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日蓮大聖人『御書』解説

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2014年 06月 18日 ( 1 )


2014年 06月 18日

行住坐臥に法華経を読み行ずることこそ、人間に生を受けて是れ程の悦びはないと説いた【四恩抄】

【四恩抄(しおんしょう)】
■出筆時期:弘長二年(西暦1263年)一月十六日 四十一歳御作
■出筆場所:伊豆 伊東(流罪中) 地頭伊東祐光の館(毘沙門堂)
■出筆の経緯:大聖人の直信徒、安房の国天津の領主・工藤左近尉吉隆に与えられた書。工藤吉隆は大聖人が伊豆流罪中に御供養をお届けするなど庇護にあたられ、また文永元年1264年)十一月十一日に起こった小松原の法難の時には、身命を捨てて大聖人様をお護りした豪信徒である。伊豆流罪にちなみ、法華経に説かれている「如来の現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」の文々は、大聖人ご自身の振る舞いに当てはまることを宣言し大聖人が末法の本仏であることを示唆している。また「行住坐臥に法華経を読み行ずることこそ、人間に生を受けて是れ程の悦びは何事か候べき」と説き、法華経信仰の大切さを伝え、さらに 仏法を習う身には必ず四恩(一切衆生、父母、国主、三宝)を報ずることが大事だと説いている。
■ご真筆: 現存していない。

[四恩抄 本文]

 抑此の流罪の身になりて候につけて二つの大事あり、一には大なる悦びあり其の故は此の世界をば娑婆と名く娑婆と申すは忍と申す事なり・故に仏をば能忍と名けたてまつる、此の娑婆世界の内に百億の須弥山・百億の日月・百億の四州あり、其の中の中央の須弥山・日月・四州に仏は世に出でまします、此の日本国は其の仏の世に出でまします国よりは丑寅の角にあたりたる小島なり、此の娑婆世界より外の十方の国土は皆浄土にて候へば人の心もやはらかに賢聖をのり悪む事も候はず、此の国土は十方の浄土にすてはてられて候・十悪・五逆・誹謗賢聖・不孝父母・不敬沙門等の科の衆生が三悪道に堕ちて無量劫を経て還つて此の世界に生れて候が、先生の悪業の習気失せずしてややもすれば十悪・五逆を作り賢聖をのり・父母に孝せず沙門をも敬はず候なり、故に釈迦如来・世に出でましませしかば或は毒薬を食に雑て奉り或は刀杖・悪象・師子・悪牛・悪狗等の方便を以て害し奉らんとし・或は女人を犯すと云い・或は卑賤の者・或は殺生の者と云い、或は行き合い奉る時は面を覆うて眼に見奉らじとし、或は戸を閉じ窓を塞ぎ、或は国王大臣の諸人に向つては邪見の者なり高き人を罵者なんど申せしなり、大集経・涅槃経等に見えたり、させる失も仏には・おはしまさざりしかども只此の国のくせ・かたわとして悪業の衆生が生れ集りて候上、第六天の魔王が此の国の衆生を他の浄土へ出さじと・たばかりを成して・かく事にふれて・ひがめる事をなすなり、此のたばかりも詮する所は仏に法華経を説かせまいらせじ料と見えて候、其の故は魔王の習として三悪道の業を作る者をば悦び三善道の業を作る者をば・なげく、又三善道の業を作る者をば・いたうなげかず三乗とならんとする者をば・いたうなげく、又三乗となる者をば・いたうなげかず仏となる業をなす者をば強になげき事にふれて障をなす。
 
 法華経は一文・一句なれども耳にふるる者は既に仏になるべき
と思ひて、いたう第六天の魔王もなげき思う故に方便をまはして留難をなし経を信ずる心をすてしめんと・たばかる、而るに仏の在世の時は濁世なりといへども五濁と始たりし上仏の御力をも恐れ人の貪・瞋・癡・邪見も強盛ならざりし時だにも竹杖外道は神通第一の目連尊者を殺し、阿闍世王は悪象を放て三界の独尊ををどし奉り、提婆達多は証果の阿羅漢・蓮華比丘尼を害し、瞿伽利尊者は智慧第一の舎利弗に悪名を立てき、何に況や世漸く五濁の盛になりて候をや、況や世末代に入りて法華経をかりそめにも信ぜん者の人に・そねみ・ねたまれん事は・おびただしかるべきか、故に法華経に云く「如来の現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」と云云、始に此の文を見候いし時は・さしもやと思い候いしに今こそ仏の御言は違はざりけるものかなと殊に身に当つて思ひ知れて候へ。

