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日蓮大聖人『御書』解説

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2026年 02月 07日

御本尊の明文(3)

 法華経の第七に云く「我が滅度の後、後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提に於て断絶せしむること無けん」等云云。
 経文は大集経の白法隠没の次の時をとかせ給うに広宣流布と云云。
 同第六の巻に云く「悪世末法の時・能く是の経を持つ者」等云云。又第五の巻に云く「後の末世の法滅せんとする時」等 又第四の巻に云く「而も此の経は如来現在にすら猶怨嫉多し。況んや滅度の後をや」又第五の巻に云く「一切世間怨(あだ)多くして信じ難し」。
 又第七の巻に第五の五百歳・闘諍堅固の時を説いて云く「悪魔・魔民・諸の天竜・夜叉・鳩槃荼(くはんだ)等・其の便(たより)を得ん」
 大集経に云く「我が法の中に於て闘諍言訟せん」等云云。
 法華経の第五に云く「悪世の中の比丘」又云く「或は阿蘭若(あれんにゃ)に有り」等云云。又云く「悪鬼其身に入る」等云云。
 文の心は第五の五百歳の時・悪鬼の身に入(いれ)る大僧等、国中に充満せん。其の時に智人一人出現せん。彼の悪鬼の入る大僧等、時の王臣・万民等を語らひて悪口罵詈(あっく・めり)・杖木瓦礫(じょうもく・がりゃく)・流罪死罪に行はん時、釈迦・多宝・十方の諸仏、地涌の大菩薩らに仰せつけ、大菩薩は梵帝・日月・四天等に申しくだされ、其の時天変・地夭・盛んなるべし。国主等・其のいさめを用いずば、鄰国にをほせつけて彼彼の国国の悪王・悪比丘等をせめらるるならば、前代未聞の大闘諍・一閻浮提に起るべし。
 其の時・日月所照の四天下の一切衆生、或は国を・をしみ、或は身を・をしむゆへに、一切の仏菩薩にいのりをかくとも・しるしなくば彼の・にくみつる一(ひとり)の小僧を信じて無量の大僧等・八万の大王等・一切の万民、皆頭(こうべ)を地につけ・掌を合せて一同に南無妙法蓮華経と・となうべし。例せば神力品の十神力の時、十方世界の一切衆生・一人もなく娑婆世界に向つて大音声をはなちて、南無釈迦牟尼仏・南無釈迦牟尼仏・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と一同にさけびしがごとし。

 今末法に入つて二百余歳。大集経の於我法中・闘諍言訟・白法隠没の時にあたれり。仏語まことならば定んで一閻浮提に闘諍起るべき時節なり。
 伝え聞く、漢土は三百六十箇国・二百六十余州はすでに蒙古国に打ちやぶられぬ。華洛すでにやぶられて徽宗(きそう)・欽宗の両帝、北蕃にいけどりにせられて韃靼(だったん)にして終にかくれ(崩御)させ給いぬ。徽宗の孫・高宗皇帝は長安をせめをとされて田舎の臨安・行在府(あんざいふ)に落ちさせ給いて今に数年が間・京(みやこ)を見ず。高麗六百余国も新羅・百済等の諸国等も皆大蒙古国の皇帝にせめられぬ。今の日本国の壱岐・対馬並びに九国のごとし。闘諍堅固の仏語・地に堕ちず。あたかもこれ大海の・しを(潮)の時をたがへざるがごとし。是をもつて案ずるに、大集経の白法隠没の時に次いで法華経の大白法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか
 彼の大集経は仏説の中の権大乗ぞかし。生死をはなるる道には法華経の結縁(けちえん)なき者のためには未顕真実なれども、六道・四生・三世の事を記し給いけるは、寸分もたがはざりけるにや。何に況んや法華経は釈尊、要当説真実となのらせ給い・多宝仏は真実なりと御判をそ(添)へ、十方の諸仏は広長舌を梵天につけて誠諦(じょうたい)と指し示し、釈尊は重ねて無虚妄の舌を色究竟(しき・くきょう)に付けさせ給いて後五百歳に一切の仏法の滅せん時、上行菩薩に妙法蓮華経の五字を・もたしめて謗法一闡提の白癩病の輩の良薬とせんと、梵帝・日月・四天・竜神等に仰せつけられし金言・虚妄なるべしや。大地は反覆(はんぷく)すとも、高山は頽落(たいらく)すとも、春の後に夏は来たらずとも、日は東へかへるとも、月は地に落つるとも此の事は一定(いちじょう)なるべし。

