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2026年 02月 05日
法華経の法師品に釈尊自ら流通せしめて云く「我が所説の経典・無量千万億、已に説き・今説き・当に説かん、而も其の中に於て此の法華経最も為(こ)れ難信難解なり」と云云。 文の意は一代五十年の已今当の三説に於て最第一の経なり。八万聖教の中に殊に未来に留めんと欲して説き給えるなり。故に次の品に多宝如来は地より涌出し、分身の諸仏は十方より一処に来集し、釈迦如来は諸仏を御使として、八方・四百万億那由佗の世界に充満せる菩薩・二乗・人天・八部等を責めて、多宝如来並びに十方の諸仏・涌出来集の意趣は偏(ひとえ)に令法久住(りょうぼう・くじゅう)の為なり、各(おのおの)三説の諸経滅尽の後・慥(たしか)に未来五濁難信の世界に於て此の経を弘めんとの誓言を立てよと云える時に、二万の菩薩・八十万億那由佗の菩薩、各誓状を立てて云く「我身命を愛せず但無上道を惜む」と。千世界の微塵の菩薩・文殊等皆誓つて云く「我等仏の滅後に於て乃至・当に広く此の経を説くべし」と云云。 其の後、仏・十喩を挙げ給う。其の第一の喩(たとえ)は川流江河を以て四十余年の諸経に譬え、法華経を以て大海に譬う。末代濁悪の無慚無愧(むざんむき)の大旱颰(だいかんばつ)の時、四味の川流江河は渇ると雖も法華経の大海は減少せず等と説き了つて・次下に正しく説いて云く「我滅度の後・後の五百歳の中に広宣流布し、閻浮提に於て断絶せしむること無けん」と定め了んぬ。 倩(つらつら)文の次第を案ずるに、我滅度後の次の後の字は四十余年の諸経滅尽の後の後の字なり。故に法華経の流通たる涅槃経に云く「応(まさ)に無上の仏法を以て諸の菩薩に付すべし。諸の菩薩は善能(よ)く問答するを以てなり。是くの如き法宝は則ち久住することを得。無量千世にも増益熾盛(ぞうやく・しじょう)にして衆生を利安すべし」已上。 此の如き等の文は法華涅槃は無量百歳にも絶ゆ可からざる経なり。此の義を知らざる世間の学者・大集権門の五五百歳の文を以て此の経に同じ、浄土の三部経より已前に滅尽す可しと存ずる立義は・一経の先後起尽を忘れたるなり。 我等常没の一闡提の凡夫、法華経を信ぜんと欲するは仏性を顕わさんが為の先表なり。故に妙楽大師の云く「内薫(ないくん)に非ざるよりは何ぞ能く悟りを生ぜん。故に知んぬ、悟りを生ずる力は真如に在り。故に冥薫(みょうくん)を以て外護(げご)と為すなり」已上。 法華経より外の四十余年の諸経には十界互具無し。十界互具を説かざれば内心の仏界を知らず。内心の仏界を知らざれば外の諸仏も顕われず。故に四十余年の権行の者は仏を見ず。設い仏を見ると雖も他仏を見るなり。二乗は自仏を見ざるが故に成仏無し。爾前の菩薩も亦自身の十界互具を見ざれば二乗界の成仏を見ず。故に衆生無辺誓願度の願も満足せず。故に菩薩も仏を見ず、凡夫も亦十界互具を知らざるが故に自身の仏界も顕われず。故に阿弥陀如来の来迎(らいごう)も無く、諸仏如来の加護も無し。譬えば盲人の自身の影を見ざるが如し。 今法華経に至つて九界の仏界を開くが故に四十余年の菩薩・二乗・六凡始めて自身の仏界を見る。此の時、此の人の前に始めて仏・菩薩・二乗立ち給う。此の時に二乗・菩薩始めて成仏し凡夫も始めて往生す。此の故に在世滅後の一切衆生の誠の善知識は法華経是なり。常途(じょうず)の天台宗の学者は爾前に於て当分の得道を許せども、自義に於ては猶当分の得道を許さず。 ことに当地頭の病悩について祈せい申すべきよし仰せ候し間、案にあつかひて候。然れども一分信仰の心を日蓮に出(いだ)し給へば、法華経へそせう(訴訟)とこそをもひ候へ。此の時は十羅刹女もいかでか力をあわせ給はざるべきと思い候いて、法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏並びに天照・八幡・大小の神祇等に申して候。