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日蓮大聖人『御書』解説

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2026年 05月 06日

弟子の心得 32

凡そ法華経と申すは一切衆生・皆成仏道の要法なり。されば大覚世尊は「説時・未だ至らざる故なり」と説かせ給いて・説く可き時節を待たせ給いき。例せば郭公(ほととぎす)の春をおくり、鶏鳥(にわとり)の暁を待ちて鳴くが如くなり。此れ即ち時を待つ故なり。
 されば涅槃経に云く「時を知るを以ての故に大法師と名づく」と説かれたり。
 今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益(りしょう・とくやく)あるべき時なり。されば此の題目には余事を交えば僻事(ひがごと)なるべし。此の妙法の大曼荼羅を身に持ち・心に念じ・口に唱え奉るべき時なり。之に依つて一部二十八品の頂上に南無妙法蓮華経・序品第一と題したり。

一 蓮華
 とは本因本果なり。此の本因本果と云うは一念三千なり。本有(ほんぬ)の因・本有の果なり。今始めたる因果に非ざるなり。五百塵点の法門とは此の事を説かれたり。
 本因の因と云うは下種の題目なり。本果の果とは成仏なり。因と云うは信心領納(りょうのう)の事なり。此の経を持ち奉る時を本因とす。其の本因のまま成仏なりと云うを本果とは云うなり。
 日蓮が弟子檀那の肝要は本果より本因を宗とするなり。本因なくしては本果有る可からず。仍て本因とは慧(え)の因にして名字即の位なり、本果は果にして究竟即の位なり。究竟即とは九識本覚の異名なり。九識本法の都とは法華の行者の住所なり。神力品に云く、若しは山谷曠野(せんごく・こうや)等と説けり。即ち是れ道場と見えたり。豈(あに)法華の行者の住所は生処・得道・転法輪・入涅槃の諸仏の四処の道場に非ずや。
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一 爾前無得道の事
 此の法門は蓮華の二字より起れり。其の故は蓮華の二字を以て云うなり。三世の諸仏の成道を唱うるは蓮華の二字より出でたり。
 権教に於て蓮華の沙汰無し。若しありと云うとも有名無実の蓮華なるべし。三世の諸仏の本時の下種を指して華と名け、此の下種の華によつて成仏の蓮を取る。妙法蓮華即ち下種なり、下種即ち南無妙法蓮華経なり。
 華は本因・蓮は本果なれば、華の本因を不信謗法の人、豈具足せんや。経に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん」云云。此の蓮華に迷う故に十界具足無し。十界具足せざれば一念三千・跡形無きなり。 
 一切の法門は蓮華の二字より起れり。一代説教に於て無得道と云うも蓮華の二字より起れり。深く之を案ず可し。

一 如是我聞の事
 仰せに云く、如と云うは衆生の如と・仏の如と一如にして無二如なり。然りと雖も九界と仏界と分れたるを是と云うなり。
 如は如を不異に名く。即ち空の義なりと釈して少しも・ことならざるを云うなり。所詮・法華経の意は煩悩即菩提・生死即涅槃・生仏不二・迷悟一体といえり。是を如とは云うなり。されば如は実相・是は諸法なり。又如は心法・是は色法、如は寂・是は照なり。如は一念・是は三千なり。今経の心は文文・句句・一念三千の法門なり。
 惣じて如是我聞の四字より外は・今経の体全く無きなり。如と妙とは同じ事、是とは法と又同じ事なり。法華経と釈尊と我等との三、全く不同無く・如我等無異なるを如と云うなり。仏は悟り・凡夫は迷なりと云うを是とは云うなり。我聞と云うは、我は阿難なり、聞とは耳の主(じゅ)と釈せり、聞とは名字即なり。
 如是の二字は妙法なり。阿難を始めて霊山一会(りょうぜんいちえ)の聴衆・同時に妙法蓮華経の五字を聴聞せり。仍つて我も聞くと云えり。されば相伝の点には如は是なりきと我れ聞くといえり。
 所詮末法当今には南無妙法蓮華経を我も聞くと心得べきなり。我は真如法性の我なり。天台大師は同聞衆と判ぜり、同じ事を聞く衆と云うなり。同とは妙法蓮華経なり。聞は即身成仏・法華経に限ると聞くなり云云。

