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日蓮大聖人『御書』解説

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2026年 02月 09日

御本尊の明文(5)

 今月十五日 酉時 御文同じき十七日 酉時 到来す。
 彼等御勘気を蒙(こうむ)るの時、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱え奉ると云云。偏(ひとえ)に只事に非ず。定めて平金吾の身に十羅刹入り易(かわ)りて法華経の行者を試みたもうか。例せば雪山童子、尸毘王(しびおう)等の如し。将(は)た又悪鬼其の身に入る者か。釈迦・多宝・十方の諸仏・梵帝(ぼんたい)等、五五百歳の法華経の行者を守護す可きの御誓ひは是なり。
 大論に云く「能く毒を変じて薬と為す」 天台云く「毒を変じて薬と為す」云云。
 妙の字虚(むな)しからずんば定めて須臾(しゅゆ)に賞罰有らんか。伯耆房(ほうきぼう)等、深く此の旨を存じて問注を遂(と)ぐ可し。平金吾に申す可き様は、文永の御勘気の時・聖人の仰せ忘れ給うか、其の殃(わざわい)未だ畢(おわ)らず重ねて十羅刹の罰を招き取るか。最後に申し付けよ。恐恐謹言。
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三烈士墓碑

 日蓮が勘文あらわれて大蒙古国を調伏し日本国かつならば、此の法師は日本第一の僧となりなん。我等が威徳をとろうべしと思うかのゆへに讒言をなすをばしろしめさずして、彼等がことばを用いて国を亡ぼさんとせらるるなり。例せば二世王は趙高が讒言によりて李斯(りし)を失ひ、かへりて趙高が為に身をほろぼされ、延喜の御門はしへい(時平)の・をとど(大臣)の讒言によりて菅丞相(かん・じょうしょう)を失いて地獄におち給いぬ。
 此れも又かくの如し。法華経のかたきたる真言師・禅宗・律僧・持斎・念仏者等が申す事を御用いありて日蓮をあだみ給うゆへに、日蓮はいやしけれども所持の法華経を釈迦・多宝・十方の諸仏・梵天・帝釈・日月・四天・竜神・天照太神・八幡大菩薩、人の眼をおしむがごとく・諸天の帝釈をうやまうがごとく・母の子を愛するがごとく・まほ(守)り・おもんじ給うゆへに、法華経の行者をあだむ人を罰し給う事、父母のかたきよりも・朝敵よりも重く大科に行ひ給うなり。

 又我が身はこれ程に浮び難かりしが、いかなりける事にてや、同十一年の春の比(ころ)、赦免せられて鎌倉に帰り上(のぼ)りけむ。倩(つらつら)事の情(こころ)を案ずるに、今は我身に過(あやまち)あらじ。或は命に及ばんとし、弘長には伊豆の国、文永には佐渡の島、諌暁(かんぎょう)再三に及べば留難重畳(るなん・ちょうじょう)せり。
 仏法中怨の誡責(かいしゃく)をも・身には・はや免れぬらん。然るに今・山林に世を遁(のが)れ・道を進まんと思いしに、人人の語(ことば)・様様(さまざま)なりしかども・旁(かたがた)存ずる旨ありしに依りて当国・当山に入りて已に七年の春秋を送る。
 又身の智分をば且らく置きぬ。法華経の方人(かたうど)として難を忍び、疵(きず)を蒙る事は漢土の天台大師にも越え、日域の伝教大師にも勝れたり。是は時の然らしむる故なり。
 我が身法華経の行者ならば霊山の教主釈迦・宝浄世界の多宝如来・十方分身の諸仏・本化(ほんげ)の大士・迹化(しゃっけ)の大菩薩・梵・釈・竜神・十羅刹女も定めて此の砌(みぎり)におはしますらん。水あれば魚すむ、林あれば鳥来たる、蓬莱(ほうらい)山には玉多く、摩黎(まり)山には栴檀(せんだん)生ず、麗水(れいすい)の山には金(こがね)あり。今此の所も此くの如し、仏菩薩の住み給う功徳聚(くどくじゅ)の砌(みぎり)なり。多くの月日を送り、読誦し奉る所の法華経の功徳は虚空(こくう)にも余りぬべし。
 然るを毎年・度度の御参詣には、無始の罪障も・定めて今生一生に消滅すべきか。弥(いよいよ)はげむべし・はげむべし。

