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日蓮大聖人『御書』解説

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2026年 03月 26日

弟子の心得 3

  世間の法にも重恩をば命を捨て報ずるなるべし。又主君の為に命を捨つる人はすくなきやうなれども其の数多し。男子ははぢ(恥)に命をすて、女人は男の為に命をすつ。

 強敵を伏して始て力士をしる。悪王の正法を破るに・邪法の僧等が方人(かたうど)をなして智者を失はん時は、師子王の如くなる心をもてる者・必ず仏になるべし、例せば日蓮が如し。これおごれるにはあらず、正法を惜(おし)む心の強盛なるべし。おご(傲)れる者は必ず強敵に値(あ)ひて・おそるる心・出来するなり。例せば修羅のおごり・帝釈にせめられて無熱池(むねっち)の蓮(はちす)の中に小身と成りて隠れしが如し。正法は一字・一句なれども時機に叶いぬれば必ず得道な(成)るべし。千経・万論を習学すれども時機に相違すれば叶う可らず。

 日蓮は聖人にあらざれども法華経を説の如く受持すれば聖人の如し。又世間の作法兼(かね)て知るによて注し置くこと是違う可らず。現世に云ひをく言(ことば)の違はざらんをもて後生の疑ひをなすべからず。日蓮は此の関東の御一門の棟梁(とうりょう)なり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり。日蓮捨て去る時・七難必ず起るべしと・去年(こぞ)九月十二日御勘気を蒙(こうむ)りし時、大音声を放ちてよばはりし事これなるべし。纔(わず)かに六十日・乃至百五十日に此の事起るか。是は華報(けほう)なるべし。実果の成ぜん時、いかが・なげ(歎)かはしからんずらん、

 鉄(くろがね)は炎(きたい)打てば剣となる、賢聖は罵詈(めり)して試みるなるべし。我今度の御勘気は世間の失(とが)一分もなし。偏(ひとえ)に先業の重罪を今生に消して後生の三悪を脱れんずるなるべし。

 これはさてをきぬ。日蓮を信ずるやうなりし者どもが・日蓮がか(斯)くなれば疑ひを・をこして法華経をすつるのみならず、かへりて日蓮を教訓して我賢(かしこ)しと思はん僻人(びゃくにん)等が、念仏者よりも久しく阿鼻地獄にあらん事・不便とも申す計りなし。修羅が仏は十八界・我は十九界と云ひ、外道が云く、仏は一究竟道(くきょうどう)・我は九十五究竟道と云いしが如く、日蓮御房は師匠にておはせども余りに・こは(剛)し。我等はやは(柔)らかに法華経を弘むべしと云はんは、螢火(ほたるび)が日月をわらひ、蟻塚(ありづか)が華山(かざん)を下し、井江(せいこう)が河海(かかい)をあなづり、烏鵲(かささぎ)が鸞鳳(らんほう)をわらふなるべし・わらふなるべし。南無妙法蓮華経。

 予・日本の体を見るに、第六天の魔王・智者の身に入りて正師を邪師となし善師を悪師となす。に「悪鬼入其身(あっきにゅうごしん)」とは是なり。日蓮智者に非ずと雖も第六天の魔王・我が身に入らんとするに、兼(かね)ての用心深ければ身によせつけず。故に天魔力及ばずして王臣を始めとして良観等の愚癡の法師原に取り付いて日蓮をあだむなり。
 然るに今時は師に於て正師・邪師・善師・悪師の不同ある事を知つて邪悪の師を遠離し、正善の師に親近すべきなり。設(たと)い徳は四海に斉(あまね)く、智慧は日月に同じくとも、法華経を誹謗するの師をば悪師邪師と知つて是に親近すべからざる者なり。或る経に云く「若し誹謗の者には共住すべからず。若し親近し共住せば即ち阿鼻獄に趣(おもむ)かん」と禁(いまし)め給う是なり。いかに我が身は正直にして世間・出世の賢人の名をとらんと存ずれども、悪人に親近すれば自然に十度に二度・三度、其の教へに随ひ以て行くほどに終に悪人になるなり。釈に云く「若し人本(もと)悪無きも悪人に親近すれば後・必ず悪人と成り、悪名天下に遍(あまね)からん」云云。所詮其の邪悪の師とは今の世の法華誹謗の法師なり。

