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日蓮大聖人『御書』解説

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2026年 05月 04日

弟子の心得 29

 第一 其有衆生 聞仏寿命 長遠如是 乃至能生 一念信解 所得功徳 無有限量の事
 御義口伝に云く、一念信解の信の一字は一切智慧を受得(じゅとく)する所の因種なり。信の一字は名字即の位なり。仍つて信の一字は最後品の無明を切る利剣なり。
 信の一字は寿量品の理顕本を信ずるなり、解とは事顕本を解するなり。此の事理の顕本を一念に信解するなり。一念とは無作本有の一念なり。此くの如く信解する人の功徳は限量有る事・有る可からざるなり。
 信の処に解あり、解の処に信あり。然りと雖も信を以て成仏を決定(けつじょう)するなり。今日蓮等の類(たぐ)い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり云云。

 第二 是則能信受 如是諸人等 頂受此経典の事
 御義口伝に云く、法華経を頭に頂くと云う明文なり。如是諸人等の文は広く一切衆生に亘(わた)るなり。然らば三世十方の諸仏は妙法蓮華経を頂き受けて成仏し給う。仍つて上の寿量品の題目を妙法蓮華経と題して次に如来と題したり。秘す可し云云。今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉るは此の故なり云云。

 第一 妙法蓮華経 随喜(ずいき)功徳の事
 御義口伝に云く、随とは事理に随順するを云うなり。喜とは自他共に喜ぶ事なり。事とは五百塵点の事顕本に随順するなり。理とは理顕本に随うなり。
 所詮寿量品の内証に随順するを随とは云うなり。然るに自他共に智慧と慈悲と有るを喜とは云うなり。所詮・今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時、必ず無作三身の仏に成るを喜とは云うなり。
 然る間・随とは法に約し、喜とは人に約するなり。人とは五百塵点の古仏たる釈尊。法とは寿量品の南無妙法蓮華経なり。是に随い・喜ぶを随喜とは云うなり。惣じて随とは信の異名なり云云。唯信心の事を随と云うなり。されば二巻には「此の経に随順す。己が智分に非ず」と説かれたり云云。

第一 法師功徳の事
 御義口伝に云く、法師とは五種法師なり。功徳とは六根清浄の果報なり。
 所詮・今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は六根清浄なり。されば妙法蓮華経の法の師と成つて大なる徳(さいわい)有るなり。功は幸(さいわい)と云う事なり。
 又は悪を滅するを功(く)と云い、善を生ずるを徳(とく)と云うなり。功徳とは即身成仏なり又六根清浄なり。法華経の説文の如く修行するを六根清浄と得意可きなり云云。

 第二 六根清浄の事
 御義口伝に云く、眼(まなこ)の功徳とは法華不信の者は無間に堕在し、信ずる者は成仏なりと見るを以て眼の功徳とするなり。法華経を持ち奉る処に眼の八百の功徳を得るなり。眼とは法華経なり。此の大乗経典は諸仏の眼目と云へり。
 今・日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者は眼の功徳を得るなり云云。耳・鼻・舌・身・意、又又此くの如きなり云云。

 第三 又如浄明鏡(うにょ・じょうみょうきょう)の事
 御義口伝に云く、法華経に鏡の譬(たとえ)を説く事・此の明文なり。六根清浄の人は瑠璃明鏡(るり・みょうきょう)の如く三千世界を見ると云う経文なり。
 今・日蓮等の類(たぐ)い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、明鏡に万像を浮ぶるが如く知見するなり。此の明鏡とは法華経なり。別しては宝塔品なり。又は我が一心の明鏡なり。
 所詮(しょせん)瑠璃と明鏡との二つの譬へを説かれたり、身根清浄の下なり。色心不二なれば何れも清浄の徳分なり。浄とは不浄に対して浄と云うなり。明とは無明に対して明と説くなり。鏡とは一心なり。浄は仮諦、明は空諦、鏡は中道なり。悉見諸色像(しっけんしょしきぞう)の悉(ことごとく)は十界なり。
 所詮・浄明鏡とは色心の二法、妙法蓮華経の体なり。浄明鏡とは信心なり云云。又三千大千世界を知見するとは三世間の事なり。

