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日蓮大聖人『御書』解説

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2014年 10月 03日 ( 2 )


2014年 10月 03日

95 時光の蘇生

弟の突然の死があっても、時光の信心はゆるぎなかった。

彼は懸命に日蓮を援助した。熱原の法難もかげで支えた。このことは鎌倉で知らぬ者はない。

このため幕府はいよいよ時光を快く思わない。人々も悪人のように憎む。時光は地頭でありながら、幕府を公然と批判する日蓮の信徒であると。幕府は多くの公事をおしつけてせめた。

時光は乗る馬もなく、妻は衣もなくなったという。それでも彼は銭一貫文を日蓮のもとにおくった。なんという若者であろう。

 日蓮は貧窮する時光をはげます。

「仏にやす()やすとなる事の候ぞ、()しへまいらせ候はん。人のものををし()ふると申すは車のおも()けれども油をぬりてまわり、ふね()を水にうかべてゆき()やすきやうにをしへ候なり。仏になりやすき事は別のやう候はず。旱魃(かんばつ)かわ()けるものに水をあたへ、寒冰(かんぴょう)こご()へたるものに火をあたふるがごとし。又二つなき物を人にあたへ、命の()ゆるに人の()にあふがごとし。<中略>月氏国に()(だつ)長者と申せし者は七度貧になり、七度長者となりて候いしが最後の貧の時は万民皆()げうせ死にをはりて、ただ、()おとこ()二人にて候いし時、五升の米あり五日のか()てとあて候いし時、迦葉(かしょう)・舎利弗・阿難・(らご)()・釈迦仏の五人、次第に入らせ給いて五升の米を()ひとらせ給いき、其の日より五天竺第一の長者となりて、祇園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)をばつくりて候ぞ、これをもつて・よろづを心()させ給へ」『上野殿御返事(須達長者御書)』

仏にたやすく成る道があるので教えて差し上げよう。人がものを教えるというのは、車が重い時でも油を塗ることによって回り、船を水に浮かべて往来し易くなる様に教えるのである。仏に成り易い道というのは特別なことではない。旱魃で(のど)の渇いた人に水を与え、寒さで凍えた人に火を与える様な事である。又二つとない物を人に与え、命が絶えようとしている時に、人に施す事である。<中略>

 インドの須達長者という人は七度貧乏になり、七度長者となったが、最後は万民が皆逃げ去り死に絶えて、夫婦二人だけになった。その時五升の米があり五日分の糧に充てようとしていた時、迦葉・舎利弗・阿難・羅睺羅・釈迦の五人が次々に入って来て、五升の米を乞われたので全て差し上げた。その日から全インド第一の長者になって祇園精舎を造ったのである。この例に(なら)って万事を心がけていきなさい。


 こうして平穏にもどったかと思われた矢先、またも悲劇がおそいかかった。

時光本人が重病となったのである。

病のしらせは前年の九月に日蓮のもとにとどいていた。

御使ひの申し候を承り候。是の所労(しょろう)難儀のよし聞こえ候。いそぎ療治(りょうじ)をいたされ候ひて御参詣有るべく候。 『南条殿御返事:弘安四年九月十一日 六十歳御作』


 周囲の期待とはうらはらに病状は重くなった。

病名は不明である。しかし確実に死にいたる病だった。薬もきかない。父兵衛七郎、弟五郎につづいて時光の番となったのである。時光はまだ二十三歳の若者なのだ。南条家はあきらかに短命の宿業をもっていた。

翌年の二月にはいり、ついに時光は危篤となった。

日蓮は事の重大さを知り、病床から身をおこして日朗に口述筆記させ、伯耆房日興に時光にに()を飲ませるよう指示した。

符とは経文を灰にして水にまぜた薬である。

日蓮はこのたびの時光の病がたとえ定業(寿命)であったとしても、なんとしても命を伸ばそうと必死だった。

兼ねて又此の経文は廿八字、法華経の七の巻薬王品の文にて候。然るに聖人の御乳母の、ひと()ゝせ()御所労御大事にならせ給ひ候て、やがて死なせ給ひて候ひし時、此の経文をあそばし候て、浄水をもってまいらせさせ給ひて候ひしかば、時をかへずいきかえらせ給ひて候経文なり。なんでうの七郎次郎時光は身はちいさきものなれども、日蓮に御こゝろざしふかきものなり。たとい定業なりとも今度ばかりえん()まわう(魔王)たすけさせ給へと御せい()()ん候。明日(とら)()(たつ)(こく)しや()うじがは(進河)の水とりよせさせ給ひ候て、このき()もん()はい()にやきて、水一合に入れまいらせ候てまいらせさせ給ふべく候。恐々謹言。