日蓮は身に戒行なく心に三毒を離れざれども此の御経を若しや我も信を取り人にも縁を結ばしむるかと思うて随分世間の事おだやか・ならんと思いき、世末になりて候へば妻子を帯して候・比丘も人の帰依をうけ魚鳥を服する僧もさてこそ候か、日蓮はさせる妻子をも帯せず魚鳥をも服せず只法華経を弘めんとする失によりて妻子を帯せずして犯僧の名四海に満ち螻蟻をも殺さざれども悪名一天に弥れり、恐くは在世に釈尊を諸の外道が毀り奉りしに似たり。

 是れ偏に法華経を信ずることの余人よりも少し経文の如く信をも・むけたる故に悪鬼其の身に入つて・そねみを・なすかとをぼえ候へば是れ程の卑賤・無智・無戒の者の二千余年已前に説かれて候・法華経の文にのせられて留難に値うべしと仏記しをかれ・まいらせて候事のうれしさ申し尽くし難く候。

 此の身に学文つかまつりし事やうやく二十四五年にまかりなるなり、法華経を殊に信じまいらせ候いし事はわづかに此の六七年よりこのかたなり、又信じて候いしかども懈怠の身たる上或は学文と云ひ或は世間の事にさえられて一日にわづかに一巻・一品・題目計なり、去年の五月十二日より今年正月十六日に至るまで二百四十余日の程は昼夜十二時に法華経を修行し奉ると存じ候、其の故は法華経の故にかかる身となりて候へば行住坐臥に法華経を読み行ずるにてこそ候へ、人間に生を受けて是れ程の悦びは何事か候べき。

 凡夫の習い我とはげみて菩提心を発して後生を願うといへども自ら思ひ出し十二時の間に一時・二時こそは・はげみ候へ、是は思ひ出さぬにも御経をよみ読まざるにも法華経を行ずるにて候か、無量劫の間・六道・四生を輪回し候いけるには或は謀叛をおこし強盗・夜打等の罪にてこそ国主より禁をも蒙り流罪・死罪にも行はれ候らめ、是は法華経を弘むるかと思う心の強盛なりしに依つて悪業の衆生に讒言せられて・かかる身になりて候へば定て後生の勤には・なりなんと覚え候、是れ程の心ならぬ昼夜十二時の法華経の持経者は末代には有がたくこそ候らめ、又止事なくめでたき事侍り無量劫の間六道に回り候けるには多くの国主に生れ値ひ奉りて或は寵愛の大臣・関白等ともなり候けん、若し爾らば国を給り財宝・官禄の恩を蒙けるか・法華経流布の国主に値ひ奉り其の国にて法華経の御名を聞いて修行し是を行じて讒言を蒙り流罪に行われまいらせて候国主には未だ値いまいらせ候はぬか、法華経に云く「是の法華経は無量の国中に於て乃至名字をも聞くことを得べからず何に況んや見ることを得て受 持し読誦せんをや」と云云、されば此の讒言の人・国主こそ我が身には恩深き人には・をわしまし候らめ。