 第八 心不浄者の事
 御義口伝に云く、謗法の者は色心二法共に不浄なり。先ず心法不浄の文は今此の心不浄者なり。又身不浄の文は譬喩品に「身常臭処(しんじょう・しゅうしょ)垢穢不浄(くえ・ふじょう)」と云えり。
 今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者は色心共に清浄なり。身浄は法師功徳品に云く「若持法華経・其身甚清浄」の文なり。心浄とは提婆品に云く「浄心信敬」と云云。浄とは法華経の信心なり、不浄とは謗法なり云云

 第十 聞其所説(もんご・しょせつ) 皆信伏随従(かいしんぷく・ずいじゅう)の事
 御義口伝に云く、聞とは名字即なり。所詮(しょせん)は而強毒之(にごうどくし)の題目なり。皆とは上慢の四衆等なり。信とは無疑曰信(むぎわっしん)なり。伏とは法華に帰伏するなり。随とは心を法華経に移すなり。従とは身を此の経に移すなり。
 所詮・今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は末法の不軽菩薩なり。

 第十一 於四衆中説法 心無所畏(しんむしょい)の事
 御義口伝に云く、四衆とは日本国の中の一切衆生なり。説法とは南無妙法蓮華経なり。心無所畏とは今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と呼ばわる所の折伏なり云云。

 第十二 常不軽菩薩 豈異人乎(きいにんこ) 則我身是の事
 御義口伝に云く、過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり。釈尊は寿量品の教主なり。寿量品の教主とは我等法華経の行者なり。さては我等が事なり。今・日蓮等の類(たぐい)は不軽なり云云。

 第十四 畢是罪已(ございひっち) 復遇(ぶぐう)常不軽菩薩の事
 御義口伝に云く、若し法華誹謗の失(とが)を改めて信伏随従する共、浅く有りては無間に堕つ可きなり。先謗強きが故に依るなり。千劫無間地獄に堕ちて後に・出づる期(ご)有つて又日蓮に値(あ)う可きなり。復遇日蓮なるべし。

 第十六 此品の時の不軽菩薩の体の事
 御義口伝に云く、不軽菩薩とは十界の衆生なり。三世常住の礼拝の行を立つるなり。吐く所の語言は妙法の音声なり。獄卒が杖を取つて罪人を呵責(かしゃく)するが体の礼拝なり。敢へて軽慢(きょうまん)せざるなり。罪人・我を責め成すと思えば不軽菩薩を呵責するなり。折伏の行是なり。

 第二十三 無明 礼拝住処の事
 御義口伝に云く、自他の隔意(きゃくい)を立て、彼は上慢の四衆、我は不軽と云う。不軽は善人、上慢は悪人と善悪を立つるは無明なり。此(ここ)に立つて礼拝の行を成す時、善悪不二・邪正一如の南無妙法蓮華経と礼拝するなり云云。

 第二十七 礼拝住処 分真即の事
 御義口伝に云く、菩薩は分真即の位と定むるなり。此の位に立つて理即の凡夫を礼拝するなり。之に依つて理即の凡夫なる間、此の授記を受けずして無智の比丘と謗じたり云云。

 第二十九 法界 礼拝住処の事
 御義口伝に云く、法界に立って礼拝するなり。法界とは広きに非ず、狭きに非ず。惣(そう)じて法とは諸法なり、界とは境界なり。地獄界乃至仏界、各各界を法(のっと)る間、不軽菩薩は不軽菩薩の界に法り、上慢の四衆は四衆の界に法るなり。仍(よっ)て法界が法界を礼拝するなり。自他不二の礼拝なり。其の故は不軽菩薩の四衆を礼拝すれば、上慢の四衆所具の仏性・又不軽菩薩を礼拝するなり。鏡に向つて礼拝を成す時、浮べる影・又我を礼拝するなり云云。

