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日蓮大聖人『御書』解説

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2014年 11月 30日 ( 4 )


2014年 11月 30日

百五、本門弘通の大導師

               英語版
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            (富士宮から見る富士山)

 日興は生前、師の日蓮と同じように後継者として六人の弟子を定めている。
 この事は永仁六年(一二九八年)に述作した『弟子分本尊目録』に、日興第一の弟子として六名の名が記載されている。尚、ここでの日興第一の弟子とは、日興が認めた優れた弟子の意で、日興は南条時光にも、日興第一の弟子として日蓮に御本尊の授与を願い出ている。

日興は文永十一年二十四歳の時、南条時光の甥であった十五歳の日目に出会っている。師匠日蓮が五十三歳で身延山中に草庵を構えたときである。そしてこの二年後の建治二年四月八日、釈尊の生誕日に日興は日目を得度した。
 晴れて日興の弟子となった日目だったが、日興はその年の十一月二十四日、早々と日目を身延の大聖人の元で常随(じょうずい)給仕(きゅうじ)させた。おそらく日目の資質を見極め、自分の後を(ゆだ)ねるのは日目であると決断し、自分と同じ道を歩ませようと考えてのことだと推察される。

日興は元弘二年(一三三二年)十一月十日「日興跡条条事」で、日蓮から付属された「日蓮一期の弘法」を日目に付属する旨を記した。

一、本門寺建立の時は新田(にいだ)(きょう)阿闍(あじゃ)()日目を座主(ざす)と為し、日本国乃至(いち)閻浮提(えんぶだい)の内、山寺等に()いて、半分は日目嫡子分(ちゃくしぶん)として管領せしむべし、残るところの半分は自余の大衆等之れを領掌(りょうしょう)すべし。
一、日興が身に()て給はるところの弘安二年の大御本尊は日目に之れを相伝す、本門寺に()け奉るべし。
一、大石寺は御堂(みどう)と云い墓所(むしょ)と云い、日目之れを管領し、修理を加え勤行を致し広宣流布を待つべきなり。
 右日目は十五の(とし)、日興に()い法華を信じてより以来、七十三才の老体に至るも()えて違失の義無し。十七の(とし)、日蓮聖人の所に詣で(甲州身延山)御在生七年の間常随給仕し、御遷化(ごせんげ)の後、弘安八年より元徳二年に至る五十年の間、奏聞(そうもん)の功他に異なるに依つて此くの如く書き置くところなり、()つて後の()め証状(くだん)の如し。
十一月十日        日  興 判


本抄の最後に日興は日目を後継者として定めた理由を明確に記している。

この文言は、日蓮が「百六箇抄」の末尾に、六老僧の中で日興を唯受(ゆいじゅ)一人(いちにん)の後継者に定めた由縁(ゆえん)を記した次の文言を彷彿(ほうふつ)させる。


就中(なかんづく)六人の(ゆい)(てい)を定むる表事は、先先に沙汰(さた)するが如し云云。(ただ)直授(じきじゅ)(けつ)(ちょう)付属は唯一人なり。白蓮阿闍(あじゃ)()日興を以て(そう)貫首(かんず)と為し、日蓮が正義(ことごと)く以て毛頭(ほど)も之れを残さず、悉く付属せしめ(おわ)んぬ。上首已下並に末弟等異論無く(じん)未来際に至るまで、予が存日の如く、日興嫡嫡(ちゃくちゃく)付法の上人を以て惣貫首と仰ぐ可き者なり。

又五人並に已下の諸僧等、日本乃至一閻浮提(えんぶだい)の外・万国に之を流布(るふ)せしむと雖も、日興が嫡嫡相承の曼荼羅(まんだら)を以て本堂の正本尊と為す可きなり。所以(ゆえん)(いかん)、在世・滅後(こと)なりと雖も付属の儀式(これ)同じ。譬えば四大六万の(じき)(てい)の本眷属(けんぞく)有りと雖も、上行(さつた)を以て(けつ)(ちょう)付属の大導師と定むるが如し。今以つて是くの如し。六人以下数輩の弟子有りと雖も、日興を以て結要付属の大将と定むる者なり。

(こう)(ちょう)配流(はいる)の日も、文永流罪(るざい)の時も、其の外諸処の大難の折節(おりふし)も、先陣をかけ、日蓮に影の形に随うが如くせしなり。誰か之を疑わんや。

延山(えんざん)地頭発心の根元は日興(きょう)()の力用なり。遁世(とんせ)の事、甲斐の国()(まき)は日興(こん)()の故なり。


日興はこうして日蓮の法義を寸分違わず踏襲し次の世代日目に相承、広宣流布の血脈(けちみゃく)を絶やすことなく次の世代に引き継いだまた日興は八十八歳と長命で、自ら定めた六老僧の多くに先立たれたため、滅度する直前に新六老僧を定め、令法(りょうぼう)()(じゅう)を確かなものとしている。その新六老僧の名前は大石寺十七世日精上人の「家中抄」に日代(西山本門寺開基)、日澄(重須(おもす)初代学頭)、日道(大石寺四世)、日妙(北山本門寺二世)日毫(にちごう)(保田妙本寺開基)、日助(重須西之坊開基)と記されている。


