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日蓮大聖人『御書』解説

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2026年 03月 22日

弟子の心得 1

 所謂(いわゆる)地論師・摂論師(しょうろんし)の一代の別時意趣、善導・懐感(えかん)の法華経の一称南無仏の別時意趣、此等は皆権実を弁えざるが故に出来する所の誤りなり。論を造る菩薩・経を訳する三蔵・三昧(さんまい)発得の人師猶以て是くの如し。况んや末代の凡師に於てをや。
 問うて云く、汝末学の身として何ぞ論師並びに訳者人師を破するや。
 答えて云く、敢へて此の難を致すこと勿れ。摂論師並びに善導等の釈は権実二教を弁えずして猥(みだ)りに法華経を以て別時意趣と立つ故に天台妙楽の釈と水火を作す間、且らく人師の相違を閣(さしお)いて経論に付て是非を検うる時、権実の二教は仏説より出でたり。天親・竜樹重ねて之を定む。此の義に順ずる人師をば且らく之を仰ぎ、此の義に順ぜざる人師をば且らく之を用いず。敢て自義を以て是非を定むるに非ず、但相違を出だす計りなり。

 問うて云く、人を以て善知識と為すは常の習いなり。法を以て知識と為すに証有りや。
 答えて云く、人を以て知識と為すは常の習いなり。然りと雖も末代に於て真の知識無ければ法を以て知識と為すに多くの証有り。
 摩訶止観に云く「或は知識に従い・或は経巻に従い・上に説く所の一実の菩提を聞く」已上。此の文の意は経巻を以て善知識と為す。
 法華経に云く「若し法華経を閻浮提に行じ受持すること有らん者は応に此の念を作すべし。皆是れ普賢威神の力なり」已上。此の文の意は末代の凡夫、法華経を信ずるは普賢の善知識の力なり。
 又云く「若し是の法華経を受持し・読誦し・正憶念し・修習し・書写すること有らん者は当に知るべし。是の人は即ち釈迦牟尼仏を見るなり。仏口(ぶっく)より此の経典を聞くが如し。当に知るべし是の人は釈迦牟尼仏を供養するなり」已上。
 此の文を見るに法華経は即ち釈迦牟尼仏なり。法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏・入滅を取り、此の経を信ずる者の前には滅後為りと雖も仏の在世なり。
 又云く「若し我成仏して滅度の後、十方の国土に於て法華経を説く処有らば、我が塔廟(とうみょう)是の経を聴かんが為の故に其の前に涌現(ゆげん)し為に証明を為さん」已上。
 此の文の意は我等法華の名号を唱へば多宝如来・本願の故に必ず来たりたまう。
 又云く「諸仏の十方世界に在つて法を説くを尽く還し一処に集めたまう」已上。
 釈迦多宝十方の諸仏・普賢菩薩等は我等が善知識なり。若し此の義に依らば我等は亦宿善・善財・常啼(じょうたい)・班足等にも勝れたり。彼は権経の知識に値い、我等は実経の知識に値えばなり。彼は権経の菩薩に値い、我等は実経の仏菩薩に値い奉ればなり。

 末代の凡夫には左右なく如何がきかしむべきとおぼゆる処を妙楽大師釈して云く「仏世は当機の故に簡(えら)ぶ・末代は結縁の故に聞かしむ」と釈し給へり。文の心は仏在世には仏・一期の間・多くの人不退の位にのぼりぬべき故に法華経の名義を出して謗ぜしめず機をこしらへて之を説く。仏滅後には当機の衆は少く結縁の衆多きが故に多分に就いて左右なく法華経を説くべしと云う釈なり。是体(これてい)の多くの品あり。
 又末代の師は多くは機を知らず、機を知らざらんには強いて但実教を説くべきか。されば天台大師の釈に云く「等しく是れ見ざれば但大を説くに咎(とが)無し」文。文の心は機をも知らざれば大を説くに失(とが)なしと云う文なり。
 又時の機を見て説法する方もあり。皆国中の諸人・権経を信じて実経を謗じ・強(あながち)に用いざれば弾呵(だんか)の心をもて説くべきか。時に依つて用否あるべし。