定めて評議ありてぞ・しるしをばあらはし給はん、よも日蓮をば捨てさせ給はじ。いたきと・かゆきとの如くあてがわせ給はんと・をもひ候いしに・ついに病悩なをり、海中いろくづの中より出現の仏体を日蓮にたまわる事、此れ病悩のゆへなり。さだめて十羅刹女のせめなり。此の功徳も夫婦二人の功徳となるべし。 受けがたき人身をうけ・値いがたき仏法にあひて・争(いかで)か虚(むなし)くて候べきぞ。同じく信を取るならば又大小・権実のある中に、諸仏出世の本意・衆生成仏の直道の一乗をこそ信ずべけれ。 持つ処の御経の諸経に勝れてましませば・能く持つ人も亦諸人にまされり。爰(ここ)を以て経に云く「能く是の経を持つ者は一切衆生の中に於て亦為(これ)第一なり」と説き給へり。大聖の金言疑ひなし。然るに人・此の理をしらず見ずして名聞・狐疑(こぎ)・偏執(へんしゅう)を致せるは堕獄の基(もとい)なり。只願くは経を持ち・名を十方の仏陀の願海に流し・誉れを三世の菩薩の慈天に施すべし。 然れば法華経を持ち奉る人は天竜・八部・諸大菩薩を以て我が眷属とする者なり。しかのみならず因身の肉団に果満の仏眼を備へ、有為(うい)の凡膚(ぼんふ)に無為の聖衣を著(き)ぬれば三途(さんず)に恐れなく・八難に憚(はばか)りなし。七方便の山の頂に登りて九法界の雲を払ひ、無垢地(むくじ)の園に花開け・法性の空(そら)に月明かならん。是人於仏道・決定無有疑の文憑(たのみ)あり。唯我一人・能為救護の説疑ひなし。一念信解の功徳は五波羅蜜の行に越へ、五十展転の随喜は八十年の布施に勝れたり。頓証菩提の教は遥(はるか)に群典に秀で顕本遠寿の説は永く諸乗に絶えたり。爰を以て八歳の竜女は大海より来つて経力を刹那(せつな)に示し、本化(ほんげ)の上行は大地より涌出して仏寿を久遠に顕す。言語道断の経王・心行所滅の妙法なり。 御所労の由・承り候はまことにてや候らん。世間の定(さだめ)なき事は病なき人も留りがたき事に候へば、まして病あらん人は申すにおよばず。但心あらん人は後世をこそ思いさだむべきにて候へ。又後世を思い定めん事は私にはかなひがたく候。一切衆生の本師にてまします釈尊の教こそ本にはなり候べけれ。 しかるに仏の教へ又まちまちなり、人の心の不定なる故か。しかれども釈尊の説教・五十年にはすぎず。さき四十余年の間の法門に華厳経には心仏及衆生・是三無差別・阿含経には「苦・空・無常・無我」大集経には「染浄融通」大品経には「混同無二」雙観経・観経・阿弥陀経等には「往生極楽」。此等の説教は皆正法・像法・末法の一切衆生をすくはんがためにこそ・と(説)かれはべりけんめ。 しかれども仏いかんがおぼしけん、無量義経に「方便の力を以て四十余年には未だ真実を顕さず」と説かれて、先四十余年の往生極楽等の一切経は親の先判のごとく・くひかへされて「無量無辺・不可思議阿僧祇劫を過ぐるとも終に無上菩提を成ずることを得ず」といゐきらせ給いて法華経の方便品に重ねて「正直に方便を捨て但無上の道を説く」と説かせ給へり。 方便をすてよと・とかれてはべるは、四十余年の念仏等をすてよと・とかれて候。かう・たしかにくひかへして実義を定むるには「世尊の法は久くして後・要(かならず)当に真実を説くべし」といひ「久しく斯(こ)の要を黙して務(いそ)いで速かに説かず」等と定められしかば、多宝仏は大地よりわきいでさせ給いてこの事真実なりと証誠をくわへ、十方の諸仏は八方にあつまりて広長舌相を大梵天宮につけさせ給ふ。二処・三会・二界・八番の衆生、一人もなくこれをみ候いき。 [ 南条兵衛七郎殿御書] 抑(そもそも)今の法華経を説かるる時、益をうる輩(やから)迹門界如三千の時・敗種の二乗仏種を萠(きざ)す。