一 十如是の事
 仰せに云く、此の十如是は法華経の眼目・一切経の惣要たり。されば此の十如是を開覚しぬれば諸法に於て迷悟無く・実相に於て染浄(せんじょう)無し。之れに依つて天台大師は、止観の十章も此の十如是より釈出せり。然る間・十如是に過ぎたる法門更に以て之れ無し。
 爰を以て和尚授けて云く「十大章は是れ全く十如是。若し大意を覚る時、性如是の意を以て下の玄如の図を分別す可し」と。
 十如是を十大章に習う事は性如是は大意・相如是は釈名・体如是は体相・力如是は摂法(しょうほう)・作如是は偏円・縁如是は方便・因如是は正観・果報如是は果報・本末究竟如是は旨帰なり。此の中に起教の章は化他利物・果上化用(けた・りもつ・かじょう・けゆう)と云うなり云云。

一 今我喜無畏の事
 仰せに云く、此の文は権教を説き畢らせ給いて法華経を説かせ給う時なれば、喜びておそれなしと観じ給えり。其の故は爾前の間は一切衆生を畏れ給えり。若し法華経を説かずして空しくやあらんずらんと思召(おぼしめ)して畏れ深くありと云う文なり。さて今は恐るべき事なく、時節・来つて説く間・畏れなしと喜び給えり。
 今日蓮等の類も是くの如く、日蓮も三十二までは畏れありき。若しや此の南無妙法蓮華経を弘めずして・あらんずらんと畏れありき。今は即ち此の恐れ無く・既に末法当時・南無妙法蓮華経の七字を日本国に弘むる間・恐れなし。終には一閻浮提に広宣流布せん事・一定(いちじょう)なるべし云云。

一 有大長者の事
 我等衆生の振舞の当体・仏の振舞なり。此の当体のふるまいこそ長者なれ。仍つて観心の長者は我等凡夫なり。然るに末法当今の法華経の行者より外に観心の長者無きなり。
 今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者、無上宝聚・不求自得の長者に非ずや。既称此人為仏(きしょうしにん・いぶつ)の六字に心を留めて案ずべきなり云云。

一 等一大車の事
 仰せに云く、此の大車とは直至道場(じきし・どうじょう)の大白牛車にして其の疾(はや)きこと風の如し。
 所詮南無妙法蓮華経を等一大車と云うなり。等と云うは諸法実相なり。一とは唯有一乗法なり。大とは大乗なり。車とは一念三千なり。仍つて釈には等の字を子等車等と釈せり。子等の等と如我等無異の等とは同なり。車等の等は平等大慧の等なり。
 今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者は男女・貴賤共に無上宝聚・不求自得の金言を持つ者なり。智者・愚者をきらわず共に即身成仏なり云云。
 疏の五に云く「一に等子・二に等車、子等しきを以ての故に則ち心等し。一切衆生等しく仏性有るに譬う。仏性同じきが故に等しく是れ子なり。第二に車等とは法等しきを以ての故に仏法に非ざること無し。一切法・皆摩訶衍(まかえん)なるに譬う。摩訶衍同じきが故に等しく是れ大車なり。而して各賜と言うは各々本習(ほんじゅう)に随う。四諦・六度・無量の諸法・各各旧習(おのおの・くじゅう)に於て真実を開示す。旧習同じからず、故に各と言う。皆摩訶衍なり故に大車と言う」云云。

一 其車高広(ごしゃこうこう)の事
 仰せに云く、此の車は南無妙法蓮華経なり。即ち我等衆生の体なり。法華一部の総体なり。高広とは仏知見なり。されば此の車を方便品の時は諸仏智慧と説き、其の智慧を甚深無量と称歎(しょうたん)せり。歎の言には甚深無量とほめたり、爰(ここ)には其車と説いて高広とほめたり。
 されば文句の五に云く「其車高広の下は如来の知見深遠なるに譬う。横に法界の辺際(へんざい)に周く、堅(たて)に三諦の源底(げんてい)に徹す。故に高広と言うなり」と。
 所詮此の如来とは一切衆生の事なり。既に諸法実相の仏なるが故なり。知見とは色心の二法なり。知は心法・見は色法なり。色心二法を高広と云えり。高広即本迹二門なり、此れ即ち南無妙法蓮華経なり云云。