  二月廿五日          日朗花押

謹上 はわき公御房            『伯耆公御房御消息

日蓮はこの書で「たとえ寿命だとしても、今度ばかりは閻魔大王助け給え、と御誓願候」とまで言い切っている。
 符の由来は、教主釈尊が乳母であり育ての母だった
摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)、マハープラジャーパティーの重病を救った故事による。

日蓮が符をつかうのははじめてではない。

十年前、四条金吾の妻日眼女が懐胎した時、安産のための符をおくっている。

懐胎(かいたい)のよし承り候い(おわ)んぬ、それについては符の事仰せ候、日蓮相承(そうじょう)の中より(えら)み出して候、()く能く信心あるべく候。たとへば秘薬なりとも毒を入れぬれば薬の用すくなし、つ()ぎなれども、わる(臆病)びれたる人のためには何かせん、就中(なかにも)夫婦共に法華の持者なり、法華経流布あるべきたね()をつぐ所の玉の子出で生れん()()(たく)覚え候ぞ。色心二法をつぐ人なり、(いかで)かをそなはり候べき、とくとくこそうまれ候はむずれ、此の薬をのませ給はば疑いなかるべきなり 『四条金吾女房御書


 そして符を与えた翌日、四条家に無事女の子が誕生し、日蓮はよろこんで生まれた子を(つき)(まろ)御前と名づけている。

日蓮は自らしたためた法華経薬王品の経文を焼き、その灰を寅卯辰の刻すなわち午前三時から午前九時までの間に、精進河の水一合で調合し、時光にあたえるよう指示した。精進河はのちに精進川とよばれ、今も地名がのこる。

薬王品の二十八字の経文とはおそらくつぎの文であろう。

 此経則為。閻浮提人。病之良薬。若人有病。得聞是経。病則消滅。不老不死。

(此の経は則ち閻浮提の人の病の良薬なり。若し人病有らんに、此の経を聞くこと得ば、病即ち消滅して不老不死ならん)

()の効用とは一体なにか? 日蓮は晩年、自分の「やせやまい」に関して、医師でもあった四条金吾が調合した薬を服用して良くなったと消息に書いている。また病気の起こる原因について次のように記している。

病の起る因縁を明すに六有り、一には四大順(環境不順)ならざる故に病む、二には飲食(おんじき)(せつ)ならざる故に病む、三には坐禅調わざる故に病む、四には鬼(伝染病)便(たよ)りを得る、五には魔の所為(精神病)、六には業(宿業)の起るが故に病む(大田入道殿御返事)」

このうち一から五までは医療で治すことができる。六の業(宿業)が原因の病だけは法華経の信仰で罪障消滅しなければ治らない。
 では符の効用はとは何か
? 日蓮はどのような効用があると考えていたのか
? 
 実際に日蓮が実際に符を使った例は極めて少ない。日眼女が懐胎した時に使用した例を考えれば、これは精神的な不安を取り除くために提供したのではないかと推察される。懐妊は病気ではない。しかし初産であれば不安がつのる。そのため日眼女は大聖人に符のご下付を願い、日蓮も応じたと思われる。
 では時光の場合はどうであったろう。
 時光は病が重篤であると使いの者を日蓮のもとに行かせた際、一頭の馬を供養している。馬の供養を記した御書はこの時だけで、極めて異例である。この馬の供養は、時光が自身の命が残り少ないと感じ、自身の身代わりとして自分と共にした愛馬を贈ったのではないかと推察される。日蓮はそれほどまで追い詰められた時光に
「まだ諦めるのは早い。私がついている」
と時光の生きる気力を奮い立たせるために、()
われたわけではないのに自ら進んで符を与えたのではないか。日眼女に与えた符は特にどの経文とも記していない。しかし時光に与えた符は「此の経文廿八字、法華経の七の巻薬王品の文にて候」と明示している。
 色心不二は仏法の基本原理である。日興から日蓮の言葉を聞き、符を受けとった時光は、まちがいなく今一度生きる気力を奮い立たせ、内在する自然治癒(ちゆ)
力を増したことであろう。
 一般的に新薬を治験するとき、必ず治験薬を飲むグループと
でんぷんなどで作ったプラセボ
(偽薬)を飲むグループに分けて比較し、厳密な効果を計測するという。つまり偽薬と知らせないで治験薬だとして飲ませても、人によっては薬を飲んだという安心感で自然治癒力を引き出し効果がでるケースがあるという。

