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日蓮大聖人『御書』解説

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2026年 01月 31日

続 御書のすすめ(12)

 妙法蓮華経と申すは蓮(はちす)に譬えられて候。天上には摩訶曼陀羅華(まかまんだらけ)、人間には桜の花、此等はめでたき花なれども此れ等の花をば法華経の譬へには仏取り給う事なし。一切の花の中に取分(とりわ)けて此の花を法華経に譬へさせ給う事は其の故候なり。
 或は前花後菓と申して花は前(さき)に・菓(み)は後(あと)なり。或は前菓後花と申して菓(み)は前(さき)に・花は後(あと)なり。或は一花多菓・或は多花一菓・或は無花有菓と品品(しなじな)に候へども蓮華と申す花は・菓(み)と花と同時なり。
 一切経の功徳は先(さき)に善根を作(な)して後(のち)に仏とは成ると説く。かかる故に不定なり。法華経と申すは手に取れば其の手・やがて仏に成り、口に唱ふれば其の口即ち仏なり。譬えば天月の東の山の端(は)に出ずれば、其の時・即ち水に影の浮かぶが如く、音とひびきとの同時なるが如し。故に経に云く「若し法を聞くこと有らん者は一(ひとり)として成仏せざること無し」云云。文の心は此の経を持つ人は百人は百人ながら、千人は千人ながら、一人もかけず仏に成ると申す文なり。
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 追伸

 老病の上、不食気(ふじきげ)いまだ心よからざるゆへに、法門なんどもかきつけて申さずして、さて・はてん事なげき入って候。

 又三嶋の左衛門次郎がもとにて法門・伝へて候ひけるが始中終かきつけて給ひ候はん。其れならず・いづくにても候へ、法門を見候へば心のなぐさみ候ぞ。


 末代悪世に法華経を経のごとく信じまいらせ候者をば、法華経の御鏡にはいかんがう(浮)かべさせ給うと拝見つかまつり候へば、過去に十万億の仏を供養せる人なりと、たしかに釈迦仏の金口の御口より出でさせ給いて候を、一仏なれば末代の凡夫はうたが(疑)いやせんずらんとて・此より東方にはるかの国をすぎさせ給いておはします宝浄世界の多宝仏・わざわざと行幸(みゆき)ならせ給いて釈迦仏に・をり向いまいらせて妙法華経・皆是真実と証明せさせ給い候いき。此の上はなにの不審か残るべき。
 なれども・なをなを末代の凡夫は・をぼつかなしと・をぼしめしや有りけん。十方の諸仏を召しあつめさせ給いて、広長舌相と申して無量劫よりこのかた・永くそらごと(虚言)なきひろく・ながく大なる御舌を・須弥山のごとく虚空(おおぞら)に立てならべ給いし事は・をびただ(夥)しかりし事なり。
 かう候へば、末代の凡夫の身として法華経の一字・二字を信じまいらせ候へば・十方の仏の御舌を持(たも)つ物ぞかし。いかなる過去の宿習にて・かかる身とは生るらむと悦びまいらせ候上、経文は過去に十万億の仏にあいまいらせて供養をなしまいらせて候いける者が、法華経計りをば用いまいらせず候いけれども、仏くやう(供養)の功徳莫大なりければ謗法の罪に依りて貧賤の身とは生れて候へども、又此の経を信ずる人となれりと見へて候。此れをば天台の御釈に云く「人の地に倒れて・還つて地より起(た)つが如し」等云云。
 地にたうれたる人は・かへりて地よりを(起)く。法華経謗法の人は三悪並びに人天の地にはたうれ候へども、かへりて法華経の御手にかかりて仏になるとことわられて候。

 夫れ法華経の第七神力品に云く「要を以て之を言はば・如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事(じ)、皆此の経に於て宣示顕説す」等云云。釈に云く「経中の要説、要は四事に在り」等云云。
 問う、所説の要言の法とは何物ぞや。
 答て云く、夫れ釈尊・初成道より四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて、略開近顕遠(りゃくかいごん・けんのん)を説かせ給いし涌出品まで秘せさせ給いし処の、実相証得の当初(そのかみ)・修行し給う処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり。教主釈尊・此の秘法をば三世に隠れ無き普賢・文殊等にも譲り給はず。況んや其の以下をや。