一 乗此宝乗・直至道場の事
 仰せに云く、此の経文は我等衆生の煩悩即菩提・生死即涅槃を明かせり。
 其の故は文句の五に云く「此の因・易(かわ)ること無きが故に直至と云う」と。
 此の釈の心は爾前の心は煩悩を捨てて生死を厭(いと)うて別に菩提涅槃を求めたり。法華経の意は煩悩即菩提・生死即涅槃と云えり。直と即とは同じ事なり。
 所詮日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処即寂光土と心得可きなり。然れば此の実乗に乗じて忽ちに妙覚極果の位に至るを直至道場とは云うなり。直至と云う文の意は四十二位を爰(ここ)にて極めたり。
 此の直の一字は地獄即寂光・餓鬼即寂光土なり。法華経の行者の住処、山谷曠野なりとも直至道場なり。道場とは究竟(くきょう)の寂光なり。仍つて乗此宝乗の上の乗は法華の行者、此の品の意にては中根の四大声聞なり、惣じて一切衆生の事なり、今末法に入つては日蓮等の類いなり。
 宝乗の乗の字は大白牛車の妙法蓮華経なり。然れば上の乗は能乗・下の乗は所乗なり。宝乗は蓮華なり。釈迦・多宝等の諸仏も此の宝乗に乗じ給えり。此れを提婆品に重ねて説く時「若在仏前・蓮華化生」と云云。
 釈迦・多宝の二仏は我等が己心なり。此の己心の法華経に値い奉つて成仏するを顕わさんとして釈迦・多宝・二仏・並座(びょうざ)して乗此宝乗・直至道場を顕わし給えり。
 此の乗とは車なり、車は蓮華なり。此の蓮華の上の妙法は我等が生死の二法・二仏なり。直至の至は此れより彼(かしこ)へいたるの至るには非ず。住処即寂光と云うを至とは云うなり。
 此の宝乗の宝は七宝の大車なり。七宝即ち頭上の七穴・七穴即ち末法の要法・南無妙法蓮華経是なり。此の題目の五字、我等衆生の為には三途の河にては船となり、紅蓮地獄(ぐれんじごく)にては寒さをのぞき、焦熱地獄にては凉風となり、死出の山にては蓮華となり、渇せる時は水となり、飢えたる時は食となり、裸かなる時は衣となり、妻となり子となり、眷属となり家となり、無窮(むぐう)の応用を施して一切衆生を利益し給うなり。直至道場とは是なり。仍つて此の身を取りも直さず寂光土に居るを直至道場とは云うなり。直の字に心を留めて之を案ず可し云云。