 予が分斉として弘法大師・慈覚大師・善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵なんどを法華経の強敵なり、経文まことならば無間地獄は疑ひなしなんど申すは、裸形(あかはだか)にて大火に入るはやすし、須弥を手にと(取)て・なげんはやすし、大石を負うて大海をわたらんはやすし、日本国にして此の法門を立てんは大事なるべし云云。
  霊山浄土の教主釈尊・宝浄世界の多宝仏・十方分身の諸仏・地涌千界の菩薩等・梵釈・日月・四天等、冥(みょう)に加し・顕に助け給はずば、一時一日も安穏なるべしや。

 我等が慈父・大覚世尊は人寿百歳の時、中天竺に出現しましまして一切衆生のために一代聖教をとき給う。仏在世の一切衆生は過去の宿習有つて仏に縁あつかりしかば・すでに得道成りぬ。我が滅後の衆生をば・いかんがせんと・なげき給いしかば八万聖教を文字となして一代聖教の中に小乗経をば迦葉尊者にゆづり、大乗経並びに法華経・涅槃等をば文殊師利菩薩にゆづり給う。但八万聖教の肝心・法華経の眼目たる妙法蓮華経の五字をば迦葉・阿難にもゆづり給はず、又文殊・普賢・観音・弥勒・地蔵・竜樹等の大菩薩にもさづけ給はず。此等の大菩薩等の・のぞみ申せしかども・仏ゆるし給はず。大地の底より上行菩薩と申せし老人を召しいだして、多宝仏・十方の諸仏の御前にして釈迦如来、七宝の塔中(たっちゅう)にして妙法蓮華経の五字を上行菩薩にゆづり給う。

 四十余年の経経に皆女人を嫌われたり。又最後に説き給いたる涅槃経にも女人を嫌はれたり。何れか四恩を報ずる経有りと尋ぬれば、法華経こそ女人成仏する経なれば八歳の竜女・成仏し、仏の姨母(おば)喬曇弥(きょうどんみ)・耶輸陀羅(やしゅたら)比丘尼・記別にあづかりぬ。されば我等が母は但女人の体にてこそ候へ・畜生にもあらず・蛇身にもあらず、八歳の竜女だにも仏になる。如何ぞ此の経の力にて我が母の仏にならざるべき。されば法華経を持つ人は父と母との恩を報ずるなり。我が心には報ずると思はねども、此の経の力にて報ずるなり。
 然る間、釈迦・多宝等の十方・無量の仏・上行地涌等の菩薩も、普賢・文殊等の迹化の大士も、舎利弗等の諸大声聞も、大梵天王・日月等の明主諸天も、八部王も・羅刹女等も、日本国中の大小の諸神も、総じて此の法華経を強く信じまいらせて余念なく一筋に信仰する者をば、影の身にそふが如く・守らせ給ひ候なり。相構て相構て心を翻へさず、一筋に信じ給ふならば、現世安穏・後生善処なるべし。恐恐謹言。

 今年は殊に仏法の邪正たださるべき年か。浄顕の御房・義城房等には申し給うべし。日蓮が度度・殺害せられんとし、並びに二度まで流罪せられ・頚(くび)を刎ねられんとせし事は別に世間の失(とが)に候はず。生身(しょうしん)の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便(ふびん)とや思し食しけん、明星の如くなる大宝珠を給いて右の袖にうけとり候いし故に・一切経を見候いしかば八宗並びに一切経の勝劣・粗(ほぼ)是を知りぬ。
 其の上真言宗は法華経を失う宗なり。是は大事なり。先ず序分に禅宗と念仏宗の僻見(びゃっけん)を責めて見んと思ふ。其の故は月氏漢土の仏法の邪正は且らく之を置く、日本国の法華経の正義を失うて一人もなく人の悪道に堕つる事は、真言宗が影の身に随うがごとく、山山・寺寺ごとに法華宗に真言宗をあひそひて如法の法華経に十八道をそへ、懺法(せんぽう)に阿弥陀経を加へ、天台宗の学者の潅頂をして真言宗を正とし法華経を傍とせし程に、真言経と申すは爾前権教の内の華厳・般若にも劣れるを、慈覚・弘法これに迷惑して或は法華経に同じ・或は勝れたりなんど申して仏を開眼するにも仏眼大日の印真言をもつて開眼供養するゆへに、日本国の木画の諸像皆無魂・無眼の者となりぬ。結句は天魔入り替つて檀那をほろぼす仏像となりぬ。王法の尽きんとするこれなり。此の悪真言かまくらに来りて又日本国をほろぼさんとす。

 法華経と申す御経は別の事も候はず。我は過去・五百塵点劫より先の仏なり。又舎利弗等は未来に仏になるべしと。これを信ぜざらん者は無間地獄に堕つべし。我のみ・かう申すにはあらず、多宝仏も証明し、十方の諸仏も舌をいだして・かう候。地涌千界・文殊・観音・梵天・帝釈・日月(にちがつ)・四天・十羅刹、法華経の行者を守護し給はんと説かれたり。されば仏になる道は別のやうなし。過去の事・未来の事を申しあてて候が・まことの法華経にては候なり。