師の日蓮は生前、日興のことを

「万年救護(くご)(しゃ)(びょう)の弟子」

と呼び

(けっ)(ちょう)付属の大導師」

とも呼んだ。

写瓶とは(かめ)の水をそのままうつすように、法の水をあやまたず後世に伝えることをいう。

結要付属とは釈迦が法華経において地涌(じゆ)千界の上首、上行菩薩に末法の要法をさずけた儀式をいう。

結要とは南無妙法蓮華経の題目である。

日蓮は日興を結要の法をそなえた大導師と呼んだ。日蓮の目にくるいはなかったのだ。そしてその日興は後を託した日目を「一閻浮提の御座主」と呼んだ。

ここで波木井(はきり)氏のその後をしるす。

南部氏ともいわれた波木井氏は鎌倉幕府滅亡後、南北朝の争乱にまきこまれた。かれらは後醍醐天皇の南朝側について戦ったが、南朝は足利尊氏率いる北朝に敗れた。南北朝の統一後も、南部氏は足利ひきいる北朝に臣従の態度を見せなかった。

こうして一三九三年、南部一族はついに甲斐の所領のいっさいを捨て、はるか東北に去っていった。日興離山後、百四年目のことである。

また波木井氏の中に日蓮がのこした身延山久遠寺を守る一族がいたが、一五二七年、武田信玄の父信虎によって討伐され、波木井氏は完全に滅亡した。理由は波木井が隣国の駿河今川氏に内通したというかどだった。「自業自得果」「還著於(げんちゃくお)本人(ほんにん)」の経文どおりあろう。


日興は日蓮滅後五十二年後の元弘三年(一三三三)二月七日、八十八歳で世を去った。

伊豆、佐渡と、過酷な流罪地を日蓮とともに過ごした事、さらに飢饉・疫病が蔓延(まんえん)したこの頃の時代状況を考慮すると、驚くべきほど長命だったと言える。

この時、五老僧はすでにこの世にはいなかった。

最長老の日昭は日興に先立つこと十年前に八十八歳で亡くなった。日朗は十三年前七十六歳で亡くなり、日頂は十六年前に六十六歳で、日向は十九年前に六十二歳で生涯を終えている。尚、日持は(から)(ふともしくは蝦夷(えぞ)地で亡くなったと思われる。

この前年の五月一日には、熱原の法難でともに戦い、出家僧と在家信徒という関係を超えた生涯の法友ともいえる南条時光が七十四歳で生涯を終えている。

日興が長命たり得たのは、師日蓮の(ゆい)(めい)である本門の戒壇を大日蓮華山富士の(ふもと)、大石が原に実現すべく、その確実な礎が築かれるのを見とどける使命があったからだと強く推察される。


元弘三年は内外ともに大事件がおきた年である。
 四月十六日には日興の死をまっていたように、足利尊氏が北条幕府に反旗をひるがえした。五月二十一日には新田義貞が鎌倉をおとしいれ、翌日に北条氏は滅ぶ。六月五日、天皇後醍醐は京都に還幸し、建武の新政がはじまった。そして十一月十五日、日興のあとをついだ三祖日目が天奏のため京都に旅立つがその途上、美濃(たる)()の地であえなく入滅、後代の弟子に永遠の範をしめした。

日興は臨終の時、まどろみながら師の日蓮を思った。八十八年の星霜が流れたが、不思議なことに師の思い出しかのこっていない。

十二歳で師に出会い、日興の名をうけた。いらい鎌倉、伊豆、佐渡、甲州と身と影のごとく日蓮に付きしたがった。あの充実が今も胸にやどる。

思えば師匠日蓮は苦悩をよろこびにかえ、大衆を希望にみちびく雄大な人格だった。その人のそばにいた幸せ。日興にとってこの悦びは未来永劫に消えない。

同時に日興は切なさにつつまれた。

「ああ、いつまた聖人に会えるのだろう・・」

四条金吾が竜の口で別れの惜しさに泣いたというが、日興もまた同じだった。

日興は師がのこした本尊に祈る。

法華経化城喩品には、つぎの偈がある。

彼仏滅度後   彼の仏の滅度の後

是諸聞法者   是の諸の法を聞きし者は

在々(ざいざい)諸仏土  在在(ここかしこ)の諸の仏土に

常与師倶生(じょうよしぐしょう)   常に師と(とも)に生ぜん

 つぎの世でも師とともに、おなじ仏国土に生まれ、めぐりあうという。

日興はこの経文を命に刻み、題目をとなえた。乾いた大地が慈雨を求めるように、師にまた会いたいとひたすら渇仰した。

日興はさらに思う。

「それにしても、この世でよくぞ師匠にお会いできたものだ。師があの岩本実相寺をおとずれなければ、いまの自分はなかった。いや永劫の時の中で、よくぞ師とめぐり会えたものだ。仏法に奇跡はないというが、これほどの偶然がまたとあるだろうか。三千年に一度咲く優曇(うどん)()の花を見るよりも、一眼の亀が大海の浮き木に出会うよりもまれではないか。自分はなんという幸せ者か」

上野郷の夜は満天の星空だった。

日興はこの大宇宙に存在する確かな一つの当体として、己自身を見つめていた。


                  
         百六 日興遺誡置文 につづく


下巻目次

                                        




by johsei1129 | 2014-11-30 15:31 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)
2014年 11月 30日