日蓮は思う。

自分の死後、弟子たちにさまざまな苦難があるだろう。だが日蓮の弟子と名のる者はあらゆる困難をこえねばならない。こえなければ未来はない。

またその弟子たちをささえるのは信徒檀那である。日蓮はその法華講衆の要となるのが南条時光であるとみた。それゆえになんとしてでも時光を蘇生させねばならぬ。

日朗に口述筆記させた三日後の二月二十八日、日蓮は寝たきりだったが時光のためにおきた。そして最後の力をふりしぼり、消息を書く。

宛先はだれでもなく、時光に巣くう病魔鬼神にむけたものである。

文字どおり生きるか死ぬか、生かすか殺すかの書である。
 全編鬼気がせまる。

かなる過去の宿習にて、かかる身とは生るらむと悦びまいらせ候、上の経文は過去に十万億の仏にあいまいらせて供養をなしまいらせて候いける者が、法華経計りをば用いまいらせず候いけれども、仏くやう(供養)の功徳莫大なりければ・謗法の罪に依りて貧賎の身とは生れて候へども、又此の経を信ずる人となれりと見へて候、此れをば台の御釈に云はく「人の地に倒れて(かえ)って地より起つが如し」等云云。地に()うれたる人は、かへりて地よりをく。法華経謗法の人は三悪並びに人天の地には( )うれ候へども、かへりて法華経の御手(みて)にかゝりて仏になるとこと()わられて候。

 しかるにこの上野の七郎次郎は末代の凡夫、武士の家に生まれて悪人とは申すべけれども心は善人なり。其の故は、日蓮が法門をば上一人より下万民まで信じ給はざる上、たまたま信ずる人あれば(あるい)は所領或は田畠等にわづらいをなし、結句(けっく)は命に及ぶ人々もあり。信じがたき上、ちゝ()・故上野は信じまいらせ候ひぬ。又此の者嫡子(ちゃくし)となりて、人もすゝめぬに心中より信じまいらせて、上下万人に、あるいはいさめ或はをどし候ひつるに、ついに捨つる心なくて候へば、すでに仏になるべしと見へ候へば、天魔・外道が病をつけてをどさんと心み候か。

命はかぎりある事なり。すこしもをどろく事なかれ。又鬼神めらめ、此の人をなやますは、剣をさかさまにのむか、又大火をいだくか、三世十方の仏の大怨敵(おんてき)となるか。あなかしこあなかしこ。此の人のやまいを(たちま)ちになをして、かへりてま()りとなりて、鬼道の大苦をぬくべきか。其の義なくして現在には頭破(ずは)(しち)()(とが)に行なはれ、後生には大無間地獄に()つべきか。永くとゞめよ永くとゞめよ。日蓮が(ことば)をいやしみて後悔あるべし。後悔あるべし。

  二月二十八日

 伯耆房に下す        『法華証明抄

 日蓮は弘安二年十月十二日の大御本尊の建立で出世の本懐を成し遂げた。また弟子に対して末法の本仏としての法華経の講義も弘安三年五月二十八日に終えている。自身滅後の後を託す日興には一月十一日「百六箇抄」の口伝を終えている。ここで滅度しても全く悔いはない。あるいは日蓮は、時光の寿命を延ばすことができるなら、残された寿命は時光に与えても構わないと祈ったとしても不思議ではない。熱原の三烈士は日蓮に大御本尊建立の機縁を与えた。その熱原の農民信徒を外護したのは弟子の日興であり、信徒では南条時光その人だった。
 日蓮は竜の口に向かう途中、馬からおりて八幡大菩薩を叱りつけた。「日蓮今夜
(くび)切られて霊山浄土へまいりてあらん時は、まづ天照太神、正八幡こそ起請(きしょう)を用いぬかみ()にて候いけれと、さしきりて(指し示して)教主釈尊に申し上げ候はんずるぞ。いたしとおぼさばいそぎいそぎ御計(おんはか)らいあるべし(種々御振舞御書)」と。このたびも「
鬼神」らを叱りつけたのである。