 仏の遺言に依法不依人と説かせ給いて候へば、経の如くに説かざるをば、何(いか)にいみじき人なりとも御信用あるべからず候か。

 問うて云く、唐土の人師の中に一分一向に権大乗に留つて実経に入らざる者はいかなる故か候。
 答えて云く、仏世に出でましまして先ず四十余年の権大乗・小乗の経を説き、後には法華経を説いて言わく「若以小乗化・乃至於一人・我則堕慳貪・此事為不可」文。文の心は仏但爾前の経許りを説いて法華経を説き給はずば、仏・慳貪(けんどん)の失ありと説かれたり。後に属累品にいたりて仏右の御手をのべて三たび諌めをなして三千大千世界の外・八方・四百万億那由佗の国土の諸菩薩の頂をなでて、未来には必ず法華経を説くべし。若し機たへずば余の深法の四十余年の経を説いて機をこしらへて法華経を説くべしと見えたり。後に涅槃経に重ねて此の事を説いて、仏滅後に四依の菩薩ありて法を説くに又法の四依あり、実経をついに弘めずんば天魔としるべきよしを説かれたり。

 疑つて云く、唐土の人師の中に慈恩大師は十一面観音の化身、牙より光を放つ。善導和尚は弥陀の化身、口より仏をいだす。この外の人師、通を現じ・徳をほどこし三昧(さんまい)を発得する人世に多し。なんぞ権実二経を弁へて法華経を詮とせざるや。
 答えて云く、阿竭多(あかだ)仙人外道は十二年の間、耳の中に恒河(ごうが)の水をとどむ。婆籔(ばそ)仙人は自在天となりて三目を現ず。唐土の道士の中にも張階は霧をいだし、鸞巴(らんぱ)は雲をはく。第六天の魔王は仏滅後に比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・阿羅漢・辟支仏の形を現じて四十余年の経を説くべしと見えたり。
 通力をもて智者愚者をばしるべからざるか。唯(ただ)仏の遺言の如く、一向に権経を弘めて実経をつゐに弘めざる人師は権経に宿習(しゅくじゅう)ありて・実経に入らざらん者は、或は魔にたぼらかされて通を現ずるか。但し法門をもて邪正をただすべし。利根と通力とにはよるべからず。

 所詮天下泰平・国土安穏は君臣の楽う所、土民の思う所なり。夫れ国は法に依つて昌え、法は人に因つて貴し。国亡び人滅せば仏を誰か崇む可き、法を誰か信ず可きや。先ず国家を祈りて須'すべから)く仏法を立つべし。若し災を消し・難を止むるの術有らば聞かんと欲す。
 主人の曰く、余は是れ頑愚にして敢へて賢を存せず。唯経文に就いて聊(いささ)か所存を述べん。抑(そもそ)も治術の旨・内外の間、其の文幾多(いくばく)ぞや。具(つぶさ)に挙ぐ可きこと難し。但し仏道に入つて数(しばし)ば愚案を廻すに、謗法の人を禁(いまし)めて正道の侶(りょ)を重んぜば、国中安穏にして天下泰平ならん。

 主人悦んで曰く、鳩・化して鷹と為り、雀変じて蛤(はまぐり)と為る。悦ばしきかな汝蘭室の友に交りて麻畝(まほ)の性と成る。誠に其の難を顧みて専ら此の言を信ぜば、風和らぎ・浪静かにして不日(ぶじつ)に豊年(ぶねん)ならん。
 但し人の心は時に随つて移り、物の性は境に依つて改まる。譬えば猶水中の月の波に動き、陣前の軍(いくさ)の剣に靡(なび)くがごとし。汝当座に信ずと雖も後、定めて永く忘れん。若し先ず国土を安んじて現当を祈らんと欲せば、速(すみやか)に情慮を回(めぐ)らし、忩(いそい)で対治を加えよ。
 所以(ゆえん)は何ん。薬師経の七難の内、五難・忽ちに起り、二難猶残れり。所以他国侵逼(しんぴつ)の難・自界叛逆の難なり。大集経の三災の内・二災早く顕れ、一災未だ起らず。所以(いわゆる)兵革(ひょうかく)の災なり。金光明経の内の種種の災過一一起ると雖も・他方の怨賊国内を侵掠(しんりゃく)する。此の災未だ露れず、此の難未だ来たらず。仁王経の七難の内、六難今盛んにして一難未だ現ぜず。所以(いわゆる)四方の賊来つて国を侵すの難なり。加之(しかのみならず)国土乱れん時は先ず鬼神乱る。鬼神乱るるが故に万民乱ると。今此の文に就いて具さに事の情(こころ)を案ずるに、百鬼早く乱れ・万民多く亡ぶ。先難是れ明かなり、後災何ぞ疑わん。若し残る所の難・悪法の科に依つて並び起り、競い来たらば其の時・何んが為(せ)んや。
 帝王は国家を基(もとい)として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ。而るに他方の賊来つて其の国を侵逼(しんぴつ)し、自界叛逆して其の地を掠領(りゃくりょう)せば、豈驚かざらんや・豈騒がざらんや。国を失い・家を滅せば何れの所にか世を遁れん。汝須(すべから)く一身の安堵を思わば、先ず四表の静謐を祷らん者か。

