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日蓮大聖人『御書』解説

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2025年 12月 31日

貫主破折と再生の道について

 平成28年 (2016) 10月から平成30年 (2018) 12月にかけて、日蓮正宗信徒の三浦常正氏は所属する日蓮正宗に対し諫言を三回にわたり行った。いわゆる建白書である。これらはすべてこのサイトに載せてある。これにたいし貫主の日如上人が代表する日蓮正宗は三浦氏へ都度回答した。結果、令和元年(2019) 6月17日、三浦氏は所属していた日蓮正宗から信徒除名処分を受けた。

 この経緯をみると明らかに現在の日蓮正宗に宗教上の誤り、すなわち謗法がある。これを十四の点で明らかにしていく。


一、憍慢

 憍慢とはおごり高ぶることをいう。

 三浦氏は一信徒として教義上の疑問点を述べたが、これにたいして日蓮正宗は貫主の日如上人ではなく、弟子である札幌の住職が返答した。

 三浦氏の諫言はどれも教義上の重大な点ばかりである。弟子の僧侶が答える事柄ではない。代表の貫主日如はたんなる一信徒の諫言と見下したのか。これは大聖人の教義を軽く考える憍慢である。


二、懈怠

 三浦氏の指摘にあるように、国家諌暁の手始めもしない現貫主は懈怠そのものである。世間でも優秀な教師は自分でやってみせるという。これだけ内外の世相が危うい中で、国主に訴えることもせず、信徒に折伏を押し付ける姿に、心ある信徒は今も呆れている。


三、計我

 三浦氏が平成28年10月10日、第一回目に諫言した項目は以下のとおりである。

 ①僧侶が日文字を名乗ること。

 ②折伏目標の廃止

 ③御書の所持を励行させること

 ④御書の正しい理解

 ⑤国家諌暁

 ⑥僧侶の婚姻の禁止

 ⑦方便品の長行の読誦を行うこと

 ⑧法主の名称の取りやめ

 ⑨僧侶が他宗の破折を行うこと

 ⑩世界広布の新方策

 これらはいずれも大聖人の教義に沿ったものである。この正宗の教義の根本に対して答えることを一言もせず無視するのは、大聖人の教義を自分の都合で扱って良いとする計我にほかならない。


四、浅識

 浅識とは浅い知識に執着し、仏法の道理をわきまえず、正法を誹謗すること。

 立正安国論は大聖人様が時の権力者の北条時頼にあてた書である。貫主は一天広布を呼びかける前に、国家権力を諭さなければならない。

 

五、著欲

 思うに折伏の数値目標を設定するのは著欲からではないか。日蓮大聖人が一言も仰せになっていない折伏数の目標を設定するのは、貫主が名聞名利に走っているためではないのか。三浦氏の指摘するように数値を設定した以上、結果にしばられた組織になっていく。このため信心の基準が数値で決まるという邪義が蔓延した。


六、不解

 日蓮正宗の信徒は日蓮大聖人の仏法を信奉している。その根本は大聖人の教義にもとづく。

 今回、宗門は三浦氏を教義ではなく宗門規則にもとづいて除名した。この行為はあらゆる事項を大聖人の教義によって対処すべきことを知らないという「不解」にあたる。


七、不信

 宗門は「三浦氏が御法主上人を誹毀讒謗している」と非難したが、当の御法主上人は御本仏日蓮大聖人を信じているのか。信じているのであれば上記の十項目をなぜ説明できないのか。この十項目は大聖人の御書に従っている。それをなぜ「法主への誹毀讒謗」を盾にして答えないのか。それとも答えることができないのか。

 また「御法主上人猊下に信伏随従しなければならない」と標榜する弟子たちは、はたして根本の日蓮大聖人を信じているのか。信じているのであれば、三浦氏が指摘した十項目をどう受け止めているのか。主人に進言するのを忠臣といい、媚びへつらうのを諛臣という。弟子たちは法主に質問さえできず、媚びへつらっているだけではないのか。 


八、顰蹙

 顔をしかめること。眉をひそめること。貫主に意見すること自体が顰蹙に値するとして三浦氏に対し、執拗に反省と懺悔を要求した。


九、疑惑

 貫主以下の僧侶は日蓮大聖人の仏法に疑惑を持っているのではないか。

 三浦氏が指摘した中で「僧侶が日文字を名乗ること」「国家諌暁」「方便品の長行読誦」に関しては、大聖人が御みずから指示されている事項である。これらは誰がみても御書の中に明確に載っている。それをなぜしないのか、できないのか。三浦氏が建白書でこれらを指摘して十年がたつが、いまだに手も付けられずにいる。これでは貫主以下が大聖人の教義に疑惑を持っているといわれても仕方がない。

 かれらは「法主の専任事項だから口出しすべきでない」「時代に合わせた方法を取るべき」「問題を取り上げること自体が誹謗にあたる」などと逃げ口上を打っているが、一般信徒に何の説明もないのは安逸をむさぼる懈怠の極致であろう。

 「敢へて人の会釈を引き入るべからず」「人の語も入らず、会釈も有らず。若し之に違はゞ三世の諸仏に背き奉る大罪人なり」(総勘文抄)  

 貫主以下の僧侶はすでに大罪人になっている。 


十、誹謗

 再三の指摘だが、貫主側は三浦氏の諫言に答えようとしなかった。「法主を誹毀讒謗している」という理由で回答を拒否し、問答無用とした。これは教師が質問する学校の生徒に「だまれ」と怒鳴るようなものである。はたして彼らには教授の資格があるのだろうか。