 第六 娑婆(しゃば) 是中有仏 名釈迦牟尼仏の事
 御義口伝に云く、本化弘通(ほんげ・ぐつう)の妙法蓮華経の大忍辱(にんにく)の力を以て弘通(ぐつう)するを娑婆と云うなり。忍辱は寂光土なり。此の忍辱の心を釈迦牟尼仏と云えり。娑婆とは堪忍世界(かんにんせかい)と云うなり云云。

 第七 斯人行世間 能滅衆生闇の事
 御義口伝に云く、斯人とは上行菩薩なり。世間とは大日本国なり。衆生闇とは謗法の大重病なり。能滅の体は南無妙法蓮華経なり。今日蓮等の類(たぐ)い是なり云云。

 第八 畢竟(ひっきょう)住一乗〇是人於仏道 決定無有疑の事
 御義口伝に云く、畢竟とは広宣流布なり、住一乗とは南無妙法蓮華経の一法に住す可きなり、是人とは名字即の凡夫なり、仏道とは究竟即(くきょうそく)なり、疑とは根本疑惑の無明を指すなり。末法当今は此の経を受持する一行計りにして成仏す可しと定むるなり云云。

 第二 十喩の事
 御義口伝に云く十喩とは十界なり、此の山の下に地獄界を含めり、川流江河(せんるごうが)餓鬼畜生を摂(せっ)せり、日月の下(もと)に修羅(しゅら)を収めたり、帝釈・梵天は天界なり、凡夫人とは人間なり、声聞とは四向四果の阿羅漢なり、縁覚とは辟支仏中(ひゃくしぶつちゅう)と説かれたり、菩薩は菩薩為第一と云えり、仏界は如仏為諸法王と見えたり。此の十界を十喩と挙げて教相を分別して、さて妙法蓮華経の於一仏乗より分別説三する時、此くの如く挙げたり。仍(よ)つて一念三千の法門なり。一念三千は抜苦与楽(ばっくよらく)なり

 第六 若人有病 得聞是経 病即消滅 不老不死の事
 文句 の十に云く、此に観解(かんげ)を須(もち)ゆべしと。
 御義口伝に云く、若人とは上・仏果より下・地獄の罪人まで之を摂(せっ)す可きなり。病とは三毒の煩悩・仏菩薩に於ても亦之れ有るなり。不老は釈尊、不死は地涌の類たり。是は滅後当今の衆生の為に説かれたり。然らば病とは謗法なり。此の経を受持し奉る者は病即消滅・疑ひ無きなり。今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり云云。

 第一 妙音菩薩の事
 御義口伝に云く、妙音菩薩とは十界の衆生なり。妙とは不思議なり。音とは一切衆生の吐く所の語言音声が妙法の音声なり。三世常住の妙音なり。所用に随つて諸事を弁ずるは慈悲なり。是を菩薩と云うなり。
 又云く、妙音とは今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る事は、末法当今の不思議の音声なり。其の故は煩悩即菩提・生死即涅槃の妙音なり云云。

 第二 肉髻白毫(にくけい・びゃくごう)の事
 御義口伝に云く、此の二つの相好は孝順師長(こうじゅん・しちょう)より起れり。法華経を持ち奉るを以て一切の孝養の最頂(さいちょう)とせり。
 又云く、此の白毫とは父の婬(いん)なり。肉髻(にくけい)とは母の婬なり。赤白(せきびゃく)二渧(たい)、今経に来つて肉髻・白毫の二相と顕れたり。
 又云く肉髻は随縁真如の智なり。白毫は不変真如の理なり。今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉るは此等の相好(そうごう)を具足するなり。
 我等が生の始めは赤色肉髻(しゃくしき・にくけい)なり。死後の白骨は白毫相なり。生の始めの赤色は随縁真如の智。死後の白骨は不変真如の理なり。秘す可し・秘す可し云云。