一 若人不信 毀謗此経 則断一切 世間仏種の事
 仰に云く、此の経文の意は小善成仏を信ぜずんば一切世間の仏種を断ずと云う事なり。
 文句の五に云く「今経に小善成仏を明す。此れは縁因を取つて仏種と為す。若し小善の成仏を信ぜずんば則ち一切世間の仏種を断ずるなり」文。
 爾前経の心は小善成仏を明さざるなり。法華経の意は一華・一香の小善も法華経に帰すれば大善となる。縦い法界に充満せる大善なりとも・此の経に値わずんば善根とはならず。譬えば諸河の水・大海に入りぬれば鹹(うしほ)の味となる、入らざれば本の水なり。法界の善根も法華経へ帰入せざれば善根とはならざるなり。
 されば釈に云く「断一切仏種とは浄名には煩悩を以て如来の種と為す。此れ境界性(きょうがいしょう)を取るなり」と。
 此の釈の心は浄名経の心ならば我等衆生の一日一夜に作(な)す所の罪業・八億四千の念慮を起す。余経の意は皆三途の業因と説くなり。法華経の意は此の業因・即ち仏ぞと明せり。されば煩悩を以て如来の種子とすと云うは此の義なり。
 此の浄名経の文は正しく文在爾前・義在法華の意なり。此の境界性と云うは末師・釈する時、能生煩悩・名境界性と判ぜり。我等衆生の眼耳(げんに)等の六根に妄執を起すなり。是を境界性と云うなり。権教の意は此の念慮を捨てよと説けり、法華経の心は此の境界性の外に三因仏性の種子なし、是れ即ち三身円満の仏果となるべき種性なりと説けり。
 此の種性を権教を信ずる人は之を知らず・此の経を謗るが故に凡夫即極の義をも知らず、故に一切世間の仏種を断ずるなり。されば六道の衆生も三因仏性を具足して終に三身円満の尊容(そんよう)を顕す可き所に、此の経を謗ずるが故に六道の仏種をも断ずるなり。
 されば妙楽大師云く「此の経は遍く六道の仏種を開す。若し此の経を謗ずるは義・断に当るなり」と。
 所詮日蓮が意は一切の言は十界をさす。此の経を謗ずるは十界の仏種を断ずるなり。されば誹謗の二字を大論に云く「口に謗(そし)るを誹と云い、心に背くを謗と云う」と。仍つて色心三業に経て法華経を謗じ奉る人は入阿鼻獄疑い無きなり。所謂弘法・慈覚・智証・善導・法然・達磨等の大謗法の者なり。今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る、豈三世の諸仏の仏種を継ぐ者に非ずや云云。

一 現世安穏・後生善処の事
 仰に云く、所詮此の妙法蓮華経を聴聞し奉るを現世安穏とも後生善処とも云えり。既に上に「是の法を聞き已(おわ)って」と説けり。聞は名字即の凡夫なり。妙法を聞き奉る所にて即身成仏と聞くなり。「若し能く持つこと有らば・即ち仏身を持つなり」とは是なり。
 聞く故に・持ち奉るの故に三類の強敵来たる。来たるを以て現世安穏の記文顕れたり。法華の行者なる事疑ひ無きなり。法華の行者はかかる大難に値うべしと見えたり。大難に値うを以て後生善処の成仏は決定せり。是れ豈現世にして安穏なるに非ずや。
 後生善処は提婆品に分明に説けり。所詮現世安穏とは法華経を信じ奉れば三途(さんず)八難の苦をはなれ、善悪上下の人までも皆教主釈尊・同等の仏果を得て自身本覚の如来なりと顕す。自身の当体・妙法蓮華経の薬草なれば現世安穏なり。爰(ここ)を開くを後生善処と云うなり。
 妙法蓮華経と云うは妙法の薬草なり。所詮現世安穏は色法・後生善処は心法なり。十界の色心・妙法と開覚するを現世安穏・後生善処とは云うなり。所詮法華経を弘むるを以て現世安穏・後生善処と申すなり云云。

一 根茎枝葉(こんきょうしよう)の事
 仰せに云く、此の文をば釈には信戒定慧と云云。此の釈の心は、草木は此の根茎枝葉を以て増長と云うなり。仏法修行するも又斯(か)くの如し。
 所詮我等衆生・法華経を信じ奉るは根をつけたるが如し。法華経の文の如く是名持戒の戒体を本として正直捨方便・但説無上道の如くなるは戒なり。法華経の文相にまかせて法華三昧を修するは定なり。題目を唱え奉るは慧なり。
 所謂(いわゆる)法界悉く生住異滅するは信、己己本分は戒、三世不改なるは定なり・各各の徳義を顕したるは慧なり。是れ即ち法界平等の根茎枝葉なり。是れ即ち真如実相の振舞なり。
 所謂戒定慧の三学・妙法蓮華経なり。此れを信ずるを根と云うなり。釈に云く「三学倶に伝うるを名けて妙法と曰う」と云云。

一 根茎枝葉の事
  仰せに云く、此れは我等が一身なり。根とは心法なり、茎とは我等が頭より足に至るまでなり、枝とは手足なり、葉とは毛なり、此の四を根茎枝葉と説けり。法界三千・此の四を具足せずと云う事なし。是れ即ち信戒定慧の体にして実相一理の南無妙法蓮華経の体なり。法華不信の人は根茎枝葉ありて増長あるべからず、枯槁(ここう)の衆生なるべし云云。