百四、日興、身延離山

 
 日蓮入滅八年後の正応元年冬、四十三歳となった日興は川沿いの道をたどり、身延山をおりていった。
 師の墓を離れなければならないのだ。断腸の思いであった。
 日興はその苦衷を波木井一族の一人、原殿にあてた消息にしたためる。原氏は一族の中にあったが、日興を理解していた。


身延沢を(まか)り出で候事、面目なさ本意(ほい)なさ申し尽し難く候へども(うち)(かえ)し案じ候へば、いづ(何処)くにても聖人の御義を相継ぎ(まいら)せて世に立て候はん事こそ(せん)にて候へ、さりともと思ひ奉るに御弟子(ことごと)く師敵対せられぬ、日興一人本師の正義を存じて本懐を()げ奉り候べき(ひと)に相当たりて覚え候へば本意忘ること無く候、又君達(きんだち)は何れも正義を御存知候へば悦び入り候、(こと)(さら)御渡り候へば入道殿不宜(ふぎ)に落ちはてさせ給ひ候はじと覚え候。

この消息に日興の心中をかいま見る思いがしてくる。

身延山で正法を興隆するという初志はもろくもくずれた。しかし日興は苦悩のどん底から思いだしていた。いかなることになろうと、聖人の正義を継いで世に立てることが自分の使命なのだと。

日興は原殿のかわらぬ信心をよろこんでいる。原殿が今までどおり日興のもとで教えをうければ、実長は不義におちいることがないであろうという。ここでも日興は実長をかばっている。

日興は最後にいう。

元より日蓮聖人に背き(まい)らする師(ども)をば捨てぬが(かえ)って(とが)にて候と申す法門なりと御存知渡らせ給ふ可きか、何よりも御影(みえい)の此の程の御照覧如何(いかん)見参にあらざれば心中を尽し難く候、恐々謹言。 

               

日興は自分に言いきかせるようにいう。日蓮にそむく弟子を捨てないのは、かえって謗法になると。御影とは日蓮のことである。

日興が身延山をおりていったのは真冬だった。十一月とも十二月ともいわれる。山中には雪がつもっていた。師の日蓮が佐渡へ流罪となったのも真冬である。

日興は雪をふみわけて、身延の山中を下りながら思わずにはいられなかった。

師匠はこのことをなんと思われるだろうか。はからずもこの有様となってしまったが、師はわかってくださるだろうか。たよれるのは自分しかいない。亡き師はこんな自分を見守ってくださるだろうか。「御影の此の程の御照覧如何」とは無限の思いであったろう。

下山はさすがに大規模だった。日蓮自筆の大御本尊など、はこばれた宝は長持で二十七駄におよんだという。馬に二個背負わせるから合計で五十四棹になる。

江戸時代の史料にいう。

之に(より)て身延山の地・謗法となるがゆへ、日興上人・宗祖大聖人御付属の霊宝、本門戒壇の大御本尊・並に紫宸殿(ししんでん)の御本尊(注)、()御肉付の御歯(注)()・御焼骨其の(ほか)あらゆる霊宝等長持(ながもち)廿七駄方荷に収め給ひ、正応元年十一月・身延山を立ちのかせ給ひければ、波木井の一門大に驚き度々還往を()ひ奉れども思召(おぼしめ)し有りて帰らせ給はず、翌年春南条七郎修理太夫(たゆう)平時光殿の請招によって駿州(すんしゅう)富士上野にいたらせ給ひ、最勝の地を(えら)んで大石の原に御建立あって本門戒壇の大御本尊を安置し給ふ。 富要第七巻『大石要法血脈問答』 

 
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尾形禮正画 大石寺創建之図屏風  中央は日興上人 右端は南条時光


日興はこのあと青年地頭の南条時光が領する富士上野郷に移り住み、ようやく安住の地をえた。時光についてはすでに書いたとおりである。日興が住むべき地は時光の上野郷以外にない。

そして日興は早くもこの年、今の大石寺の建立に着手している。

自ら鍬を取ったであろう。自ら木をはこんだであろう。自ら工具を手にしたであろう。日興には師の正義をここで立てるのだという意気ごみがつのっていた。

日興に続く弟子たちも、さっそく自らの坊を建立しはじめた。日目は蓮蔵坊を、日華は寂日坊を、日秀は理境坊を、日禅は南之坊を、日仙は百貫坊をそれぞれ建てていく。

壮観であった。彼らは日興にともない、師の正義を守り、弘通することに生きがいを感じていた。

こうして十月十二日、日蓮の命日の前日だった。

日興は真新しい本堂に、楠木の巨木から造立した大御本尊を安置した。この本尊こそ「日興が身に()て給わる所の弘安二年の大御本尊」すなわち一閻浮提総与の大曼荼羅である。師の日蓮はこの本尊の広宣流布における意義を記していた。

又五人並びに已下の諸僧等、日本乃至一閻浮提の(ほか)万国までも之を流布せしむと雖も、日興が嫡々(ちゃくちゃく)相承の曼陀羅(まんだら)を以て本堂の正本尊と為すべきなり。        『百六箇抄

