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日蓮大聖人『御書』解説

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2026年 05月 04日

弟子の心得 30

 第一 普賢(ふげん)菩薩の事 文句の十に云く「勧発(かんぱつ)とは恋法の辞なり」と。 御義口伝に云く、勧発とは勧は化他。発は自行なり。普とは諸法実相・迹門の不変真如の理なり、賢とは智慧の義なり・本門の随縁真如の智なり。然る間・経末に来たつて本迹二門を恋法し給えり。所詮(しょせん)今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者は普賢菩薩の守護なり云云。

 第二 若法華経 行閻浮提(えんぶだい)の事
御義口伝に云く、此の法華経を閻浮提に行ずることは、普賢菩薩の威神の力に依るなり。此の経の広宣流布することは普賢菩薩の守護なるべきなり云云。

 第四 是人命終 (ぜにんみょうじゅう) 為千仏授手(い・せんぶつじゅしゅ)の事
 御義口伝に云く、法華不信の人は命終の時、地獄に堕在す可し。経に云く「若人不信・毀謗此経・即断一切・世間仏種・其人命終(ごにんみょうじゅう)・入阿鼻獄(にゅうあびごく)」と。法華経の行者は命終して成仏す可し、是人命終為・千仏授手の文是なり。
 千仏とは千如の法門なり。謗法の人は獄卒来迎(ごくそつ・らいごう)し、法華経の行者は千仏来迎し給うべし。今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者は千仏の来迎・疑ひ無き者なり云云。

 第五 閻浮提内(えんぶだいない) 広令流布(こうりょう・るふ)の事
 御義口伝に云く、此の内の字は東西北の三方を嫌える文なり。広令流布とは法華経は南閻浮提計りに流布す可しと云う経文なり。此の内の字・之を案ず可し。今日蓮等の類(たぐ)い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、深く之を思う可きなり云云。

 第六 此人不久当詣道場の事
 御義口伝に云く、此人とは法華経の行者なり。法華経を持ち奉る処を当詣道場と云うなり。此(ここ)を去つて彼(かしこ)に行くには非ざるなり。道場とは十界の衆生の住処を云うなり。今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野、皆寂光土なり。此れを道場と云うなり。「此の因・易(あらた)むること無きが故に直至(じきし)と云う」の釈之を思う可し。
此の品の時、最上第一の相伝あり。釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲(ゆず)り給うなり。八字とは「当に起って遠く迎ふべきこと、仏を敬うが如くすべし」の文なり。此の文までにて経は終はるなり。
 当の字は未来なり、当起遠迎(とうきおんごん)とは必ず仏の如くに法華経の行者を敬う可しと云う経文なり。法師品には「此の経巻に於て敬ひ視(み)ること仏の如くす」と云えり。
 八年の御説法の口開きは南無妙法蓮華経方便品の諸仏智慧。終はりは当起遠迎・当如敬仏の八字なり。但此の八字を以て法華一部の要路(ようろ)とせり。されば文句の十に云く「当起遠迎・当如敬仏よりは其の信者の功徳を結することを述す」と。法華一部は信の一字を以て本とせり云云。
 尋ねて云く、今の法華経に於て序品には首(はじ)めに如の字を置き、終はりの普賢品には去(こ)の字を置く。羅什(らじゅう)三蔵の心地・何(いか)なる表事の法門ぞや。
 答へて云く、今の経の法体は実相と久遠との二義を以て正体と為すなり。始めの如の字は実相を表し、終りの去の字は久遠を表するなり。其の故は実相は理なり、久遠は事なり。理は空の義なり、空は如の義なり。之に依って如をば理空に相配するなり。釈に云く「如は不異に名く、即ち空の義なり」と。
 久遠は事なり。其の故は本門寿量の心は事円の三千を以て正意と為すなり。去は久遠に当るなり。
 去は開の義、如は合の義なり。開は分別の心なり、合は無分別の意なり。此の開合を生仏に配当する時は、合は仏界、開は衆生なり。序品の始めに如の字を顕したるは生仏不二の義なり。
 迹門は不二の分なり、不変真如なる故なり。此の如是我聞の如をば不変真如の如と習うなり。空仮中の三諦には如は空、是は中、我聞は仮諦。迹門は空を面(おもて)と為す故に不二の上の而二なり。然る間・而二の義を顕す時、同聞衆を別に列ぬるなり。
 さて本門の終りの去は随縁真如にして而二の分なり。仍(よ)つて去の字を置くなり。作礼而去(さらいにこ)の去は随縁真如と約束するなり。本門は而二の上の不二なり。而二不二(ににふに)・常同常別・古今法爾(ここんほうに)の釈之を思う可し。此の去の字は、彼の五千起去の去と習うなり。其の故は五千とは五住の煩悩と相伝する間、五住の煩悩が己心の仏を礼して去ると云う義なり。
 如・去の二字は生死の二法なり。伝教云く「去は無来之如来(むらいのにょらい)・無去之円去(むこのえんこ)」等と云云。
 如の字は一切法是心の義、去の字は心是一切法の義なり。一切法是心は迹門の不変真如なり、心是一切法は本門の随縁真如なり。然る間、法界を一心に縮むるは如の義なり、法界に開くは去の義なり。三諦三観(さんたいさんがん)の口決相承(ぐけつそうじょう)と意(こころ)同じ云云。

