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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 05月 01日 ( 3 )


2015年 05月 01日

Gosho 経王殿御返事 ニ   Letter to kyo`o 2


但し御信心によるべし、

But your faith alone will determine all these things.

()ぎなんども・()()まざる人のためには用る事なし、

A sword is useless in the hands of a coward.

法華経の剣は信心のけなげ()なる人こそ用る事なれ、

The mighty sword of the Lotus Sutra must be wielded by one courageous in faith.

鬼に・かなぼう(鉄棒)たるべし、

Then one will be as strong as a demon armed with an iron staff.

日蓮がた()しひをすみ()にそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、

I, Nichiren, have inscribed my life in sumi ink, so believe in the Gohonzon with your whole heart.
I, Nichiren, with sumi ink, have infused my life [into the Gohonzon]. So believe in it.

仏の御意(みこころ)は法華経なり日蓮が・た()しひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし、

The Buddha’s will is the Lotus Sutra, but the soul of Nichiren is nothing other than Nam-myoho-renge-kyo.
The will of the Buddha is the Lotus Sutra, but the spirit of Nichiren is nothing other than Nam-Myoho-Renge-Kyo.

妙楽云く「(けん)本遠寿(ぽんおんじゅ)を以て其の命と()す」と釈し給う。

Miao-lo states in his commentary that the heart of this sutra is the revelation of the Buddha’s original enlightenment and his immeasurable life span.

経王御前にはわざはひも転じて(さいわ)いとなるべし

Kyō’ō’s misfortune will change into fortune.

あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ、

Muster your faith, and pray to this Gohonzon.

何事か成就せざるべき、

Then what is there that cannot be achieved?

充満(じゅうまん)()(がん)(にょ)清涼(しょうりょう)()現世(げんぜ)安穏(あんのん)後生(ごしょう)善処(ぜんしょ)(うたがい)なからん。

There can be no doubt about the sutra passages that say, “This sutra [Gohonzon] can fulfill their desires, as a clear cool pond can satisfy all those who are thirsty,” and “They will enjoy peace and security in their present existence and good circumstances in future existences.”

本文 Original Text 全巻目次 Index All



by johsei1129 | 2015-05-01 23:36 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2015年 05月 01日

Gosho 経王殿御返事 一  Letter to kyo'o1

(それ)について経王御前の事、二六時中に日月天に祈り申し候、

Since I heard from you about Kyō’ō, I have been praying to the gods of the sun and moon for her every moment of the day.

先日のま()暫時(ざんじ)も身を・はなさずたもち給へ、

Always cherish the Gohonzon that I gave you some time ago for her protection.

其の本尊は正法・像法・二時には習へる人だにもなし・ましてかき顕し奉る事たえたり、

The Gohonzon was never known, let alone inscribed, by anyone in the Former or Middle Day of the Law.

師子王は前三後一と申して・あり()()を取らんとするにも又たけ()きものを取らんとする時も・いき()をひを出す事は・ただをな()じき事なり、

The lion king is said to advance three steps, then gather himself to spring,unleashing the same power whether he traps a tiny ant or attacks a fierce animal.

日蓮守護たる処の御本尊を・したため(まい)らせ候事も師子王に・をとるべからず、

In inscribing this Gohonzon for her protection, Nichiren was like the lion king.

経に云く「師子奮迅之力(ししふんじんしりき)」とは是なり、

Thisis what the sutra means by “the power [of the Buddhas] that has the lion’s ferocity.”

又此の曼荼羅(まんだら)能く能く信ぜさせ給うべし、

Believe in this mandala with all your heart.

南無妙法蓮華経は師子()の如し・いかなる病さ()りをなすべきや、

Nam-myoho-renge-kyo is like the roar of a lion. What sickness can therefore be an obstacle?

鬼子母神(きしもじん)・十羅刹(らせつ)女・法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり、

It is written that those who embrace the daimoku of the Lotus Sutra will be protected by the Mother of Demon Children and by the ten demon daughters.