 五老僧以下の弟子檀那が日本をはじめ全世界に妙法を弘めようとも、日興が譲り受けた大本尊を中心に据えよと。この大曼陀羅はこの大石寺に安置され、今日に至っている。

さらに師日蓮は、自身の法義を最も理解していた太田乗明に「三大秘法稟承事」という遺言書を送っている


戒壇とは王法仏法に(みょう)じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳(うとく)(おう)(かく)(とく)比丘(びく(注)の其の乃至(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣(ちょくせん)並びに御教書(みきょうしょ)を申し下して霊山(りょうぜん)浄土(じょうど)に似たらん最勝の地を(たず)ねて戒壇を建立すべきものか。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮(いちえんぶ)(だい)の人、懺悔(さんげ)滅罪の戒法のみならず大梵天(だいぼんてん)(のう)帝釈(たいしゃく)等の来下(らいげ)して踏み給ふべき戒壇なり。

 (中略)此の三大秘法は二千余年の当初(そのかみ)地涌(じゆ)千界の上首として日蓮(たし)かに教主大覚世尊より口決(ぐけつ)相承(そうじょう)せしなり、今日蓮が所行は(りょう)鷲山(じゅせん)禀承(ぼんしょう)()()計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり。

 問う一念三千の正しき証文如何(いかん)、答う次に出し申す可し此に於て二種有り、方便品に云く「諸法実相・所謂(しょい)諸法・如是相・乃至欲令(よくりょう)衆生開仏知見」等云云、底下(ていげ)凡夫(ぼんぷ)・理性(しょ)()の一念三千か、寿量品に云く「(ねん)()(じつ)成仏已来(いらい)・無量無辺」等云云、大覚世尊・久遠実成の当初(そのかみ)証得の一念三千なり。

 今、日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり。予年来(としごろ)己心に秘すと(いえど)も此の法門を書き付て留め(おか)ずんば門家の(ゆい)(てい)等定めて無慈悲の讒言(ざんげん)を加う可し、其の後は何と悔ゆとも(かの)うまじきと存ずる間、貴辺に対し書き送り候、一見の後・秘して他見有る可からず口外も(せん)無し、法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり、秘す可し秘す可し。

 弘安五年卯月(うづき)八日     日蓮 花 押

 大田金吾殿御返事


 壮大な仏閣を建てることが本門戒壇の建立ではない。大集(だいしつ)経で説かれる正法像法の最後の五百年は「多造塔寺堅固」で、釈迦の予言通り中国・日本で多くの仏閣・伽藍(がらん)が建立された。しかし日蓮は終生、質素な草庵を拠点として布教及び弟子信徒の育成に邁進(まいしん)してきた。豪華絢爛(けんらん)な伽藍で人々の注目を引き、信仰に導くという手法は釈迦滅後の「像法時代」の布教方法であることを喝破(かっぱ)していた。

妙法蓮華経 分別功徳品第十六に次の文がある。


阿逸(あいつ)()。是善男子。善女人。不須為我。復起塔寺。及作僧坊。以四事供養衆僧。

所以者何。是善男子。善女人。受持読誦。是経典者。為已起塔。造立僧坊。供養衆僧。

[]

阿逸多(弥勒(みろく)菩薩)よ、是れら善男子・善女人は、我が為に()た塔寺を起し、及び僧坊を作り、四事を以て衆僧を供養することを(もち)いざれ。

所以(ゆえん如何(いかん)、是の善男子・善女人にして、是の経典(法華経)を受持し読誦(どくじゅ)せば、これ(すで)に塔を起し、僧坊を造立し、衆僧を供養せし者なればなり


 つまり末法に於いては、妙法蓮華経の神髄を図現した御本尊を受持し南無妙法蓮華と唱えることが究極の行であることを示している。日蓮は出家した弟子、在家信徒に紙幅の御本尊を下付し続けた。現在百三十(ぷく)程の日蓮直筆の御本尊が伝えられている。日蓮から御本尊を下付された弟子信徒は、質素な宿坊、自らの家屋敷に安置し布教の起点として日蓮の法門の教線を拡大していった。


日蓮は「三大秘法稟承事」で明確に「有徳(うとく)(おう)(かく)(とく)比丘(びくの其の乃至(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時」と遺言している。
 日蓮の滅度以降、今日にいたるまで、日蓮日興の血脈を引き継ぐ弟子信徒等は本門戒壇の建立をめざして布教をつづけていった。

大石寺二十六世の(にち)(かん)が本門の戒壇について説く。

本門の戒壇に()あり、()あり。理は(いわ)く道理なり。また義の戒壇と名づく。謂く、戒壇の本尊を書写してこれを掛け奉る(ところ)の山々、寺々、家々は皆これ道理の戒壇なり。(まさ)に知るべし「是の処は即ち是れ道場」等云云。次に()の戒壇とは即ち富士山(あも)生原(うがはら)に戒壇堂を建立するなり。『報恩抄文段

そして「有徳王・覚徳比丘の其の乃至(むかし)末法濁悪の未来に移さん時」が来るまで、本門の戒壇は建立できない。



       百五、本門弘通の大導師 につづく

下巻目次



 紫宸殿の御本尊

紫宸殿すなわち政治の中心となる建物に掛ける本尊。

「一、蓮祖真筆大曼荼羅三枚続 一幅

弘安三太歳庚辰三月日、紫宸殿の本尊と号す、伝に云はく広布の時至りて鎮護国家のために禁裏の叡覧に入れ奉るべき本尊なり云々。」『冨要第五巻 富士大石寺明細誌』 


御肉付の御歯

日蓮大聖人が生前、日興に与えた歯のこと。歯には大聖人の肉片がついている。日量の「富士大石寺明細誌」によれば、日蓮大聖人は広宣流布の時に、この歯が光り輝くと予言している。門外不出の非開封だが、五十年に一度および貫主の交代時に公開される。