一 等雨法雨の事
 仰せに云く、等とは平等の事なり。善人・悪人・二乗・闡提(せんだい)・正見・邪見等の者にも妙法の雨を惜しまず平等にふらすと云う事なり。されば法の雨を雨(ふら)すと云う時は、大覚世尊ふらしてに成り給えり。さて法の雨ふりてとよむ時は、本より実相平等の法雨は常住本有の雨なれば今始めてふるべきに非ず。
 されば諸法実相を譬喩品の時は風月に譬えたり。妙楽大師は何ぞ隠れ・何ぞ顕れんと釈せり。実相の法雨は三世常恒にして隠顕更に無きなり。所詮等の字はひとしくとよむ時は、釈迦如来の平等の慈悲なり。さてひとしきとよむ時は平等大慧の妙法蓮華経なり。ひとしく法の雨をふらすとは能弘(のうぐ)につけたり。ひとしき法の雨ふりたりと読む時は所弘(しょぐ)の法なり。
 所詮法と云うは十界の諸法なり。雨とは十界の言語・音声の振舞なり。ふるとは自在にして地獄は洞燃猛火(どうねんもうか)乃至仏界の上の所作音声を等雨法雨とは説けり。此の等雨法雨は法体(ほったい)の南無妙法蓮華経なり。
 今末法に入つて日蓮等の類いの弘通する題目は等雨法雨の法体なり。此の法雨・地獄の衆生・餓鬼・畜生等に至るまで同時にふりたる法雨なり。日本国の一切衆生の為に付属し給う法雨は題目の五字なり。所謂日蓮建立の御本尊・南無妙法蓮華経是なり云云。
 方便品には本末究竟等と云えり。譬喩品には等一大車と云えり。此の等の字を重ねて説かれたり。或は如我等無異と云えり。此の等の字は宝塔品の「如是如是」と同じなり。所詮等とは南無妙法蓮華経なり。法雨をふらすとは今身より仏身に至るまで持つや否やと云う受持の言語なり云云。

一 如従飢国来(にょじゅう・けこくらい)・忽遇大王膳(こつぐう・だいおうぜん)の事
 仰せに云く、此の文は中根の四大声聞・法華に来れる事、譬えば・うえたる国より来たりて大王のそなえに値うが如くの歓喜なりと云えり。
 然らば此の文の如くならば法華已前の人は餓鬼界の衆生なり。既に飢国来と説けり。大王膳とは醍醐味なり。中根の声聞・法華に来つて一乗醍醐の法味を得て忽(たちまち)に法王の位に備りたり。忽(こつ)の字は爾前の迂廻道(うえどう)の機に対して忽と云うなり。速疾頓成(そくしつ・とんじょう)の義を忽と云うなり。仮令(たとえ)ば外用(げゆう)の八相を唱うる事は所化をして仏道に進めんが為なり。
 所詮末法に入つては謗法の人人は餓鬼界の衆生なり。此の経に値い奉り・南無妙法蓮華経に値い奉る事は、併(しかしなが)ら大王膳たり。忽遇の遇の字肝要たり。
 釈に云く「成仏の難きには非ず。此の経に値うをかたしとす」と云えり。
 不軽品に云く「復遇(ぶぐう)常不軽」と云云。
 厳王品に云く「生値(しょうち)仏法」云云。
 大王の膳に値いたり、最も以て南無妙法蓮華経を信受し奉る可きなり。
 此の経文の如くならば法華より外の一切衆生はいかに高貴の人なりとも餓鬼道の衆生なり。十羅刹女は餓鬼界の羅刹(らせつ)なれども法華経を受持し奉る故に餓鬼に即する一念三千なり。法華へ来らずんば何れも餓鬼飢饉の苦しみなるべし。
 所詮必ず中根の声聞領解(りょうげ)の言に我が身を餓鬼に類する事は、餓鬼は法界に食(じき)ありと云えども食する事を得ざるなり。諸法実相の一味の醍醐の妙法あれども・終に開覚(かいかく)に能(あた)はざる間・四十余年食にうえたり云云。
 一義に云く、序品・方便より諸法実相の甘露顕れて南無妙法蓮華経あれども、広略二重の譬説段まで悟らざるは餓鬼の満満とある食事をくらわざるが如し。
 所詮日本国の一切衆生は餓鬼界の衆生なり。大王膳とは所謂南無妙法蓮華経・是なり。遇の字には人法を納めたり。仍つて末に如飢須教食(にょけしゅ・きょうじき)と云えり。う(飢)えたるとも大王の・をしえを待ちて醍醐を食するが如しと云えり。
 今南無妙法蓮華経有れども・今身より仏身に至るまでの受持をうけずんば成仏は之れ有るべからず。教とは爾前無得道・法華成仏の事なり。此の教をうけずんば法華経を読誦すとも大王の位に登る事・之れ有る可からず。醍醐は題目の五字なり云云。

