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日蓮大聖人『御書』解説

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2026年 02月 15日

悪僧・悪比丘の明文(3)

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大師講に鵞目(がもく)五
連給び候ひ了んぬ。此の大師講
三、四年に始めて候が、
今年は第一にて候ひつ
るに候。
抑(そもそも)、此の法門の事、勘文
の有無に依りて弘まるべきか、弘まらざるか。
去年方々に申して
候ひしかども、いなせ(否応)の返事
候はず候。
今年十一月の比(ころ)、方々へ申して候へば、少々返事あるかたも候。をほかた(大方)人の心もやわらぎて、さもやと・をぼしたりげに候。又上のげざん(見参)にも入りて候やらむ。
 これほどの僻事(ひがごと)申して候へば、流・死の二罪の内は一定(いちじょう)と存ぜしが、いまゝでなにと申す事も候はぬは不思議とをぼへ候。いたれる道理にて候やらむ。又自界叛逆難の経文も値ふべきにて候やらむ。山門なんども・いにしえにも百千万億倍すぎて動揺とうけ給はり候。それならず子細ども候やらん。震旦・高麗すでに禅門・念仏になりて、守護の善神の去るかの間、彼の蒙古に従ひ候ひぬ。我が朝(日本国)又此の邪法弘まりて天台法華宗を忽諸(こっしょ)のゆへに山門安穏ならず。師檀違叛の国と成り候ひぬれば十が八・九はいかんがとみへ候。
 人身すでにうけぬ、邪師又まぬかれぬ。法華経のゆへに流罪(るざい)に及びぬ。今死罪に行なはれぬこそ本意ならず候へ。あわれ・さる事の出来(しゅったい)し候へかしとこそ・はげみ候ひて方々に強言(ごうげん)をかきて挙げをき候なり。
 すでに年五十に及びぬ。余命いくばくならず。いたづらに曠野(こうや)にすてん身を・同じくは一乗法華のかたになげて、雪山童子・薬王菩薩の跡をおひ、仙予・有徳(うとく)の名を後代に留めて法華・涅槃経に説き入れられまいらせんと願うところなり。南無妙法蓮華経。

 外道の法と申すは本(もと)内道より出でて候。而れども外道の法をもつて内道の敵となるなり。諸宗は法華経よりいで天台宗を才学として而も天台宗を失うなるべし。天台宗の人人は我が宗は実義とも知らざるゆへに、我が宗のほろび・我が身のかろくなるをば・しらずして他宗を助けて我が宗を失うなるべし。

 又念仏宗は法華経を背いて浄土の三部経につくゆへに、阿弥陀仏を正として釈迦仏をあなづる。真言師・大日をせんとをもうゆへに釈迦如来をあなづる。戒にをいては大小殊なれども釈尊を本とす、余仏は証明なるべし。諸宗殊なりとも釈迦を仰ぐべきか。師子の中の虫・師子をくらう。仏教をば外道はやぶりがたし、内道の内に事いできたりて仏道を失うべし、仏の遺言なり。仏道の内には小乗をもつて大乗を失い、権大乗をもつて実大乗を失うべし。此等は又外道のごとし。又小乗・権大乗よりは実大乗・法華経の人人が・かへりて法華経をば失はんが大事にて候べし。
 仏法の滅不滅は叡山にあるべし。叡山の仏法滅せるかのゆえに異国・我が朝をほろぼさんとす。叡山の正法の失するゆえに大天魔・日本国に出来して法然・大日等が身に入り、此等が身を橋として王臣等の御身にうつり住み、かへりて叡山三千人に入るゆえに、師檀・中不和にして御祈祷しるしなし。御祈請しるしなければ三千の大衆等檀那にすてはてられぬ。
 又王臣等、天台・真言の学者に問うて云く、念仏・禅宗等の極理は天台・真言とは一つかととはせ給へば、名は天台真言にかりて其の心も弁えぬ高僧、天魔にぬかれて答えて云く、禅宗の極理は天台真言の極理なり、弥陀念仏は法華経の肝心なりなんど答え申すなり。而るを念仏者・禅宗等のやつばらには天魔乗りうつりて当世の天台真言の僧よりも智慧かしこきゆえに全くしからず、禅は・はるかに天台真言に超えたる極理なり、或は云く「諸教は理深・我等衆生は解微なり、機教相違せり得道あるべからず」なんど申すゆへに、天台・真言等の学者、王臣等・檀那皆奪いとられて御帰依なければ、現身に餓鬼道に堕ちて友の肉をはみ・仏神にいかりをなし・檀那をすそ(呪詛)し・年年に災を起し・或は我が生身の本尊たる大講堂の教主釈尊をやきはらい、或は生身の弥勒菩薩をほろぼす。進んでは教主釈尊の怨敵となり・退いては当来弥勒の出世を過(あやま)たんとくるい候か。この大罪は経論にいまだとかれず。
                              [法門申さるべき様の事]