 此の妙法等の五字を末法・白法隠没の時、上行菩薩・御出世有つて五種の修行の中には四種を略して但受持の一行にして成仏す可しと・経文に親(まのあた)り之れ有り。夫(さ)れば神力品に云く「於我滅度後(おがめつどご)・応受持斯経(おうじゅじ・しきょう)・是人於仏道(ぜにんの・ぶつどう)・決定無有疑(けつじょうむうぎ)」云云。此の文・明白なり。仍つて此の文をば仏の廻向(えこう)の文と習うなり。
 然る間・此の経を受持し奉る心地は如説修行の如なり。此の如の心地に妙法等の五字を受持し奉り、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、忽ち無明煩悩の病を悉く去つて妙覚極果(みょうかくごくか)の膚(はだえ)を瑩(みが)く事を顕す故に・さて去(こ)の字を終りに結ぶなり。仍つて上に受持仏語と説けり。
 煩悩悪覚の魔王も諸法実相の光に照されて一心一念遍於法界と観達(かんたつ)せらる。然る間・還つて己心の仏を礼す故に、作礼而去(さらい・にこ)とは説き給うなり。「彼彼三千互遍亦爾(ひひさんぜん・ごへんやくに)」の釈・之を思う可し。
 秘す可し・秘す可し。唯受一人(ゆいじゅいちにん)の相承(そうじょう)なり。口外す可からず。然らば此の去の字は不去而去の去と相伝するを以て至極と為すなり云云。
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鳩摩羅什

 第一 無量義経 徳行品第一の事
 御義口伝に云く、無量義の三字を本迹・観心(ほんじゃく・かんじん)に配する事、初めの無の字は迹門なり。其の故は理円を面(おもて)とし、不変真如の旨を談ず。迹門は無常の摂属(しょうぞく)なり、常住を談ぜず。但し「是法住法位・世間相常住」と明かせども、是れは理常住にして事常住に非ず、理常住の相を談ずるなり。空は無の義なり。但し此の無は断無の無に非ず、相即の上の空なる処を無と云い、空と云うなり。円の上にて是を沙汰(さた)するなり。本門の事常住・無作(むさ)の三身に対して迹門を無常と云うなり。守護章には「有為(うい)の報仏は夢中の権果、無作の三身は覚前(かくぜん)の実仏」と云云。今日蓮等の類(たぐ)い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者は無作の三身・覚前の実仏なり云云。

 第二 不断煩悩 不離五欲 得浄諸根 滅除諸罪の事
 御義口伝に云く、此の文は煩悩即菩提・生死即涅槃を説かれたり。法華の行者は貪欲(とんよく)は貪欲のまま、瞋恚(しんに)は瞋恚のまま、愚癡(ぐち)は愚癡のまま、普賢菩薩の行法なりと心得可きなり云云。

 第三 六念の事  念仏 念法 念僧 念戒 念施 念天なり
 御義口伝に云く、念仏とは唯我一人の導師なり。念法とは滅後は題目の五字なり。念僧とは末法にては凡夫僧なり。念戒とは是名持戒(ぜみょうじかい)なり。念施とは一切衆生に題目を授与するなり。念天とは諸天昼夜・常為法故(じょういほうこ)・而衛護之(にえごし)の意(こころ)なり。末法当今の行者の上なり。之を思う可きなり云云。

 第四 一切業障海 皆従妄想生 若欲懺悔者 端坐思実相 衆罪如霜露 慧日能消除の事
 御義口伝に云く、衆罪とは六根に於て業障(ごうしょう)降り下る事は霜露(そうろ)の如し。然りと雖も慧日を以て能く消除すと云えり。
 慧日とは末法当今・日蓮所弘の南無妙法蓮華経なり。慧日とは仏に約し、法に約するなり。釈尊をば慧日大聖尊と申すなり。法華経を又如日天子能除諸闇と説かれたり。末法の導師を如日月光明等と説かれたり。

 第五 正法治国 不邪枉(ふじゃおう)人民の事
 御義口伝に云く、末法の正法とは南無妙法蓮華経なり。此の五字は一切衆生を・たぼらかさぬ秘法なり。正法を天下一同に信仰せば此の国安穏ならむ。されば玄義に云く「若し此の法に依れば即ち天下泰平」と。此の法とは法華経なり。法華経を信仰せば天下安全たらむ事・疑ひ有る可からざるなり。



by johsei1129 | 2026-05-04 19:58 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)


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