「日蓮聖人肉付の御歯一枚  御生(ごしょう)(こつ)と称す、蓮祖の存日、生歯を抜き、血脈相承の証明と()て之を日興に(たま)ひ、()の広布の時に至らば光明を放つべきなり云云、日興より日目に相伝し、代々附法の時之を譲り与ふ、一代に於て只一度(だい)(がわり)蟲払(むしばらい)(とき)を開封し奉り拝見に入れしむ、常途(じょうと)之を開かず。」『冨要第五巻 同』

有徳王・覚徳比丘

釈迦の過去世における菩薩修行中の因位の姿。涅槃経巻三金剛身品の文。拘尸(くし)()城に出現した歓喜増益如来の正法が、あと四十年で滅しようとしている末世に、多くの破戒の悪僧と戦い、正法を護持する覚徳比丘を守った。王はこの時全身に傷を受けて亡くなったが、護法の功徳で阿閦仏(あしゅくぶつ)の国に生まれ、その仏の第一の弟子となり、覚徳比丘は第二の弟子となった。正法が滅しようとする時の信仰者の心構えと、正法を守る者の功徳の大きさを示したもの。立正安国論 参照。



by johsei1129 | 2014-11-30 15:26 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)
2014年 11月 30日

百二、五老僧の邪義

さて日蓮没後、(さね)(なが)(たが)がはずれたかのようにつぎつぎと謗法をおかしていく。実長は日蓮の法義を軽く見ていた。

やがて其の次に南部郷の内福士の塔供養の奉加(ほうが)に入らせをはしまし候、以っての外の僻事(ひがごと)に候、(そう)じて此の廿(にじゅう)余年の間、()(さい)法師、影をだに指さざりつるに御信心如何様(いかよう)にも弱く成らせ給ひたる事の候にこそ候ぬれ。』

南部郷の内福士の塔供養とは波木井領の福士に建てられた念仏の石塔の事である。

現存はしない。奈良時代から鎌倉時代にかけて、富士山に登って法悦を得ようとする行者の修行が発展して山中や山麓に道場が建ち、記念の石塔がつくられた。

実長はこれを支援した。謗法の供養である。

この二十年、邪宗の僧が身延山に入ったことはなかった。いまそれが破られたのだ。実長は奉加帳にはっきりと自分の名をしるした。彼は自慢したろうが、日興の目には師日蓮の教えと(たが)てしまったとしか映らなかった。

日興はいう。これら謗法の所以は、まったく五老僧の一人、民部(みんぶ)日向(にこう)の堕落からきたものであると。

『是と申すは彼の民部阿闍梨世間の欲心深くして、へつらひ(てん)(ごく)したる僧、聖人の御法門を立つるまでは思ひも寄らず(おおい)に破らんずる(ひと)よと此の二三年見つめ候て、さりながら折々は法門の曲りける事を(いわ)れ無き由を申し候つれども(あえ)て用ひず候、今年の大師講にも(けい)(びゃく)の祈願に天長地久(ちきゅう)御願(ごがん)円満、左右大臣文武百官、各願成就(じょうじゅ)とし給ひ候ひしを此の(いのり)は当時(いた)すべからずと再三申し候しに(いかで)か国の恩をば知り給はざるべく候とて制止を破り給ひ候し間、日興は今年問答講(つかまつ)らず候き(原殿書)』

日興はしばしば訓戒を垂れたが、日向は聞く耳をもたない。日向の祈りは悪を退治しないで世界平和を祈るのとおなじである。国のためを思うならば、(こうべ)を破る折伏しか方法はないのだ。

日興としても、自分とともに弘教に励んだ日向を簡単に処分することはためらった。いつかは目ざめるかもしれないからだ。釈迦が提婆逹多をさとし、日蓮が三位房を訓戒したのとおなじである。残念ながら二人は退転し報いをうける。

地頭実長は最後に釈迦の仏像をつくるという謗法をおかす。

日興は破折した。師の本懐である三大秘法の文字曼荼羅の御本尊を安置し、題目を唱えるのが日蓮の遺志を継ぐことであると。

()()()()()()()()()()()()()()『聖人の文字にてあそばして候を御安置候べし、いかに聖人御出世の本懐、南無妙法蓮華経の教主釈尊の木像を最前には破らせ給ふ可きと()ひて申して候し(原殿書)』

「教主釈尊の木像」とは御本尊のことである。にもかかわらず実長は日朗に奪いさられた仏像を再現しようとした。日興は師日蓮の御本尊のほかに信心の対象はないといさめたが、実長は聞かない。


