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日蓮大聖人『御書』解説

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2026年 02月 06日

御本尊の明文(2)

 一切の菩薩は又始め華厳経より四十余年の間、仏にならんと願い給いしかども、かなはずして法華経の方便品の略開三顕一の時「仏を求むる諸の菩薩大数八万有り。又諸の万億国の転輪聖王の至れる。合掌して敬心を以て具足の道を聞かんと欲す」と願いしが、広開三顕一を聞いて「菩薩是の法を聞いて疑網皆已に断ちぬ」と説かせ給いぬ。
 其の後・自界他方の菩薩雲の如く集り・星の如く列り給いき。宝塔品の時・十方の諸仏・各各無辺の菩薩を具足して集り給いき。文殊は海より無量の菩薩を具足し、又八十万億那由佗の諸菩薩・又過八恒河沙の菩薩・地涌千界の菩薩・分別功徳品の六百八十万億那由佗・恒河沙の菩薩・又千倍の菩薩・復一世界の微塵数の菩薩・復三千大千世界の微塵数の菩薩・復二千中国土の微塵数の菩薩・復小千国土の微塵数の菩薩・復四四天下の微塵数の菩薩・三四天下・二四天下・一四天下の微塵数の菩薩・復八世界微塵数の衆生・薬王品の八万四千の菩薩・妙音品の八万四千の菩薩・又四万二千の天子・普門品の八万四千・陀羅尼品の六万八千人・妙荘厳王品の八万四千人・勧発品の恒河沙等の菩薩・三千大千世界微塵数等の菩薩、此れ等の菩薩を委(くわし)く数へば十方世界の微塵の如し、十方世界の草木の如し、十方世界の星の如し、十方世界の雨の如し。此等は皆法華経にして仏にならせ給いて此の三千大千世界の地上・地下・虚空の中にまします。迦葉尊者は雞足(けいそく)山にあり、文殊師利は清凉(しょうりょう)山にあり、地蔵菩薩は伽羅陀(からだ)山にあり、観音は補陀落(ふだらく)山にあり、弥勒菩薩は兜率天(とそつてん)に、難陀等の無量の竜王・阿修羅王は海底海畔(かいはん)にあり、帝釈は刀利(とうり)天に、梵王は有頂天に、魔醯修羅(まけいしゅら)は第六の佗化天に、四天王は須弥の腰に、日月・衆星は我等が眼に見へて頂上を照し給ふ。江神・河神・山神等も皆法華経の会上の諸尊なり。

 仏は人天の主、一切衆生の父母なり、而も開導の師なり。父母なれども賤(いやし)き父母は主君の義をかねず、主君なれども父母ならざればおそろしき辺もあり。父母・主君なれども師匠なる事はなし。諸仏は又世尊にてましませば主君にては・ましませども娑婆世界に出でさせ給はざれば師匠にあらず。又「其の中の衆生は悉く是吾が子なり」とも名乗らせ給はず。釈迦仏・独(ひとり)主師親の三義をかね給へり。
 しかれども四十余年の間は提婆達多を罵(のり)給ひ・諸の声聞をそしり・菩薩の果分の法門を惜しみ給ひしかば、仏なれども・よりよりは天魔・破旬(はじゅん)ばしの我等をなやますかの疑ひ、人には・いはざれども心の中には思いしなり。此の心は四十余年より法華経の始まるまで失(う)せず。
 而るを霊山八年の間に宝塔・虚空に現じ、二仏・日月の如く並び、諸仏大地に列なり大山をあつめたるがごとく、地涌千界の菩薩・虚空に星の如く列なり給いて諸仏の果分の功徳を吐き給いしかば、宝蔵をかたぶけて貧人にあたうるがごとく、崑崙山(こんろんざん)のくづれたるに・にたりき。諸人此の玉をのみ拾(ひろ)うが如く・此の八箇年が間・珍しく貴き事、心髄にも・とをりしかば、諸菩薩・身命も惜しまず・言をはぐくまず誓ひをなせし程に、属累(ぞくるい)品にして釈迦如来・宝塔を出でさせ給いてとびら(扉)を押したて給いしかば・諸仏は国国へ返り給ひき。諸の菩薩等も諸仏に随ひ奉りて返らせ給ひぬ。