 広く衆経を披きたるに専ら謗法を重んず。悲いかな皆正法の門を出でて深く邪法の獄に入る、愚なるかな各悪教の綱に懸つて鎮(とこしなえ)に謗教の網に纒(まつわ)る。此の朦霧(もうむ)の迷、彼の盛焔(じょうえん)の底に沈む。豈愁えざらんや・豈苦しまざらんや。
 汝早く信仰の寸心を改めて速(すみやか)に実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰んや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く、土に破壊(はえ)無(なく)んば・身は是れ安全、心は是れ禅定ならん。此の詞(ことば)・此の言(ことば)信ず可く崇む可し。

 唯我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡めんのみ。

 然りと云えども如来滅後二千二百余年に及んで五濁さかりになりて年久し。事にふれて善なる事ありがたし。設ひ善を作(つくる)人も・一の善に十の悪を造り重ねて結句は小善につけて大悪を造り、心には大善を修したりと云ふ慢心を起す世となれり。然るに如来の世に出でさせ給いて候し国よりしては、二十万里の山海をへだてて東によれる日域辺土の小嶋にうまれ、五障の雲厚うして三従の・きづなに・つながれ給へる女人なんどの御身として法華経を御信用候は・ありがたしなんど・とも申すに限りなく候。凡そ一代聖教を披き見て顕密二道を究め給へる様なる智者学匠だにも、近来は法華経を捨て・念仏を申し候に、何なる御宿善ありてか此の法華経を一偈一句もあそばす御身と生れさせ給いけん。
 されば此の御消息を拝し候へば、優曇華(うどんげ)を見たる眼よりもめづらしく、一眼の亀の浮木の穴に値へるよりも乏(すくな)き事かなと、心ばかりは有がたき御事に思いまいらせ候間、一言・一点も随喜の言を加えて善根の余慶にもやと・はげみ候へども、只恐らくは雲の月をかくし、塵の鏡をくもらすが如く、短く拙き言にて殊勝にめでたき御功徳を申し隠し・くもらす事にや候らんといたみ思ひ候ばかりなり。然りと云えども貴命もだすべきにあらず。一滴を江海に加へ、爝火(しゃっか)を日月にそへて水をまし・光を添ふると思し食すべし。

 但し御不審の事、法華経は何れの品も先に申しつる様に愚かならねども、殊に二十八品の中に勝れて・めでたきは方便品と寿量品にて侍り。余品は皆枝葉にて候なり。されば常の御所作には方便品の長行と寿量品の長行とを習い読ませ給い候へ。又別に書き出しても・あそばし候べく候。
余の二十六品は身に影の随ひ、玉に財(たから)の備わるが如し。
 寿量品・方便品をよみ候へば・自然に余品はよみ候はねども備はり候なり。薬王品・提婆品は女人の成仏往生を説かれて候品にては候へども、提婆品は方便品の枝葉、薬王品は方便品と寿量品の枝葉にて候。されば常には此の方便品・寿量品の二品をあそばし候て余の品をば時時・御いとまの・ひまに・あそばすべく候