 法華経は一代聖教の肝心・八万法蔵の依りどころなり。大日経・華厳経・般若経・深密経等の諸の顕密の諸経は震旦(しんたん)・月氏(がっし)・竜宮・天上・十方世界の国土の諸仏の説教、恒沙塵数(ごうしゃ・じんじゅ)なり。大海を硯(すずり)の水とし三千大千世界の草木を筆としても書き尽しがたき経経の中をも或は此れを見、或は計り推するに法華経は最第一におはします。
 而るを印度等の宗・日域の間に仏意(ぶっち)を窺(うかが)はざる論師・人師多くして或は大日経は法華経に勝れたり、或る人人は法華経は大日経に劣れるのみならず華厳経にも及ばず、或る人人は法華経は涅槃経・般若経・深密経等には劣る、或る人人は辺辺あり・互に勝劣ある故に、或る人の云く機に随つて勝劣あり・時機に叶へば勝れ叶はざれば劣る、或る人の云く有門より得道すべき機あれば空門をそしり・有門をほむ・余も是を以て知るべしなんど申す。
 其の時の人人の中に此の法門を申しやぶる人なければ、おろかなる国王等深く是を信ぜさせ給ひ、田畠等を寄進して徒党あまたになりぬ。其の義久く旧(ふり)ぬれば只正法なんめりと打ち思つて疑ふ事もなく過ぎ行く程に、末世に彼等が論師・人師より智慧賢き人出来して彼等が持つところの論師・人師の立義・一一に或は所依の経経に相違するやう・或は一代聖教の始末・浅深等を弁へざる故に、専ら経文を以て責め申す時、各各・宗宗の元祖の邪義扶(たす)け難き故に陳し方を失ひ、或は疑つて云く論師・人師定めて経論に証文ありぬらん、我が智及ばざれば扶けがたし。或は疑つて云く我が師は上古の賢哲なり・今我等は末代の愚人なり、なんど思う故に・有徳・高人をかたらひ・えて怨(あだ)のみなすなり。

 一を以て万を知れ。真言等の諸宗の誤りをだに留めん事・手ににぎりておぼゆるなり。況や当世の高僧・真言師等は其の智・牛馬にもおとり、螢火(ほたるび)の光にもしかず。只死せるものの手に弓箭(きゅうせん)をゆひつけ、ねごとするものに物をとふが如し。手に印を結び・口に真言は誦(ず)すれども、其の心中には義理を弁(わきま)うる事なし。結句・慢心は山の如く高く、欲心は海よりも深し。是は皆自ら経論の勝劣に迷ふより事起り、祖師の誤りをたださざるによるなり。

 又我が師・釈迦如来は一代聖教乃至八万法蔵の説者なり。此の娑婆(しゃば)・無仏の世の最先に出でさせ給いて一切衆生の眼目を開き給ふ御仏(みほとけ)なり。東西十方の諸仏・菩薩も皆此の仏の教(おしえ)なるべし。譬えば皇帝已前は人・父をしらずして畜生の如し。尭(ぎょう)王已前は四季を弁へず、牛馬の癡(おろか)なるに同じかりき。仏世に出でさせ給はざりしには比丘・比丘尼の二衆もなく只男女二人にて候いき。今比丘・比丘尼の真言師等・大日如来を御本尊と定めて釈迦如来を下し、念仏者等が阿弥陀仏を一向に持つて釈迦如来を抛(なげす)てたるも教主釈尊の比丘・比丘尼なり。元祖が誤を伝え来るなるべし。

 されば雙林(そうりん)最後の涅槃経に「十悪・五逆よりも過ぎておそろしき者を出ださせ給ふに、謗法闡提(ほうぼうせんだい)と申して二百五十戒を持ち三衣一鉢(ぱつ)を身に纒(まと)へる智者共の中にこそ有るべしと見え侍れ」

 眠れる師子に手を付けざれば瞋(いか)らず、流れに・さをを立てざれば浪立たず、謗法を呵嘖(かしゃく)せざれば留難(るなん)なし。「若し善比丘あって法を壊(やぶ)る者を見て置いて呵嘖せずんば」の置(ち)の字を・をそ(畏)れずんば今は吉し、後を御らんぜよ。無間地獄は疑ひ無し。
 故に南岳大師の四安楽行に云く「若し菩薩有りて悪人を将護して治罰すること能わず、其れをして悪を長ぜしめ・善人を悩乱し正法を敗壊(はえ)せば、此の人は実に菩薩に非ず。外には詐侮(さぶ)を現じ常に是の言を作さん、我は忍辱(にんにく)を行ずと。其の人命終して諸の悪人と倶に地獄に堕ちなん」云云。


by johsei1129 | 2026-02-15 16:57 | 御書 INDEX・略歴 | Trackback | Comments(0)


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