四十二年の間は永不成仏と嫌はれて在在処処の集会(しゅうえ)にして罵詈誹謗(めりひぼう)の音(こえ)をのみ聞き、人天大会に思いうとまれて既に飢え死ぬべかりし人人も、今の経に来つて舎利弗は華光如来・目連は多摩羅跋旃檀香(たまらばつ・せんだんこう)如来・阿難は山海慧自在通王仏・羅睺羅(らごら)は踏(とう)七宝華如来・五百の羅漢は普明如来・二千の声聞は宝相如来の記別に予る。顕本遠寿の日は微塵数の菩薩、増道損生して位・大覚に鄰(とな)る。 されば天台大師の釈を披見するに、他経には菩薩は仏になると云つて二乗の得道は永く之れ無し、善人は仏になると云つて悪人の成仏を明さず、男子は仏になると説いて女人は地獄の使と定む、人天は仏になると云つて畜類は仏になるといはず。 然るを今の経は是等が皆仏になると説く。たのもしきかな末代濁世に生を受くといへども提婆が如くに五逆をも造らず・三逆をも犯さず。而るに提婆・猶天王如来の記別を得たり、況んや犯さざる我等が身をや。八歳の竜女・既に蛇身を改めずして南方に妙果を証す、況んや人界に生を受けたる女人をや。只得難きは人身・値い難きは正法なり。汝早く邪を翻えし・正に付き・凡を転じて・聖を証せんと思はば、念仏・真言・禅・律を捨てて此の一乗妙典を受持すべし。若し爾らば妄染(もうぜん)の塵穢(じんえ)を払つて清浄の覚体を証せん事疑ひなかるべし。 夫れ妙法蓮華経とは一切衆生の仏性なり。仏性とは法性なり。法性とは菩提なり。所謂釈迦・多宝・十方の諸仏・上行・無辺行等・普賢・文殊・舎利弗・目連等、大梵天王・釈提桓因(しゃくだいかんにん)・日月・明星・北斗・七星・二十八宿・無量の諸星・天衆・地類・竜神・八部・人天大会・閻魔法王、上は非想の雲の上、下は那落の炎の底まで、所有(あらゆる)一切衆生の備うる所の仏性を妙法蓮華経とは名くるなり。 されば一遍・此の首題を唱へ奉れば一切衆生の仏性が皆よばれて爰(ここ)に集まる時、我が身の法性の法報応の三身ともに・ひかれて顕はれ出ずる、是を成仏とは申すなり。例せば篭(かご)の内にある鳥の鳴く時、空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる、是を見て篭の内の鳥も出でんとするが如し。 而るを後八年の法華経に忽(たちまち)に悔還(くいかえ)して二乗作仏すべしと仏陀とかせ給はんに、人天大会・信仰をなすべしや。用ゆべからざる上、先後の経経に疑網(ぎもう)をなし、五十余年の説教・皆虚妄(こもう)の説となりなん。されば四十余年・未顕真実等の経文はあらませしが、天魔の仏陀と現じて後八年の経をばとかせ給うかと疑網するところに、げ(実)にげに・しげに・劫国(こうこく)・名号と申して二乗成仏の国をさだめ・劫をしるし、所化の弟子なんどを定めさせ給へば教主釈尊の御語すでに二言になりぬ。自語相違と申すはこれなり。外道が仏陀を大妄語の者と咲(わら)いしこと・これなり。 人天大会・けを(興)さめて・ありし程に爾(そ)の時に東方・宝浄世界の多宝如来・高さ五百由旬・広さ二百五十由旬(ゆじゅん)の大七宝塔に乗じて教主釈尊の人天・大会に自語相違をせめられて・とのべ(左宣)・かうのべ(右宣)さまざまに宣べさせ給いしかども・不審猶(な)をは(晴)るべしとも・みへず・もてあつか(持扱)いて・をはせし時、仏前に大地より涌現して虚空にのぼり給う。例せば暗夜に満月の東山より出づるがごとし。七宝の塔・大虚(おおぞら)にかからせ給いて大地にも・つかず大虚にも付かせ給はず、天中に懸りて宝塔の中より梵音声を出して証明して云く「爾の時に宝塔の中より大音声を出して歎(ほ)めて云く、善哉(よきかな)善哉・釈迦牟尼世尊、能く平等大慧・教菩薩法・仏所護念の妙法華経を以て大衆の為に説きたもう。是くの如し・是くの如し。釈迦牟尼世尊の所説の如きは皆是れ真実なり」等云云。 