 問うて云く、法華経一部・八巻・二十八品の中に何物か肝心なるや。
 答えて云く、華厳経の肝心は大方広仏華厳経・阿含経の肝心は仏説中阿含経・大集経の肝心は大方等大集経・般若経の肝心は摩訶般若波羅蜜経・雙観経の肝心は仏説無量寿経・観経の肝心は仏説観無量寿経・阿弥陀経の肝心は仏説阿弥陀経・涅槃経の肝心は大般(だいはつ)涅槃経。かくのごとくの一切経は皆・如是我聞(にょぜがもん)の上(かみ)の題目・其の経の肝心なり。大は大につけ・小は小につけて題目をもつて肝心とす。大日経・金剛頂経・蘇悉地経等・亦復かくのごとし。仏も又かくのごとし。大日如来・日月燈明仏・燃燈仏(ねんとうぶつ)・大通仏・雲雷音王仏(うんらいおんのうぶつ)、是等の仏も又名の内に其の仏の種種の徳をそなへたり。
 今の法華経も亦もつて・かくのごとし。如是我聞の上の妙法蓮華経の五字は即ち一部八巻の肝心、亦復・一切経の肝心、一切の諸仏・菩薩・二乗・天人・修羅・竜神等の頂上の正法なり。

 「我滅度の後・後の五百歳の中に広宣流布して、閻浮提に於て断絶して悪魔・魔民・諸の天竜・夜叉(やしゃ)・鳩槃荼(くはんだ)等に其の便りを得せしむること無けん」等云云。
 此の経文・若しむなしくなるならば、舎利弗は華光如来とならじ、迦葉尊者は光明如来とならじ、目犍(もっけん)は多摩羅跋栴檀香仏(たまらばつ・せんだんこうぶつ)とならじ、阿難は山海慧自在通王仏とならじ、摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)比丘尼は一切衆生喜見仏とならじ、耶輸陀羅(やしゅたら)比丘尼は具足千万光相仏とならじ。三千塵点も戯論となり、五百塵点も妄語となりて、恐らくは教主釈尊は無間地獄に堕ち、多宝仏は阿鼻の炎にむせび、十方の諸仏は八大地獄を栖とし、一切の菩薩は一百三十六の苦しみをうくべし。いかでかその義候べき。其の義なくば日本国は一同の南無妙法蓮華経なり。
 されば花は根にかへり、果(このみ)は土にとどまる。此の功徳は故道善房の聖霊(しょうりょう)の御身にあつまるべし。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。

 夫れ法華経第一方便品に云く「諸仏の智慧は甚深無量なり」云云。釈に云く「境淵(きょうえん)無辺なる故に甚深と云い、智水測り難き故に無量と云う」と。
 抑(そもそも)此の経釈の心は仏になる道は豈(あに)境智の二法にあらずや。されば境と云うは万法の体を云い、智と云うは自体顕照の姿を云うなり。而るに境の淵ほとりなく、ふかき時は智慧の水ながるる事つつがなし。此の境智合しぬれば即身成仏するなり。
 法華以前の経は境智・各別にして而も権教方便なるが故に成仏せず。今法華経にして境智一如なる間、開示悟入の四仏知見をさとりて成仏するなり。此の内証に声聞・辟支仏・更に及ばざるところを次下(つぎしも)に「一切声聞・辟支仏・所不能知」と説かるるなり。此の境智の二法は何物ぞ、但南無妙法蓮華経の五字なり。此の五字を地涌の大士を召し出して結要(けっちょう)付属せしめ給う。是を本化(ほんげ)付属の法門とは云うなり。

 今末法当世の有智・無智・在家・出家・上下・万人、此の妙法蓮華経を持つて説の如く修行せんに豈仏果を得ざらんや。さてこそ決定無有疑(けつじょう・むうぎ)とは滅後濁悪の法華経の行者を定判(じょうはん)せさせ給へり。三仏の定判に漏れたる権宗の人人は決定(けつじょう)して無間なるべし。是くの如くいみじき戒なれば、爾前・迹門の諸戒は今一分の功徳なし。功徳無からんに一日の斎戒も無用なり。

