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日蓮大聖人『御書』解説

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2026年 02月 02日

続 御書のすすめ(14)

一 蓮華
 とは本因本果なり。此の本因本果と云うは一念三千なり。本有(ほんぬ)の因・本有の果なり。今始めたる因果に非ざるなり。五百塵点の法門とは此の事を説かれたり。
 本因の因と云うは下種の題目なり。本果の果とは成仏なり。因と云うは信心領納(りょうのう)の事なり。此の経を持ち奉る時を本因とす。其の本因のまま成仏なりと云うを本果とは云うなり。
 日蓮が弟子檀那の肝要は本果より本因を宗(むね)とするなり。本因なくしては本果有る可からず。仍て本因とは慧(え)の因にして名字即の位なり、本果は果にして究竟即の位なり。究竟即とは九識本覚の異名なり。九識本法の都とは法華の行者の住所なり。神力品に云く、若しは山谷曠野(せんごく・こうや)等と説けり。即ち是れ道場と見えたり。豈(あに)法華の行者の住所は生処・得道・転法輪・入涅槃の諸仏の四処の道場に非ずや。

一 如是我聞の事
 仰せに云く、如と云うは衆生の如と・仏の如と一如にして無二如なり。然りと雖も九界と仏界と分れたるを是と云うなり。
 如は如を不異に名く。即ち空の義なりと釈して少しも・ことならざるを云うなり。所詮・法華経の意は煩悩即菩提・生死即涅槃・生仏不二・迷悟一体といえり。是を如とは云うなり。されば如は実相・是は諸法なり。又如は心法・是は色法、如は寂・是は照なり。如は一念・是は三千なり。今経の心は文文・句句・一念三千の法門なり。
 惣じて如是我聞の四字より外は・今経の体全く無きなり。如と妙とは同じ事、是とは法と又同じ事なり。法華経と釈尊と我等との三・全く不同無く如我等無異なるを如と云うなり。仏は悟り・凡夫は迷なりと云うを是とは云うなり。我聞と云うは、我は阿難なり、聞とは耳の主(じゅ)と釈せり、聞とは名字即なり。
 如是の二字は妙法なり。阿難を始めて霊山一会(りょうぜんいちえ)の聴衆・同時に妙法蓮華経の五字を聴聞せり。仍つて我も聞くと云えり。されば相伝の点には如は是なりきと我れ聞くといえり。
 所詮末法当今には南無妙法蓮華経を我も聞くと心得べきなり。我は真如法性の我なり。天台大師は同聞衆と判ぜり、同じ事を聞く衆と云うなり。同とは妙法蓮華経なり。聞は即身成仏・法華経に限ると聞くなり云云。

一、耆闍崛山(ぎしゃくっせん)の事
 仰せに云く、耆闍崛山とは霊鷲山(りょうじゅせん)なり。霊とは三世の諸仏の心法なり。必ず此の山に仏法を留め給う。鷲とは鳥なり。此の山の南に当つて尸陀林(しだりん)あり、死人を捨つる所なり、鷲(わし)・此の屍(しかばね)を取り食うて此の山に住むなり。さて霊鷲山とは云うなり。
 所詮今の経の心は迷悟一体と談ず。霊と云うは法華経なり、三世の諸仏の心法にして悟りなり。鷲と云うは畜生にして迷ひなり。迷悟不二と開く中道即法性の山なり。耆闍崛山中と云うは迷悟不二・三諦一諦・中道第一義空の内証なり。されば法華経を行ずる日蓮等が弟子檀那の住所はいかなる山野なりとも霊鷲山なり。行者豈(あに)釈迦如来に非ずや。日本国は耆闍崛山、日蓮等の類は釈迦如来なるべし。
 惣じて一乗南無妙法蓮華経を修行せん所は、いかなる所なりとも常寂光の都・霊鷲山なるべし。此の耆闍崛山中とは煩悩の山なり。仏菩薩等は菩提の果なり。煩悩の山の中にして法華経を三世の諸仏説き給えり。諸仏は法性の依地(えじ)、衆生は無明の依地なり。此の山を寿量品にしては本有の霊山と説かれたり。本有の霊山とは此の娑婆世界なり、中にも日本国なり、法華経の本国土妙・娑婆世界なり。本門寿量品の未曾有の大曼荼羅建立の在所なり云云。
 瑜伽論(ゆがろん)に云く「東方に小国有り、其の中・唯大乗の種姓のみ有り」。大乗の種姓とは法華経なり。法華経を下種として成仏すべしと云う事なり。所謂南無妙法蓮華経なり。小国とは日本国なり云云。
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耆闍崛山