又云く「爾の時に世尊・文殊師利等の無量百千万億・旧住娑婆(くじゅう・しゃば)世界の菩薩・乃至人・非人等一切の衆の前に於て大神力を現じたもう。広長舌を出して上(か)み梵世に至らしめ、一切の毛孔より・乃至十方世界・衆(もろもろ)の宝樹の下の師子の座の上の諸仏も亦復是くの如く、広長舌を出し無量の光を放ちたもう」等云云、 又云く「十方より来りたまえる諸の分身の仏をして各(おのおの)本土に還らしめ、乃至多宝仏の塔も還つて故(もと)の如くし給うべし」等云云。 諸大菩薩・諸天等、此の法門をきひて領解(りょうげ)して云く「我等昔より来数(このかた・しばしば)世尊の説を聞きたてまつれども、未だ曾て是くの如き深妙の上法を聞かず」等云云。 伝教大師云く「我等昔より来数・世尊の説を聞くと謂うは昔法華経の前、華厳(けごん)等の大法を説くを聞けども・となり。未だ曾て是くの如き深妙の上法を聞かずと謂うは、未だ法華経の唯一仏乗の教を聞かざるなり」等云云。 華厳・方等・般若・深密・大日等の恒河沙の諸大乗経は、いまだ一代の肝心たる一念三千の大綱、骨髄たる二乗作仏・久遠実成等をいまだきかずと領解せり。 又今よりこそ諸大菩薩も梵帝・日月・四天等も教主釈尊の御弟子にては候へ。されば宝塔品には此等の大菩薩を仏・我が御弟子等とをぼすゆへに諌暁(かんぎょう)して云く「諸(もろもろ)の大衆に告ぐ、我が滅度の後・誰か能く此の経を護持し読誦(どくじゅ)する。今仏前に於て自ら誓言(せいごん)を説け」とは・したたかに仰せ下せしか。又諸大菩薩も「譬えば大風の小樹の枝を吹くが如し」等と、吉祥草(きちじょうそう)の大風に随い、河水の大海へ引くがごとく仏には随いまいらせしか。 而れども霊山(りょうぜん)日浅くして夢のごとく・うつつならずありしに、証前の宝塔の上に起後の宝塔あつて十方の諸仏・来集せる。皆我が分身なりとなのらせ給い、宝塔は虚空に釈迦・多宝坐を並べ、日月の青天に並出(びょうしゅつ)せるが如し。人天大会(たいえ)は星をつらね、分身の諸仏は大地の上・宝樹の下の師子のゆか(牀)にまします。華厳経の蓮華蔵世界は十方・此土(しど)の報仏、各各に国国にして彼の界の仏・此の土に来つて分身となのらず。此の界の仏・彼の界へゆかず、但法慧等の大菩薩のみ互いに来会(らいえ)せり。大日経・金剛頂経等の八葉九尊・三十七尊等、大日如来の化身とはみゆれども其の化身・三身円満の古仏にあらず。大品経の千仏・阿弥陀経の六方の諸仏いまだ来集の仏にあらず、大集経の来集の仏・又分身ならず、金光明経の四方の四仏は化身なり。 総じて一切経の中に各修・各行の三身円満の諸仏を集めて我が分身とはとかれず。これ寿量品の遠序(おんじょ)なり。始成(しじょう)四十余年の釈尊が一劫・十劫等・已前の諸仏を集めて分身ととかる。さすが平等意趣にもにず・をびただしく・をどろかし。 又始成の仏ならば所化・十方に充満すべからざれば、分身の徳は備わりたりとも示現して益なし。天台云く「分身既に多し。当に知るべし、成仏の久しきことを」等云云。大会のをどろきし意(こころ)をかかれたり。 当(まさ)に知るべし、須弥山(しゅみせん)をいただ(戴)きて大海をわたる人をば見るとも、此の女人をば見るべからず。砂をむ(蒸)して飯となす人をば見るとも・此の女人をば見るべからず。当に知るべし釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏・上行・無辺行等の大菩薩・大梵天王・帝釈(たいしゃく)・四王等、此の女人をば影の身に・そうがごとく・まほり給うらん。日本第一の法華経の行者の女人なり。故に名を一つつけたてまつりて不軽(ふきょう)菩薩の義になぞらへん、日妙聖人等云云。
by johsei1129
| 2026-02-05 15:35
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