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日蓮大聖人『御書』解説

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2026年 03月 02日

正師・善比丘の明文 (終)

 あわれ他国よりせめ来りて・たか(鷹)のきじ(雉)をとるやうに、ねこのねずみをか(咬)むやうに・せめられん時、あま(尼)や女房どもの・あわて候はんずらむ。日蓮が一るいを二十八年が間せめ候いし・むくい(報)に、或はいころ(射殺)し・切りころし・或はいけどり・或は他方へわたされ・宗盛(むねもり)が・なわつ(縄付)きてさらされしやうに、すせんまん(数千万)の人人の・なわ(縄)つきて・せめられん・ふびんさよ。
 しかれども日本国の一切衆生は皆五逆罪の者なれば、かくせめられんをば天も悦び、仏もゆるし給はじ。あわれ・あわれ、はぢ(恥)みぬさきに阿闍世王の提婆を・いましめしやうに、真言師・念仏者・禅宗の者どもをいましめて、すこし・つみをゆるくせさせ給えかし。あらをかし・あらふびん・ふびん。わわく(誑惑)のやつばらの智者げなれば・まこととて・もてなして、事にあはん・ふびんさよ。恐恐謹言。

 今又日本国・一万一千三十七の寺、並びに三千一百三十二社の神は国家安穏のために・あがめられて候。而るに其の寺寺の別当等・其の社社の神主等(かんぬしら)はみなみな・あがむるところの本尊と神との御心に相違せり。彼れ彼れの仏と神とは其の身・異体なれども其の心同心に法華経の守護神なり。別当と社主等は或は真言師・或は念仏者・或は禅僧・或は律僧なり。皆一同に八幡等の御かたきなり。謗法(ほうぼう)不孝の者を守護し給いて正法の者を或は流罪・或は死罪等に行なわするゆへに・天のせめを被(かお)り給いぬるなり。

 法華経の第四に云く「已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於て此の法華経最も難信難解なり」又云く「最も其の上に在り」並に「薬王十喩」等云云。
 他経に於ては華厳・方等・般若・深密・大雲・密厳・金光明経等の諸教の中に経経の勝劣之を説くと雖も、或は小乗経に対して此の経を第一と曰い、或は真俗二諦に対して中道を第一と曰い、或は印・真言等を説くを以て第一と為す。此等の説有りと雖も全く已今当(いこんとう)の第一に非ざるなり。然而(しか)るに末の論師・人師等、謬執(みょうしゅう)の年積もり・門徒又繁多(はんた)なり。
 爰に日蓮彼の依経に無きの由を責むる間・弥(いよい)よ瞋恚(しんに)を懐(いだ)いて是非を糺明(きゅうめい)せず、唯大妄語を構えて国主・国人等を誑惑(おうわく)し日蓮を損ぜんと欲す。衆千の難を蒙らしむるのみに非ず、両度の流罪・剰(あまつさ)え頚(くび)の座に及ぶ是なり。此等の大難・忍び難き事・不軽の杖木(じょうもく)にも過ぎ、将又勧持の刀杖にも越えたり。又法師品の如きは「末代に法華経を弘通(ぐつう)せん者は如来の使ひなり・此の人を軽賤(きょうせん)するの輩の罪は教主釈尊を一中劫蔑如(べつじょ)するに過ぎたり」等云云。
 今日本国には提婆達多(だいばだった)・大慢婆羅門等が如く、無間地獄に堕つ可き罪人、国中・三千五百八十七里の間に満つる所の四十五億八万九千六百五十九人の衆生之れ有り。彼の提婆・大慢等の無極の重罪を此の日本国四十五億八万九千六百五十九人に対せば軽罪中の軽罪なり。
 問う、其の理如何。
 答う、彼等は悪人為りと雖も全く法華を誹謗する者には非ざるなり。又提婆達多は恒河(ごうが)第二の人にして第三の一闡提(いっせんだい)なり。今日本国四十五億八万九千六百五十九人は皆恒河第一の罪人なり。然れば則ち提婆が三逆罪は軽毛(けいもう)の如し、日本国の上に挙ぐる所の人人の重罪は猶大石(だいせき)の如し。定めて梵釈も日本国を捨て、同生・同名も国中の人を離れ、天照太神・八幡大菩薩も争(いか)でか此の国を守護せん。
 去(いぬ)る治承等の八十一・二・三・四・五代の五人の大王と頼朝・義時と此の国を御諍い有つて天子と民との合戦なり。猶鷹駿(なお・ようしゅん)と金鳥(こんちょう)との勝負の如くなれば、天子・頼朝等に勝たんこと必定なり決定(けつじょう)なり。然りと雖も五人の大王は負け畢(おわ)んぬ、兎・師子王に勝ちしなり。負くるのみに非ず剰(あまつさ)え或は蒼海(そうかい)に沈み、或は島島に放たる。誹謗法華未だ年歳を積まざる時、猶以て是くの如し。今度は彼に似る可らず。彼は但国中の災い許りなり。其の故は粗之を見るに蒙古の牒状(ちょうじょう)已前に去る正嘉(しょうか)・文永等の大地震・大彗星の告げに依つて再三之を奏すと雖も国主敢へて信用無し。然るに日蓮が勘文・粗仏意(ほぼ・ぶっち)に叶うかの故に此の合戦既に興盛なり。此の国の人人・今生には一同に修羅道に堕し、後生には皆阿鼻大城に入らん事疑い無き者なり。