一 仏所成就・第一希有・難解之法・唯仏与仏(ゆぶつ・よぶつ)の事
 仰せに云く、仏とは釈尊の御事なり。成就とは法華経なり。第一は爾前の不第一に対し、希有は爾前の不希有に対し、難解之法は爾前の不難解に対したり。
 此の仏と申すは諸法実相なれば十界の衆生を仏とは云うなり。十界の衆生の語言音声・成就にして法華経なり。三世の諸仏の出世の本懐の妙法にして優曇華(うどんげ)の妙文なれば第一希有なり。九界の智慧は及ばざれば難解の法なり。
 成就とは我等衆生の煩悩即菩提・生死即涅槃の事なり。権教の意は終に不成仏なれば成就には非ず。迹門には二乗成仏顕はれたり、是れ即ち成就なり。是を仏所成就とは説かれたり。されば唯仏とは釈迦、与仏とは多宝なり。多宝涌現なければ与仏とは云いがたし。然りと雖も終には出現あるべき故に・与仏を多宝というなり。
 所詮日蓮等の類いの心は・唯仏は釈尊・与仏は日蓮等の類いの事なるべし。其の故は唯仏の唯を重ねて譬喩品には唯我一人と説けり。与仏の二字を重ねて方便品の末に至つて若遇余仏(にゃくぐ・よぶつ)と説けり。釈には「深く円理を覚る、之れを名けて仏と為す」と釈せり。是れ即ち与仏と云うは法華経の行者・男女の事なり。唯我一人の釈尊に与(くみ)し上(たてまつ)る仏なり。此の二仏寄り合いて乃能究尽(ないのう・くじん)する所の諸法実相の法体なり。
 されば十如是と云うは十界なり。十界即十如是なり。十如是は即ち法華経の異名なり云云。

一 自証無上道・大乗平等法の事
 仰せに云く、末法当今に於て大乗平等の法を証せる事、日蓮等の類いに限れり。されば此の経文は教主大覚世尊・法華経の極理を証して番番に出世し給いて説き給うなり。
 所詮此の自証と云うは三十成道の時を指すなり。其の故は教主釈尊は十九出家・三十成道なり。然る間・自証無上道等と云へり。所詮此の品の心は十界皆成の旨を明せり。然れば自証と云うは十界を諸法実相の一仏ぞと説かれたり。地獄も餓鬼も悉く無上大乗の妙法を証得したるなり。自は十界を指したり。恣(ほしい)ままに証すと云う事なり。権教は不平等の経なり、法華経は平等の経なり。今日蓮等の類いは真実自証無上道・大乗平等法の行者なり。所謂南無妙法蓮華経の大乗・平等法の広宣流布の時なり云云。

一 我始坐道場・観樹亦経行の事
 仰せに云く、此の文は教主釈尊・三十成道の時を説き給えり。観樹の樹と云うは十二因縁の事なり。所詮十二因縁を観じて経行すと説き給えり。十二因縁は法界の異名なり・又法華経の異名なり。其の故は樹木は枝葉華菓あり。是れ即ち生住異滅の四相なり。大覚世尊・十二因縁の流転を観じ・経行し給えり。
 所詮末法当今も一切衆生・法華経を謗じて流転す可きを観じて・日本国を日蓮・経行して南無妙法蓮華経と弘通する事・又又此(かく)の如くなり。法華の行者は悉く道場に坐したる人なり云云。