さい()はいは愛染(あいぜん)の如く福は毘沙門(びしゃもん)の如くなるべし、

Such persons will enjoy the happiness of the wisdom king Craving-Filled and the good fortune of the heavenly king Vaishravana.

いかなる処にて遊びたは()ぶるとも・つ()があるべからず、遊行して畏れ無きこと師子王の如くなるべし、

Wherever your daughter may frolic or play, no harm will come to her; she will move about without fear like the lion king.

十羅刹女の中にも皐諦女(こうだいにょ)の守護ふかかるべきなり、

Among the ten demon daughters, the protection of Kuntī is the most profound.

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本文 Original Text  目次 Index



by johsei1129 | 2015-05-01 23:29 | WRITING OF NICHIREN | Trackback | Comments(0)
2015年 05月 01日

開目抄愚記 上一

  
  開目抄上愚記本

                富山大石学頭大貳(だいに)阿闍(あじゃ)()日寛記す

      序

一 当抄の興記を述作する事。

  (およ)そ当抄の興起は、別して竜口(たつのくち)巨難()いて由って起る所なり。(いわ)く、蓮祖大聖人は正しく末法の法華経の行者にして三徳有縁(うえん)の仏なり。(しか)るに日本国の上下万民は(いま)(かつ)てこの事を知らず。父母宿世の(かたき)よりも強く(にく)み、謀叛(むほん)殺害の者よりも強く責め、(あまつさ)え文永八年九月十二日には既に御命に及ぶ。然りと雖も、誹謗の人()えて現罰を(こうむ)ることなし。諸天等の誓言も(ほとん)徒然(とぜん)なるに似たり。故に弟子檀那は恐らく疑心を生じ、蓮祖はこれ法華経の行者に非ずと(おも)う。故に正しく法華経の行者なることを決定(けつじょう)し、疑を断じて信を生ぜしめんが為にこの抄を述作するなり。これ則ち佐州已後内々に(これ)(かんが)え、翌年二月にこれを書し、別しては四条金吾頼基(よりもと)に賜い、通じては弟子檀那の形見に()したまうなり。

  当抄上三十六に云く「諸天等の守護神は仏前の御誓言あり法華経の行者には・さる()になりとも法華経の行者とがうして早早に仏前の御誓言を・()げんとこそをぼすべきに()の義なきは我が身・法華経の行者にあらざるか、此の疑は此の書の肝心(かんじん)一期(いちご)の大事なれば処処にこれをかく」と。

 下巻二十七に云く「日蓮といゐし者は去年(こぞ)九月十二日()(うし)の時に(くび)はねられぬ、此れは魂魄(こんぱく)・佐土の国にいたりて(かえる)(とし)の二月・雪中にしるして有縁(うえん)の弟子へ()くればをそ()ろしくて・()そろしからず・()ん人いかに・をぢぬらむ、此れは釈迦・多宝・十方(じっぽう)の諸仏の未来日本国・当世をうつし給う明鏡なり、かたみともみるべし」と文。

  佐渡抄十四・九に云く「去年の十一月より(かんが)えたる開目抄と申す文二巻造りたり、(くび)()らるるならば日蓮が不思議とど()めんと思いて勘えたり、此の文の心は日蓮に()りて日本国の有無(うむ)はあるべし、(たと)えば(いえ)に柱なければ・たもたず人に(たましい)なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり、平左衛門(すで)に日本の柱をたをしぬ(乃至)かやうに書き付けて中務(なかつかさ)三郎左衛門尉が使にとらせぬ」と云云。中務三郎左衛門とは即ち四条金吾の義なり。(たつの)(ぐち)の時、別して捨身決定(けつじょう)(じん)()を顕せし故にこの人に(たま)うなり。

一 当抄の大意の事

凡そ当抄の大意は、末法下種の(にん)の本尊を顕すなり。謂く、蓮祖出世の本懐は(ただ)三箇の秘法に()り。(しか)りと(いえど)も、佐渡已前に於ては(いま)だその義を顕さず。佐渡已後にこの義を顕すと雖も、(なお)当抄等に於ては未だその名目を出さず。然りと雖も、その意は(つね)に三箇の秘法に在り。