 神力品に云く「爾の時に千世界微塵(みじん)等の菩薩摩訶薩(まかさつ)の地より涌出せる者・皆仏前に於て一心に合掌し尊顔を瞻仰(せんごう)して仏に白(もう)して言(もう)さく、世尊・我等、仏の滅後・世尊分身の所在の国土・滅度の処に於て当に広く此の経を説くべし」等云云。
 天台の云く「但下方の発誓(ほっせい)のみを見たり」等云云。
 道暹(どうせん)云く「付属とは此の経をば唯(ただ)下方涌出の菩薩に付す。何が故に爾(しか)る。法是れ久成(くじょう)の法なるに由るが故に久成の人に付す」等云云。
 夫(そ)れ文殊師利(もんじゅしり)菩薩は東方金色世界の不動仏の弟子、観音は西方無量寿仏の弟子、薬王菩薩は日月浄明徳仏の弟子、普賢菩薩は宝威仏(ほういぶつ)の弟子なり。一往釈尊の行化を扶(たす)けん為に娑婆世界に来入す、又爾前迹門の菩薩なり。本法所持の人に非れば末法の弘法に足らざる者か。
 経に云く「爾(そ)の時に世尊・乃至一切の衆の前に大神力を現じ給う。広長舌を出して上梵世に至らしめ乃至十方世界衆(もろもろ)の宝樹の下・師子の座の上の諸仏も亦復(またまた)是くの如く広長舌を出し給う」等云云。
 夫れ顕密二道・一切の大小乗経の中に釈迦諸仏並び坐し、舌相梵天(ぜっそうぼんてん)に至る文之無し。阿弥陀経の広長舌相三千を覆(おお)うは有名無実なり。般若経の舌相三千光を放つて般若を説きしも全く証明に非ず。此は皆兼帯(けんたい)の故に久遠を覆相(ふそう)する故なり。
 是くの如く十神力を現じて地涌の菩薩に妙法の五字を嘱累(ぞくるい)して云く、経に曰く「爾(そ)の時に仏・上行等の菩薩大衆に告げ給わく、諸仏の神力は是くの如く無量無辺不可思議なり。若し我れ是の神力を以て無量無辺・百千万億・阿僧祇劫(あそうぎこう)に於て嘱累(ぞくるい)の為の故に此の経の功徳を説くとも猶尽すこと能(あた)わじ。要を以て之を言わば如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要(ひよう)の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説(せんじけんぜつ)す」等云云。
 天台云く「爾時仏告(にじぶつごう)上行より下は第三結要付属(けっちょうふぞく)なり」云云。
 伝教云く「又神力品に云く以要言之(いようごんし)・如来一切所有之法・乃至宣示顕説 已上経文 明かに知んぬ果分の一切の所有の法、果分の一切の自在の神力、果分の一切の秘要の蔵、果分の一切の甚深の事、皆法華に於て宣示顕説するなり」等云云。
 此の十神力は妙法蓮華経の五字を以て上行・安立行・浄行・無辺行等の四大菩薩に授与し給うなり。前の五神力は在世の為、後の五神力は滅後の為なり。爾(しか)りと雖も再往之を論ずれば一向に滅後の為なり。故に次下の文に云く「仏滅度の後に能く此の経を持たんを以ての故に、諸仏皆歓喜して無量の神力を現じ給う」等云云。
 次下の嘱累品に云く「爾の時に釈迦牟尼仏・法座より起つて大神力を現じ給う。右の手を以て無量の菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)の頂を摩(な)で乃至今以て汝等に付属す」等云云。
 地涌の菩薩を以て頭(はじめ)と為して迹化他方乃至・梵釈・四天等に此の経を嘱累し給う。十方より来る諸の分身の仏・各(おのおの)本土に還(かえ)り給う乃至多宝仏の塔・還つて故(もと)の如くし給う可し等云云。薬王品已下(いげ)乃至涅槃経等は地涌の菩薩去り了つて、迹化の衆・他方の菩薩等の為に重ねて之を付属し給う。捃拾遺嘱(くんじゅう・いぞく)是なり。

 地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり、地涌の菩薩の数にもや入りなまし。若し日蓮地涌の菩薩の数に入らば・豈に日蓮が弟子檀那・地涌の流類(るるい)に非ずや。
 経に云く「能く竊(ひそか)に一人の為めに法華経の乃至一句を説かば当に知るべし、是の人は則ち如来の使ひ・如来の所遣(しょけん)として如来の事を行ずるなり」と。豈(あ)に別人の事を説き給うならんや。
 されば余りに人の我をほむる時は、如何様(いかよう)にもなりたき意(こころ)の出来し候なり。是ほむる処の言より・をこり候ぞかし。末法に生れて法華経を弘めん行者は三類の敵人有つて流罪・死罪に及ばん。然れども・た(堪)えて弘めん者をば衣を以て釈迦仏をほひ給うべきぞ、諸天は供養をいたすべきぞ、かた(肩)にかけ・せなか(背中)にを(負)ふべきぞ、大善根の者にてあるぞ、一切衆生のためには大導師にてあるべしと、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏・菩薩・天神七代・地神五代の神神・鬼子母神・十羅刹女・四大天王・梵天・帝釈・閻魔法王・水神・風神・山神・海神・大日如来・普賢・文殊・日月等の諸尊たちにほめられ奉る間、無量の大難をも堪忍して候なり。ほめられぬれば我が身の損ずるをも・かへりみず、そしられぬる時は又我が身のやぶるるをも・しらず、ふるまふ事は凡夫のことはざなり。

