし、風のゆるがすは経文をよむがごとし、とをぼしめせ。恐恐。
      
 十一月二十九日       日 蓮  花 押
  日厳尼御前御返事





by johsei1129 | 2015-05-12 22:44 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2015年 05月 12日

開目抄愚記 上九

第七段 一念三千の数量に寄せて諸宗を(えら)

一 一念三千は十界

この下は次に広く諸宗を(えら)ぶ。また二あり。初めに数量に寄せて簡び、次には「仏教(また)かくのごとし」の下は、伝来に寄せて(えら)ぶ。初めにまた二あり。初めに通じて五宗の一念三千を知らざるを明かし、次に「(しか)るを律」の下は別して(じょう)・律二宗の大乗の義を盗むを破するに二あり。初めに正破(しょうは)、次に例を引くに(おのずか)ら二あり。初めに外道、次に外典(げてん)、また二あり。初めに正例、次に文証を引く。止観五・百十六

一 更に道士に(おっ)(さい)

甫註(ほちゅう)十三・四十五、僧祇(そうぎ)(りつ)に云く「(しゃ)()に人有り、食前には沙門(しゃもん)(ひょう)()を着し、聚落(しゅうらく)に入って(こつ)(じき)す。食後には外道の(ひょう)()を着し、林中に入る。仏(のたまわ)く、この越済の人、外道を捨てて沙門に入り、沙門を捨てて外道に入る」と云云。「表幟」は即ち袈裟(けさ)なり。(そう)要記(ようき)に云く「済とは跡なり、此の二路を越す、故に越済(おっさい)と云う」と文。()に云く「済とは道なり」と云云。

一 仏法の義を以て(ぬす)んで邪典に()き文。

 統紀三十八・二に、沙門(しゃもん)智稜(ちりょう)還俗(げんぞく)して仏教を引いて道教を釈し、現罰頓死(とんし)の事あり。()いて見よ。

一 (えい)元嵩(げんすう)等が如し

  ()五下八十一、続僧伝三十五・五、甫註十二・十四に周の武帝の事云云。


 第八段 漢土に仏法伝来

一 仏教(また)かくのごとし

 次に伝来に寄せて(えら)ぶ、また二あり。初めに漢土(かんど)、次に本朝。初めの漢土に三あり。初めに天台の弘化、次に「()の後・法相」の下は諸師の帰伏(きぶく)、三に「華厳(けごん)」の下は二宗の盗台を破す。諸師の帰伏とは敵対の法相師すら(なお)帰伏す、(いわん)や自余の宗々をや。

 第九段 本朝に仏法伝来

一 日本・朝我(我朝)

  次に本朝、三あり。初めに伝教(でんぎょう)の弘化、次に「伝教」の下は諸宗の帰伏、三に「(また)其の後や()やく」の下は天台の末学を破するなり。「天台(てんだい)の深義」とは即ち一念三千なり。

一 ()の邪宗をたすく

  安然(あんねん)は禅宗を(たす)け、恵心は浄土を扶けたり。第五・十四


             つづく


by johsei1129 | 2015-05-12 22:31 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 05月 12日

開目抄愚記 上八

第六段 文底(もんてい)真実を判ず

一 但し此の経等

第三(しゅ)(だつ)相対の文底真実の文、分ちて二と為す。初めに正釈、次に「一念三千は十界」の下は広く諸宗を(えら)ぶ。初めの正釈に二あり。初めに略して(じゅく)(だつ)の三千を明かして諸宗を簡ぶ。次に「一念」の下は正しく下種の三千を明かし、正像未弘(みぐ)を示す。

文に「二十の大事」とは、異本に「二()の大事」と云云。末師(まっし)皆「二十の大事」を以て正と為す云云。今(いわ)く「二十の大事」とは(おそ)らくは文に便(よろ)しからざる故に「二箇の大事」を以て(まさ)に正と為すべきなり。言う所の二箇の大事とは即ちこれ迹門熟益(じゅくやく)の理の一念三千・本門脱益(だっちゃく)の事の一念三千なり。故に二箇の大事というなり。この一念三千を倶舍(くしゃ)等の五宗は名目(みょうもく)をも知らず。華厳(けごん)・真言の二宗は、(ひそか)に盗んで自宗の骨目(こゆもく)となすなり。