 去る承久の合戦に隠岐の法皇の御前にして・京の二位殿なんどと申せし何もしらぬ女房等の集りて王を勧め奉り、戦(いくさ)を起こして義時に責められ・あはて給いしが如し。今今御覧ぜよ、法華経誹謗の科(とが)と云ひ、日蓮をいやしみし罰と申し、経と仏と僧との三宝誹謗の大科によつて現生には此の国に修羅道を移し、後生には無間地獄へ行き給うべし。此れ又偏(ひとえ)に弘法・慈覚・智証等の三大師の法華経誹謗の科と、達磨・善導・律僧等の一乗誹謗の科と、此れ等の人人を結構せさせ給う国主の科と、国を思ひ生処を忍びて兼て勘へ告げ示すを用いずして・還つて怨(あだ)をなす大科、先例を思へば呉王・夫差(ふさ)の伍子胥(ごししょ)が諌(いさめ)を用いずして越王・勾践(こうせん)にほろぼされ、殷の紂王が比干(ひかん)が言(ことば)をあなづりて周の武王に責められしが如し。

 父母・国主等の法華経を御制止候を用い候はねば・還つて父母の孝養となり国主の祈りとなり候ぞ。其の上日本国はいみじき国にて候。神を敬ひ仏を崇(あが)むる国なり。而れども日蓮が法華経を弘通し候を・上一人より下万民に至るまで御あだみ候故に・一切の神を敬ひ・一切の仏を御供養候へども其の功徳還つて大悪となり、やいと(灸治)の還つて悪瘡(あくそう)となるが如く、薬の還つて毒となるが如し。一切の仏神等に祈り給ふ御祈りは還つて科(とが)と成りて此の国・既に他国の財(たから)と成り候。又大なる人人・皆平家の亡びしが様に百千万億すぎての御歎きたるべきよし、兼ねてより人人に申し聞かせ候ひ畢(おわ)んぬ。

 文句の八に云く「持品は八万の大士忍力成ずる者・此の土に弘経す。新得記の者は他土に弘経す、安楽行の一品なり」文。

 文句の八に云く「已とは大品以上の漸頓の諸説なり。今とは同一の座席・謂く無量義経なり、当とは謂く涅槃なり。大品等の漸頓は皆方便を帯すれば信を取ること易しと為す。

 今無量義は一より無量を生ずれども・無量未だ一に還らず、是亦信じ易し。今の法華は、法を論ずれば一切の差別・融通して一法に帰す、人を論ずれば則ち師弟の本迹倶に皆久遠なり。二門悉く昔と反すれば信じ難く解し難し。鋒(ほこ)に当る難事をば法華已に説く。涅槃は後に在れば則ち信ず可きこと易し。