 哀れなるかな今・日本国の万民、日蓮並びに弟子檀那等が三類の強敵に責められ、大苦に値うを見て悦んで笑ふとも、昨日は人の上・今日は身の上なれば、日蓮並びに弟子檀那共に霜露の命の日影を待つ計りぞかし。只今仏果に叶いて寂光の本土に居住して自受法楽せん時、汝等が阿鼻(あび)大城の底に沈みて大苦に値わん時、我等・何計(いかばかり)無慚(むざん)と思はんずらん、汝等・何計(いかばかり)うらやましく思はんずらん。
 一期(いちご)を過ぐる事・程も無ければいかに強敵重なるとも・ゆめゆめ退する心なかれ・恐るる心なかれ。縦(たと)ひ頚(くび)をば鋸(のこぎり)にて引き切り、どう(胴)をば・ひしほこ(稜鉾)を以て・つつき、足にはほだしを打つて・きり(錐)を以てもむとも、命のかよはんほどは南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えて唱へ・死に死(しぬ)るならば、釈迦・多宝・十方の諸仏・霊山会上にして御契約なれば、須臾(しゅゆ)の程に飛び来たりて手をとり、肩に引き懸けて霊山(りょうぜん)へ・はしり給はば、二聖・二天・十羅刹女(じゅうらせつにょ)は受持の者を擁護(おうご)し、諸天善神は天蓋(てんがい)を指し、旛(はた)を上げて我等を守護して・慥(たし)かに寂光の宝刹(ほうせつ)へ送り給うべきなり。あらうれしや・あらうれしや。

 末代の一切衆生はいかなる大医・いかなる良薬を以てか治す可きとかんがへ候へば、大日如来の智拳(ちけん)の印・並びに大日の真言・阿弥陀如来の四十八願・薬師如来の十二大願・衆病悉除(しゅびょうしつじょ)の誓ひも此の薬には及ぶべからず。つやつや病・消滅せざる上・いよいよ倍増すべし。
 此等の末法の時のために教主釈尊、多宝如来・十方分身の諸仏を集めさせ給うて一の仙薬をとどめ給へり、所謂(いわゆる)妙法蓮華経の五(いつつ)の文字なり。此の文字をば法慧(ほうえ)・功徳林・金剛薩埵(さった)・普賢(ふげん)・文殊(もんじゅ)・薬王・観音等にも・あつらへさせ給はず。何に況んや迦葉(かしょう)・舎利弗(しゃりほつ)等をや。上行菩薩等と申して四人の大菩薩まします。此の菩薩は釈迦如来・五百塵点劫(じんてんごう)よりこのかた、御弟子とならせ給いて一念も仏を・わすれず・まします大菩薩を召し出だして授けさせ給へり。
 されば此の良薬を持たん女人等をば此の四人の大菩薩・前後左右に立(たち)そひて、此の女人たたせ給へば此の大菩薩も立たせ給ふ・乃至(ないし)此の女人・道を行く時は此の菩薩も道を行き給ふ。譬(たと)へば・かげと身と、水と魚と、声とひびきと、月と光との如し。此の四大菩薩・南無妙法蓮華経と唱えたてまつる女人をはな(離)るるならば、釈迦・多宝・十方分身の諸仏の御勘気(ごかんき)を此の菩薩の身に蒙(こうむ)らせ給うべし。提婆(だいば)よりも罪深く、瞿迦利(くぎゃり)よりも大妄語のものたるべしと・をぼしめすべし。あら悦ばしや・あら悦ばしや、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。