()くの如く熟脱の本迹、事理(こと)なりと(いえど)も、一代応仏(おうぶつ)(いき)をひかえたる方は、理の上の法相(ほっそう)なれば一部(とも)に理の一念三千なり。故に脱益の本門を事の一念三千と名づくと雖も、これ真の事の一念三千に非ず。真の事の一念三千の法門・久遠下種の名字(みょうじ)の妙法は、一代経の中には(ただ)法華経、法華経の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底に秘沈(ひちん)するなり。故に「一念三千文底秘沈」というなり。此くの如き事理の三千は、竜樹(りゅうじゅ)(てん)(じん)は知ってしかも(いま)だ弘めず、天台(てんだい)智者は(ただ)理具を弘め、未だ事行を弘めざる故に「これをいだ()けり」というなり。

本尊抄八・三十六に云く「像法の中末に観音(かんのん)(やく)(おう)南岳(なんがく)・天台等と示現(じげん)し出現して迹門を以て(おもて)()し本門を以て裏と為して百界千如・一念三千其の義を(つく)せり、但理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊未だ広く(これ)(ぎょう)ぜず」と云云。この文の(こころ)()くこれを思うべし。略して文相を(しょう)(おわ)んぬ云云。

問う、(じゅく)(だつ)の三千を()げて諸宗を(えら)(こころ)如何(いかん)

答う、(ただ)天台のみこの法門を得たまうことを(あらわ)すなり。
 問う、下種の三千を挙げて正像未弘を示す(こころ)、如何。

答う、末法流布の大白法なることを顕すなり。(まさ)に知るべし、蓮祖はこれ文底下種の法華経の行者(ぎょうじゃ)なり。故に今、()(しょ)()法体(ほったい)を示し、次に広くその事を明かすなり云云。学者深く(しん)()に染めてこれを思え。また本尊抄八・十四云云。

問う、(しゅ)(だつ)相対は(じん)(じん)の秘法なり。故に浅きより深きに至って(まさ)に第五に明かすべし。即ち本尊抄の次第の如し。今何ぞ第三にこれを明かすや。

答う、今、次上の義の便(よろ)しきを受けて即ち(ここ)にこれを明かすなり。所謂(いわゆる)(つつし)んで釈迦・多宝(たほう)十方(じっぽう)分身の御本意を案ずるに、(ただ)(まさ)しく文底下種の妙法に()り。故に(みょう)(らく)(せん)一末十二に云く「方便品の初めに近くは五仏の権実を(たん)ずと(いえど)も、(こころ)は実に(ひそか)に師弟の長遠(ちょうおん)を歎ず」と云云。師弟は即ちこれ本因・本果なり。近くは脱家(だっけ)の本因・本果を()し、遠くは種家(しゅけ)の本因・本果を歎ずるなり。種家の本因・本果とは久遠(くおん)名字(みょうじ)の妙法・事の一念三千なり云云。

(りゃっ)(かい)の始めすら(なお)(しか)なり。後々(のちのち)(じゅん)じて知るべし。故に知んぬ、釈尊の「久遠真実」の金言(きんげん)、多宝の「(かい)()真実」の証明、分身諸仏の(こう)(ちょう)舌相(ぜっそう)、実に本意を尋ぬれば、(もっぱ)ら文底下種の妙法に在ることを。故に下山抄二十六・四十四に云く「実には釈迦・多宝・十方の諸仏・寿量品の肝要(かんよう)たる南無妙法蓮華経の五字を信ぜしめんが為なりと(いだ)し給う(こう)(ちょう)(ぜつ)なり」と云云。この中の「寿量品の肝要」とは、肝要即ちこれ文底なり。文底は即ちこれ肝要なり。故に肝要・文底は眼目(げんもく)の異名なるのみ。(すで)に三仏の本意は実に文底下種の妙法に在り。故に今、次上の義の便(よろ)しきを受けて即ち(ここ)にこれを明かすなり。

(まさ)に知るべし、文は第三に明かすと雖も、義は必ず第五に在り。故に、「(ただ)法華経の本門・寿量品の文の底」というなり。「但法華経」の一句は即ち二意を含む。一には一経三段、(ごん)(じつ)相対の第二なり。二には迹門三段、即ち権迹相対の第三なり。(まさ)に順逆を以てこの二意を知るべし。「本門・寿量品」とは本門の三段、本迹相対の第四なり。「文底秘沈(ひちん)」は即ち文底に三段、(しゅ)(だつ)相対の第五なり。(あに)浅きより深きに至る次第、(たが)わざるに(あら)ずや。