 設(たと)い又「在在諸仏土・常与師倶生」の人なりとも、三周の声聞の如く下種の後に・退大取小して五道・六道に沈輪し給いしが、成仏の期・来至して順次に得脱せしむべきゆへにや。念仏・真言等の邪法・邪師を捨てて日蓮が弟子となり給うらん、有り難き事なり。
 何(いず)れの辺に付いても予が如く諸宗の謗法を責め、彼等をして捨邪帰正せしめ給いて、順次に三仏・座を並べたもう常寂光土に詣(まい)りて・釈迦多宝の御宝前に於て、我等無始より已来(このかた)師弟の契約有りけるか・無かりけるか、又釈尊の御使ひとして来つて化し給へるか、さぞと仰せを蒙つてこそ・我が心にも知られ候はんずれ。何様にも・はげませ給へ・はげませ給へ。

 若し然らば日蓮・法華経の法師なる事疑なきか。則ち如来にもに(似)たるらん、「行如来事」をも行ずるになりなん。多宝塔中にして二仏並坐(びょうざ)の時、上行菩薩に譲り給いし題目の五字を日蓮粗(ほぼ)ひろめ申すなり。此れ即ち上行菩薩の御使いか。貴辺又日蓮にしたがひて法華経の行者として諸人にかたり給ふ。是れ豈(あに)流通にあらずや。

 法華経の信心を・とをし給へ。火をきるに・やす(休)みぬれば火をえず、強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ。あしき名さへ流す、況(いわ)んや・よき名をや、何(いか)に況んや法華経ゆへの名をや。
 女房にも此の由を云ひふくめて日月・両眼・さう(雙)のつばさ(翼)と調(ととの)ひ給へ。日月あらば冥途あるべきや、両眼あらば三仏の顔貌(げんみょう)拝見疑ひなし。さうのつばさあらば寂光の宝刹(ほうせつ)へ飛ばん事・須臾刹那(しゅゆ・せつな)なるべし。委(くわ)しくは又又申べく候。恐恐謹言。

 
 真言宗は天竺(てんじく)より之無し。開元の始めに善無畏(ぜんむい)三蔵・金剛智(こんごうち)三蔵・不空三蔵等、天台大師己証(こしょう)の一念三千の法門を盗んで大日経に入れて之を立て真言宗と号す。華厳(けごん)宗は則天皇后の御宇に之を始む。澄観(ちょうかん)等、天台の十乗の観法を盗んで華厳経に入れて之を立て・華厳宗と号す。法相(ほっそう)三論は言うに足らず。禅宗は梁(りょう)の世に達磨(だるま)大師楞伽(りょうが)経等を以てす、大乗の空の一分なり。其の学者等・大慢を成して教外別伝等と称し、一切経を蔑如(べつじょ)す。天魔の所為なり。浄土宗は善導等・観経等を見て一分の慈悲を起し、摂地(じょうち)二論の人師に向つて一向専修の義を立て畢んぬ。日本の法然之を誤り天台真言等を以て雑行に入れ、末代不相応の思いを為して国中を誑惑(おうわく)して長夜に迷わしむ。之を明めし導師は但日蓮一人なるのみ。

 疑つて云く、汝・当世の諸人に勝るることは一分爾る可し。真言・華厳・三論・法相等の元祖に勝るとは豈(あ)に慢過慢(まんかまん)の者に非ずや。過人法(かにんほう)とは是なり。汝・必ず無間大城に堕つ可し。故に首楞厳経(しゅりょうごんきょう)に説いて云く「譬(たと)えば窮人・妄(ぐうにん・みだ)りに帝王と号して自ら誅滅(ちゅうめつ)を取るが如し。況んや復(また)法王・如何ぞ妄りに竊(ぬす)まん。因地(いんち)直からざれば果・紆曲(うきょく)を招かん」等云云。
 涅槃経に云く「云何(いか)なる比丘か過人法(かにんほう)に堕する○未だ四沙門果を得ず。云何んぞ当(まさ)に諸の世間の人をして我は已に得たりと謂(おも)わしむべき」等云云。
 答えて云く、法華経に云く「又大梵天(ぼんてん)王の一切衆生の父の如く」又云く「此の経は○諸経の中の王なり。最も為(こ)れ第一なり。能く是の経典を受持すること有らん者は亦復是くの如し。一切衆生の中に於て亦為(こ)れ第一なり」等云云。
 伝教大師の秀句(しゅうく)に云く「天台法華宗の諸宗に勝れたるは所依(しょえ)の経に拠(よ)るが故なり。自讃毀他(じさんきた)ならず。庶(ねがわ)くは有智の君子・経を尋ねて宗を定めよ」等云云。
 星の中に勝れたる月、星月の中に勝れたるは日輪なり。小国の大臣は大国の無官より下る傍例なり。外道の五通を得るより仏弟子の小乗の三賢の者の未だ一通を得ざるは天地猶(なお)勝る。法華経の外の諸経の大菩薩は法華の名字即の凡夫より下れり。何ぞ汝・始めて之を驚かんや。教に依つて人の勝劣を定む。先ず経の勝劣を知らずんば何ぞ人の高下を論ぜんや。