南条時光は快方にむかった。見事に時光は蘇生した。彼はこの日からちょうど五十年の寿命をうけ、一生を法華経の信心で貫き通した。日蓮亡き後、自分の領地を提供して伯耆房日興をまねき、今の大石寺の基礎を築いた。そして時光は七十四歳で波乱に満ちた、しかし日蓮に生涯殉じた潔い生涯を終える。彼の所領だった富士の麓の上野郷はいま、日蓮大聖人、日興上人を慕う世界各国の僧俗であふれている。

法華経如来寿量品に「(きょう)()寿命」とある。さらに寿命を(たま)うの意味である。

釈迦は阿闍(あじゃ)()王に四十年の命をあたえ、天台大師は兄に十五年の命をあたえたと伝えられている。そして日蓮は母の寿命を四年のばし、南条時光に五十年の命をあたえたのである。


        96  妙覚の山へ につづく

下巻目次




by johsei1129 | 2014-10-03 19:13 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)
2014年 10月 03日

85 弘安の役  


                    (蒙古来襲絵詞:ウィキペディアより)


 日蓮は蒙古の攻撃で日本国が滅ぶことを予言していた。法華経の兵法でなければ、国は必ず敗れる。日本国が滅んだのちに法華経が弘まっていくだろうという。新たな王のもとで妙法が栄えるといった。
日蓮はたとえ国が滅んでも妙法がのこればよいという。弟子たちの手紙にくりかえし説いている。

さては各々としのころいかんがとをぼしつるもう()()の事、すでにちかづきて候か。我が国のほろ()びん事はあさましけれども、これだにもそら()事になるならば、日本国の人々いよいよ法華経を(ぼう)じて万人無間地獄に()つべし。かれだにも()よるならば国はほろぶとも謗法(ほうぼう)はうすくなりなん。譬へば灸冶(やいと)をしてやまいをいやし、針冶(はりたて)にて人をなをすがごとし。当時はなげ()くとも後は悦びなり。日蓮は法華経の御使ひ、日本国の人々は大族(だいぞく)王の一閻浮提の仏法を失ひしがごとし。蒙古国は雪山(せっせん)()(おう)のごとし。天の御使ひとして法華経の行者をあだ()む人々を罰せらるゝか。又、現身に(かい)()ををこしてあるならば、阿闍(あじゃ)()(おう)の仏に帰して白癩(びゃくらい)()め四十年の寿(いのち)をのべ、無根の信(注)()と申す位にのぼりて現身に無生忍をえたりしがごとし。恐々謹言。『蒙古事

大族王とは古代インド磔迦(たくか)国の王である。大唐西域記によるとマカダ国を攻めた時、仏教徒であった幻日王にとらえられ、殺されかけたが幻日王の母の願いで助かり、カシミラ国にのがれた。ここで反乱をおこして王を殺し、さらに健駄(けんだ)()国を攻めて寺院仏塔を破壊し、国民の大多数を仏教徒であるとの理由で殺してヒンドゥー川に沈めるなどした。しかしその年の内に王も死去し無間地獄におちたという。

日蓮は日本国の人々が大族王であるという。懸命な折伏にもかかわらず、日本国は法華経を信じない。念仏、禅、真言という悪法をたもつ者が充満するばかりである。むろん国主も理解しない。

昔、カシミラ国の王となった()()()王が、僧尼を迫害し仏教を弾圧した。これを聞いた雪山下王が、国内の勇者三千人を(つの)って隊商に紛してカシミラ国へ入った。雪山下王は三千人から精鋭五百人を宮殿にのぼらせ、宝貨を献上するといつわって、袖にかくしもっていた刀で訖利多王を殺した。その後、カシミラ国にはふたたび仏教が栄えたという。