 妙法蓮華経の五字をば四十余年・此れを秘し給ふのみにあらず、迹門十四品に猶是を抑へさせ給ひ、寿量品にして本果・本因の蓮華の二字を説き顕し給ふ。此の五字をば仏、文殊・普賢・弥勒・薬王等にも付属せさせ給はず。地涌の上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩等を寂光の大地より召し出だして此れを付属し給ふ儀式ただ事ならず、宝浄世界の多宝如来・大地より七宝の塔に乗じて涌現せさせ給ふ。三千大千世界の外(ほか)に四百万億那由佗の国土を浄め、高さ五百由旬の宝樹を尽一箭道(じんいっせんどう)に殖え並べて、宝樹一本の下(もと)に五由旬の師子の座を敷き並べ、十方分身の仏・尽く来たり坐し給ふ。
 又釈迦如来は垢衣(くえ)を脱(ぬい)で宝塔を開き、多宝如来に並び給ふ、譬えば青天に日月の並べるが如し、帝釈と頂生王との善法堂に在すが如し。此の界の文殊等・他方の観音等・十方の虚空に雲集せる事、星の虚空に充満するが如し。
 此の時、此の土には華厳経の七処八会・十方世界の台上の盧舎那仏の弟子、法慧・功徳林・金剛幢(こんごうどう)・金剛蔵等の十方刹土(せつど)・塵点数の大菩薩雲集せり。方等の大宝坊・雲集の仏菩薩・般若経の千仏・須菩提(しゅぼだい)・帝釈等・大日経の八葉九尊の四仏・四菩薩、金剛頂経の三十七尊等・涅槃経の倶尸那城(くしなじょう)へ集会(すえ)せさせ給いし十方法界の仏菩薩をば、文殊・弥勒等互ひに見知して御物語り是ありしかば、此等の大菩薩は出仕に物狎(な)れたりと見え候。
 今・此の四菩薩出でさせ給うて後、釈迦如来には九代の本師・三世の仏の御母にておはする文殊師利菩薩も、一生補処(ふしょ)と・ののしらせ給ふ弥勒等も、此の菩薩に値いぬれば物とも見えさせ給はず。譬えば山かつが月卿に交り、猿猴(えんこう)が師子の座に列るが如し。此の人人を召して妙法蓮華経の五字を付属せさせ給いき。
 付属も只ならず・十神力を現じ給ふ。釈迦は広長舌を色界の頂に付け給へば、諸仏も亦復是くの如く・四百万億那由佗の国土の虚空に諸仏の御舌・赤虹を百千万億・並べたるが如く充満せしかば・おびただしかりし事なり。是くの如く不思議の十神力を現じて結要(けっちょう)付属と申して法華経の肝心を抜き出して四菩薩に譲り、我が滅後に十方の衆生に与へよと慇懃(おんごん)に付属して、其の後又一つの神力を現じて文殊等の自界他方の菩薩・二乗・天人・竜神等には一経乃至一代聖教をば付属せられしなり。本より影の身に随つて候様につかせ給ひたりし迦葉・舎利弗等にも此の五字を譲り給はず。
 此れは・さてをきぬ。文殊・弥勒等には争(いかで)か惜み給うべき。器量なくとも嫌い給うべからず。方方(かたがた)不審なるを、或は他方の菩薩は此の土に縁少なしと嫌ひ、或は此の土の菩薩なれども娑婆世界に結縁の日浅し、或は我が弟子なれども初発心の弟子にあらずと嫌はれさせ給ふ程に、四十余年・並びに迹門十四品の間は一人も初発心の御弟子なし。此の四菩薩こそ五百塵点劫より已来(このかた)・教主釈尊の御弟子として初発心より又他仏につかずして二門をもふ(践)まざる人人なりと見えて候。
 天台の云く「但下方の発誓を見る」等云云。又云く「是れ我が弟子なり。応に我が法を弘むべし」等云云。
 妙楽の云く「子・父の法を弘む」等云云。
 道暹(どうせん)云く「法是れ久成(くじょう)の法なるに由るが故に・久成の人に付す」等云云。
 此の妙法蓮華経の五字をば此の四人に譲られ候。  

 法華経の第四に云く「人有つて仏道を求めて、一劫の中に於て合掌して我が前に在つて無数の偈を以て讃めん。是の讃仏に由るが故に無量の功徳を得ん。持経者を歎美(たんび)せんは其の福・復彼れに過ぎん」等云云。
 文の心は仏を一中劫が間供養したてまつるより、末代悪世の中に人のあながちに・にくむ法華経の行者を供養する功徳はすぐれたりと・とかせ給う。たれの人の・かかるひが事をばおほせらるるぞと疑いおもひ候へば、教主釈尊の我とおほせられて候なり。疑はんとも信ぜんとも・御心にまかせまいらする。仏の御舌は或は面(おもて)に覆ひ、或は三千大千世界に覆ひ、或は色究竟天までに付け給う。過去遠遠劫よりこのかた一言も妄語のましまさざるゆへなり。されば或経に云く「須弥山はくづるるとも・大地をばうちかへすとも・仏には妄語なし」ととかれたり。
 日は西よりいづとも・大海の潮はみちひずとも、仏の御言(みことば)はあやまりなしとかや。其の上・此の法華経は他経にもすぐれさせ給へば・多宝仏も証明し・諸仏も舌を梵天につけ給う。一字一点も妄語は候まじきにや。