 空に読み覚えよ、老人等は具(つぶさ)に聞き奉れ。早早に御免を蒙(こうむ)らざる事は之を歎く可からず。定めて天之を抑うるか。藤河入道を以て之を知れ、去年(こぞ)流罪(るざい)有らば今年横死に値う可からざるか。彼を以て之を惟(おも)うに・愚者は用いざる事なり。日蓮が御免を蒙らんと欲するの事を色に出す弟子は不孝の者なり。敢へて後生を扶(たす)く可からず。各各此の旨を知れ。

 妙の一字には二つの舌まします、釈迦・多宝の御舌なり。此の二仏の御舌は八葉の蓮華なり。此の重(かさ)なる蓮華の上に宝珠あり、妙の一字なり。此の妙の珠は昔釈迦如来の檀波羅蜜(だんはらみつ)と申して身をうえたる虎にか(飼)ひし功徳、鳩にか(貿)ひし功徳、尸羅(しら)波羅蜜と申して須陀摩(しゅだま)王として・そらこと(虚言)せざりし功徳等、忍辱(にんにく)仙人として歌梨王(かりおう)に身をまかせし功徳、能施(のうせ)太子・尚闍梨(じょうじゃり)仙人等の六度の功徳を妙の一字にをさめ給いて末代悪世の我等衆生に一善も修せざれども・六度万行を満足する功徳をあたへ給う。「今此三界(こんしさんがい)・皆是我有(かいぜがう)・其中衆生(ごちゅうしゅじょう)・悉是吾子(しつぜごし)」これなり。我等具縛(ぐばく)の凡夫・忽(たちまち)に教主釈尊と功徳ひとし。彼の功徳を全体うけとる故なり。
 経に云く「如我等無異(にょがとうむい)」等云云。法華経を心得る者は釈尊と斉等(さいとう)なりと申す文なり。譬えば父母和合して子をうむ。子の身は全体父母の身なり。誰か是を諍(あらそ)うべき。
 牛王(ごおう)の子は牛王なり、いまだ師子王とならず。師子王の子は師子王となる、いまだ人王・天王等とならず。今・法華経の行者は其中衆生・悉是吾子と申して教主釈尊の御子なり。教主釈尊のごとく法王とならん事、難かるべからず。但し不孝の者は父母の跡をつがず。尭王(ぎょうおう)には丹朱(たんしゅ)と云う太子あり、舜王(しゅんおう)には商均(しょうきん)と申す王子あり。二人共に不孝の者なれば父の王にすてられて現身に民となる。重華(ちょうか)と禹(う)とは共に民の子なり。孝養の心ふかかりしかば尭舜の二王・召して位をゆづり給いき。民の身・忽(たちま)ち玉体にならせ給いき。民の現身に王となると凡夫の忽ちに仏となると同じ事なるべし。一念三千の肝心と申すはこれなり。
                            [日妙聖人御書]

 涅槃経の三十五に云く「我処処の経の中に於て説いて言く、一人出世すれば多人利益す。一国土の中に二の転輪王あり・一世界の中に二仏出世すといわば是の処(ことわり)有ること無し」文。
 大論の九に云く「十方恒河沙(ごうがしゃ)の三千大千世界を名づけて一仏世界と為す。是の中に更に余仏無し、実には一(ひとり)の釈迦牟尼仏なり」文。
 記の一に云く「世には二仏無く・国には二主無し。一仏の境界には二の尊号無し」文。
 持地論に云く「世に二仏無く・国に二主無く、一仏の境界に二の尊号無し」文。
         [真言見聞]