日蓮は雪山下王を蒙古にたとえている。蒙古は邪法に染まりきった日本を倒し、新しい国をつくるであろうと。

北条幕府は諫言をきかず、二度まで流罪し(はずか)しめ衆目にさらした。

では日本国が滅亡したとき、弟子はどうなるのか。

日蓮は妙法をたもつ者は国難の中でも必ず救われると答える。

青年信徒、南条時光の手紙にしるす。

()のなか上につけ下によせて、なげきこそをゝ()く候へ()にある人々をば よ( 世)になき人々はきじ()たか()をみがき(餓鬼)毘沙門(びしゃもん)をたのしむがごとく候へども、たか()わし()につかまれびしゃもんは()()にせめらる。そのやうに当時日本国のたの()しき人々は、蒙古国の事を()ゝては、ひつじの虎の声を聞くがごとし。また筑紫へお()むきていとをしき()をはなれ子を()ぬは、皮をはぎ、肉をやぶるがごとくにこそ候らめ。いわうや、かの国よりおしよせなば、蛇の口のかえる、()うち()()がま()いたにをけるこゐ()ふな()のごとくこそおもはれ候らめ。今生はさておきぬ。命()えなば一百三十六の地獄に堕ちて無量劫(むりょうこう)()し。我らは法華経をたのみまいらせて候へば、あさきふち()に魚の()むが、天くもりて雨のふらんとするを、魚のよろこぶがごとし。

