日蓮大聖人『御書』解説

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2014年 04月 24日 ( 1 )


2014年 04月 24日

人の心を貫く妙法蓮華経は宇宙に遍満し一体であると明した【三世諸仏総勘文教相廃立】一

【三世諸仏総勘文教相廃立(さんぜしょぶつそうかんもんきょうそうはいりゅう】
■出筆時期:弘安2年10月(1279)58歳御作 門下の弟子一同にあてられたと思われる。
■出筆場所:身延山中 草庵
■出筆の経緯:
本抄で大聖人は「我が心の妙法蓮華経の一乗は十方の浄土に周編して闕くること無し、十方の浄土の依報・正報の功徳荘厳は我が心の中に有つて片時も離るること無き三身即一の本覚の如来にて是の外には法無し」と述べ、人の心を貫く妙法蓮華経は、人を取り巻く浄土(宇宙)に遍満し心と一体であることを明かし、さらに「此の心の一法より国土世間も出来する事なり、一代聖教とは此の事を説きたるなり。此れを八万四千の法蔵とは云うなり是れ皆悉く一人の身中の法門にて有るなり、然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり」と解き明かし、八万四千法蔵と膨大な釈尊の一代聖教はつまるところ、一人の心を説き明かしている」と明言している。
■ご真筆: 現存していない。

[三世諸仏総勘文教相廃立 本文] その一

                          弘安二年十月 五十八歳御作 日蓮之を撰す

 夫れ一代聖教とは総べて五十年の説教なり是を一切経とは言うなり、此れを分ちて二と為す・一には化他・二には自行なり、一には化他の経とは法華経より前の四十二年の間説き給える諸の経教なり此れをば権教と云い亦は方便と名く、此れは四教の中には三蔵教・通教・別教の三教なり・五時の中には華厳・阿含・方等・般若なり法華より前の四時の経教なり、又十界の中には前の九法界なり又夢と寤との中には夢中の善悪なり又夢をば権と云い寤をば実と云うなり、是の故に夢は仮に有つて体性無し故に名けて権と云うなり、寤は常住にして不変の心の体なるが故に此れを名けて実と為す、故に四十二年の諸の経教は生死の夢の中の善悪の事を説く故に権教と言う夢中の衆生を誘引し驚覚して法華経の寤と成さんと思食しての支度方便の経教なり故に権教と言う、斯れに由つて文字の読みを糾して心得可きなり、故に権をば権と読む権なる事の手本には夢を以て本と為す又実をば実と読む実事の手本は寤なり、故に生死の夢は権にして性体無ければ権なる事の手本なり故に妄想と云う、本覚の寤は実にして生滅を離れたる心なれば真実の手本なり故に実相と云う、是を以て権実の二字を糾して一代聖教の化他の権と自行の実との差別を知る可きなり、故に四教の中には前の三教と五時の中には前の四時と十法界の中には前の九法界は同じく皆夢中の善悪の事を説くなり故に権教と云う、此の教相をば無量義経に四十余年未顕真実と説き給う已上、未顕真実の諸経は夢中の権教なり故に釈籤に云く「性・殊なること無しと雖も必ず幻に藉りて幻の機と幻の感と幻の応と幻の赴とを発す・能応と所化と並びに権実に非ず」已上、此れ皆夢幻の中の方便の教なり性雖無殊等とは夢見る心性と寤の時の心性とは只一の心性にして総て異ること無しと雖も夢の中の虚事と寤の時の実事と二事一の心法なるを以て見ると思うも我が心なりと云う釈なり、故に止観に云く「前の三教の四弘・能も所も泯す」已上、四弘とは衆生の無辺なるを度せんと誓願し・煩悩の無辺なるを断ぜんと誓願し・法門の無尽なるを知らんと誓願し・無上菩提を証せんと誓願す此を四弘と云う、能とは如来なり所とは衆生なり此の四弘は能の仏も所の衆生も前三教は皆夢中の是非なりと釈し給えるなり、然れば法華以前の四十二年の間の説教たる諸経は未顕真実の権教なり方便なり、法華に取寄る可き方便なるが故に真実には非ず、此れは仏自ら四十二年の間説き集め給いて後に、今法華経を説かんと欲して先ず序分の開経の無量義経の時・仏自ら勘文し給える教相なれば人の語も入る可からず不審をも生す可からず、故に玄義に云く「九界を権と為し仏界を実と為す」已上、九法界の権は四十二年の説教なり仏法界の実は八箇年の説・法華経是なり、故に法華経をば仏乗と云う九界の生死は夢の理なれば権教と云い仏界の常住は寤の理なれば実教と云う、故に五十年の説教・一代の聖教・一切の諸経は化他の四十二年の権教と自行の八箇年の実教と合して五十年なれば権と実との二の文字を以て鏡に懸けて陰無し。