 こうして日蓮亡きあと、正法の破壊がはじまった。

釈尊の弟子にもこれと似た逸話がある。

釈迦が入滅して四十年のことだった。

十大弟子の一人、阿難はすでに老齢の域に達していた。

彼はとある竹林の中にはいった。

そこに一人の比丘(びく)がいるのをみとめた。この比丘は一つの法句をとなえていた。

()し人生じて百歳なりとも水の潦涸(ろうかく)を見ずんば、生じて一日にして之を賭見(とけん)することを得るに()かず。

潦涸とは生滅をいう、賭見は見ることである。水がたまり、蒸発するのを見なければ、生きている甲斐がないという意味である。比丘はこんなつまらない法句をくりかえし唱えていた。

阿難は比丘を破折(はしゃく)した。

「これは仏説ではない。汝は修行してはならない」

比丘は聞いた。

「では仏はなんと説かれたのですか」

阿難はこたえた。

  若し人生じて百歳なりとも生滅の法を()せずんば、生じて一日にして之を解了(げりょう)することを()んには()かず。

「これが仏説である。汝が唱えたのはこれを誤ったのだ」

比丘はこのことを自分の師匠に語った。

師は答えた。

「余が汝に教えたのは、まことの仏説である。阿難がとなえたのは仏説ではない。阿難は老衰して言葉にあやまりが多い。信じてはならぬ」

この比丘は阿難の教えを捨て、もとの誤った法句を唱えた。

阿難はふたたびおとずれた竹林でこれを聞きおどろいた。

「わたしが教えたものではない」

阿難はかさねて比丘にさとしたが、比丘は信用しなかった。阿難は亡き釈尊を思い、なげいたという。釈迦の死後わずか四十年の出来事だった。

かつて日蓮はこの故事を引き、法をあやまりなく伝えていくことが、いかに困難かを説いている。あたかも今の身延山の惨状を予言しているかのように。くわえてこの窮状に苦しむ日興をなぐさめるかのように。

仏の滅後四十年にさえ既に(あやま)出来(しゅったい)せり、(いか)(いわ)んや仏の滅後既に二千余年を過ぎたり、仏法天竺より唐土に至り唐土より日本に至る論師(ろんし)・三蔵・人師等伝来せり、定めて謬り無き法は万が一なるか、(いか)(いわん)や当世の学者・(へん)(しゅう)を先と為して我慢を(さしはさ)み、火を水と(あらそ)い之を(ただ)さず(たまたま)仏の教の如く教を()ぶる学者をも之を信用せず、故に謗法(ほうぼう)ならざる者は万が一なるか。十法界明因果抄

正法をたもつ者は万の中の一という。日興は身にしみて師の教えを思いだしていた。

それにしてもこのままでは師の正義が消えうせてしまう。訓戒しても地頭実長は聞く耳をもたない。もはや一つ所に住める相手ではなくなっていた。

日興は師の遺言を思いだしていた。


地頭の不法ならん時は我れも住むまじき由、御遺言とは承り候  富要第五巻『美作公御房御返事


日興はかつて日蓮からこの言葉をきいた時、まさか実長が謗法を犯すなどとは思いもよらなかった。実長は自分が折伏した人である。化導にも自信があった。なおかつ日蓮にも従順だったのだ。それが師亡きあと、人がかわったように反逆しようとは。

日興がこれ以上に憤ったのは、六老僧の一人日向(にこう)が波木井の謗法を容認したことだった。日向は熱原の法難の時、日興とともに戦いの矢面に立った人物である。教団内の人望もあった。日興でさえ、ひさびさに身延にかえってきた時、よろこんで要職につけたほどだったのだ。実長はこの日向を盾にして日興に対抗した。

日向は日蓮の法門を理解していなかった。題目を唱えれば、すべて許されるというのが彼の考えである。本尊は釈迦にしてもよい。神社参詣も自由である。こうなれば念仏を唱えても、真言を呪しても、座禅を組んでも、律を固持してもよいことになっていく。

日向は波木井に教えた。妙法をたもてばすべて許され、正も邪もなくなると。日向の法門の理解度が知れよう。

かたや師の日蓮は正邪をきびしく分けよといった。

又立つ浪吹く風・万物に()いて本迹(ほんじゃく)を分け勝劣を弁ず可きなり   富要第一巻『百六箇抄

日向は一切経を本迹に立て分け勝劣を極める日蓮の教えを追及することはなかった。おそらく百人前後になんなんとする日蓮の弟子の中から、六老僧と指名された弟子でさえ、このありさまだった。日興をのぞいた五老僧は日蓮を単に法華経の行者としか見ていなかった。日蓮が末法の本仏などと想像だにしていなかった。

日興はこの経緯について悲憤をこめてしるす。

(そう)じて此の事は三の子細にて候、一には安国論の正意破れ候ぬ、二には久遠(くおん)(じつ)(じょう)の釈尊の木像最前に破れ候、三には謗法の()始めて(ほどこ)され候ぬ、此の事共に入道殿の御(とが)にては渡らせ給ひ候はず、(ひとえ)謟曲(てんごく)したる法師の(とが)にて候へば(おぼ)()しなをさせ給ひ候て、自今以後安国論の如く聖人の御存知在世廿(にじゅう)年の様に信じ(まいら)せ候べしと改心の御状をあそばして()(えい)の御宝前に進らせさせ給へと申し候を御信用候はぬ上、軽しめたりとや思し食し候ひつらん、我れは民部(みんぶ)阿闍(あじゃ)()を師匠にしたるなりと仰せの由承り候し間、さては法花経の御信心逆に成り候ひぬ。