 これに対し、大聖人はあらゆる御書で「問うて云わく」「答えて云わく」の形式を丹念に駆使され、無智なわれら衆生に教示された。貫主以下は御書を読んでいるのであろうか。


十一、軽善

 今回の三浦氏への信徒除名処分は、大善を行う者を軽くみたとしか思えない。まったく御本仏に違背する悪行である。なぜなら信徒除名処分とは登山禁止を意味するからだ。御本仏への道をふさぐという罪業は、形容するに言葉がない。なにをもって除名処分としたのか。貫主が指示したからか、宗門の規則によってか。では御本仏の了解はあったのか。女犯の僧侶でさえ「信徒に差し置くべき事」とした開山上人の御精神はどうなのか。

 正宗の信徒にとって登山禁止は死に等しい。戒壇の大御本尊へのお目通りを遮断する罪はあまりにも深く、三世にわたるといっても過言ではない。

 「然るに我が弟子等の中にも未得謂得・未証謂証の輩有って、出仮利生の僧を軽毀せん。此の人の罪報具(つぶさ)に聞くべし。今時の念仏・真言・禅・律等の大慢謗法・一闡提等より勝れたること百千万倍ならん」(得受職人功徳法門抄)

 今回の処分は提婆達多よりも、過去のいかなる退転者よりも罪が深い。報いを知るべきである。


十二、憎善

 そもそも貫主上人に意見を申し上げるのは仏法を誹謗することになるのであろうか。また貫主上人を侮辱することになるのであろうか。

 大聖人は逆であると申されているように思われる。

 「夫れ諌臣国に在れば則ち其の国正しく、争子家にあれば則ち其の家直し」(十一通御書)

 「大国には諍臣七人,中国には五人、小国には三人諍論すれば、たとひ政道に謬誤出来すれども国も破れず」(下山御消息)

 この世で絶対に間違いのない人は、仏のほかにいない。もし謙虚な心があるのならば、異見を吟味して判断するのが妥当ではないのか。いま世間では力を誇示して反対勢力を弾圧する指導者がいるが、かれらは尊敬どころか軽蔑の対象になっている。 

 ちなみに宗門から三浦氏へ4回の返答があったが、いずれも教義で答えることができず、反省懺悔を求める内容で「正念をぬかれてくる(狂)う」姿が髣髴された。この態度は対話ではなく弾圧に等しい。


十三、嫉善

「障り未だ除かざる者を怨と為し、聞くことを喜ばざる者を嫉と名づく」

 三浦氏の諫言を聞こうともせず不快に思い、反省の弁をひたすら求める。この原因は過去の罪業が消えていないことによる。


十四、恨善

 あくまで「血脈相承の御法主上人」を絶対無二と信奉し、意見を述べる者に恨みで対処する。この対処の根拠となったのは大聖人の教義ではなく、自分たちで作成した規則である。


 以上あらあら述べた。

「適(たまたま)出家せる者も、仏法を学し謗法の者を責めずして、徒(いたずら)に遊戯雑談のみして明かし暮らさん者は、法師の皮を著たる畜生なり。法師の名を借りて世を渡り身を養ふといへども、法師となる義は一つもなし。法師と云ふ名字をぬすめる盗人なり。恥づべし、恐るべし」」(松野殿御返事)

 謗法を責めない僧侶は畜生であるという。また遊戯雑談に陥るという。そして最後は盗賊となる。


 再生の道


 この悪弊を打開するためにしなければならない方法は、三浦氏の十の課題を解決することにあるが、中心となるのが御書を中心とした教学である。

 御書を心肝に染めることを活動の中心にすれば、おのずと他の問題は解決されていく。これを遂行しなければ未来はない。この十年間、まったく手を染めなかった教学を復活させるのが火急の課題である。

 だいたい折伏というのは教学の知識なしにできるものではない。たとえできても行き詰まってしまう。学ばなければ遊戯雑談の輩になってしまう。もちろん無解有信でも成仏できるが、それだけでよいとするのは謗法である。これに教学を身につけた有解有信が理想である。

 かつて天台宗は伝教大師の教えを遵守し法華経をたもっていた。しかしその後、慈覚・智証といった悪師によって法華経は真言や禅に取って代わり、法華の教義は見るも無残に破壊された。

 「立正観抄」には無智となってしまった天台宗の学徒について述べる。

 「故に止観も知らず、一心三観・一心三諦をも知らず、一念三千の観をも知らず、本迹二門をも知らず、相待・絶待の二妙をも知らず、法華の妙観をも知らず、教相をも知らず、権実をも知らず、四教・八教をも知らず、五時・五味の施化をも知らず、教・機・時・国、相応の義は申すに及ばず、実教にも似ず、権教にも似ざるなり」

日蓮正宗はこうはならないと誰が言えよう。ましてや一閻浮提の広宣流布を標榜するからには日本信徒の教学が絶対に欠かせないのは言うまでもない。

 日蓮大聖人は釈尊の法華経を身読されて法を弘めた。われらは大聖人の御書を心肝に染めて弘めていく。これができなければ正宗の未来はないことを述べて終わりとする。


令和7年(2025)12月31日



by johsei1129 | 2025-12-31 05:45 | 日蓮正宗 宗門史 | Trackback | Comments(0)


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