一 文底秘沈(文の底にしづめたり)

問う、これ(いず)れの文と()んや。 

答う、他流の古抄に多くの義勢あり。

一に(いわ)く「如来(にょらい)如実(にょじつ)知見(ちけん)」等の文なり。この文は能知見を説くと雖も、(しか)も文底に所知見の三千あるが故なりと云云。

二に謂く「()(こう)良薬(ろうやく)」の文なり。これ則ち良薬の体、これ妙法の一念三千なるが故なりと。

三に謂く「如来(にょらい)秘密(ひみつ)神通之力(じんつうしりき)」の文なり。これ(すなわ)ち、文の(おもて)は本地相即の三身を説くと雖も、文底に即ち法体(ほったい)の一念三千を含むが故なりと。

四に謂く、(ただ)寿量品の題号の妙法なり。これ則ち本尊抄に「一念三千の珠を(つつ)む」(取意)というが故なりと。

五に謂く、通じて寿量一品の文を()す。これ則ち発迹(ほっしゃく)顕本(けんぽん)の上に一念三千を(あらわ)すが故なりと。

六に謂く「然我実(ねんがじつ)成仏已来(いらい)」の文なり。これ則ち秘法抄にこの文を引いて(まさ)しく一念三千を証し、御義口伝に事の一念三千に約してこの文を釈する故なりと云云。

今謂く、諸説皆これ人情なり。何ぞ聖旨に(かかわ)らん。

問う、正義は如何(いかん)

答う、これはこれ当流一大事に秘要なり。(しか)りと(いえど)も、今一言を以てこれを示さん。謂く、御相伝に云く本因(ほんにん)(みょう)の文なり云云。()し文上を論ぜば(ただ)住上に在り。故に「寿命(じゅみょう)未尽(みじん)」というなり。若し住上に(あら)ずんば、(なん)(じょう)寿(じゅ)を得ん。故に大師、この文を釈して「初住に登る時、(すで)に常寿を得たり」と云云。(まさ)に知るべし、後々(のちのち)の位に登る所以(ゆえん)は並びに前々(さきざき)の所修に()る。故に知んぬ、「()本行(ほんぎょう)菩薩(ぼさつ)(どう)」の文底に久遠名字の妙法を秘沈(ひちん)し給うことを。蓮祖の本因妙抄に云云。興師(こうし)文底大事抄に云云。秘すべし秘すべし云云。

                  つづく


開目抄愚記 上 目次



by johsei1129 | 2015-05-12 16:42 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
2015年 05月 12日

開目抄愚記 上七 

第四段 内外(ないげ)相対して判ず

一 三には大覚(だいかく)()(そん)文。

 第三に内典(ないてん)を釈す、中にまた二あり。初めに一代の(せん)(じん)を判じ、(じゅく)(だつ)(さん)(とく)の大恩を(あらわ)す。二には「(ここ)に日蓮案じて云く世すでに」の下は、蓮祖はこれ法華経の行者(ぎょうじゃ)なることを明かし、末法下種の三徳の深恩を顕す。初めにまた二あり。初めに能説(のうせつ)の教主を()げ、以て三徳を歎釈(たんしゃく)す。次に「此の仏陀(ぶつだ)」の下は、所説の教法を挙げ、以て浅深を判釈す。初めにまた二あり。初めに標、次に「外典(げてん)」の下は儒外(じゅげ)に対して釈す。

  釈の文意に云く、彼は(すで)三惑(さんなく)未断の凡夫なり。何ぞ彼を船と()して生死(しょうじ)の大海を渡るべけんや。何ぞ彼を橋と為して六道の(ちまた)を越ゆべけんや。()が釈迦大師は二死(にし)究竟(くきょう)の極意、三惑(さんなく)頓断(とんだん)の大聖なり。(あに)これを船と為して生死の大海を渡らざらんや。(あに)これを橋と為して六道の(ちまた)を越えざらんや。故にこれ「大橋梁(きょうりょう)・大船師(せんし)」なり。またこれ「大導師(どうし)・大眼目(げんもく)・大福田(ふくでん)」なり云云。

 問う、この中には(ただ)師徳を明かす。何ぞ(さん)(とく)(たん)ずというや。

 答う、これは儒外内(じゅげない)の釈にして影略(ようりゃく)()(けん)なり。(いわ)く、儒の中には但主君を()げ、()の二徳を略す、故に但諸臣の頭目、万民の棟梁(とうりょう)というなり。()し外道の中には主親の二徳を挙げ、師徳を略するなり。故に一切衆生の慈父(じふ)・慈母・天尊・主君というなり。