 但し法華経に云く「若し善男子善女人、我が滅度の後に能(よ)く竊(ひそ)かに一人の為にも法華経の乃至一句を説かん、当に知るべし・是の人は則ち如来の使ひ、如来の所遣(しょけん)として如来の事を行ずるなり」等云云、
 法華経を一字一句も唱え、又人にも語り申さんものは教主釈尊の御使ひなり、然れば日蓮賤身(いやしき・み)なれども教主釈尊の勅宣を頂戴(ちょうだい)して此の国に来たれり。此れを一言もそしらん人人は罪を無間に開き、一字一句も供養せん人は無数の仏を供養するにも・すぎたりと見えたり。

 竜は必ず袈裟を懸けたる僧を守る。仏より袈裟を給(たび)て竜宮城の愛子に懸けさせて金翅鳥(こんじちょう)の難をまぬがるる故なり。金翅鳥は必ず父母孝養の者を守る。竜は須弥山を動かして金翅鳥の愛子を食す。金翅鳥は仏の教によつて父母の孝養をなす者・僧のとるさんば(生飯)を須弥の頂に・をきて竜の難をまぬかるる故なり。
 天は必ず戒を持ち・善を修する者を守る。人間界に戒を持たず・善を修する者なければ人間界の人・死して多く修羅道に生ず。修羅多勢なればをごりをなして必ず天ををか(犯)す。人間界に戒を持ちて善を修するの者・多ければ人死して必ず天に生ず。天多ければ修羅をそれをなして天ををかさず。故に戒を持ち・善を修する者をば天必ず之を守る。

 諸の大地微塵の如くなる諸菩薩は等覚の位まで・せめて、元品(がんぽん)の無明(むみょう)計り・もちて侍るが、釈迦如来に値(あ)い奉りて元品の大石をわ(破)らんと思ふに、教主釈尊・四十余年が間は「因分は説くべし・果分は説くべからず」と申して妙覚の功徳を説き顕し給はず。されば妙覚の位に登る人・一人もなかりき。本意なかりし事なり。而るに霊山八年が間に「唯(ただ)一仏乗を名づけて果分と為す」と説き顕はし給いしかば、諸の菩薩・皆妙覚の位に上りて釈迦如来と悟り等(ひと)しく、須弥山の頂に登つて四方を見るが如く、長夜に日輪の出でたらんが如く・あ(明)かなくならせ給いたりしかば、仏の仰せ無くとも法華経を弘めじ・又行者に替らじとは・おぼしめすべからず。されば「我身命を愛せず」「但無上道を惜しむ」「身命を惜しまずして当に広く此の経を説くべし」等とこそ誓ひ給いしか。
 其の上慈父の釈迦仏・悲母の多宝仏・慈悲の父母等・同じく助証の十方の諸仏、一座に列(つら)ならせ給いて月と月とを集めたるが如く、日と日とを並べたるが如く・ましましし時「諸の大衆に告ぐ。我が滅度の後、誰か能く此の経を護持し読誦せんものなる。今仏前に於て自ら誓言を説け」と三度まで諌(いさめ)させ給いしに、八方・四百万億那由佗の国土に充満せさせ給いし諸大菩薩・身を曲(まげ)・低頭合掌(ていずがっしょう)し、倶に同時に声をあげて「世尊の勅(みことのり)の如く当(まさ)に具(つぶさ)さに奉行したてまつるべし」と三度まで・声を惜まず・よばわりしかば、いかでか法華経の行者には・かわらせ給はざるべき。

 いかに申す事は・をそきやらん、大地はささばはづるるとも、虚空(おおぞら)をつなぐ者はありとも、潮のみちひぬ事はありとも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず。法華経の行者を諸の菩薩・人天・八部等・二聖・二天・十羅刹等、千に一も来つてまほり給はぬ事侍らば、上(かみ)は釈迦諸仏をあなづり奉り、下(しも)は九界をたぼらかす失(とが)あり。行者は必ず不実なりとも、智慧はをろかなりとも、身は不浄なりとも、戒徳は備へずとも、南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給うべし。袋きたなしとて金(こがね)を捨つる事なかれ、伊蘭(いらん)をにくまば栴檀(せんだん)あるべからず。谷の池を不浄なりと嫌はば蓮(はちす)を取るべからず、行者を嫌(きら)い給はば誓ひを破り給いなん。正像既に過ぎぬれば持戒は市の中の虎の如し、智者は麟角(りんかく)よりも希(まれ)ならん。月を待つまでは灯を憑(たのむ)べし、宝珠のなき処には金銀も宝なり。白烏(はくう)の恩をば黒烏に報ずべし、聖僧の恩をば凡僧に報ずべし。とくとく利生をさづけ給へと強盛に申すならば、いかでか祈りのかなはざるべき。
 