一 今我喜無畏の事
 仰せに云く、此の文は権教を説き畢(おわ)らせ給いて法華経を説かせ給う時なれば、喜びておそれなしと観じ給えり。其の故は爾前の間は一切衆生を畏れ給えり。若し法華経を説かずして空しくやあらんずらんと思召(おぼしめ)して畏れ深くありと云う文なり。さて今は恐るべき事なく、時節・来(きた)つて説く間・畏れなしと喜び給えり。
 今日蓮等の類も是くの如く、日蓮も三十二までは畏れありき。若しや此の南無妙法蓮華経を弘めずして・あらんずらんと畏れありき。今は即ち此の恐れ無く・既に末法当時・南無妙法蓮華経の七字を日本国に弘むる間・恐れなし。終には一閻浮提に広宣流布せん事・一定(いちじょう)なるべし云云。

一 乗此宝乗・直至道場の事
 仰せに云く、此の経文は我等衆生の煩悩即菩提・生死即涅槃を明かせり。其の故は文句の五に云く「此の因・易(かわ)ること無きが故に直至と云う」と。此の釈の心は爾前の心は煩悩を捨てて生死を厭(いと)うて別に菩提涅槃を求めたり。法華経の意は煩悩即菩提・生死即涅槃と云えり。直と即とは同じ事なり。
 所詮日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処即寂光土と心得可きなり。然れば此の実乗に乗じて忽ちに妙覚極果の位に至るを直至道場とは云うなり。直至と云う文の意は四十二位を爰(ここ)にて極めたり。
 此の直の一字は地獄即寂光・餓鬼即寂光土なり。法華経の行者の住処、山谷曠野なりとも直至道場なり。道場とは究竟(くきょう)の寂光なり。仍つて乗此宝乗の上の乗は法華の行者、此の品の意にては中根の四大声聞なり、惣じて一切衆生の事なり、今末法に入つては日蓮等の類いなり。
 宝乗の乗の字は大白牛車の妙法蓮華経なり。然れば上の乗は能乗・下の乗は所乗なり。宝乗は蓮華なり。釈迦・多宝等の諸仏も此の宝乗に乗じ給えり。此れを提婆品に重ねて説く時「若在仏前・蓮華化生」と云云。
 釈迦・多宝の二仏は我等が己心なり。此の己心の法華経に値い奉つて成仏するを顕わさんとして釈迦多宝・二仏並座(びょうざ)して乗此宝乗・直至道場を顕わし給えり。
 此の乗とは車なり、車は蓮華なり。此の蓮華の上の妙法は我等が生死の二法・二仏なり。直至の至は此れより彼(かしこ)へいたるの至るには非ず。住処即寂光と云うを至とは云うなり。
 此の宝乗の宝は七宝の大車なり。七宝即ち頭上の七穴・七穴即ち末法の要法・南無妙法蓮華経是なり。此の題目の五字、我等衆生の為には三途の河にては船となり、紅蓮地獄(ぐれんじごく)にては寒さをのぞき、焦熱地獄にては凉風となり、死出の山にては蓮華となり、渇せる時は水となり、飢えたる時は食となり、裸かなる時は衣となり、妻となり子となり、眷属となり家となり、無窮(むぐう)の応用を施して一切衆生を利益し給うなり。直至道場とは是なり。仍つて此の身を取りも直さず寂光土に居るを直至道場とは云うなり。直の字に心を留めて之を案ず可し云云。