 五戒を先生に持ちて今生に人身を得たり。されば云うに甲斐なき者なれども、国主等謂(いわれ)なく失(とが)にあつれば守護の天いかりをなし給う。況んや命をうばわるる事は天の放ち給うなり。いわうや日本国・四十五億八万九千六百五十九人の男女をば四十五億八万九千六百五十九の天まほり給うらん。
 然るに他国よりせめ来たる大難は脱るべしとも見え候はぬは、四十五億八万九千六百五十九人の人人の天にも捨てられ給う上、六欲・四禅・梵釈・日月・四天等にも放たれまいらせ給うにこそ候いぬれ。然るに日本国の国主等・八幡大菩薩をあがめ奉りなば、なに事のあるべきと思はるるが、八幡は又自力叶いがたければ宝殿を焼きてかくれさせ給うか。然るに自(みずから)の大科をばかへりみず、宝殿を造りて・まほらせ・まいらせむとおもへり。
 日本国の四十五億八万九千六百五十九人の一切衆生が釈迦・多宝・十方分身の諸仏・地涌と・娑婆と他方との諸大士・十方世界の梵釈・日月・四天に捨てられまひらせん分斉の事ならば、はづ(僅)かなる日本国の小神・天照太神・八幡大菩薩の力及び給うべしや。

一 妙法蓮華経序品第一の事
 玄旨の伝に云く「一切経の惣要とは謂く・妙法蓮華経の五字なり」又云く「一行一切行・恒(つね)に此の三昧を修す」文。
 云う所の三昧とは即ち法華の有相・無相の二行なり。此の道理を以て法華経を読誦せん行者は、即ち法具の一心三観なり云云。此の釈に一切経と云うは近くは華厳・阿含・方等・般若等なり。遠くは大通仏より已来(このかた)の諸経なり。
 本門の意は寿量品を除いて其の外の一切経なり。惣要とは天には日月・地には大王・人には神(たましい)・眼目の如くなりと云う意を以つて釈せり。此れ即ち妙法蓮華経の枝葉なり。一行とは妙法の一行に一切行を納めたり。法具とは題目の五字に万法を具足すと云う事なり。
 然る間・三世十方の諸仏も上行菩薩等も・大梵天王・帝釈・四王・十羅刹女・天照太神・八幡大菩薩・山王二十一社・其の外・日本国中の小神・大神等、此の経の行者を守護すべしと法華経の第五巻に分明(ふんみょう)に説かれたり。影と身と、音(こえ)と響との如し。
 法華経二十八品は影の如く響の如し、題目の五字は体の如く・音(こえ)の如くなり。題目を唱え奉る音(こえ)は十方世界にとずかずと云う所なし。我等が小音なれども題目の大音に入れて唱え奉る間、一大三千界にいたらざる所なし。譬えば小音なれども貝(ばい)に入れて吹く時、遠く響くが如く、手の音はわずかなれども鼓を打つに遠く響くが如し。一念三千の大事の法門是なり。かかる目出度き御経にて渡らせ給えるを謗る人・何ぞ無間に堕在せざらんや。法然・弘法等の大悪知識是なり云云。

一 皆悉到於(かいしつとうお)・一切智地の事
  仰せに云く、一切智地と云うは法華経なり。譬えば三千大千世界の土地・草木・人畜等、皆大地に備りたるが如くなり。八万法蔵・十二部経、悉く法華に帰入せしむるなり。皆悉の二字をば善人も悪人も・迷ひも悟りも・一切衆生の悪業も善業も、其の外(ほか)・薬師・大日・弥陀並びに地蔵・観音、横に十方・竪に三世、有りとある諸仏の具徳・諸菩薩の行徳・惣じて十界の衆生の善悪・業作等を皆悉と説けり。是を法華経に帰入せしむるを一切智地の法華経と申すなり。
 されば文句の七に云く「皆悉到於・一切智地とは、地とは実相なり、究竟して二に非ず故に一と名くるなり。其の性広博なり故に名けて切と為す。寂にして常照なり、故に名けて智と為す。無住の本より一切の法を立す、故に名けて地と為す。此れ円教の実説なり。凡そ所説有るは皆衆生をして此の智地に到らしむ」云云。
 此の釈は一切智地の四字を委しく判ぜり。一をば究竟と云い、切をば広博と釈し、智をば寂而常照(じゃくに・じょうしょう)と云い、地をば無住之本と判ぜり。
 然るに凡有所説(ぼんぬ・しょせつ)は約教を指し・皆令(かいりょう)衆生は機縁を納るるなり。十界の衆生を指して切と云い、凡有所説を指して究竟非二故名一也と云えり。一とは三千大千世界・十方法界を云うなり。其の上に人畜等あるは地なり。記の七に云く「切を衆に訓ず」と。仍つて一切の二字に法界を尽せり。諸法は切なり、実相は一なり。所詮・法界実相の妙体・照而常寂の一理にして十界三千・一法性に非ずと云う事なし。是を一と説くなり。
 さて三千の諸法の己己に本分なれば切の義なり。然らば一は妙・切は法なり。妙法の二字・一切の二字なり。無住之本は妙の徳、立一切法は法の徳なり。一切智地とは南無妙法蓮華経是なり。一切智地即一念三千なり。
 今末法に入つて一切智地を弘通するは日蓮等の類い是なり。然るに一とは一念なり・切とは三千なり。一心より松よ桜よと起るは切なり。是は心法に約する義なり。色法にては手足等は切なり、一身なるは一切なり。所詮色心の二法・一切智地にして南無妙法蓮華経なり云云。