 仁王経に云く「一切の聖人去る時・七難必ず起る」と。彼の呉王は伍子胥(ごししょ)が詞を捨て吾が身を亡し、桀紂(けっちゅう)は竜比を失つて国位を喪(ほろ)ぼす。今・日本国既に蒙古国に奪われんとす。豈歎かざらんや、豈驚かざらんや。
 日蓮が申す事御用い無くんば定めて後悔之有る可し。日蓮は法華経の御使なり。経に云く「則ち如来の使ひ、如来の所遣として如来の事を行ず」と。三世諸仏の事とは法華経なり。
 此の由・方方へ之を驚かし奉る。一所に集めて御評議有つて御報に予(あず)かる可く候。所詮は万祈(ばんき)を抛(なげう)つて諸宗を御前に召し合せ、仏法の邪正を決し給え。澗底(かんてい)の長松(ちょうしょう)未だ知らざるは良匠の誤り、闇中の錦衣(きんい)を未だ見ざるは愚人の失(とが)なり。三国仏法の分別に於ては殿前に在り。所謂阿闍世(あじゃせ)・陳隋・桓武是なり。
 敢へて日蓮が私曲に非ず。只偏に大忠を懐く故に。身の為に之を申さず・神の為・君の為・国の為・一切衆生の為に言上せしむる所なり、恐恐謹言。

 聖人示して云く、汝先ず法門を置いて道理を案ぜよ。抑(そもそも)我一代の大途を伺わず・十宗の淵底を究めずして国を諌め・人を教ふべきか。

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 今日召し合はせ御問注の由承り候。各々御所念の如くならば、三千年に一度花さき・菓(このみ)なる優曇華に値へるの身か。西王母の薗(その)の桃、九千年に三度之を得るは東方朔(とうほうさく)が心か。一期の幸ひ、何事か之に如かん。御成敗の甲乙は且く之を置く。前立ちて欝念(うつねん)を開発せんか。
 但し兼日・御存知有りと雖も・駿馬にも鞭(むち)うつの理之有り。今日の御出仕・公庭に望みての後は、設ひ知音(ちいん)たりと雖も・傍輩に向かひて雑言を止めらるべし。両方召し合はせの時、御奉行人・訴陳の状之を読むの剋(きざ)み、何事に付けても御奉行人・御尋ね無からんの外(ほか)は一言をも出だすべからざるか。設ひ敵人等悪口を吐くと雖も各々当身の事、一・二度までは聞かざるが如くすべし。三度に及ぶの時、顔貌(げんみょう)を変ぜず・麁言(そげん)を出ださず・軟語(なんご)を以て申すべし。
 各々は一処の同輩なり。私に於ては全く違恨(いこん)無きの由之を申さるべきか。又御供の雑人等に能く能く禁止を加へ、喧嘩を出だすべからざるか。是くの如きの事・書札に尽くし難し。心を以て御斟酌(しんしゃく)有るべきか。
 此等の嬌言(きょうげん)を出だす事恐れを存ずと雖も、仏経と行者と檀那と三事相応して一事を成ぜんが為に愚言を出だす処なり。恐々謹言。
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 又御持仏堂にて法門申したりしが面目なんどかかれて候事、かへすがへす不思議にをぼへ候。そのゆへは僧となりぬ、其の上・一閻浮提にありがたき法門なるべし。設い等覚の菩薩なりとも・なにとかをもうべき。まして梵天・帝釈等は我等が親父・釈迦如来の御所領をあづかりて正法の僧をやしなうべき者につけられて候。毘沙門等は四天下の主・此等が門まほり、又四州の王等は毘沙門天が所従なるべし。其の上日本秋津嶋は四州の輪王の所従にも及ばず、但嶋の長(おさ)なるべし。長なんどにつかへん者どもに召されたり、上(かみ)なんどかく上・面目なんど申すは・旁(かたがた)せんずるところ日蓮をいやしみてかけるか。総じて日蓮が弟子は京にのぼりぬれば始はわすれぬやうにて、後には天魔つきて物にくるう・せう(少輔)房がごとし。わ御房もそれていになりて天のにくまれかほるな。
 のぼりていくばくもなきに実名をかうるでう(条)物くるわし。定めてことばつき音(音)なんども京なめりになりたるらん。ねずみが・かわほり(蝙蝠)になりたるやうに・鳥にもあらず・ねずみにもあらず・田舎法師にもあらず・京法師にもにず・せう房がやうになりぬとをぼゆ。言をば但いなかことばにてあるべし。なかなか・あしきやうにて有るなり。尊成(そんじょう)とかけるは隠岐の法皇の御実名か。かたがた不思議なるべし。
 