 故に三蔵教を修行すること三僧祇・百大劫を歴て終りに仏に成らんと思えば我が身より火を出して灰身入滅とて灰と成つて失せるなり、通教を修行すること七阿僧祇・百大劫を満てて仏に成らんと思えば前の如く同様に灰身入滅して跡形も無く失せぬるなり、別教を修行すること二十二大阿僧祇・百千万劫を尽くして終りに仏に成りぬと思えば生死の夢の中の権教の成仏なれば本覚の寤の法華経の時には別教には実仏無し夢中の果なり故に別教の教道には実の仏無しと云うなり、別教の証道には初地に始めて一分の無明を断じて一分の中道の理を顕し始めて之を見れば別教は隔歴不融の教と知つて円教に移り入つて円人と成り已つて別教には留まらざるなり上中下三根の不同有るが故に初地・二地・三地・乃至・等覚までも円人と成る故に別教の面に仏無きなり、故に有教無人と云うなり、故に守護国界章に云く「有為の報仏は夢中の権果前三教の修行の仏無作の三身は覚前の実仏なり後の円教の観心の仏」又云く「権教の三身は未だ無常を免れず前三教の修行の仏実教の三身は倶体倶用なり後の円教の観心の仏」此の釈を能く能く意得可きなり、権教は難行苦行して適仏に成りぬと思えば夢中の権の仏なれば本覚の寤の時には実仏無きなり、極果の仏無ければ有教無人なり況や教法実ならんや之を取つて修行せんは聖教に迷えるなり、此の前三教には仏に成らざる証拠を説き置き給いて末代の衆生に慧解を開かしむるなり九界の衆生は一念の無明の眠の中に於て生死の夢に溺れて本覚の寤を忘れ夢の是非に執して冥きより冥きに入る、是の故に如来は我等が生死の夢の中に入つて顛倒の衆生に同じて夢中の語を以て夢中の衆生を誘い夢中の善悪の差別の事を説いて漸漸に誘引し給うに、夢中の善悪の事重畳して様様に無量・無辺なれば先ず善事に付いて上中下を立つ三乗の法是なり、三三九品なり、此くの如く説き已つて後に又上上品の根本善を立て上中下・三三九品の善と云う、皆悉く九界生死の夢の中の善悪の是非なり今是をば総じて邪見外道と為す捜要記の意、此の上に又上上品の善心は本覚の寤の理なれば此れを善の本と云うと説き聞かせ給し時に夢中の善悪の悟の力を以ての故に寤の本心の実相の理を始めて聞知せられし事なり、是の時に仏説いて言く夢と寤との二は虚事と実事との二の事なれども心法は只一なり、眠の縁に値いぬれば夢なり眠去りぬれば寤の心なり心法は只一なりと開会せらるべき下地を造り置かれし方便なり此れは別教の中道の理是の故に未だ十界互具・円融相即を顕さざれば成仏の人無し故に三蔵教より別教に至るまで四十二年の間の八教は皆悉く方便・夢中の善悪なり、只暫く之を用いて衆生を誘引し給う支度方便なり此の権教の中にも分分に皆悉く方便と真実と有りて権実の法闕けざるなり、四教一一に各四門有つて差別有ること無し語も只同じ語なり文字も異ること無し斯れに由つて語に迷いて権実の差別を分別せざる時を仏法滅すと云う是の方便の教は唯穢土に有つて総じて浄土には無きなり法華経に云く「十方の仏土の中には唯一乗の法のみ有つて二無く亦三も無し仏の方便の説をば除く」已上、故に知んぬ十方の仏土に無き方便の教を取つて往生の行と為し十方の浄土に有る一乗の法をば之を嫌いて取らずして成仏す可き道理有る可しや否や一代の教主釈迦如来・一切経を説き勘文し給いて言く三世の諸仏同様に一つ語一つ心に勘文し給える説法の儀式なれば我も是くの如く一言も違わざる説教の次第なり云云、方便品に云く「三世の諸仏の説法の儀式の如く我も今亦是くの如く無分別の法を説く」已上、無分別の法とは一乗の妙法なり善悪を簡ぶこと無く草木・樹林・山河・大地にも一微塵の中にも互に各十法界の法を具足す我が心の妙法蓮華経の一乗は十方の浄土に周編して闕くること無し十方の浄土の依報・正報の功徳荘厳は我が心の中に有つて片時も離るること無き三身即一の本覚の如来にて是の外には法無し此の一法計り十方の浄土に有りて余法有ること無し故に無分別法と云う是なり、此の一乗妙法の行をば取らずして全く浄土には無き方便の教を取つて成仏の行と為さんは迷いの中の迷いなり、我仏に成りて後に穢土に立ち還りて穢土の衆生を仏法界に入らしめんが為に次第に誘引して方便の教を説くを化他の教とは云うなり、故に権教と言い又方便とも云う化他の法門の有様大体略を存して斯くの如し。

その二に続く

by johsei1129 | 2014-04-24 21:06 | 血脈・相伝・講義 | Comments(0)