 秘要の蔵とは隠して説かざるを秘と為し、一切を惣括するを要と為す。真如実相の包蘊(ほうおん)せるを蔵と為す。

 不可分布とは法・妙にして信じ難し。深智には授く可し、無智は罪を益す故に妄りに説く可らず。

 昔より已来(このかた)未だ曾て顕説せずとは、三蔵の中に於ては二乗の作仏を説かず、亦師弟の本迹を明かさず。方等般若には実相の蔵を説くと雖も亦未だ五乗の作仏を説かず、亦未だ発迹顕本せず。頓漸の諸経・皆未だ融会せず、故に名けて秘と為す。此の経には具(つぶさ)に昔秘する所の法を説く、即ち是れ秘密蔵を開するに亦即ち是れ秘密蔵なり。此くの如きの秘蔵は未だ曾て顕説せず。

 如来在世・猶多怨嫉(ゆたおんしつ)とは四十余年には即ち説くことを得ず。今説かんと欲すと雖も而も五千・尋(つ)いで即ち座を退く。仏世すら尚爾り、何に況んや未来をや。理・化(げ)し難きに在り」。


 日蓮は名字即の位、弟子檀那は理即の位なり。上行所伝・結要付属(けっちょうふぞく)の行儀は教観判乗・皆名字即(かいみょうじそく)・五味の主の修行なり。故に教相の次第・要用に依る可し。唯大綱(たいこう)を存する時は、余は網目を事とせず。彼は網目、此れは大綱。彼は網目の教相の主、此れは大綱首題の主。恐くは日蓮の行儀には天台伝教も及ばず、何に況んや他師の行儀に於てをや。唯在世八箇年の儀式を移して滅後末法の行儀と為す。然りと雖も仏は熟脱の教主、某(それがし)は下種の法主なり。彼の一品二半は舎利弗等の為には観心たり、我等・凡夫の為には教相たり。理即短妄(たんもう)の凡夫の為の観心は、余行に渡らざる南無妙法蓮華経是なり。
 是くの如く深義を知らざる僻人(びゃくにん)出来(しゅったい)して予が立義は教相辺外(はずれ)と思う可き者なり。此等は皆宿業の拙(つたな)き修因感果の至極せるなるべし。彼の天台大師には三千人の弟子ありて章安一人朗然(ろうねん)なり。伝教大師は三千人の衆徒を置く。義真已後は其れ無きが如し。今以て此くの如し。数輩(すうはい)の弟子有りと雖も・疑心無く正義を伝うる者は希(まれ)にして一二の小石の如し。秘す可きの法門なり。

 第二 不惜身命(ふしゃく・しんみょう)の事
 御義口伝に云く、身とは色法、命とは心法なり。事理の不惜身命之れ有り。法華の行者田畠等を奪わるは理の不惜身命なり。命根(みょうこん)を断たるを事の不惜身命と云うなり。今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は事理共に値うなり。

一 本因本果の事
 法界悉く常住不滅の為体(ていたらく)を云うなり。されば妙楽大師・此の事を釈する時・弘決(ぐけつ)に云く「当に知るべし身土一念の三千なり。故に成道の時・此の本理に称(かな)いて一身一念法界に遍(あまね)し」云云。
 此の釈分明(ふんみょう)に本因本果を釈したり。身と云うは一切衆生なり、土と云うは此の一切衆生の住処なり。一念とは此の衆生の念念の作業なり。「故に成道の時・此の本理に称(かな)う」とは本因本果の成道なり、本理と本因本果とは同じ事なり。法界とは五大なり。
 所詮法華経を持ち奉る行者は若在仏前・蓮華化生なれば称此本理の成道なり。本理に称(かな)うとは妙法蓮華経の本理に称うと云う事なり。法華経の本理に叶うとは此の経を持(たも)ち奉るを云うなり。「若し能く持つこと有らば則ち仏身を持つ」とは是なり。