 今、内典の中には、主親の二徳を略して但師徳を挙ぐるなり。これ(すなわ)ち影略互現して以て(おのおの)三徳を(あらわ)すなり。故に(ただ)師徳を挙ぐと(いえど)も、今、意を取って三徳を歎ずというなり。学者これを思え。「大覚(だいかく)()(そん)」の名義は弘一上十八に、「大導師」等は北本、涅槃(ねはん)経三十三・四、その外は末抄に云云。

一 此の仏陀(ぶつだ)

  この下は所説(しょせつ)の教法を挙げ、以て(せん)(じん)を判ずるなり。(まさ)にこの文の起尽(きじん)を知らんとするに、(すべから)く五種の三段を(りょう)すべし。本尊抄にこれを明かす。今、意を取ってこれを示すなり。

  第一には一代一経の三段。文に云く「一代の諸経(そう)じて之を(くく)るに(ただ)一経なり始め寂滅(じゃくめつ)道場より終り般若(はんにゃ)経に至るまでは序分(じょぶん)なり無量義経・法華経・()(げん)経の十巻は正宗(しょうしゅう)なり涅槃(ねはん)経等は流通(るつう)分なり」と。

  第二には法華一経の三段、第三には迹門熟益(じゅくやく)の三段、第四には本門脱益(だっちゃく)の三段なり。

  第二、第三、第四の分文は(すなわ)ち天台の一経三段、二経六段の分文に同じ。故に今これを略す。

 第五には文底下種の三段。文に云く「又本門に於て(じょ)(しょう)流通(るつう)有り過去大通仏の法華経より乃至現在の華厳経乃至迹門十四品涅槃経等の一代五十余年の諸経・十方(じっぽう)三世諸仏の微塵(みじん)の経経は皆寿量の序分(じょぶん)なり」と文。

  この中に「(また)本門に於て」とは、文底下種独一の本門なり。また「皆寿量」とは即ちこれ内証の寿量品・文底下種の本因(ほんにん)(みょう)の事なり。当に知るべし、過去の大通仏の法華経、乃至今日一代五十余年の諸経、十方三世の微塵の経々は皆久遠(くおん)下種の妙法を(あらわ)さんが為に(もう)くる所の経々なり。故に彼々(かれがれ)の経々は皆これ文底下種の妙法の序分なり。(しか)れば(すなわ)ち蓮祖大聖は末法に出現して即ち彼の文底下種の妙法を()(せん)す。故に知んぬ、過去の大通乃至今日一代五十余年の経々、十方三世の微塵(みじん)の経々は、皆これ末法弘通(ぐつう)法体(ほったい)・文底下種の妙法の序分なることを云云。重々の相伝云云。

 今、正しく文を分たば、次に所説の教法を()げて以て(せん)(じん)を判ず。また分ちて五段と為す。

  第一内外(ないげ)相対。「此の仏陀()」等の下の文は、即ち一代一経三段の意を用ゆるなり。

 第二(ごん)(じつ)相対。「但し仏教」等の下の文は、即ち法華一経三段の意を用ゆるなり。

 第三(しゅ)(だつ)相対。「但し此の経」等の下の文は、即ち文底下種の三段の意を用ゆるなり。

 第四権迹相対。「此に余愚見」の下の文は、即ち迹門熟益の三段の意を用ゆるなり。

 第五本迹(ほんじゃく)相対。「二には教主釈尊」の下の文は、即ち本門脱益(だっちゃく)の三段の意を用ゆるなり。

一 此の仏陀(ぶつだ)は三十成道(じょうどう)文。

第一内外相対の一代真実の文、分ちて三と()す。初めに標、次に「外典」の下は釈、三に「(しょ)成道」の下は結なり。釈中また二あり。初めに(きょう)(けん)、次に正釈(しょうしゃく)。見るべし云云。

第五段 権実相対して判ず

一 (ただ)し仏教に等

 第二権実相対の法華真実の文、分ちて三と()す。初めに種々の法相(ほっそう)を示し、次に「但し法華」の下は正釈、三に「此の(ことば)」の下は(けっ)(かん)なり。

                      つづく


開目抄愚記 上 目次



by johsei1129 | 2015-05-12 10:19 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)