 問て云く、夫れ諸仏の慈悲は天月の如し。機縁の水澄めば利生の影を普く万機の水に移し給ふべき処に、正像末の三時の中に末法に限ると説き給わば、教主釈尊の慈悲に於て偏頗(へんぱ)あるに似たり如何。
 答う、諸仏の和光・利物(りもつ)の月影は九法界の闇を照すと雖も、謗法一闡提の濁水には影を移さず。正法一千年の機の前には唯小乗・権大乗相叶へり。像法一千年には法華経の迹門・機感相応せり。末法の始めの五百年には法華経の本門、前後十三品を置きて只寿量品の一品を弘通すべき時なり。機法相応(きほう・そうおう)せり。
 今此の本門寿量の一品は像法の後の五百歳・機尚(なお)堪えず。況んや始めの五百年をや。何(いか)に況んや正法の機は迹門・尚日浅し、増して本門をや。末法に入て爾前迹門は全く出離生死の法にあらず、但専ら本門寿量の一品に限りて出離生死の要法なり。是を以て思うに・諸仏の化導(けどう)に於て全く偏頗(へんぱ)無し等云云、

 問て云く、寿量品・専ら末法悪世に限る経文顕然(けんねん)なる上は私に難勢(なんせい)を加う可らず。然りと雖も三大秘法、其の体如何。
 答て云く、予が己心の大事・之に如(し)かず。汝が志・無二なれば少し之を云わん。
 寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初(そのかみ)より以来(このかた)、此土有縁深厚・本有無作(ほんぬ・むさ)三身の教主釈尊是れなり。寿量品に云く「如来秘密・神通之力」等云云。疏(しょ)の九に云く「一身即三身なるを名づけて秘と為し、三身即一身なるを名づけて密と為す。又昔より説かざる所を名づけて秘と為し、唯仏のみ自ら知るを名づけて密と為す。仏三世に於て等しく三身有り。諸教の中に於て・之を秘して伝えず」等云云。

 秀句の下に云く「誠に願くは一乗の君子、仏説に依憑(えひょう)して口伝を信ずること莫れ。仰いで誠文(じょうもん)を信じて偽会(ぎえ)を信ずること莫れ。天台所釈の法華宗は諸宗に勝る。寧(むし)ろ所伝を空うせんや。又云く、謹みて無量義経を案ずるに云く、次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説いて菩薩の歴劫修行を宣説す已上経文。大唐の伝に云く方等十二部経とは法相宗の所依の経なり、摩訶般若とは三論宗の所依の経なり、華厳海空とは華厳宗の所依の経なり、倶に歴劫修行を説いて未だ大直道(だいじきどう)を知らず」文。

 疏記の六に云く「諸の小王を廃して唯一の王を立つ。是の故に法華を王中の王と名く」文。

 文句の十に云く「得聞是経・不老不死とは此れ須らく観解すべし。不老は是れ楽、不死は是れ常、此の経を聞いて常楽の解を得」文。

 涅槃経の十三に云く「是の諸の大乗方等経典は復無量の功徳を成就すと雖も是の経に比せんと欲するに喩へと為(す)ることを得ず。百倍・千倍・百千万億倍乃至算数譬喩(さんじゅ・ひゆ)も及ぶこと能わざる所なり。善男子、譬えば牛より乳を出し、乳より酪を出し、酪より生蘇を出し、生蘇より熟蘇を出し、熟蘇より醍醐を出し醍醐最上なり。若し服すること有る者は衆病皆除く。所有の諸薬悉く其の中に入るが如し。

 善男子、仏も亦是くの如し。仏より十二部経を出生し、十二部経より修多羅を出し、修多羅より方等経を出し、方等より般若波羅蜜を出し、般若波羅蜜より大涅槃を出す。猶醍醐の如し。醍醐と言うは仏性を喩う。仏性とは即ち是れ如来なり」文。


 道暹(どうせん)和尚の輔正記(ふしょうき)に云く「法華の教興れば権教即ち廃す。日出でぬれば星隠れ、功みなるを見て拙(つたな)きを知る」文。

 涅槃経疏十一に云く「人・正法を得るが故に聖人と云う」と文。

 第六に但入己心の一面。始め大法東漸より第十の判教に至るまで文の生起を閣(さし)おき、一向に心理の勝劣に入れて正意を成ず可し。謂く、大法とは即ち行者の己心の異名なり云云。釈の意は文義の広博(こうばく)を離れて首題の理を専らにせよと釈し給うなり。
 二十三、下種の三種法華の本迹
 二種は迹、一種は本なり。迹門は隠密法華・本門は根本法華、迹本文底の南無妙法蓮華経は顕説法華なり。



by johsei1129 | 2026-01-31 10:55 | 御書 INDEX・略歴 | Trackback | Comments(0)


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