一 若人不信 毀謗此経 則断一切 世間仏種の事
 仰に云く、此の経文の意は小善成仏を信ぜずんば一切世間の仏種を断ずと云う事なり。
 文句の五に云く「今経に小善成仏を明す。此れは縁因を取つて仏種と為す。若し小善の成仏を信ぜずんば則ち一切世間の仏種を断ずるなり」文。爾前経の心は小善成仏を明さざるなり。法華経の意は一華・一香の小善も法華経に帰すれば大善となる。縦い法界に充満せる大善なりとも・此の経に値わずんば善根とはならず。譬えば諸河の水・大海に入りぬれば鹹(うしほ)の味となる、入らざれば本の水なり。法界の善根も法華経へ帰入せざれば善根とはならざるなり。
 されば釈に云く「断一切仏種とは浄名には煩悩を以て如来の種と為す。此れ境界性(きょうがいしょう)を取るなり」と。
 此の釈の心は浄名経の心ならば我等衆生の一日一夜に作(な)す所の罪業・八億四千の念慮を起す。余経の意は皆三途の業因と説くなり。法華経の意は此の業因・即ち仏ぞと明せり。されば煩悩を以て如来の種子とすと云うは此の義なり。
 此の浄名経の文は正しく文在爾前・義在法華の意なり。此の境界性と云うは末師・釈する時、能生煩悩・名境界性と判ぜり。我等衆生の眼耳(げんに)等の六根に妄執を起すなり。是を境界性と云うなり。権教の意は此の念慮を捨てよと説けり、法華経の心は此の境界性の外に三因仏性の種子なし、是れ即ち三身円満の仏果となるべき種性なりと説けり。
 此の種性を権教を信ずる人は之を知らず・此の経を謗るが故に凡夫即極の義をも知らず、故に一切世間の仏種を断ずるなり。されば六道の衆生も三因仏性を具足して終に三身円満の尊容(そんよう)を顕す可き所に、此の経を謗ずるが故に六道の仏種をも断ずるなり。されば妙楽大師云く「此の経は遍く六道の仏種を開す。若し此の経を謗ずるは義・断に当るなり」と。
 所詮日蓮が意は一切の言は十界をさす。此の経を謗ずるは十界の仏種を断ずるなり。されば誹謗の二字を大論に云く「口に謗(そし)るを誹と云い、心に背くを謗と云う」と。仍つて色心三業に経て法華経を謗じ奉る人は入阿鼻獄疑い無きなり。所謂弘法・慈覚・智証・善導・法然・達磨等の大謗法の者なり。今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る、豈(あに)三世の諸仏の仏種を継ぐ者に非ずや云云。

一 現世安穏・後生善処の事
 仰に云く、所詮此の妙法蓮華経を聴聞し奉るを現世安穏とも後生善処とも云えり。既に上に「是の法を聞き已(おわ)って」と説けり。聞は名字即の凡夫なり。妙法を聞き奉る所にて即身成仏と聞くなり。「若し能く持つこと有らば・即ち仏身を持つなり」とは是なり。
 聞く故に・持ち奉るの故に三類の強敵来たる。来たるを以て現世安穏の記文顕れたり。法華の行者なる事疑ひ無きなり。法華の行者はかかる大難に値うべしと見えたり。大難に値うを以て後生善処の成仏は決定せり。是れ豈現世にして安穏なるに非ずや。
 後生善処は提婆品に分明(ふんみょう)に説けり。所詮現世安穏とは法華経を信じ奉れば三途(さんず)八難の苦をはなれ、善悪上下の人までも皆教主釈尊・同等の仏果を得て自身本覚の如来なりと顕す。自身の当体・妙法蓮華経の薬草なれば現世安穏なり。爰(ここ)を開くを後生善処と云うなり。
 妙法蓮華経と云うは妙法の薬草なり。所詮現世安穏は色法、後生善処は心法なり。十界の色心・妙法と開覚するを現世安穏・後生善処とは云うなり。所詮法華経を弘むるを以て現世安穏・後生善処と申すなり云云。

一 根茎枝葉(こんきょうしよう)の事
 仰せに云く、此の文をば釈には信戒定慧と云云。此の釈の心は、草木は此の根茎枝葉を以て増長と云うなり。仏法修行するも又斯(か)くの如し。
 所詮我等衆生・法華経を信じ奉るは根をつけたるが如し。法華経の文の如く是名持戒の戒体を本として正直捨方便・但説無上道の如くなるは戒なり。法華経の文相にまかせて法華三昧を修するは定なり。題目を唱え奉るは慧なり。
 所謂(いわゆる)法界悉く生住異滅するは信、己己本分は戒、三世不改なるは定なり・各各の徳義を顕したるは慧なり。是れ即ち法界平等の根茎枝葉なり。是れ即ち真如実相の振舞なり。
 所謂戒定慧の三学・妙法蓮華経なり。此れを信ずるを根と云うなり。釈に云く「三学倶に伝うるを名けて妙法と曰う」と云云。