 涅槃経の三十四に云く「人身を受けん事は爪上の土、三悪道に堕ちん事は十方世界の土。四重・五逆・乃至涅槃経を謗ずる事は十方世界の土、四重・五逆乃至涅槃経を信ずる事は爪の上の土」なんどととかれて候。末代には五逆の者と謗法の者は十方世界の土のごとしと・みへぬ。されども当時・五逆罪つくる者は爪の上の土・つくらざる者は十方世界の土と説かれ候へば、経文そらごとなるやうにみへ候をくはしくかんがへみ候へば、不孝の者を五逆罪の者とは申し候か。又相似の五逆と申す事も候。
 さるならば前王の正法・実法を弘めさせ給えと候を、今の王の権法・相似の法を尊んで天子本命の道場たる正法の御寺の御帰依うすくして権法・邪法の寺の国国に多くいできたれるは、愚者の眼には仏法繁盛とみへて・仏天智者の御眼には古き正法の寺寺やうやくうせ候へば・一には不孝なるべし、賢なる父母の氏寺をすつるゆへ、二には謗法なるべし。若ししからば日本国・当世は国一同に不孝謗法の国なるべし。此の国は釈迦如来の御所領、仏の左右臣下たる大梵天王・第六天の魔王に・たば(給)せ給いて大海の死骸をとどめざるがごとく、宝山の曲林をいとうがごとく、此の国の謗法をかへんとおぼすかと勘え申すなりと申せ。
 
 一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る。爾前は迹門の依義判文(えぎはんもん)・迹門は本門の依義判文なり。但真実の依文判義(えもんはんぎ)は本門に限るべし。

 一昨日見参に罷入(まかりいり)候の条・悦び入り候。
 抑(そもそも)人の世に在る、誰か後世を思わざらん。仏の出世は専ら衆生を救わんが為なり。爰(ここ)に日蓮比丘と成りしより旁(かたがた)法門を開き、已に諸仏の本意を覚り・早く出離の大要を得たり。其の要は妙法蓮華経是なり。一乗の崇重・三国の繁昌の儀・眼前に流る。誰か疑網を貽(のこ)さんや。而るに専ら正路に背いて偏(ひとえ)に邪途を行ず。然る間・聖人国を捨て・善神瞋(いかり)を成し、七難並びに起つて四海閑(しず)かならず。
 方今世は悉く関東に帰し・人は皆士風を貴ぶ。就中(なかんずく)日蓮生を此の土に得て豈(あに)吾が国を思わざらんや。仍つて立正安国論を造つて故最明寺入道殿の御時、宿屋の入道を以て見参に入れ畢んぬ。而るに近年の間・多日の程、犬戎(けんじゅう)浪を乱し夷敵国を伺う。先年勘え申す所、近日符合せしむる者なり。
 彼の太公が殷の国に入りしは西伯の礼に依り、張良が秦朝を量りしは漢王の誠を感ずればなり。是れ皆時に当つて賞を得。謀(はかりごと)を帷帳(いちょう)の中に回(めぐ)らし、勝つことを千里の外に決せし者なり。

 又貴辺に申し付けし一切経の要文、智論の要文、五帖一処に取り集めらる可く候。其の外・論釈の要文散在あるべからず候。又小僧達談義あるべしと仰せらるべく候。流罪(るざい)の事・痛く歎かせ給ふべからず。勧持品に云く・不軽品に云く、命限り有り、惜む可からず。遂に願う可きは仏国也云云。
 問うて云く、念仏無間の証拠(しょうこ)二十八品の中には何れぞや。
 答う、一義に云く二十八品の中に証拠有らば堕獄治定なるか。一義に云く、法華を誹謗するを証拠とするなり。一義に云く、法華の文を尋ぬるは信じて問うか、信ぜずして問うか。一義に云く、直(ただち)に入阿鼻獄(あびごく)の文を出すなり。一義に云く、妙法蓮華経・其の証拠なり。一義に云く、弥陀の本誓(ほんぜい)に背く故なり。一義に云く、弥陀の命を断つ故なり。一義に云く、有縁(うえん)の釈尊に背く故なり。念仏無間は三世諸仏の配立なり。



by johsei1129 | 2026-03-22 10:22 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)


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