 中に於て当抄は()ず末法下種の人の本尊を顕すなり。故に当抄の始めに三徳の尊敬(そんぎょう)等を標し、次に儒外(じゅげ)()いで内典を釈する中に、先ず一代の(せん)(じん)を判じ、(じゅく)(だつ)の三徳を顕し、次に蓮祖はこれ法華経の行者なることを明かす。

  巻の終りに至って(まさ)しく下種の三徳を顕し、「日蓮は日本国の諸人にしうし(主師)父母なり」というなり。

  また佐渡抄に「日本国の魂なり、日本国の柱なり」とは、即ち蓮祖は日本国の主師親なるが故なり。

  報恩抄に云く「(ひとつ)には本門の教主釈尊を本尊と()すべし。(ふたつ)には本門の戒壇。(みつ)には本門の題目なり。日本国の一切衆生の盲目を開ける功徳あり」(取意)等云云。これを思い合すべし。

一 当抄の題号の事。

今、開目抄と題することは、盲目を開く義なり。所謂(いわゆる)、日本国の一切衆生、執権(しゅうごん)等の(まく)(おお)わるる為に真実の三徳を見ること(あた)わず、故に盲目の如し。(しか)るに当抄に、一切衆生をして盲目を開かしむるの相を明かす、故に開目抄と名づくるなり。

(つぶさ)にこれを釈せば、いうところの「開」とは即ち二意を含む。一には所除(しょじょ)、二には所見なり。所除は即ち執権等なり、所見は即ち三徳なり。(たと)えば、世の盲目の膜を除いて物を見るを、目を開くと名づくるが如し。()し膜を除かずんば、これ目を開くには(あら)ず。若し物を見ずんば、(また)目を開くには非ず。今また是くの如く二意を含むなり。妙楽の記三中四十八に云く「(ほつ)とは開なり。所除の辺に約して名づけて発迹(ほっしゃく)と為し、所見の辺に約して名づけて発本と為す」と云云。「開」の字の両意この文に分明なり。

次に盲目とは四人を出でず。一には外典(げてん)の人、二には()(ぜん)の人、三には迹門(しゃくもん)の人、四には脱益(だっちゃく)の人なり。

一に外典の盲目とは、(ただ)世間有為(うい)の三徳に執して出世無為(むい)の三徳を見ず、故に盲目と名づくるなり。

二に爾前の盲目とは、但爾前権経の三徳に(しゅう)して法華真実の三徳を見ず、故に盲目と名づくるなり。

三に迹門の盲目とは、(ただ)迹門熟益の三徳に執して本門久遠(くおん)の三徳を見ず、故に盲目と名づくるなり。
 四に脱益の盲目とは、
(ただ)文上(もんじょう)脱益の三徳に執して文底下種の三徳を見ず、故に(なお)盲目と名づくるなり。

  略して(だい)()を結せば、今この抄の意、
 一には世間
有為(うい)の三徳の執を除いて出世無為の三徳を見る、故に開目抄と名づくるなり。
 二には
()(ぜん)権経の三徳の執を除いて法華真実の三徳を見る、故に開目抄と名づくるなり。
 三には迹門熟益の三徳の執を除いて本門
久遠(くおん)の三徳を見る、故に開目抄と名づくるなり。
 四には文上脱益の三徳の執を除いて文底下種の三徳を見る、故に開目抄と名づくるなり。
 今題号の意、
(まさ)しく第四に()り、(しか)りと雖もこの義、幽微(ゆうび)にして(あらわ)し難し。故に浅きより深きに至って次第にこれを判ずるなり。(たと)えば、高きに登るに必ず(ひく)きよりし、遠きに往くに必ず近きよりするが如し。故に諄々(じゅんじゅん)として丁寧(ていねい)なり。
 学者、深く思いてこれを
(ゆるがせ)にすること(なか)


                   つづく

開目抄愚記 上 目次



by johsei1129 | 2015-05-01 22:28 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)