一 貧人見此珠(しじゅ)・其心大歓喜の事
 仰せに云く、此珠とは一乗無価の宝珠なり。貧人とは下根の声聞なり。惣じて一切衆生なり。
 所詮末法に入つて此珠とは南無妙法蓮華経なり。貧人とは日本国の一切衆生なり。此の題目を唱え奉る者は心・大歓喜せり。
 されば見宝塔と云う見と此珠とは同じ事なり。所詮此珠とは我等衆生の一心なり・一念三千なり。此の経に値い奉る時、一念三千と開くを珠を見るとは云うなり。
 此の珠は広く一切衆生の心法なり。此の珠は体中にある財用なり。一心に三千具足の財(たから)を具足せり。此の珠を方便品にして諸法実相と説き、譬喩品にては大白牛車・三草二木・五百由旬の宝塔・共に皆・一珠の妙法蓮華経の宝珠なり。
 此の経文・色心の実相歓喜を説けり。見此珠(けんししゅ)の見は色法なり、其心大(ごしんだい)と云うは心法なり。色心共に歓喜なれば大歓喜と云うなり。
 所詮此珠と云うは我等衆生の心法なり。仍つて一念三千の宝珠なり。所謂妙法蓮華経なり。今末代に入つて此の珠を顕す事は日蓮等の類いなり。所謂未曾有の大曼荼羅こそ正しく一念三千の宝珠なれ。
 見の字は日本国の一切衆生、広くは一閻浮提の衆生なり。然りと雖も其心大歓喜と云う時は日蓮が弟子檀那等の信者をさすなり。所詮煩悩即菩提・生死即涅槃と体達する其の心大歓喜なり。されば我等衆生・五百塵点の下種の珠を失いて、五道・六道に輪廻(りんね)し貧人となる。近くは三千塵点の下種を捨てて備輪諸道(びりんしょどう)せり。之れに依つて貧人と成る。今此の珠を釈尊に値い奉りて見付け得て・本の如く取り得たり。此の故に心大歓喜せり。
 末法当今に於いて妙法蓮華経の宝珠を受持し奉りて己心を見るに、十界互具・百界千如・一念三千の宝珠を分明に具足せり。是れ併ら末法の要法たる題目なり云云。

一 如是如是の事
 仰せに云く、釈に云く「法相(ほっそう)の是に如し、根性の是に如するなり」文。法相の是に如すとは諸法実相を重ねて如是と説かれたり。根性の是に如すとは九法界を説かれたり。然れば機法共に釈迦如来の所説の如く真実なりと証明し給えり。
 始めの如是は教一開会なり、次の如是は人一開会なり。権教の意は諸法を妄法ときらいし隔別不融(きゃくべつ・ふゆう)の教なり。根性に於ては性欲不同(しょうよく・ふどう)なれば種種に説法し給えり、仍つて人も成仏せず。今の経の心は諸法実相の御経なれば十界平等に授くる所の妙法なり。根性は不同なれども同じく如是性の一性なり。
 所詮今末法に入つての「法相の是に如する」は塔中相承(たっちゅうそうじょう)の本尊なり。「根性の是に如する」と云うは十界宛然(おんねん)の尊像なり。法相(ほっそう)は南無妙法蓮華経なり。根性は日本国の一切衆生、広くは一閻浮提の衆生なり云云。

一 妙法蓮華経の五字を眼と云う事
 仰せに云く、法華第四に云く「仏滅度後・能解其義・是諸天人世間之眼」と云云。
 此の経文の意は、法華経は人天・二乗・菩薩・仏の眼目なり。此の眼目を弘むるは日蓮一人なり。
 此の眼には五眼あり。所謂肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼なり。此の眼をくじりて別に眼を入れたる人あり、所謂弘法大師是なり。法華経の一念三千・即身成仏・諸仏の開眼を止めて真言経にありと云えり。是れ豈法華経の眼を抽(くじ)れる人に非ずや。又此の眼をとじ・ふさぐ人あり、所謂法然上人是れなり。捨閉の閉の文字は閉眼(へいげん)の義に非ずや。
 所詮能弘の人に約しては日蓮等の類い・世間之眼なり。所弘の法に随えば此の大乗経典は是れ諸仏の眼なり。
 所詮眼の一字は一念三千の法門なり。六万九千三百八十四字を此の眼の一字に納めたり。此の眼の字顕われて見れば煩悩即菩提・生死即涅槃なり。
 今末法に入つて眼とは所謂未曾有(みぞうう)の大曼荼羅なり。此の御本尊より外には眼目無きなり云云。
【御講聞書】※日向記


by johsei1129 | 2026-02-09 12:11 | 御書 INDEX・略歴 | Trackback | Comments(0)


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