法華を心得たる人・木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。
 今真言を以て日本の仏を供養すれば鬼入つて人の命をうばふ。鬼をば奪命者(だつみょうしゃ)といふ。魔入つて功徳をうばふ。魔をば奪功徳(だつくどく)者といふ。鬼をあがむるゆへに今生には国をほろぼす、魔をたと(尊)むゆへに後生には無間獄に堕す。人死すれば魂去り、其の身に鬼神入り替つて子孫を亡ぼす。餓鬼(がき)といふは我をくらふといふ是なり。
 智者あつて法華経を讃歎して骨の魂となせば、死人の身は人身、心は法身(ほっしん)、生身得忍(しょうしんとくにん)といへる法門是なり。華厳・方等・般若の円をさとれる智者は死人の骨を生身得忍と成す。涅槃経に身は人身なりと雖も心は仏心に同ずといへるは是なり。生身得忍の現証は純陀(じゅんだ)なり。
 法華を悟れる智者、死骨を供養せば生身即法身(しょうしん・そくほっしん)、是を即身といふ。さりぬる魂を取り返して死骨に入れて・彼の魂を変えて仏意と成す。成仏是なり。即身の二字は色法(しきほう)、成仏の二字は心法。死人の色心を変えて無始(むし)の妙境・妙智と成す。是れ則ち即身成仏なり。故に法華経に云く「所謂諸法・如是相 死人の身 如是性 同く心 如是体 同く色心等」云云。又云く「深く罪福の相に達して遍(あまね)く十方を照したまう。微妙(みみょう)の浄き法身・相を具せること三十二」等云云。
 上の二句は生身得忍・下の二句は即身成仏。即身成仏の手本は竜女是なり、生身得忍の手本は純陀(じゅんだ)是なり。
                            [木絵二像開眼の事]

 今の代は濁世と申して乱れて候世なり。其の上・眼前に世の中乱れて見え候へば・皆人今生には弓箭(きゅうせん)の難に値(あ)いて修羅(しゅら)道におち、後生には悪道疑ひなし。而るに法華経を信ずる人人こそ仏には成るべしと見え候へ。御覧ある様にかかる事出来すべしと見えて候。故に昼夜に人に申し聞かせ候いしを用いらるる事こそなくとも・科(とが)に行はるる事は謂(いわ)れ無き事なれども、古(いにしえ)も今も人の損ぜんとては善言(よきこと)を用いぬ習(ならい)なれば、終には用いられず・世の中亡びんとするなり。是れ偏(ひとえ)えに法華経・釈迦仏の御使ひを責むる故に、梵天・帝釈・日月・四天等の責めを蒙つて候なり。
 又世は亡び候とも日本国は南無妙法蓮華経とは人ごとに唱へ候はんずるにて候ぞ。如何に申さじと思うとも毀(そし)らん人には弥(いよい)よ申し聞かすべし。命生きて御坐(おわ)さば御覧有るべし。
 又如何に唱うとも・日蓮に怨(あだ)をなせし人人は、先ず必ず無間地獄に堕ちて・無量劫(こう)の後に日蓮の弟子と成つて成仏す可し。恐恐謹言。

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 御文並びに御輿振の日記・給(た)び候いぬ、悦び入つて候。
 中堂炎上の事・其の義に候か、山門破滅の期・其の節に候か。此等も其の故無きに非ず。天竺には祇園精舎・雞頭摩寺、漢土には天台山、正像二千年の内に以て滅尽せり。今末法に当つて日本国計(ばか)りに叡山(えいざん)有り。三千界の中の但此の処のみ有るか。定めて悪魔一跡に嫉(ねたみ)を留むるか。小乗権教の輩も之を妬(ねた)むか。随つて禅僧・律僧・念仏者、王臣に之を訴へ三千人の大衆は我が山・破滅の根源とも知らず師檀共に破国・破仏の因縁に迷えり。
 但恃む所は妙法蓮華経第七の巻の後五百歳・於閻浮提・広宣流布の文か。又伝教大師の「正像稍(やや)過ぎ已つて末法太(はなは)だ近きに有り。法華一乗の機・今正しく是れ其の時なり」の釈なり。滅するは生ぜんが為・下るは登らんが為なり。山門繁昌の為に是くの如き留難を起すか。事事紙面に尽し難し。早早見参を期す、謹言。
 三月一日      日 蓮 花 押
御返事




by johsei1129 | 2026-03-26 16:29 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)


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