しばらくの苦こそ候とも、ついにはたのしかるべし、国王の一人の太子のごとし、いかでか位につかざらんとおぼしめし候へ。  恐々謹言。

弘安三年七月二日      日蓮花押

人にしらせずして、ひそかにをほせ候べし。    『上野殿御返事

博多湾はよく晴れていた。漁師ものんびりと釣りをしている。

ひげ面の兵士が、やぐらで水平線をみつめていた。頬がこけ、焼けた黒い顔が長い勤務をあらわしていた。彼はのどかすぎる風景にあくびをした。

鎌倉では時宗を中心に平頼綱、安達泰盛らの幕府首脳が酒を飲んでいた。

時宗の気分が晴れない。蒙古の来襲が今か今かという時である。すでに蒙古は二年前、南宋をほろぼしていた。こんどは日本の番である。

しかし時宗の心配をよそに、部下は笑いあっていた。とりわけ頼綱と泰盛がしたたかに酔っている。

泰盛の機嫌がいい。

「蒙古め、もう襲ってはこないのではあるまいか。あらつら漢土を征服したばかりだ。日本にやってくる余裕はないはずじゃ」

北条宣時も同調した。

「こんどばかりは日蓮の予言もはずれたな。あやつ、甲斐の山でさかんに蒙古がくると吹聴しておる。いつかしとめてくれよう」

頼綱は面白くなさそうだった。

「外の敵がおとなしかろうと安心はできぬ。内にも敵がおりますからな」

泰盛は頼綱のいうことがいちいち(しゃく)にさわる。

「左衛門尉、おぬしもおとなしくすることだ。熱原の失態は情けないことであったな。罪ない百姓の首を刎ねたのは、いずれおぬしの咎となるであろう。気をつかれよ」

頼綱がかえした。

「泰盛殿こそ気をつけよ。そなた、ちかごろ源姓を名乗ろうとしているとか。高望みされているようであるな。なんの含みでござる」

泰盛が不意をつかれてとりつくろった。

「なにをたわけたことを。おぬしは北条の門番としてつとめておればよいのだ」

頼綱も酔っていた。

「なにをいわせておけば。そちこそ成りあがりではないか。女房が殿の乳母であっただけだ。御家人の内輪もめで、のしあがっただけではないか」

泰盛が盃を頼綱の足元になげつけた。

「左衛門尉、おぼえておけ。いつか泣きをみるぞ」

頼綱も酔いながらにらみかえす。

「そのほうこそ。油断するな」

若い時宗がうんざりした声をだした。

「両方ともよさぬか。その気負いは蒙古のためにとっておけ」

従者が飛びこんできた。

「筑紫から注進がまいりました。沖合に大船団が集結。蒙古の旗印を掲げているとのこと」

盃の落ちる音がひびいた。

「兵の数は」

「およそ四万とのこと」

一同が立ちあがった。

「ついにきたか」

 頼綱が時宗に言上した。

「報告のようすであれば、合戦はひと月以内におきまする。ただちに兵の準備を」

時宗はもっていた酒をかたむけ、膳にそそいだ。

頼綱がうなずいて従者に命令した。

「全軍に伝えよ。九州へ出陣だ」

みな出ていき、静寂がおとずれた。時宗は宙をみつめながらぼそりといった。

「日蓮殿はどうされているかのう」

時宗以下の北条幕府は日蓮にひれ伏すことができない。目の前の国難がひかえているのになにもできずにいる。他国侵逼(しんぴつ)を予言し、二月騒動を的中させ、蒙古の来襲をあてた日蓮を用いることができなかった。用いるだけでなく迫害をもって応えてしまった。

日蓮は時宗たちの心中を見とおしている。

鹿馬(ろくば)迷ひやすく、(よう)(きゅう)変じがたき者なり。墓無し墓無し。当時は余が(いにしえ)申せし事の(ようや)く合ふかの故に、心中には如何(いかん)せんとは思ふらめども、年来(としごろ)あまりに法にすぎてそしり悪口せし事が(たちま)ちに(ひるがえ)りがたくて信ずる由をせず、而も蒙古はつよりゆく。如何せんと(むね)(もり)(よし)(とも)が様になげくなり。

あはれ人は心あるべきものかな。孔子は()()一言、周交(しゅうこう)(たん)(ゆあみ)する時は三度にぎり、食する時は三度吐き給ふ。賢人は此くの如く用意をなすなり。世間の法にも、は()にすぎばあやしめといふぞかし。国を治する人なんどが人の申せばとて委細に尋ねずして、左右なく(とが)に行なはれしは、あはれくやしかるらんに、()(けつ)(おう)(とう)(おう)に責められ、()(おう)(えつ)(おう)に生けどりにせられし時は、賢者の諫暁を用ひざりし事を悔ひ、阿闍(あじゃ)()(おう)(あく)(そう)身に出で他国に(おそ)はれし時は、提婆(だいば)を見じ聞かじと誓ひ、乃至(むね)(もり)がいくさにまけ義経(よしつね)に生けどられて鎌倉に下されて(おもて)をさらせし時は、東大寺を焼き払はせ山王の御輿(みこし)()奉りし事を歎きしなり。

今の世もたがふべからず。日蓮を(いや)しみ諸僧を貴び給ふ故に、自然(じねん)に法華経の強敵(ごうてき)となり給ふ事を(わきま)へず、存の外に政道に背きて行なはるゝ間、梵釈・日月・四天・竜王等の大怨敵(おんてき)と成り給ふ。法華経守護の釈迦・多宝・十方分身の諸仏・地涌千界・迹化(しゃっけ)他方・二聖・二天・十羅刹女・鬼子母神は他国の賢王の身に入り()はりて国主を罰し国を亡ぜんとするをしらず。(まこと)天のせめにてだにもあるならば、たとひ鉄囲(てつち)(せん)を日本国に引き(めぐ)らし、須弥山(しゅみせん)(おお)ひとして、十方世界の四天王を集めて、()(ぎさ)に立ち並べてふせがするとも、法華経の敵となり、教主釈尊より大事なる行者を、法華経の第五の巻を以て日蓮が(こうべ)を打ち、十巻共に引き散らして散々に()みたりし大禍(たいか)は、現当二世にのがれたくこそ候はんずらめ。日本守護の天照大神・正八幡等もいかでかかゝる国をばたすけ給ふべき。  『下山御消息

徴収された兵隊が鎌倉大路を進軍する。沿道には妻子が涙で見おくった。

大寺院では僧侶の群れが色とりどりの法衣で敵国降伏を祈った。彼らの背後には信徒が密集して祈願した。

いっぽう蒙古の大戦隊は朝鮮沿岸に集結した。蒙古と高麗の連合軍だった。元寇以前では類を見ない世界史上、最大規模の艦隊であった。戦艦が最大九千艘ともいわれる巨大な船隊が満載の兵士をのせ、玄界灘の波をかきわけてすすんだ。