 但(ただし)此の本門の戒を弘まらせ給はんには必ず前代未聞の大瑞あるべし。所謂正嘉の地動・文永の長星是なるべし。抑(そもそも)当世の人人何(いずれ)の宗宗にか本門の本尊・戒壇等を弘通せる。仏滅後二千二百二十余年に一人も候はず。日本人王・三十代・欽明天皇の御宇に仏法渡つて今に七百余年、前代未聞の大法・此の国に流布して月氏・漢土・一閻浮提の内の一切衆生・仏に成(な)るべき事こそ・有り難けれ・有り難けれ。
 又已前の重、末法には教行証の三つ倶に備われり。例せば正法の如し等云云。已に地涌の大菩薩・上行出でさせ給いぬ、結要(けっちょう)の大法亦弘まらせ給うべし。日本・漢土・万国の一切衆生は金輪聖王の出現の先兆の優曇華(うどんげ)に値(あ)えるなるべし。在世四十二年並びに法華経の迹門十四品に之を秘して説かせ給はざりし大法、本門正宗に至つて説き顕し給うのみ

 当御時(とうおんとき)に成りて或は身に疵(きず)をかふり・或は弟子を殺され・或は所所を追(おわ)れ・或はやどをせめしかば、一日片時も地上に栖むべき便りなし。是に付けても仏は「一切世間・怨多くして信じ難し」と説き置き給う。諸の菩薩は「我不愛身命・但惜(たんじゃく)無上道」と誓へり。「加刀杖瓦石・数数見擯出」の文に任せて流罪せられ、刀のさきにかかりなば・法華経一部よみまいらせたるにこそとおもひきりて、わざと不軽菩薩の如く・覚徳比丘の様に、竜樹菩薩・提婆菩薩・仏陀密多・師子尊者の如く、弥(いよいよ)強盛に申しはる。今度・法華経の大怨敵を見て経文の如く父母・師匠・朝敵・宿世の敵の如く・散散に責むるならば、定めて万人もいかり、国主も讒言を収(いれ)て流罪し、頚にも及ばんずらん。
 其の時・仏前にして誓状せし梵釈・日月・四天の願をも・はたさせたてまつり、法華経の行者をあだまんものを須臾ものがさじと起請せしを身にあてて心みん。釈尊・多宝・十方分身の諸仏の・或は共に宿し、或は衣を覆(おお)ひ、或は守護せんとねんごろに説かせ給いしをも・実(まこと)か虚言(そらごと)かと知つて信心をも増長せんと退転なくはげみし程に、案にたがはず去る文永八年九月十二日に、都て一分の科(とが)もなくして佐土の国へ流罪せらる。外には遠流と聞こえしかども内には頚を切ると定めぬ。

 あはれ人は心はあるべきものかな。孔子は九思一言、周公旦は浴(ゆあみ)する時は三度にぎり、食する時は三度吐(はき)給う。賢人は此くの如く用意をなすなり。世間の法にも・はふ(法)にすぎば・あやしめといふぞかし。国を治する人なんどが人の申せばとて、委細にも尋ねずして・左右なく科に行はれしは・あはれくやしかるらんに、夏の桀王が湯王(とうおう)に責められ、呉王が越王に生けどりにせられし時は、賢者の諌暁を用いざりし事を悔ひ、阿闍世王が悪瘡身に出で他国に襲はれし時は・提婆を眼に見じ・耳に聞かじと誓い、乃至宗盛(むねもり)がいくさにまけ義経に生けどられて鎌倉に下(くだ)されて面をさらせし時は、東大寺を焼き払はせ・山王の御輿(みこし)を射奉りし事を歎きしなり。
 今の世も又一分もたがふべからず。日蓮を賤(いやし)み・諸僧を貴び給う故に・自然(じねん)に法華経の強敵となり給う事を弁へず・政道に背きて行はるる間、梵釈・日月・四天・竜王等の大怨敵となり給う。法華経守護の釈迦・多宝・十方分身の諸仏・地涌千界・迹化他方・二聖・二天・十羅刹女・鬼子母神、他国の賢王の身に入り代りて国主を罰し、国をほろぼさんとするを知らず。
 真(まこと)の天のせめにてだにもあるならば、たとひ鉄囲山(てっちせん)を日本国に引回(ひきめぐら)し、須弥山を蓋(おおい)として・十方世界の四天王を集めて波際(なぎさ)に立て並べてふせがするとも、法華経の敵となり教主釈尊より大事なる行者を・法華経の第五の巻を以て日蓮が頭(こうべ)を打ち、十巻共に引き散して散散に踏(ふみ)たりし大禍は、現当二世にのがれがたくこそ候はんずらめ。日本守護の天照太神・正八幡等もいかでかかかる国をばたすけ給うべき。いそぎいそぎ治罰を加えて自科(みずからの・とが)を脱がれんとこそはげみ給うらめ。をそ(遅)く科に行う間、日本国の諸神ども・四天大王にいましめられてやあるらん、知り難き事なり。
つづく
御本尊の明文(3)_f0301354_12172631.jpg
懺悔する阿闍世王


by johsei1129 | 2026-02-07 11:36 | 御書 INDEX・略歴 | Trackback | Comments(0)


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