一 等雨法雨の事
 仰せに云く、等とは平等の事なり。善人・悪人・二乗・闡提(せんだい)・正見・邪見等の者にも妙法の雨を惜しまず平等にふらすと云う事なり。されば法の雨を雨(ふら)すと云う時は、大覚世尊ふらしてに成り給えり。さて法の雨ふりてとよむ時は、本より実相平等の法雨は常住本有の雨なれば今始めてふるべきに非ず。
 されば諸法実相を譬喩品の時は風月に譬えたり。妙楽大師は何ぞ隠れ・何ぞ顕れんと釈せり。実相の法雨は三世常恒にして隠顕更に無きなり。所詮等の字はひとしくとよむ時は、釈迦如来の平等の慈悲なり。さてひとしきとよむ時は平等大慧の妙法蓮華経なり。ひとしく法の雨をふらすとは能弘(のうぐ)につけたり。ひとしき法の雨ふりたりと読む時は所弘(しょぐ)の法なり。
 所詮法と云うは十界の諸法なり。雨とは十界の言語・音声の振舞なり。ふるとは自在にして地獄は洞燃猛火(どうねんもうか)乃至仏界の上の所作音声を等雨法雨とは説けり。此の等雨法雨は法体(ほったい)の南無妙法蓮華経なり。
 今末法に入つて日蓮等の類いの弘通する題目は等雨法雨の法体なり。此の法雨・地獄の衆生・餓鬼・畜生等に至るまで同時にふりたる法雨なり。日本国の一切衆生の為に付属し給う法雨は題目の五字なり。所謂日蓮建立の御本尊・南無妙法蓮華経是なり云云。
 方便品には本末究竟等と云えり。譬喩品には等一大車と云えり。此の等の字を重ねて説かれたり。或は如我等無異と云えり。此の等の字は宝塔品の「如是如是」と同じなり。所詮等とは南無妙法蓮華経なり。法雨をふらすとは今身より仏身に至るまで持つや否やと云う受持の言語なり云云。

一 如従飢国来(にょじゅう・けこくらい)・忽遇大王膳(こつぐう・だいおうぜん)の事
 仰せに云く、此の文は中根の四大声聞・法華に来れる事、譬えば・うえたる国より来たりて大王のそなえに値うが如くの歓喜なりと云えり。
 然らば此の文の如くならば法華已前の人は餓鬼界の衆生なり。既に飢国来と説けり。大王膳とは醍醐味なり。中根の声聞・法華に来つて一乗醍醐の法味を得て忽(たちまち)に法王の位に備りたり。忽(こつ)の字は爾前の迂廻道(うえどう)の機に対して忽と云うなり。速疾頓成(そくしつ・とんじょう)の義を忽と云うなり。仮令(たとえ)ば外用(げゆう)の八相を唱うる事は所化をして仏道に進めんが為なり。所詮末法に入つては謗法の人人は餓鬼界の衆生なり。此の経に値い奉り・南無妙法蓮華経に値い奉る事は、併(しかしなが)ら大王膳たり。
 忽遇の遇の字肝要たり。釈に云く「成仏の難きには非ず。此の経に値うをかたしとす」と云えり。
 不軽品に云く「復遇(ぶぐう)常不軽」と云云。
 厳王品に云く「生値(しょうち)仏法」云云。
 大王の膳に値いたり、最も以て南無妙法蓮華経を信受し奉る可きなり。
 此の経文の如くならば法華より外の一切衆生はいかに高貴の人なりとも餓鬼道の衆生なり。十羅刹女は餓鬼界の羅刹(らせつ)なれども法華経を受持し奉る故に餓鬼に即する一念三千なり。法華へ来らずんば何れも餓鬼飢饉の苦しみなるべし。
 所詮必ず中根の声聞領解(りょうげ)の言に我が身を餓鬼に類する事は、餓鬼は法界に食(じき)ありと云えども食する事を得ざるなり。諸法実相の一味の醍醐の妙法あれども・終に開覚(かいかく)に能(あた)はざる間・四十余年食にうえたり云云。
 一義に云く、序品・方便より諸法実相の甘露顕れて南無妙法蓮華経あれども、広略二重の譬説段まで悟らざるは餓鬼の満満とある食事をくらわざるが如し。
 所詮日本国の一切衆生は餓鬼界の衆生なり。大王膳とは所謂南無妙法蓮華経・是なり。遇の字には人法を納めたり。仍つて末に如飢須教食(にょけしゅ・きょうじき)と云えり。う(飢)えたるとも大王の・をしえを待ちて醍醐を食するが如しと云えり。
 今南無妙法蓮華経有れども・今身より仏身に至るまでの受持をうけずんば成仏は之れ有るべからず。教とは爾前無得道・法華成仏の事なり。此の教をうけずんば法華経を読誦すとも大王の位に登る事・之れ有る可からず。醍醐は題目の五字なり云云。

