人気ブログランキング |

日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ

2014年 04月 12日 ( 1 )


2014年 04月 12日

妙法蓮華経と唱えることで己心中の仏性が呼ばれて必ず顕れる事を明らかにした書【法華初心成仏抄】四

[法華初心成仏抄 本文] その四
 問うて云く無智の人も法華経を信じたらば即身成仏すべきか、又何れの浄土に往生すべきぞや、答えて云く法華経を持つにおいては深く法華経の心を知り止観の坐禅をし一念三千・十境・十乗の観法をこらさん人は実に即身成仏し解を開く事もあるべし、其の外に法華経の心をもしらず無智にしてひら信心の人は浄土に必ず生べしと見えたり、されば生十方仏前と説き或は即往安楽世界と説きき、是の法華経を信ずる者の往生すと云う明文なり、之に付いて不審あり其の故は我が身は一にして十方の仏前に生るべしと云う事心得られず、何れにてもあれ一方に限るべし正に何れの方をか信じて往生すべきや、答えて云く一方にさだめずして十方と説くは最もいはれあるなり、所以に法華経を信ずる人の一期終る時には十方世界の中に法華経を説かん仏のみもとに生るべきなり、余の華厳・阿含・方等・般若経を説く浄土へは生るべからず、浄土十方に多くして声聞の法を説く浄土もあり辟支仏の法を説く浄土もあり或は菩薩の法を説く浄土もあり、法華経を信ずる者は此等の浄土には一向生れずして法華経を説き給う浄土へ直ちに往生して座席に列りて法華経を聴聞してやがてに仏になるべきなり、然るに今世にして法華経は機に叶はずと云いうとめて西方浄土にて法華経をさとるべしと云はん者は阿弥陀の浄土にても法華経をさとるべからず十方の浄土にも生るべからず、法華経に背く咎重きが故に永く地獄に堕つべしと見えたり、其人命終入阿鼻獄と云へる是なり。

 問うて云く即往安楽世界阿弥陀仏と云云、此の文の心は法華経を受持し奉らん女人は阿弥陀仏の浄土に生るべしと説き給へり念仏を申しても阿弥陀の浄土に生るべしと云ふ、浄土既に同じ念仏も法華経も等と心え候べきか如何、答えて云く観経は権教なり法華経は実教なり全く等しかるべからず其の故は仏世に出でさせ給いて四十余年の間・多くの法を説き給いしかども二乗と悪人と女人とをば簡(きら)ひはてられて成仏すべしとは一言も仰せられざりしに此の経にこそ敗種の二乗も三逆の調達も五障の女人も仏になるとは説き給い候つれ、其の旨経文に見えたり、華厳経には「女人は地獄の使なり仏の種子を断ず外面は菩薩に似て内心は夜叉の如し」と云へり、銀色女経には三世の諸仏の眼は抜けて大地に落つるとも法界の女人は永く仏になるべからずと見えたり、又経に云く「女人は大鬼神なり能く一切の人を喰う」と、竜樹菩薩の大論には一度女人を見れば永く地獄の業を結ぶと見えたり・されば実にてやありけん善導和尚は謗法なれども女人をみずして一期生と云はれたり、又業平が歌にも葎(むぐら)をいて・あれたるやどのう(憂)れたきは・かりにも鬼の・す(集)だくなりけりと云うも女人をば鬼とよめるにこそ侍れ、又女人には五障三従と云う事有るが故に罪深しと見えたり、五障とは一には梵天王・二には帝釈・三には魔王・四には転輪聖王・五には仏にならずと見えたり、又三従とは女人は幼き時は親に従いて心に任せず、人となりては男に従いて心にまかせず、年よりぬれば子に従いて心にまかせず加様に幼き時より老耄に至るまで三人に従て心にまかせず思う事をもいはず見たき事をもみず聴問したき事をもきかず是を三従とは説くなり、されば栄啓期が三楽を立てたるにも女人の身と生れざるを一の楽みといへり、加様に内典・外典にも嫌はれたる女人の身なれども此の経を読まねども・かかねども身と口と意とにうけ持ちて殊に口に南無妙法蓮華経と唱へ奉る女人は在世の竜女・憍曇弥(きょうどんみ)・耶輸陀羅(やしゅたら)女の如くに・やすやすと仏になるべしと云う経文なり、又安楽世界と云うは一切の浄土をば皆安楽と説くなり、又阿弥陀と云うも観経の阿弥陀にはあらず、所以に観経の阿弥陀仏は法蔵比丘の阿弥陀・四十八願の主十劫成道の仏なり、法華経にも迹門の阿弥陀は大通智勝仏の十六王子の中の第九の阿弥陀にて法華経大願の主の仏なり、本門の阿弥陀は釈迦分身の阿弥陀なり随つて釈にも「須く更に観経等を指すべからざるなり」と釈し給へり。

 問うて云く経に難解難入と云へり世間の人・此の文を引いて法華経は機に叶はずと申し候は道理と覚え候は如何、答えて云く謂れなき事なり其の故は此の経を能(よく)も心えぬ人の云う事なり、法華より已前の経は解り難く入り難し法華の座に来りては解り易く入り易しと云う事なり、されば妙楽大師の御釈に云く「法華已前は不了義なるが故に・故に難解と云う即ち今の教には咸く皆実に入るを指す故に易知と云う」文、此の文の心は法華より已前の経にては機つたなくして解り難く入り難し、今の経に来りては機賢く成りて解り易く入り易しと釈し給へり、其の上難解難入と説かれたる経が機に叶はずば先念仏を捨てさせ給うべきなり、其の故は雙観経に「難きが中の難き此の難に過ぎたるは無し」と説き阿弥陀経には難信の法と云へり、文の心は此の経を受け持たん事は難きが中の難きなり此れに過ぎたる難きはなし難信の法なりと見えたり。

 問うて云く経文に「四十余年未だ真実を顕さず」と云い、又「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過るとも終に無上菩提を成ずることを得じ」と云へり、此の文は何体(いかてい)の事にて候や、答えて云く此の文の心は釈迦仏・一期五十年の説法の中に始めの華厳経にも真実をとかず中の方等・般若にも真実をとかず、此の故に禅宗・念仏・戒等を行ずる人は無量無辺劫をば過ぐとも仏にならじと云う文なり、仏四十二年の歳月を経て後・法華経を説き給ふ文には「世尊の法は久くして後に要らず当に真実を説き給うべし」と仰せられしかば、舎利弗等の千二百の羅漢・万二千の声聞・弥勒等の八万人の菩薩・梵王・帝釈等の万億の天人・阿闍世王等の無量無辺の国王・仏の御言を領解する文には「我等昔より来数(このかた・しばしば)世尊の説を聞きたてまつるに未だ曾つて是くの如き深妙の上法を聞かず」と云つて、我等仏に離れ奉らずして四十二年・若干の説法を聴聞しつれども・いまだ是くの如き貴き法華経をばきかずと云へる、此等の明文をば・いかが心えて世間の人は法華経と余経と等しく思ひ剰(あまつさ)へ機に叶はねば闇の夜の錦・こぞの暦なんど云ひて、適(たまたま)持つ人を見ては賤(いやし)み軽しめ悪み嫉み口をすくめなんどする是れ併(しかしなが)ら謗法なり争(いかで)か往生成仏もあるべきや、必ず無間地獄に堕つべき者と見えたり。

[法華初心成仏抄 本文] その五に続く




by johsei1129 | 2014-04-12 19:31 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)