一 仏所成就・第一希有・難解之法・唯仏与仏(ゆぶつ・よぶつ)の事
 仰せに云く、仏とは釈尊の御事なり。成就とは法華経なり。第一は爾前の不第一に対し、希有は爾前の不希有に対し、難解之法は爾前の不難解に対したり。
 此の仏と申すは諸法実相なれば十界の衆生を仏とは云うなり。十界の衆生の語言音声・成就にして法華経なり。三世の諸仏の出世の本懐の妙法にして優曇華(うどんげ)の妙文なれば第一希有なり。九界の智慧は及ばざれば難解の法なり。
 成就とは我等衆生の煩悩即菩提・生死即涅槃の事なり。権教の意は終に不成仏なれば成就には非ず。迹門には二乗成仏顕はれたり、是れ即ち成就なり。是を仏所成就とは説かれたり。されば唯仏とは釈迦、与仏とは多宝なり。多宝涌現なければ与仏とは云いがたし。然りと雖も終には出現あるべき故に・与仏を多宝というなり。
 所詮日蓮等の類いの心は・唯仏は釈尊・与仏は日蓮等の類いの事なるべし。其の故は唯仏の唯を重ねて譬喩品には唯我一人と説けり。与仏の二字を重ねて方便品の末に至つて若遇余仏(にゃくぐ・よぶつ)と説けり。釈には「深く円理を覚る、之れを名けて仏と為す」と釈せり。是れ即ち与仏と云うは法華経の行者・男女の事なり。唯我一人の釈尊に与(くみ)し上(たてまつ)る仏なり。此の二仏寄り合いて乃能究尽(ないのう・くじん)する所の諸法実相の法体なり。
 されば十如是と云うは十界なり。十界即十如是なり。十如是は即ち法華経の異名なり云云。

一 乗此宝乗・直至道場の事
 仰せに云く、此の経文は我等衆生の煩悩即菩提・生死即涅槃を明かせり。其の故は文句の五に云く「此の因・易(かわ)ること無きが故に直至と云う」と。此の釈の心は爾前の心は煩悩を捨てて生死を厭(いと)うて別に菩提涅槃を求めたり。法華経の意は煩悩即菩提・生死即涅槃と云えり。直と即とは同じ事なり。
 所詮日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処即寂光土と心得可きなり。然れば此の実乗に乗じて忽ちに妙覚極果の位に至るを直至道場とは云うなり。直至と云う文の意は四十二位を爰(ここ)にて極めたり。
 此の直の一字は地獄即寂光・餓鬼即寂光土なり。法華経の行者の住処、山谷曠野なりとも直至道場なり。道場とは究竟(くきょう)の寂光なり。仍つて乗此宝乗の上の乗は法華の行者、此の品の意にては中根の四大声聞なり、惣じて一切衆生の事なり、今末法に入つては日蓮等の類いなり。
 宝乗の乗の字は大白牛車の妙法蓮華経なり。然れば上の乗は能乗・下の乗は所乗なり。宝乗は蓮華なり。釈迦・多宝等の諸仏も此の宝乗に乗じ給えり。此れを提婆品に重ねて説く時「若在仏前・蓮華化生」と云云。
 釈迦・多宝の二仏は我等が己心なり。此の己心の法華経に値い奉つて成仏するを顕わさんとして釈迦・多宝・二仏・並座(びょうざ)して乗此宝乗・直至道場を顕わし給えり。
 此の乗とは車なり、車は蓮華なり。此の蓮華の上の妙法は我等が生死の二法・二仏なり。直至の至は此れより彼(かしこ)へいたるの至るには非ず。住処即寂光と云うを至とは云うなり。
 此の宝乗の宝は七宝の大車なり。七宝即ち頭上の七穴・七穴即ち末法の要法・南無妙法蓮華経是なり。此の題目の五字、我等衆生の為には三途の河にては船となり、紅蓮地獄(ぐれんじごく)にては寒さをのぞき、焦熱地獄にては凉風となり、死出の山にては蓮華となり、渇せる時は水となり、飢えたる時は食となり、裸かなる時は衣となり、妻となり子となり、眷属となり家となり、無窮(むぐう)の応用を施して一切衆生を利益し給うなり。直至道場とは是なり。仍つて此の身を取りも直さず寂光土に居るを直至道場とは云うなり。直の字に心を留めて之を案ず可し云云。
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by johsei1129 | 2026-03-02 20:36 | 御書 INDEX・略歴 | Trackback | Comments(0)


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