           百三、正義を伝うる者 につづく


下巻目次



by johsei1129 | 2014-11-30 15:21 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)
2014年 11月 30日

百一、 身延の地頭、波木井実長の謗法

身延の地頭、波木井(はきり)(さね)(なが)が信心に目ざめたのは日興の折伏による。日蓮が身延に居を移したのは日興の力があった。これはすでに述べた。このことはだれも口をはさむことはできない。

伯耆房日興が日蓮に出会ったのは、十二歳の時だった。いらい日蓮を親とも主とも師とも慕って今日まできた。日興は師亡きあと、教団の統率者として師の教えを忠実に守り、後世に伝えようとした。弟子の育成にも必死だった。

だが時の経過とともに日興からはなれていく者がでてきた。師の日蓮は「身はをちねども心をち(あるい)は心は・おちねども身はおちぬ」の言葉をのこし、信念を続けることがいかに困難かを説いていた。このことは日蓮の死後にも現実化した。


 日蓮滅後の翌年、一月下旬、遺弟等により百箇日忌法要が営まれた。この時、六老僧の内、参集したのは日興、日昭、日持の三名で、この時「墓所可守番帳事」が作成された。日興が記した正本は現在西山本門寺に所蔵されている。

 この内容は次のとおりである。(日文字法号は当方で追記)


 墓所可守番帳事


 正月  弁阿闍梨 (日昭)

 二月  大国阿闍梨 (日朗)

 三月  越前公 (日辯)

     淡路公 (日賢)

 四月  伊与公 (日頂)

 五月  蓮花阿闍梨(日持)

 六月  越後公(日賢)

 下野公 (日忍)

 七月  伊賀公

     筑前 (日合)

 八月  和泉公(日法)

 治部公 (日位)

 九月  白蓮阿闍梨 (日興)

 十月  但馬公(日實)

 卿公 (日目)

 十一月 佐土公 (日向)

 十二月 丹波公(日秀)

 寂日房 (日家)

 右守番帳次第無懈怠可令勤仕之状如件

 弘安六年正月 日


しかし「墓所可守番帳事」の取り決めにも関わらず、日興以外の五人は三年とたたずに身延を訪れることはなかった。

日昭は相模浜土へ、日朗は鎌倉へ、日頂は下総へ下っていった。彼らは若僧をつれて去ってしまった。

予想していたとおりだった。わずか三年で日蓮の墓は荒れはてる。

何事よりも身延沢の御墓の荒れはて候て鹿かせきの(ひづめ)(まのあ)たり(かか)らせ給ひ候事、目も当てられぬ事に候 『美作公御房御返事

日蓮の墓は鹿のひづめで荒廃していたのである。信じられない話だが、だれも手をつける者がいない。
 日興の困難はさらにつづく。

日興は師亡きあと、九年のあいだ身延山に住み法を弘めたが、地頭波木井実長の邪義のため、離山を余儀なくされた。

波木井の邪義とは四つあった。日興は後世のために、波木井の謗法について次のように書き残している。

釈迦如来を造立(ぞうりゅう)供養して本尊と()し奉るべし、是一。

次に聖人御在生九箇年の間停止(ちょうじ)せらるゝ神社参詣其の年に之を始む、二所(にしょ)三島(みしま)に参詣を致せり、是二。

次に一門の勧進(かんじん)と号して南部の郷内のふく()()の塔を供養奉加(ほうが)之有り、是三。

次に一門仏事の助成と号して九品(くほん)念仏の道場一宇を造立し荘厳(しょうごん)せり、甲斐国其の処なり、是四。

已上四箇条の謗法を教訓する義に云はく、日向(にこう)これを許す云々。この義に依って()ぬる其の年月、彼の波木井入道並びに子孫と永く以て師弟の義を絶し(おわ)んぬ。仍って御廟(ごびょう)(あい)(つう)ぜざるなり。  『富士一跡門徒御存知の事
  

波木井の所行は日蓮の教義とあい容れない。波木井は日蓮と同じ土地に住みながらも日蓮の精神を理解できなかった。

本尊は釈迦ではなく妙法の七字を建立する。神社参拝は災いをうける。善神はすでに社を去り、悪鬼のみがのこっているからだ。立正安国論のとおりである。まして念仏の建物を建て供養するなど、なにをかいわんやである。

さらに信じがたいのは、この邪義を五老僧の一人、民部日向が許したということだった。

日興はこの数々の謗法を『原殿御返事(以下原殿書)』に克明に記録している。以下はそれをたどってみることにする。

日興は最初、波木井の所行に愕然とした。

(そもそも)此の事の根源は去る十一月の(ころ)、南部孫三郎殿、此の御経聴聞のため入堂候の処に此の殿入道の(おおせ)と候て念仏無間(むけん)地獄の由聴き給はしめ奉る可く候なり、此の国に守護の善神無しと云ふ事云はるべからずと承り候し間、是れこそ存の(ほか)の次第に覚え候へ、入道殿の御心替らせ給ひ候かと、はつと推せられ候(原殿書)

日蓮滅後六年目の正応元年十一月の頃という。日興四十一歳のことである。

波木井一族の南部孫三郎という者が参詣し、実長の言葉を伝えた。

実長は日蓮がとなえた念仏無間地獄の義は了解したが、この国に守護の善神がいないことは納得できないという。神社参詣を肯定するかのような発言だった。日興ははじめて聞く地頭の唐突な言葉に衝撃をうけた。