一 貧人見此珠・其心大歓喜の事
 仰せに云く、此珠とは一乗無価の宝珠なり。貧人とは下根の声聞なり。惣じて一切衆生なり。所詮末法に入つて此珠とは南無妙法蓮華経なり。貧人とは日本国の一切衆生なり。此の題目を唱え奉る者は心・大歓喜せり。
 されば見宝塔と云う見と此珠とは同じ事なり。所詮此珠とは我等衆生の一心なり・一念三千なり。此の経に値い奉る時、一念三千と開くを珠を見るとは云うなり。
 此の珠は広く一切衆生の心法なり。此の珠は体中にある財用なり。一心に三千具足の財(たから)を具足せり。
 此の珠を方便品にして諸法実相と説き、譬喩品にては大白牛車・三草二木・五百由旬の宝塔・共に皆・一珠の妙法蓮華経の宝珠なり。
 此の経文・色心の実相歓喜を説けり。見此珠(けんししゅ)の見は色法なり、其心大(ごしんだい)と云うは心法なり。色心共に歓喜なれば大歓喜と云うなり。
 所詮此珠と云うは我等衆生の心法なり。仍つて一念三千の宝珠なり。所謂妙法蓮華経なり。今末代に入つて此の珠を顕す事は日蓮等の類いなり。所謂未曾有の大曼荼羅こそ正しく一念三千の宝珠なれ。
 見の字は日本国の一切衆生、広くは一閻浮提の衆生なり。然りと雖も其心大歓喜と云う時は日蓮が弟子檀那等の信者をさすなり。所詮煩悩即菩提・生死即涅槃と体達する其の心大歓喜なり。
 されば我等衆生・五百塵点の下種の珠を失いて、五道・六道に輪廻(りんね)し貧人となる。近くは三千塵点の下種を捨てて備輪諸道(びりんしょどう)せり。之れに依つて貧人と成る。今此の珠を釈尊に値い奉りて見付け得て・本の如く取り得たり。此の故に心大歓喜せり。
 末法当今に於いて妙法蓮華経の宝珠を受持し奉りて己心を見るに、十界互具・百界千如・一念三千の宝珠を分明に具足せり。是れ併ら末法の要法たる題目なり云云。

一 如是如是の事
 仰せに云く、釈に云く「法相(ほっそう)の是に如し、根性の是に如するなり」文。
 法相の是に如すとは諸法実相を重ねて如是と説かれたり。根性の是に如すとは九法界を説かれたり。然れば機法共に釈迦如来の所説の如く真実なりと証明し給えり。
 始めの如是は教一開会なり、次の如是は人一開会なり。権教の意は諸法を妄法ときらいし隔別不融(きゃくべつ・ふゆう)の教なり。根性に於ては性欲不同(しょうよく・ふどう)なれば種種に説法し給えり、仍つて人も成仏せず。今の経の心は諸法実相の御経なれば十界平等に授くる所の妙法なり。根性は不同なれども同じく如是性の一性なり。
 所詮今末法に入つての「法相の是に如する」は塔中相承の本尊なり。「根性の是に如する」と云うは十界宛然(おんねん)の尊像なり。法相(ほっそう)は南無妙法蓮華経なり。根性は日本国の一切衆生、広くは一閻浮提の衆生なり云云。