さらに驚くべきことがあった。

北条幕府は探知していなかったが、中国大陸からも大船団十万人が日本にむけ出航していたのである。蒙古に敗れた南宋の兵だった。フビライは敗残の兵に日本への出兵を命じたのである。高麗からの四万とあわせて計十四万の大軍団であった。史上まれにみる派兵である。

弘安四年五月二一日、蒙古軍は対馬沖に到着し、世界村大明浦に上陸。蒙古と日本の雌雄を決する戦いが始まった。

戦況は一進一退の状態が続き、六月になっても決着はつかない。
 日蓮は六月十六日、全信徒に書を送った。他国侵逼が的中したことを誇って人に語ってはならないという。弟子の軽挙妄動を戒めている。

 花押

小蒙古国の人大日本国に寄せ来るの事

我が門弟並びに檀那等の中に、()しは他人に向かひ、(はた)(また)自ら言語に及ぶべからず。若し此の旨に違背(いはい)せば門弟を離すべき等の由存知する所なり。此の旨を以て人々に示すべく候なり。

弘安四年太歳辛巳六月十六日

人々御中                  『小蒙古御書

快晴の日だった。

博多湾では物見やぐらの兵士が、あわてふためいておりてきた。

敵船が海上をうめつくしている。

日本軍が呼応するように騎馬隊を先頭に出陣した。

四条金吾の主人、北条光時が先頭にいる。彼は海上をうめつくした蒙古船団を見て、呆然と立ちつくした。

日本軍は陸上二十キロにわたって築かれた防塁にとりつき、長弓を手にもつ。

海上の蒙古軍もまた人の高さまで積みあげた防塁を見て驚きの声をあげた。

光時が日本の全軍に告げる。

「よいかこの場を死守せよ。ここを破られれば、わが日本の明日はない」

この時、蒙古船から爆薬が飛び、日本軍の陣中で破裂した。人馬が悲鳴をあげる。このすきに蒙古軍は下船して突撃した。

日本軍は長弓をいっせいに放った。前回の敗退からあみだされた戦法である。蒙古兵に日本得意の一騎打ちは通じない。砂浜で蒙古を撃破し、肉弾戦をさけるためだった。

長弓の殺傷力ははかりしれない。はるか遠くからでも敵を突き刺した。「平家物語」の那須与一は四十間(約七十二メートル)から的を射当てている。幕府は強弓の武者をそろえていた。

爆薬の煙が充満するなか、大量の弓が放たれた。突撃する蒙古兵がつぎつぎとたおれていく。日本軍は懸命に弓をひきはなつ。

北条光時も檄をとばした。

「うて、うて。死ぬまでうて」

爆薬が光時のすぐ近くで炸裂し、弓手が吹き飛んだ。光時がかわって弓を引く。矢ははるかにとんで蒙古兵をつきさした。

やがて蒙古兵がなだれをうって防塁にとりついた。光時はのりこえようとする蒙古兵を斬りふせた。数万の蒙古兵が高さ二メートル、長さ二十キロの防塁にとりついていく。激戦は陽が傾くまでおよんだ。日本軍はしばらくもちこたえたが、ついに突破された。蒙古軍は防塁をとびこえて日本軍を斬りつけていった。激戦となったが日本軍がしだいにおされていく。

光時は従者とともに騎上で奮戦するが、疲労の色が濃くなった。

「援軍はどうした」

「これが限界でございます」

従者が斬られた。

蒙古兵はいっせいに光時を襲ったが、からくも逃げきった。

文永の役につづいて日本軍の敗走が決定的となっていた。

蒙古はいっせいに勝ちどきをあげる。しかしここで蒙古の将軍は西の空を指さした。

「闇が近い。夜襲を避けるため、今日はひとまず船に引きあげよう。明日この港には、蒙古の旗が立ちならぶであろう」
 蒙古軍がふたたび勝ちどきをあげた。




          86  亡国の始まり につづく
下巻目次



 無根の信

無根とは信心がないこと。信心のない者が仏力によって信心をおこすこと。



by johsei1129 | 2014-10-03 13:27 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)