仏法を習う身には必ず四恩を報ずべきに候か、四恩とは心地観経に云く一には一切衆生の恩、一切衆生なくば衆生無辺誓願度の願を発し難し、又悪人無くして菩薩に留難をなさずばいかでか功徳をば増長せしめ候べき、二には父母の恩、六道に生を受くるに必ず父母あり、其の中に或は殺盗・悪律儀・謗法の家に生れぬれば我と其の科を犯さざれども其の業を成就す、然るに今生の父母は我を生みて法華経を信ずる身となせり、梵天・帝釈・四大天王転輪聖王の家に生まれて三界・四天をゆづられて人天・四衆に恭敬せられんよりも恩重きは今の某が父母なるか、三には国王の恩、天の三光に身をあたため地の五穀に神を養ふこと皆是れ国王の恩なり、其の上今度・法華経を信じ今度・生死を離るべき国主に値い奉れり、争か少分の怨に依つておろかに思ひ奉るべきや、四には三宝の恩、釈迦如来・無量劫の間・菩薩の行を立て給いし時一切の福徳を集めて六十四分と成して功徳を身に得給へり、其の一分をば我が身に用ひ給ふ、今六十三分をば此の世界に留め置きて五濁雑乱の時・非法の盛ならん時・謗法の者・国に充満せん時、無量の守護の善神も法味をなめずして威光・勢力減ぜん時、日月光りを失ひ天竜雨をくださず地神・地味を減ぜん時、草木・根茎・枝葉・華菓・薬等の七味も失せん時、十善の国王も貪瞋癡をまし父母・六親に孝せず・したしからざらん時、我が弟子無智・無戒にして髪ばかりを剃りて守護神にも捨てられて活命のはかりごとなからん比丘比丘尼の命のささへとせんと誓ひ給へり、又果地の三分の功徳・二分をば我が身に用ひ給ひ、仏の寿命・百二十まで世にましますべかりしが八十にして入滅し、残る所の四十年の寿命を留め置きて我等に与へ給ふ恩をば四大海の水を硯の水とし一切の草木を焼て墨となして一切のけだものの毛を筆とし十方世界の大地を紙と定めて注し置くとも争か仏の恩を報じ奉るべき、法の恩を申さば法は諸仏の師なり諸仏の貴き事は法に依る、されば仏恩を報ぜんと思はん人は法の恩を報ずべし、次に僧の恩をいはば仏宝法宝は必ず僧によりて住す、譬えば薪なければ火無く大地無ければ草木生ずべからず、仏法有りといへども僧有りて習伝へずんば正法・像法・二千年過ぎて末法へも伝はるべからず、故に大集経に云く五箇の五百歳の後に無智無戒なる沙門を失ありと云つて・是を悩すは此の人仏法の大燈明を滅せんと思えと説かれたり、然れば僧の恩を報じ難し、されば三宝の恩を報じ給うべし、古の聖人は雪山童子・常啼菩薩・薬王大士・普明王等・此等は皆我が身を鬼のうちかひとなし身の血髄をうり臂をたき頭を捨て給いき、然るに末代の凡夫・三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん、然るに心地観経・梵網経等には仏法を学し円頓の戒を受けん人は必ず四恩を報ずべしと見えたり。

 某は愚癡の凡夫・血肉の身なり三惑一分も断ぜず只法華経の故に罵詈・毀謗せられて刀杖を加えられ流罪せられたるを以て大聖の臂を焼き髄をくだき・頭をはねられたるに・なぞらへんと思ふ、是れ一つの悦びなり。

 第二に大なる歎きと申すは、法華経第四に云く「若し悪人有つて不善の心を以て一劫の中に於て現に仏前に於て常に仏を毀罵せん其の罪尚軽し、若し人一つの悪言を以て在家・出家の法華経を読誦する者を毀呰せん其の罪甚だ重し」等と云云。

 此等の経文を見るに信心を起し身より汗を流し両眼より涙を流すこと雨の如し、我一人此の国に生れて多くの人をして一生の業を造らしむることを歎く、彼の不軽菩薩を打擲せし人現身に改悔の心を起せしだにも猶罪消え難くして千劫阿鼻地獄に堕ちぬ、今我に怨を結べる輩は未だ一分も悔る心もおこさず、是体の人の受くる業報を大集経に説いて云く「若し人あつて千万億の仏の所にして仏身より血を出さん意に於て如何・此の人の罪をうる事寧ろ多しとせんや否や、大梵王言さく若し人只一仏の身より血を出さん無間の罪尚多し、無量にして算をおきても数をしらず阿鼻大地獄の中に堕ちん、何に況や万億の仏身より血を出さん者を見んをや、終によく広く彼の人の罪業・果報を説く事ある事なからん但し如来をば除き奉る、仏の言はく大梵王若し我が為に髪をそり袈裟をかけ片時も禁戒をうけず欠犯をうけん者をなやましのり・杖をもつて打ちなんどする事有らば罪をうる事・彼よりは多し」と。

弘長二年壬戌正月十六日                                 日蓮花押
工藤左近尉殿





by johsei1129 | 2014-06-18 20:24 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)