一 是真仏子・住淳善地の事
 仰せに云く、末法当今に於て釈迦如来の真実の御子と云うは法華経の行者なり。其の故は上の文に「能く来世に於て此の経を読み持たん」と説けり。来世とは末法なり。読むと云うは法華経の如説修行の行者なり。弘法・慈覚・智証・善導・法然等読みて云く、第三の劣・戯論(けろん)の法・捨閉閣抛(しゃへいかくほう)・理同事勝等と読むは謗法にして三仏の御舌を切るに非ずや。何に況んや持たんをや。伝教大師云く「法華経を讚むると雖も・還つて法華の心を死(ころ)す」とは是なり。
 今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る人は読持此経の人なり。豈是真仏子に非ずや。淳善地(じゅんぜんじ)は寂光土に非ずや。是真仏子の子の字は十界の衆生なり。所詮此の子の字は法華経の行者に限る。悉是吾子の子は孝・不孝を分別せざる子なり。「我等皆似仏子」の子は中根の声聞・仏子に似たりと説かれたり。為治狂子故(いじおうしこ)の子は久遠の下種を忘れたれば物にくるう子なり。仍つて釈尊の御子にも物にくるう子もあり、不孝の子もあり、孝養の子もあり。所謂法華経の行者は真実に釈尊の御子なり。
 釈迦・多宝・分身・三千三百万億那由佗の世界に充満せる諸仏の御前にして孝・不孝の子を定めをき給えり。父の業をつぐを以て子とせり。三世の諸仏の業とは南無妙法蓮華経是なり。法師品に「如来の事を行ずるなり」と説けり云云。法華経は母なり、釈尊は父なり、我等衆生は子なり。
 無量義経に云く「諸仏の国王と是の経の夫人と和合して共に是の菩薩の子を生み給う」文。菩薩とは法華経の行者なり。法師品に云く「在家出家・菩薩の道を行ず」と云云。

一 不染世間法・如蓮華在水・従地而涌出の事
 仰せに云く、世間法とは全く貪欲等に染せられず。譬えば蓮華の水の中より生ずれども淤泥(おでい)にそまざるが如し。此の蓮華と云うは地涌の菩薩に譬えたり。地とは法性の大地なり。所詮法華経の行者は蓮華の泥水に染まざるが如し。但だ唯一大事の南無妙法蓮華経を弘通するを本とせり。世間の法とは国王大臣より所領を給わり、官位を給うとも夫(それ)には染せられず、謗法の供養を受けざるを以て不染世間法とは云うなり。
 所詮蓮華は水をはなれて生長せず。水とは南無妙法蓮華経是なり。本化の菩薩は蓮華の如く、過去久遠より已来(このかた)・本法所持の菩薩なり。蓮華在水とは是なり。
 所詮此の水とは我等行者の信心なり。蓮華は本因本果の妙法なり。信心の水に妙法蓮華は生長せり。地とは我等衆生の心地なり。涌出とは広宣流布の時、一閻浮提の一切衆生・法華経の行者となるべきを涌出とは云うなり云云。
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一 願仏為未来・演説令開解(りょうかいげ)の事
 仰せに云く、此の文は弥勒菩薩等・末法当今の為に「我久遠より来(このかた)是等の衆を教化せり」の言を演説令開解せしめ給えと請じ奉る経文なり。此の請文(しょうもん)に於て寿量品は顕れたり。五百塵点の久遠の法門是なり。
 開解とは教主釈尊の御内証に此の分を・をさえ給うを、願くは開かしめ給え・同じく一会の大衆の疑ひをも解かしめ給えと請するなり。此の開解の語を寿量品にして汝等当信解と誡(いまし)め給えり。若し開解し給わずんば大衆皆法華経に於て疑惑を生ず可しと見給えり。疑ひを生ぜば三悪道に堕つべしと既に弥勒菩薩申されたり。此の時、寿量品顕れずんば即当堕悪道すべきなり。寿量品の法門大切なるは是なり。
 さて此の開解の開に於て二あり。迹門の意は諸法を実相の一理と会したり。さては諸法を実相と開きて見れば十界悉く妙法実相の一理なりと開くを開仏智見と説けり。
 さて本門の意は十界本有と開いて始覚のきづなを解きたり。此の重を開解と申されたり。仍つて演説の二字は釈尊、開解の両字は大衆なり。此の演説とは寿量品の久遠の事なり。終に釈尊・寿量品を説かせ給いて一切大衆の疑惑を破り給えり云云。






by johsei1129 | 2026-02-02 19:46 | 御書 INDEX・略歴 | Trackback | Comments(0)


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