一 貧人見此珠・其心大歓喜の事
 仰せに云く、此珠とは一乗無価の宝珠なり。貧人とは下根の声聞なり。惣じて一切衆生なり。
 所詮末法に入つて此珠とは南無妙法蓮華経なり。貧人とは日本国の一切衆生なり。此の題目を唱え奉る者は心・大歓喜せり。
 されば見宝塔と云う見と此珠とは同じ事なり。所詮此珠とは我等衆生の一心なり・一念三千なり。此の経に値い奉る時、一念三千と開くを珠を見るとは云うなり。
 此の珠は広く一切衆生の心法なり。此の珠は体中にある財用なり。一心に三千具足の財(たから)を具足せり。此の珠を方便品にして諸法実相と説き、譬喩品にては大白牛車・三草二木・五百由旬の宝塔・共に皆・一珠の妙法蓮華経の宝珠なり。
 此の経文・色心の実相歓喜を説けり。見此珠(けんししゅ)の見は色法なり、其心大(ごしんだい)と云うは心法なり。色心共に歓喜なれば大歓喜と云うなり。
 所詮此珠と云うは我等衆生の心法なり。仍つて一念三千の宝珠なり。所謂妙法蓮華経なり。今末代に入つて此の珠を顕す事は日蓮等の類いなり。所謂未曾有の大曼荼羅こそ正しく一念三千の宝珠なれ。
 見の字は日本国の一切衆生、広くは一閻浮提の衆生なり。然りと雖も其心大歓喜と云う時は日蓮が弟子檀那等の信者をさすなり。所詮煩悩即菩提・生死即涅槃と体達する其の心大歓喜なり。されば我等衆生・五百塵点の下種の珠を失いて、五道・六道に輪廻(りんね)し貧人となる。近くは三千塵点の下種を捨てて備輪諸道(びりんしょどう)せり。之れに依つて貧人と成る。今此の珠を釈尊に値い奉りて見付け得て・本の如く取り得たり。此の故に心大歓喜せり。
 末法当今に於いて妙法蓮華経の宝珠を受持し奉りて己心を見るに、十界互具・百界千如・一念三千の宝珠を分明に具足せり。是れ併ら末法の要法たる題目なり云云。

一 如甘露見潅(にょかんろ・けんかん)の事
 仰せに云く、甘露とは天上の甘露なり。されば妙楽大師云く「実相常住は甘露の如し。是れ不死の薬なり」云云。此の釈の心は諸法実相の法体をば甘露に譬えたり。甘露は不死の薬と云えり。
 所詮妙とは不死の薬なり。此の心は不死とは法界を指すなり。其の故は森羅三千の万法を不思議と歎じたり。生住異滅の当位当位・三世常恒なるを不死と云う。本法の徳として水はくだりつめたく、火はのぼりあつし。此れを妙と云う。此れ即ち不思議なり。此の重を不死とは云うなり。甘露と妙とは同じ事なり。
 然らば法界の儘(まま)に閣(さしお)いて・妙法なりと説くを本法とも甘露とも云えり。火は水にきゆる、本法にして不死なり。十界己己の当位・当位の振舞・常住本有なるを甘露とも・妙法とも・不思議とも・本法とも・止観とも云えり。所詮末法に入つて甘露とは南無妙法蓮華経なり。見潅とは受持の一行なり云云。


by johsei1129 | 2026-05-06 15:25 | Trackback | Comments(0)


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