一 無尽意菩薩(むじんにぼさつ)の事
  御義口伝に云く、無尽意とは円融(えんゆう)の三諦なり。無とは空諦、尽とは仮諦、意とは中道なり。観世音とは観は空諦、世は仮諦、音は中道なり。妙法蓮華経とは妙とは空諦、法蓮華は仮諦、経とは中道なり。三諦法性の妙理を三諦の観世音と三諦の無尽意に対して説き給うなり。
 今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者は末法の無尽意(むじんに)なり。所詮(しょせん)無とは我等が死の相なり。尽とは我等が生の相なり。意とは我等が命根なり。然る間一切の法門・境智冥合等の法門、意の一一字に之を摂入(しょうにゅう)す。
 此の意とは中道法性なり。法性とは南無妙法蓮華経なり。仍(よ)つて意の五字なり。我等が胎内の五位の中には第五番の形なり。其の故は第五番の姿は五輪なり。五輪即ち妙法等の五字なり。此の五字、又意の字なり。仏意とは妙法の五字なり。此の事・別に之無し。
 仏の意とは法華経なり。是を寿量品にして是好良薬とて三世の諸仏の好(このみ)もの・良薬と説かれたり。森羅三千の諸法は意の一字には過ぎざるなり。此の仏の意を信ずるを信心とは申すなり。されば心は有分別なり。倶に妙法の全体なり云云。

第三 念念勿生疑(ねんねんもつしょうぎ)の事
 御義口伝に云く、念念とは一の念は六凡なり。一の念は四聖なり。六凡四聖の利益を施(ほどこ)すなり。疑心を生ずること勿(なか)れ云云。
 又云く念念とは前念後念なり。又云く妙法を念ずるに疑ひを生ず可からず云云。又三世常住の念念なり。之に依つて上の文に是故衆生念と。
今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉りて・念念勿生疑の信心に住す可きなり。煩悩即菩提・生死即涅槃、疑ひ有る可からざるなり云云。

 第四 二求両願の事
 御義口伝に云く、二求とは求男・求女なり。求女とは世間の果報。求男とは出世の果報。仍(よ)つて現世安穏は求女の徳なり。後生善処は求男の徳なり。求女は竜女が成仏・生死即涅槃を顕すなり。求男は提婆が成仏・煩悩即菩提を顕すなり。我等が即身成仏を顕すなり。
 今日蓮等の類(たぐ)い南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は、求男求女を満足して父母の成仏決定(けつじょう)するなり云云。

 第一 陀羅尼(だらに)の事
 御義口伝に云く、陀羅尼とは南無妙法蓮華経なり。其の故は陀羅尼は諸仏の密語(みつご)なり。題目の五字・三世の諸仏の秘密の密語なり。
 今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉るは陀羅尼を弘通するなり。捨悪持善(しゃあく・じぜん)の故なり云云。

 第三 鬼子母神(きしもじん)の事
 御義口伝に云く、鬼とは父なり。子とは十羅刹女なり。母とは伽利帝母(かりたいも)なり。逆次(ぎゃくじ)に次第する時は、神とは九識なり。母とは八識へ出づる無明なり。子とは七識・六識なり。鬼とは五識なり。流転門の時は悪鬼なり、還滅門(げんめつもん)の時は善鬼なり。仍つて十界互具・百界千如の一念三千を、鬼子母神・十羅刹女と云うなり。
 三宝荒神(さんぽうこうじん)とは十羅刹女の事なり。所謂・飢渇神(けかつじん)・貪欲神(とんよくじん)・障碍神(しょうげじん)なり。今法華経の行者は三毒即三徳と転ずる故に三宝荒神に非ざるなり。荒神とは法華不信の人なり、法華経の行者の前にては守護神なり云云。
身延草庵跡



by johsei1129 | 2026-05-04 16:32 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)


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