 大覚世尊(釈尊)・仏眼を以つて末法を鑒知(かんち)し、此の逆・謗の二罪を対治せしめんが為に一大秘法を留め置きたもう。所謂・法華経本門・久成(くじょう)の釈尊・宝浄世界の多宝仏、高さ五百由旬・広さ二百五十由旬の大宝塔の中に於て、二仏座を並べしこと宛(あたか)も日月の如く、十方分身の諸仏は高さ五百由旬の宝樹の下に五由旬の師子の座を並べ敷き、衆星(しゅうしょう)の如く列坐したもう。
 四百万億那由佗の大地に三仏二会に充満したもうの儀式は、華厳寂場の華蔵世界にも勝れ、真言両界の千二百余尊にも超えたり。一切世間の眼なり。此の大会に於て六難九易を挙げて法華経を流通せんと諸の大菩薩に諌暁(かんぎょう)せしむ。金色世界の文殊師利、兜史多(とした)宮の弥勒菩薩、宝浄世界の智積(ちしゃく)菩薩、補陀落山(ふだらくさん)の観世音菩薩等、頭陀第一の大迦葉、智慧第一の舎利弗等、三千世界を統領する無量の梵天、須弥の頂に居住する無辺の帝釈、一四天下を照耀(しょうよう)せる阿僧祇の日月、十方の仏法を護持する恒沙(ごうしゃ)の四天王、大地微塵の諸の竜王等、我にも・我にも此の経を付属せられよと競い望みしかども世尊・都て之を許したまわず。
 爾の時に下方の大地より未見・今見の四大菩薩を召し出したもう。所謂上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩なり。此の大菩薩・各各六万恒河沙の眷属を具足す。形貌(ぎょうみょう)・威儀・言(ことば)を以て宣べ難く、心を以て量るべからず。初成道の法慧・功徳林・金剛幢・金剛蔵等の四菩薩、各各十恒河沙の眷属を具足し仏会(ぶつえ)を荘厳せしも、大集経の欲・色二界の中間大宝坊に於て来臨せし十方の諸大菩薩、乃至大日経の八葉の中の四大菩薩も、金剛頂経の三十七尊の中の十六大菩薩等も、此の四大菩薩に比挍(ひきょう)すれば猶帝釈と猿猴(えんこう)と華山と妙高との如し。
 弥勒菩薩、衆の疑ひを挙げて云く「乃(いまし)一人をも識らず」等云云。
 天台大師云く「寂場より已降(このかた)今座より已往(さき)、十方の大士・来会絶えず、限る可からずと雖も我れ補処(ふしょ)の智力を以て悉く見・悉く知る。而も此の衆に於ては一人をも識らず」等云云。
 妙楽云く「今見るに皆識らざる所以(ゆえん)は乃至智人は起を知り・蛇は自ら蛇を識る」等云云。
 天台又云く「雨の猛きを見て竜の大なるを知り、華の盛(さかん)なるを見て池の深きを知る」云云。
 例せば漢王の四将の張良・樊噲(はんかい)・陳平・周勃(しゅうぼつ)の四人を商山の四皓・綺里枳(きりき)・角里(ろくり)先生・東園公・夏黄公等の四賢に比するが如し。天地雲泥なり。四皓が為体(ていたらく)頭には白雪を頂き、額には四海の波を畳み、眉には半月を移し、腰には多羅枝を張り、恵帝の左右に侍(じ)して世を治められたる事、尭舜の古(いにしえ)を移し一天安穏なりし事、神農の昔にも異ならず。
 此の四大菩薩も亦復是くの如し、法華の会に出現し三仏を荘厳し、謗人の慢幢(まんどう)を倒すこと・大風の小樹の枝を吹くが如く、衆会の敬心を致すこと諸天の帝釈に従うが如く、提婆が仏を打ちしも舌を出して掌(たなごころ)を合せ、瞿伽梨(くぎゃり)が無実を構えしも・地に臥して失(とが)を悔ゆ。文殊等の大聖は身を慙(は)ぢて言を出さず。舎利弗等の小聖は智を失い・頭(こうべ)を低る。

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by johsei1129 | 2026-02-06 11:55 | 御書 INDEX・略歴 | Trackback | Comments(0)


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