日興は懸命に孫三郎を説得した。いま神社には悪鬼しか住みついていない。これは亡き師日蓮の教えではないか。

しかし実長と同心の孫三郎は納得しない。

ここで孫三郎は重大なことをいった。この神社参詣について、身延と鎌倉で異論がおこっているというのである。

『孫三郎殿、念仏無間の事は深く信仰(つかまつ)り候(おわん)ぬ、守護の善神此の国を捨去(しゃこ)すと云ふ事は不審未だ晴れず候、其の故は鎌倉に御座(おわ)し候御弟子は諸神此の国を守り給ふ(もっと)も参詣すべく候、身延山の御弟子は堅固に守護神此の国に無き由を仰せ立てらる条、日蓮阿闍梨は入滅候、誰に()ってか実否を決す可く候と(くわ)しく不審せられ候(原殿書)』

当時、鎌倉の弟子たちは神社参拝を認め、日興のいる身延は断固として認めなかった。

日興の強い教導にも関わらず孫三郎の迷走は止まらない。

孫三郎の言い分は「師の日蓮はすでにこの世を去った。神社参りが是か非かは決められないではないか。根本の師が世を去ったのだ。それならば新たな法義を立てるべきだ」といいたいのである。心中に後継者の日興を軽視する態度がみえる。

日興はこれにたいし、すべては師日蓮の遺言をもとに判断すべきであると訴える。いわゆる立正安国論をはじめとした御書とよばれる指針である。

『二人の弟子の相違を定め玉ふべき事候、師匠は入滅候と申せども其の遺条(ゆいじょう)候なり、立正安国論是れなり、私にても候はず三代に披露し玉ひ候と申して候しかども尚御心中不明に候て御帰り候ひ畢んぬ。(原殿書)』

日興は熱をこめて説いたが、孫三郎は疑念をいだいたまま帰ってしまった。

日蓮滅後わずか六年後にして、早くも日蓮の法義が危うくなっていたのには驚かされる。神社参詣についても宗門の中で意見がわかれていたのである。

この遠因は孫三郎が三島の神社に参詣しようとしたことがはじまりだった。日興はこれを聞き、夜半おなじ波木井一族の弟子である越後公をつかわして叱責した。

『是れと申し候は此の殿三島の社に参詣渡らせ給ふべしと承り候し(あいだ)夜半に出で候て越後公を以ていかに此の法門安国論の正意、日蓮聖人の大願をば破し給ふ可きを御存知ばし渡らせをはしまさず候かと申して永く留め(まい)らする(原殿書)』

三島とは静岡県三島市伝馬町にある三島神社のことである。かつて源頼朝が平家追討の挙兵にあたって戦勝を祈願した。いらい鎌倉幕府の崇拝をうけ、伊豆山神社とともにニ所(もうで)として毎年正月、将軍自らが参詣した。そのため多くの武士の崇拝をうけていた。

孫三郎も幕府の一員として気軽に参賀しようとしたのである。

日興はこれをきびしく叱った。

あなたはなぜ日蓮聖人の御心を御存知ないのか。神社不敬は師日蓮の法義であることを、なぜわからないのか。

孫三郎は甲斐源氏の血をひく名門南部氏の一人である。日興の忠告はおもしろくない。

この出来事が実長の耳に入った。ここで実長は五老僧の一人民部日向(にこう)の意見をきいた。

驚くことに日向は日興の義をしりぞけた。

彼いわく、日興は師匠日蓮の法門を理解しておらず、仏法の極みを知らないという。

()『民部阿闍梨に問わせ給い候いける程に、御返事申され候ける事は、守護の善神此の国を去ると申す事は安国論の一篇にて候へども、白蓮阿闍梨()(てん)(よみ)に片方を読んで至極を知らざる者にて候、法華の行者参詣せば諸神も彼の社壇に(らい)()す可し(もっと)も参詣す可し(原殿書)』

日興は実長に直談判して神社参詣を問いただしたが、実長はこれを日向の教えであると反論した。日向と実長は身延山の主である日興を見下していた。

日向は五老僧の中でただ一人、甲斐にもどってきていた。日興は喜んで彼を学頭職につけている。日興と日向とは熱原の法難で苦楽をともにした仲だったのだ。うれしくないはずがない。学頭とは僧侶教育の要職である。その日向が日蓮の法義を曲げようとしていたのである。

日興にとって神社不参拝は当たり前のことである。このことは日蓮のもとで幾度も薫陶を受けていた。耳には今も日蓮の言葉がのこる。

其の上此の国は謗法の土なれば、守護の善神法味に()へて(やしろ)をすて天に上り給へば、悪鬼入り()はりて多くの人を導く。仏陀は化をやめて寂光土へ帰り給へば、堂塔寺社は(いたずら)に魔縁の(すみか)と成りぬ。国の(つい)え民の(なげ)きにて、い()かを並べたる計りなり。(これ)私の言にあらず経文にこれあり、習ふべし。諸仏も諸神も謗法の供養をば全く()け取り給はず、况んや人間としてこれを()くべきや。 『新池御書



                   百二、 五老僧の邪義  につづく


by johsei1129 | 2014-11-30 15:13 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)